2015年11月18日水曜日

言文一致と速記術

日本の統治主体が徳川家から天皇を中心とする政府になって、政策の進行とともに社会のありようが変わった。言葉について言えば国民一般のしゃべる言葉遣いと政府の通達に使う言葉遣いに大きな違いが目立ってきた。大きく上下の階層に分けて考えるなら、下の階層は生まれ育った土地でひとりでに身についた言葉で暮らした。上の階層は漢語を日本流にこなした言葉を使う。政府の通達は漢文をこなした特別の書き言葉であった。維新になって社会の上下が入り混じり混沌としたため人々は対人関係をどういう言葉で処理すればいいか戸惑うばかりになった。
時とともに幕末の頃から兆していた西欧の文明が色濃くなってくると、それに関係する言葉が翻訳されて新しい言葉としてそれまでの言葉と入り交じるようになる。この場合に生まれた言葉は漢字の意味を利用しながら日本語の音声を持つ翻訳言葉であった。新式の漢字熟語である。音読みだけがあって訓読みがない。政治には上から広く下層へ向けてする伝達方法が必要だ。もはや高札に張り出すだけでは間に合わない。文書にして下層を統括する役所に階段式に伝達するだけでなく一度に広く内容を行き渡らせる広報がいる。広報の内容をより分かりやすく庶民に伝える手段もいる。江戸にはかわら版があったが、明治には新聞が誕生する。活版印刷が可能になって実現した。
日本では漢字かな交り文という文体ができていた。漢字だけでは足りない箇所を仮名で補う、あるいは仮名だけでは分かりにくい箇所に漢字を使う。明治の新聞も同じであるが基本になる文体を漢語育ちの文語体にするか、話し言葉の口語体にするかの違いがある。仮名だけの新聞もあったらしいが、だいたいは和漢混淆の文語体で始まったようだ。新聞記者というような上等な職業ではないみたいだが、新聞に文を書く人たちは話し言葉で文を書くことを知らなかったようだ。
ざっとこういう状況で明治20年になった(と勝手に考えている)。

話し言葉で文章ができないものか、いいかえれば口語で文を綴れないか、これを言文一致体の文章というようになっていたらしい。文学者たちもなんとかそういう風な仕事をしてみたいと考えたのであろう。
二葉亭四迷、本名長谷川辰之助、市ヶ谷で生まれた(元治元年2月28日、これは旧暦で西洋暦では1864年4月4日になるそうだ)。日露衝突を予想して旧外国語学校ロシア語科に入学したが、途中で文学に目覚めた。この上なく上質の教師に出会ってロシヤ語を身につけた。教師が上質だったから単なる訳読ではなく西洋の論理の運び方、単語の持っている本質的な意味まで学びとることができたという。優秀な学生であった辰之助は制度の犠牲となって商業学校に移らされることになり、怒って卒業目前に退校してブラブラしていた。そこへ言文一致体運動がやってきた。

なんとかこれをモノにしてみたい、とは思うものの方策がわからないから親しく出入りしていた坪内逍遥のもとにどうすりゃいいか訊きに行った。師曰く、圓朝の落語を知ってるだろう、あの落語の通りに書いたらどうだろうなと言ってくれたので、そのとおりにして書いてみた。
出来上がったのを持って行って見てもらうと、これでいい、なまじっか直すよりこのままでいいと言ってくれた。
というわけで圓朝ばりの言文一致体で書いた作物ができたのさ、と『余が言文一致体の由来』(明治39年5月『文章世界』所収)に書き遺している。師匠はいいと言ったが本人にはまだ不満が残っていた。ま、これはまたの話にしよう。こうして出来た作品が『浮雲』第一編だそうだ。
(参考;http://www.aozora.gr.jp/cards/000006/files/1869_33656.html

さて、二葉亭四迷は圓朝ばりの文章を書くにあたって、どのように圓朝を模したものか。これは高座を聞いてから書いたのであろうけれども、速記によって文章化された噺を参照した可能性が高い。手元に読み物になった印刷物をおいて、時々参考にしながら原稿を書いたと考えるほうが自然だろうから。折しも圓朝の噺の速記本がおおはやりで、二葉亭の利用したのが『怪談牡丹燈籠』らしいから、それは講談落語などの口演が速記で筆記された最初の作物である。日本の速記法はこの頃ようやく実用に向けて出来上がってきたのであった。

わが国速記法考案の祖と云うべき田鎖鋼記が欧米のステノ・フォノ・グラフィーにヒントを得て、これを日本に移植しようと苦心惨憺した。結果がようやく芽を出し始めたのが明治15年の「日本傍聴記録法」の講習会であった。実務的には未完成のままの技法を講習を受けた弟子の若林玵蔵たちが改良を重ねた。郵便報知新聞紙上で速記法と名称もあらたに、改進・自由両党の問答を記録したのが翌16年7月、実地応用の最初とされる。次いで東京法院での審問弁論や政治小説『経国美談』後編の口述速記などを經驗の後、明治17年3月に同僚酒井昇造とともに埼玉県会の速記に従事した。これは地方議会速記の最初で、これはまだ要領筆記との併用であった。当時の弁論などの筆記記録は内容をかいつまんで書き残すやり方だったから、あとで記録を持ち寄ると何がどう討論されたのか筆記者によって結論もまちまち、役には立たないシロモノだったらしい。

明治17年秋、東京稗史出版社の企画を若林玵蔵と酒井昇造の二人が依頼を受けて三遊亭圓朝の新作『怪談牡丹燈籠』を初めて速記技術を使って筆記した。筆記の結果は印刷された雑誌として販売され、評判の高い圓朝の噺がそのままに読めるということで人気を呼んだ画期的な出来事であった。
若林と酒井の両人のそれまでの速記現場経験は上に述べた新聞社と埼玉県会などであったから、筆記した内容も政治向けの言葉であり、ヨーロッパの思想が苦心して日本語に直された翻訳漢字熟語が多かったはずである。
『怪談牡丹燈籠』は全編を15日間かかって語る長い噺、語られる言葉はいわゆる俗語の話し言葉である。若林と酒井の両人は寄席の噺の速記は未経験のこととて多少の不安があったものの、内容は難しくないので二人で協力すればまとめられるだろうと吹っ切って始めた。それが二人がかりの理由だったが、初日をうまく乗り切れたので、あらためて圓朝に申し出て全席引き受けることになり、15日間通しで寄席に出張って筆記したという。
(参考図書;福岡 隆『日本速記事始―田鎖綱紀の生涯』岩波新書1978)
速記文の例『坊っちゃん』の一部
http://sokkidouraku.com/index.html

若林玵蔵が『怪談牡丹燈籠』「序文」に記している。
(前略)所謂言語の写真法を以て記したるがゆえ、其の冊子を読む者は亦寄席に於て圓朝子が人情話を親聴(しんてい)するが如き快楽(けらく)あるべきを信ず。以て我が速記法の功用の著大(ちょだい)なるを知り給うべし。但(たゞし)其の記中往々文体(てい)を失し、抑揚(よくやう)其の宜(よろし)きを得ず、通読に便ならざる所ありて、尋常小説の如くならざるは、即ち其の調(てう)を為さゞる言語を直写せし速記法たる所以にして、我国の説話の語法なきを示し、以て将来我国の言語上に改良を加えんと欲する遠大の目的を懐(いだ)くものなれば、看客(かんかく)幸いに之を諒(りやう)して愛読あらんことを請う。
(青空文庫より、()はルビを示す)

ここで若林は自らの速記の優秀さを自負するだけでなく、ときには欠陥もあると指摘して読者に了解を求めている。速記法を案出した結果は、言語を直接写してその片言隻語をも間違うことなく、その筆記を読んでその説話をその場で聴いているような気持ちにさせることにあるが、それでもなお文の形が乱れて、抑揚も調子悪く、読みにくいところができることがある。これはわが国の語法が不完全なためであって、速記法は将来それを改良する目的を持っているのだからお許しを乞うというわけである。

通読に便でない言葉とは口語としてこなれていない言葉のことであろうか。つまり聞いただけでは庶民にはわからない言葉ということになるが、それがあるとすればどんな場合か。侍や高僧が使う難解な漢語かもしれないし、新しいほうでは西洋渡りの訓読みのない翻訳語かもしれない。いずれにしても通読に便でない箇所は、それが速記者の聞き違いでなければ演者の口述する言語に誤りがあったわけであろう。いや、ここは書き言葉をもとにして口演する圓朝の語る話し言葉のせいで、もとの書き言葉が崩れる場合を指すと考えられる。速記は忠実に口述が写されなくてはならないから、速記者による手直しは筋が通らない。当今の編集者のように修正や校正はできないだろう。だから、この若林の言い草は話されたまんまを写したんだという自信を述べたうえで、今後とも速記を応援してくれよとの挨拶と受け取っておこう。
日本速記協会のサイトより

ところで、稗史出版社の企画は大当たりをとり、名人の噂の高い圓朝の噺が手元でいつでも読めるということになって大層売れた。圓朝物だけでも速記本はこのあと十八本も出たという。余計なことだが、「稗史」の音読みは「はいし」だが当時のルビに訓読みで「よみほん」となっている場合もある。「稗史」だけでなく、漢字熟語を和漢どちらにでも都合の良いように読もうというのがその頃の読み方だ。逍遥の言葉の中の圓朝の「落語」も読みは「はなし」だと思う。「落語家」は「はなしか」なのだ。


若林たち速記者は講談速記をするまでは実務修練を兼ねて速記者の職場獲得に懸命であったが、前に述べた程度の範囲の需要では情勢はあまり芳しくなかった。穿った見方をすれば、政治に立ち入ると当局に引っ張られることも多い時代だったから、その方面に積極的に職場を開拓することはしにくかった。しかし講談速記の大盛況の余波で新聞雑誌のメディアが速記に目をつけたことで大きく運が開けた。
また、折しも明治14年、政変を機に再燃した民権運動を抑えるため政府は国会設置を決断して詔勅を出した。10年後の明治23年に第1回帝国議会が開かれることに決定される。
議会開設に先立ち枢密院書記官金子堅太郎は速記採用の進言をして自ら欧米議会をつぶさに見た結果、これはどうでもわが国議会も速記が必要と認識があらためられた。少し前までの金子は西欧に速記術があることを知って書物を取り寄せてみた結果、これは日本語には使えないと結論してそのままになった事実があったのだ。速記術は話される音声を書き取る技であるから、たとえば英語の速記は英語音声だけにしか使えない。いくら西欧の事物を取り込むに熱心な日本でも、こればかりは直輸入しても役に立たないのは自明の理である。考えをあらためて数か国の議会の実際を自分で視察したのは賢明であった。田鎖の発想は賞賛されるべきだった。

さて必要になるのは速記者だ。金子は速記者養成にも取り組んでいた若林たちの実務技能を幾通りもの試験で使用に耐えると確認してから速記の採用を決定して国会速記制度を設けた。これにより第1回議会から速記による議事録作成が実行されることとなり、現在までも続いている。
と言ってしまえば簡単だが、田鎖の個人的関心と発想、若林たちの技能開発と市場開拓の熱意、枢密院書記官金子堅太郎の判断、官報局長高橋健三の判断によるフランスから高速印刷機の輸入など総て個人の能力に負うところが大きい。田鎖の発想から僅々18年ほどで速記術により議会議事録が発言通りに記録され官報に印刷されて発行される、まさしく綱渡りのような僥倖ではあった。英国では200年を要したと伝えられるのだ。次に紹介する金子堅太郎の挨拶は速記の出現で変化した議員心理も面白いが、発言内容が事細かに文章の上に再現されることへの感動がうかがわれる。

金子は第一議会が閉会したあと、速記者を集めて次のようなあいさ つを行っている。
「それからもう一つ愉快なことは、今度の議会が済んですぐ宴会があり、いろい ろ集会のところで話をするには、議員は、実に言葉を慎まなければならない、今までの日本のように、でたらめの演説をするということは将来慎まなければならない。というのは、おのれの脳髄の反射したものが日本帝国議会の議事速記されることは、実にコワイものだ。それで最初はでたらめに演説したが、2度目から は前の晩に草稿をつくって、それをひとりでしゃべって、翌る日議事堂において演説するようにして、速記者により、自分の精神も、脳髄も、思想も、緻密にさ れたと、あまたの議員が私に語った。してみれば、あなた方速記のおかげで、こ れまで錯雑しておる思想も緻密になり、慎まざる言語も慎むようになって、これ から私は日本の演説が一変するだろうと思う。まず帝国議会の演説から。また次には日本の文章というものが一変するだろうと思う。この速記術が流行してきて、 ことにことしのごとく帝国議会で満足なる結果を来した以上は、日本の文章は、 速記で書くようなものが文章になるだろうと思う。今までは言文一致しておらぬ ゆえに、帝国議会の速記術がだんだんと年々歳々轍を追い、この慣例に従ってい くときには、日本の文学が私は一変するだろうと思う。清少納言や紫式部が大和文を書き始めて日本の文学が一変し、それから(荻生)徂徠あたりがあらわれて、 また文学が一変し、(頼)山陽、(藤田)東湖があらわれてまた一変し、明治の 初年にいたって片仮名がはやって日本の文学が一変し、明治23年の帝国議会 より日本の言文が一致するようになる。ヨーロッパどおりに書くことも言うことも一致する。帝国議会の速記術のために言文一致の結果を生ずることに必ずなる だろう。この私の予言が数十年後に的中したならば、これまた諸君のために愉快 なることと私は思う」
(「速記という文化」http://homepage3.nifty.com/Steno/001o/04.html

この談話に登場する「言文一致」は金子に代表される当時の官界政界のお歴々による使い方であって、その指す内容は「喋ったことがそのまま文字になる」という至極単純な事態の理解だ。この場合は言と文のそれぞれが指す内容が一致することを意味している。國語改良だの漢語排斥だのの議論とは全く関係がない。政治の世界が如何に普通の生活の世界とかけ離れているかの見本のようだ。この人たちはこうして速記を採用した後も長らく漢字主体の文語体で仕事をしていたわけだ。

ここで再び逍遥と二葉亭の話に戻れば、『余が言文一致体の由来』とあるように、問題にするのは内容の指す事実の一致だけでなく、使われる語彙や語法が口語であること、そして何よりも文末のくくり方を含む総合的な文体だ。引用文「由来」の後に続く部分には言文一致体で作品を綴る際の苦心が述べられている。便宜上、二葉亭の自説に番号を付けて部分引用する。

(1)自分は少し氣味が惡かつたが、いゝと云ふのを怒る譯にも行かず、と云ふものゝ、内心少しは嬉しくもあつたさ。それは兎に角、圓朝ばりであるから無論言文一致體にはなつてゐるが、茲にまだ問題がある。それは「私が……で厶います」調にしたものか、それとも、「俺はいやだ」調で行つたものかと云ふことだ。坪内先生は敬語のない方がいゝと云ふお説である。自分は不服の點もないではなかつたが、直して貰はうとまで思つてゐる先生の仰有る事ではあり、先づ兎も角もと、敬語なしでやつて見た。これが自分の言文一致を書き初めた抑もである。

(2)自分の規則が、國民語の資格を得てゐない漢語は使はない、例へば、行儀作法といふ語は、もとは漢語であつたらうが、今は日本語だ、これはいい。併し擧止閑雅といふ語は、まだ日本語の洗禮を受けてゐないから、これはいけない。磊落といふ語も、さつぱりしたといふ意味ならば、日本語だが、石が轉つてゐるといふ意味ならば日本語ではない。日本語にならぬ漢語は、すべて使はないといふのが自分の規則であつた。
(3)成語、熟語、凡て取らない。僅に參考にしたものは、式亭三馬の作中にある所謂深川言葉といふ奴だ。「べらぼうめ、南瓜畑に落こちた凧ぢやあるめえし、乙うひつからんだことを云ひなさんな」とか、「井戸の釣瓶ぢやあるめえし、上げたり下げたりして貰ふめえぜえ」とか、「紙幟(のぼり)の鍾馗といふもめツけへした中揚底で折がわりい」とか、乃至は「腹は北山しぐれ」の、「何で有馬の人形筆」のといつた類で、いかにも下品であるが、併しポエチカルだ。俗語の精神は茲に存するのだと信じたので、これだけは多少便りにしたが、外には何にもない。尤も西洋の文法を取りこまうといふ氣はあつたのだが、それは言葉の使ひざまとは違ふ。

(1)はいわゆる待遇表現の問題。日本語では、話すときには自分と聞き手、自分と話題の人物との関係によって自他の人称を使い分け、敬語を使うかどうか考える。文章にした時、文末を「だ」「です」「ございます」など、敬意の程度が変わるのでどのように締めくくればよいかが難しい。圓朝の噺を真似るにしても向こうは高座からお客に語りかけるわけだから、小説家が聞き手ゼロの立場で描写する時に真似ることは出来ない。『浮雲』と『あいびき』で見るとどうやら「た」を文末に置くことで解決されたようだ。このあたりの文体論を作品を見ながら検証する能力は筆者にはない。うまく説明できないから、取りあえずこれで分かったことにしておこう。
(2)国民語という語をつくり出したようだが、庶民の言葉としてこなれた語の意味だろう。よく意味がわかっている言葉を使うということだと思う。でも実際に出来た作品には今の目で見れば随分変なのがある。時代の違いは仕方がない。
(3)俗語には話す人の心情がこもっているという意味に解してはどうだろうか。ここにあげられている三馬の例の意味はわからない。ポエチカルと辞書を引いて「詩的な」と置き換えても役に立たない。ここは洒落言葉とか地口というもので、飾らない庶民の口からほとばしる言い尽くされた言葉で、おかしみの中に実感がこもるといったものであろうか。『浮雲』では戯画風に描く言葉が使われている。
というわけで、二葉亭の実作にあたっての自己規律については、理解はよく出来ないながらも作家が四苦八苦する様子は感じられる。『浮雲』は第一編よりは第二編のほうが、相変わらずごちゃごちゃ感は残るが、ましになった。第三編は作家自身が大失敗と認めているので圏外として、『あいびき』を読むと随分すっきりしたなと思う。語彙が古臭いのは仕方ない。ともかく言文一致体らしくはある。何はともあれ、二葉亭四迷は言文一致体で名作を遺したと言われているのだ。

さて、志賀直哉が日本語をやめようとまで嘆いた理由は何か知らないままに、明治の日本語をあれこれ嗅ぎまわって言文一致で躓いた。「一筆啓上仕り候」を喋る時の言葉で書こうよということだったのだ。結局二葉亭さんの名作でめでたく成功となったが、いかんせん今の時代に読んでみればなんとも古臭い言葉の連続、しかしそれでも当時は口語だった。うたは世につれというように、時とともに言葉は変わる。今や言文一致などという声はまず聞かない。電子文の時代になって、つぶやきだのラインだのって言だけで文がなくなってきた。

それはそれとして、「言文一致」は自己矛盾、一致することはない。速記の技法は文字通り早書きの術だ。声をいかにしてすばやく文字に写しとるか。聴いた声を一旦棒やら点などの印にしたものを、あとで見ながら文字に直すという作業をする。はじめはこれこそ言文一致だと思ったことだろう。金子堅太郎が語ったとおりだ。

日本語の歴史を読んでも速記に触れた文章は非常にすくない。今度思いがけなく速記の歴史を読んで大変面白く、また勉強になった。圓朝のこともいろいろ知った。福沢諭吉が演説をした時には、前もって話す通りに下書きをしたという。それはそうだろう、誰でも原稿なしで話しだすと話の方向が分からなくなることが多い。でも福沢の頃は誰もそんなことは考えなかった。圓朝も必ず下書きをしたに違いないが、そういうことを書いた文にまだ出会わない。晩年の田鎖のもとに圓朝が見てもらいたいと言って原稿を持って来たとの真偽不明の話があるそうだ。

二葉亭四迷の筆名は「くたばってしまえ」、東京語の人だから「くたばってしめえ」からだと本人が書いていた。出版するに坪内さんの名を借りて本屋を納得させる有様は情けない不埒な人間の仕業だ、というところにはじまった。ホントはこの上なく真面目な自分に正直な人柄だった。

之は甚(ひど)い進退維谷(ジレンマ)だ。実際的(プラクチカル)と理想的(アイディアル)との衝突だ。で、そのジレンマを頭で解く事は出来ぬが、併し一方生活上の必要は益々迫って来るので、よんどころなくも『浮雲』を作(こしら)えて金を取らなきゃならんこととなった。で、自分の理想からいえば、不埒な不埒な人間となって、銭を取りは取ったが、どうも自分ながら情ない、愛想の尽きた下らない人間だと熟々(つくづく)自覚する。そこで苦悶の極、自(おのず)から放った声が、くたばって仕舞(しめえ)(二葉亭四迷)!
(『予が半生の懺悔』明治41年6月「文章世界」所収、青空文庫より、()はルビを示す)

(2015/11)