2015年5月11日月曜日

ガラパゴスからの脱出

なんでもみじかく言うことで事を済ませてしまう習性の世の中にあってガラパゴスなんて言うとそれは何だと問いが返って来そうな気がする。ガラケーと呼ばれる携帯電話をやめてみたということを書こうと思ってこういう表題を付けてみた。

今や人も歩けばスマホに当たる時代、いやスマホで歩けば人に当たる時代である。それでもガラケーを愛用している人は結構多いらしい。それが再来年には生産をやめるという話が聞こえてきた。生産しなくなっても流通は続くだろうが、販売者にとってユーザーへのサービスは次第に力が入らなくなるだろうことはほとんど自明であろう。端末機が変化しても通信に使われる電波まで影響は及ぶわけではない。となれば今を盛りのスマホの販売情勢に何か変化が出るかもしれない。


一つの兆しとしてSIMカードが特定の回線業者に縛られなくするロック解除が総務省指導で自由になったことがある。日本のユーザにとっては端末機と抱合せ購入させられていたのが端末機とSIMを別々に選べるようになる。このことは海外へ出かけた先でその国のSIMを買って自分の端末機が使えるようになることでもある。国内市場ではSIMだけの販売がされることでもある。そこでSIMロック解除が実施されることになった2015年5月1日以後はケータイ市場は様変わりになった感じがする。モバイル・フリーの広告も増えた。

別の問題として規制が外されそうで実態が進まないのが通信料金に対する2年縛りの慣行である。現行の販売実態は端末機を買って使用するにあたって、販売者側が設定する通信プランに各種割引を付けるのが普通になっている。主な割引特典の対象は2年間継続してそのプランを使用する契約である。2年以内に解約すると契約解除手数料9,500円が課徴される。2年満期後の契約は自動更新されるが、契約更新月内の1ヶ月間になされる解約には手数料はかからない。そのひと月間という好機を見逃すと9,500円かかる。

販売者の説明には基本使用料を半額に割引く等と書いてあるが、基本使用料が指す対象は通信回線であるのか端末機であるのか明確でない。そもそも料金プランとしてあるその内容は通信料金のことである。端末機は24回(または36回)分割と表示されている。24回分割払いの端末機が最初の2年未満で解約なら未払い分が当然必要になる。そのほかに解除手数料が課徴されるわけだ。こちらは通信料金の24ヶ月継続契約に対する解除のことだ。
要するに解除手数料というのはお客の囲い込みだ。割引はいらないという契約はできるのだろうと思うが実例を聞いたことがない。買う方もなんとはなく安い支払いに惹かれて、言いなりに割引契約をする傾向があると思う。

繰り返すが、通常ケータイを買う場合には端末機と通信プランを選んで両方の代金を合わせた金額を合意して契約する。これがユーザーの勘違いを招く原因だと思う。2年経過したので端末機代金負担がなくなったから、新機種に買い替えようというユーザーもいるだろう。ところが自動更新されていて次の2年が始まっていれば違約金がいるわけだ。従来苦情が絶えなかった解除手数料であるが、今年度から少し改善される。大手3社は手数料がかからない1ヶ月間を2ヶ月間に延長する、更新月到来の予告をするサービスを行うとの2点の改善策をこの4月に発表した。とてもユーザーの満足は得られないだろうが、割引販売には売る側に魅力があるとみえる。

以上述べ来たった問題がある一方で、筆者は隠遁生活になった現在、ガラケーを持っているだけで使う機会が殆ど無い。月々の請求内容を見ても通話料0、翌月に繰り越せる無料通話が毎月繰越上限の5,000円分が無駄になっている。ただ持っているだけに基本料金を払っていたわけだ。使う機会が減ったのだから仕方ない。外出先でタクシーを呼んだり、待ち合わせ相手や自宅との連絡、あとは万一の時救急車を呼ぶくらいしか用がない。これまでは単純に分割で買うからこんなものかという程度で契約して見直しもしなかったが、いざ世情の動きに押されて勉強してみるとバカバカしくなった。
ではなんのために携帯を持つのかと言われれば、公衆電話の激減による不便さを埋めるためと我が身の保全のための「おまもり」でしかない。だから最低限の機能があればよろしい。自宅ではパソコンを使うから情報収集には不自由しない。
ガラケーがいずれ消滅するのなら、機種変更をしてスマホを選び、割引不要と申し出てみようか考えた。これなら罰金はかからないしいつでも契約をやめられる。だが、端末機も通信料金も価格が高くて気に入らないからよした。


あらためてインターネットで市場を見回すとフリーモバイルの花盛りだ。こうなれば、乗りかけた舟で違約金も持ってけ!と割りきって格安スマホにした。Freetelという商品、docomoの回線、端末は9,980円一括払い、インターネットと音声通話組み合わせて毎月1,270円(8月までは770円)というものだ。
SIMはデータ容量によって何種類か用意されている。筆者は動画も音楽も用がないので最小の1GBを選んだ。例えば、yahooトップページ表示4450回、300文字のメール20万通とかができるというからこれで十分。ネットで注文して4日目に手に入った。人気が出て混み合っているのだろうか、システムダウンあった様子で2日遅れた感じだった。SIMが端末に挿入され設定は全部終わっている状態で到着した。
費用負担は番号持ち出し手数料(MNP)に2,000円、新規契約手数料3,000円、これらは仕方ないだろう。新しい契約には年数縛りも解約料も一切かからない。罰金ともに切り替えコストは14,500円かかったが、これでよかったと思っている。大手のガラホと比べれば端末だけでお釣りが出る。

目下操作を習得中であるが、AndroidのSIMなので、パソコンのGoogle Chromeとも相性がよくインストールするアプリも難なく同期してしまう。

音声通話にはガラケーと違って無料通話というサービスがない。その代わりでもあるまいが、「通話料いきなり半額アプリ」というのがある。早速インストールして登録したが、30秒20円の通話料金が半額になる。通話先番号の前に0326035  のプレフィックス番号をアプリが自動的につけてダイアルしてくれる。アプリは無料だ。この通信は固定電話回線を使うらしいが、誰に遠慮もいらない割引制度だ。いままでどうして誰も言わなかったのだろうか。格安スマホが取沙汰されるようになってからこの制度も宣伝され始めた。もともとガラケーでも使えたのに。

格安スマホというが格段に安いということで品質が悪いわけではない。格段に安いといえるのは日本国内の話で海外市場との比較はあまり情報がない。Freetelの代表者はウチの商品が安いのではなく、よそが高過ぎる。ウチは適正価格なのだと言っている。品質は海外市場に負けていないという。
ご発展を祈ります。
(2015/5)
[追記]筆者の場合、契約先はAU、端末機代金は24ヶ月終了で残金なし。その後AU端末アドレスの ezweb.ne.jpへの送信が無効とされることを発見した。新しいSIMがdocomoであるのが不具合の原因らしい。exwebへのメールはとりあえずPCから送信している。(2015/6)

2015年5月1日金曜日

内田百閒 「短夜」

内田百閒 「短夜」(大正十一年『冥途』稲門堂書店刊 所収)

単行本『冥途』は前年、雑誌に連載された短編十八編を
内田百閒最初の刊行本扉頁
まとめた第一創作集である。内田百閒は夏目漱石門下にあって漱石の最晩年に文字遣いについて議論したことから漱石原稿の校正を引き受けるようになり、漱石没後には岩波の全集の校正に当たった。それまでは自分の作品を発表することはなかった。『冥途』所収の作品は、雑誌の要請に応じて書いたのではなく、それまでに書き溜めていたものであったらしいが、刊行翌年の大震災で製版所が焼けたため紙型と残部は焼尽した。
著者の奇抜な発想からノンブル(頁番号)を打たない製版をしたため乱丁発生などで業界が混乱したと伝えられる(当ブログ2014/12参照)。
震災という不運のため十分な部数が読者を得るに至らなかったことを惜しみながら、芥川龍之介は一連の作品を高く評価している。「悉く夢を書いたものである。漱石先生の「夢十夜」のやうに、夢に假託した話ではない。見た儘に書いた夢の話である」。文壇離れのした心持ちがする、作者が文壇の空気を吸っていたら到底あんな夢の話は書かなかったろう、書いてもあんな具合には出来なかったろうと述べている。芥川は自分には書けない趣の作品として半ば悔しがっているのである。

十八篇どれを読んでも面白いのであるが、筆者は「件」とか「豹」などが好きである。前者は自分が牛の化け物みたいな件(くだん)という変てこな生き物になっていて、人々に約束が果たせず苦悶する話、後者は豹に追いかけられて、ふと振り返ると大勢の人の中にその豹が笑っていたという話。いずれも、なに、それ、と言いたくなるような滑稽味もある。ここでは「短夜」について簡単に述べる。

「私は狐のばける所を見届けようと思つて、うちを出た」という書き出しで始まる。暗い晩、土手を歩いて行く。何の気なしに後ろを見ると大きな蛍が五六十匹一列になつてすうと流れる。おやと思うと消えた。大きな池の傍に腰掛けてでいると、向こうの藪から大きな狐が出てきて、水辺でいろいろな所作をする。真っ暗な中で狐だけはつきり見える。ぽちゃんと音がした方を見ると、暗い池の中に大きな鯉が二匹泳いでいるのが見える。変だなと思うと消えた。いつの間にか池の縁に若い女が立っている。丸髷に結った美しい顔をしているが目鼻立ちはわからない。女はしゃがんで、そのへんの樹の葉や草の葉を集めて押し丸めている、と見る間に赤ん坊を抱いている。田舎風の可愛らしい神さんが赤ん坊を抱いて土手の上に上がってすたすた歩いてゆく。手頃な棒きれを拾って後をつける。

どんどん行くと小さな家に行き着いた。女は「お母さん、只今」と言って戸を叩いている。ごとごと音がして戸が開き、女は中にはいり戸が閉まる音がした。そのとき、飛び出して行って閉まりかけた戸口に立ちふさがって叫ぶ。「その女は狐だ」。戸の内側で小さな婆さんがびっくりしている。婆さんは、これはうちの嫁だ、お前は何用あってきたか、と怒る。こっちは狐が化けるところを一部始終見てきたのだ。青松葉で燻せば正体がわかると言っても聞かない。女が悔しがって青松葉を持ち出してきたので、火をつけて煙の中に赤ん坊を突っ込んだら、すぐに死んでしまった。女は気絶してしまった。色々手を尽くすが赤ん坊は生き返らないし、女も正気にならない。困ったことになった。

と、大勢の声がして舟が着いたようで、どやどやと男たちが集まってきた。
中にお坊さんがいて、事情説明すると、手際よく処置をつけてくれた。心の底から有り難く思って、
ふとその顔を見ると恐ろしく大きな眼鏡を鼻の先に掛けているのでびっくりした。
我が身は坊さんに預けられた。今夜はひとまず寺まで来てくれと言われて急な山道を歩いて大きな寺に行った。途中後ろを振り向いてはならぬぞ、と言われたのが恐ろしくて足がすくんだ。寺の本堂で如来様の前に座らされて頭を剃られた。死んだ赤ん坊のために念仏しろと言われて念仏鉦と打ち鳴らしをあてがわれた。住職がいなくなり、鉦を叩いて念仏しながら心の底から幼い魂の冥福を祈り続けていた。そのうち不意に短夜が明け離れて黄色い朝日がぎらぎらと輝いて辺りを照りつけたとき、ふと気がついて辺りを見回した。


そこには柱も幢幡も如来様も念佛鉦もなかつた。禿山の天邉の、赭土のざらざらと散らかっている凹みに私は一人坐り込んで、手には枯木の枝を持ってゐた。膝の前の、念佛鉦のあつた邉りに、瓦のかけらが一枚あった。その外にはなんにもなかった。髪の毛を嚙み挘られた頭の地が、ぴりぴりと痛んで来た。私は驚いて起ち上がったけれども、どちらへ歩いていいのだか、方角もたたなかつた。

このように物語は終わる。読後の気分は物語だけが空中にぽっかり浮いているような感じがした。
昔話でも芝居でも狐が化けるというのは、たいてい人になるのであって、一匹が一人になる。この物語では、女、婆さん、坊さんが登場して、狐を見に行った主人公に口をきく。がやがやと大勢の男達も登場する。これはどういうことか、狐が眷属一統を動員したのだろうか。女が行き着いた家はいつもある家なのか、幻か。これは覚めてからもう一度行ってみればわかるはずだ。

はじめ歩き始めた道は、土手やら池のあたりの描写は百間の岡山の生家の近所の川のようだ。何かで同じような土手の描写を読んだことがある。筆名のもとになった百間川かもしれない。しかし、これは実景のようであってもすでにそうではない、夢の中と思ってもよいだろう。蛍や鯉の不思議も現れているのだ。
首尾よく狐が化けるところを見届けたから満足して帰るのかと思ったら違った。その儘女の後をつけてゆくのである。ここまでの主人公は見物人だ。

どうしてこうなるんだ。狐の女の後をつけてきたのに。見紛うはずはない。赤ん坊は樹の葉じゃなかった。婆さんにそいつは狐だといった途端に傍観者は当事者になってしまった。まずいことになったもんだ。
坊さんの裁きが見事だった。この家の者までが狐に誑かされては気の毒だという親切心からしたことでこの男に悪気はない。わしが代わって謝るから許してやれ、とは狐らしくもない言葉ではないか。我が身は坊さんに預けられた。寺に連れてゆかれて頭を剃られた、実は噛みむしられたとはあとで知ったこと。念仏を唱えながら死んだ赤ん坊の冥福を祈る気持ちになったとは、殊勝なことだ。あとで考えると、あの時の気持ちはなんだったのだろう。身も心も狐の世界に浸りきっていたわけだ。うまくやったなぁ、この狐。

芥川は一連の作品を、夢そのものを見たままに書いたものだという。それは通常の作家がするように色々手を加えるということをしていない純粋さを述べたわけだ。百間は純粋さを表すために言葉を磨いた。夢の中で味わう奇妙で複雑な感情を何とかして表し伝えようとした作品の一つがこの「短夜」だろう。自分の目の前にあるものを自分の目で見るということは、実は難しい事なのだとゲーテは言っているそうであるが、この事を目指して粒々辛苦を重ねたのが日本の俳諧道であるそうだ。内田百閒は早くから句作の修行を積んでいる。
今回の「短夜」は『内田百閒全集第一巻』(講談社昭和46年)。高橋義孝氏の同書あとがき「百間文学への招待」と平山三郎氏の解題を参照した。
『冥途』の装丁に薬師寺仏像の台座の狐図が使用されていたとのことだが、そのいわれを知りたいものだ。
(2014/5)