2015年9月19日土曜日

随想 『阿川弘之全集』から

野ざらし

阿川弘之さんの全集を借りてきて拾い読みをしていた。あるエッセイに「野ざらし」という題が付いている。内容には「軍艦長門の生涯」を読みながらちょっと気になった人物のことが出ている。興味深くその小編を読み終えたが、「野ざらし」に関係する話はなにもない。私が「野ざらし」という言葉を聞いてすぐ思い出すのは落語の外題である。釣りに出かけて河原に転がっているサレコウベを見つけて供養してやる噺である。阿川さんも落語が好きだと私は勝手に決めつけていたから、きっとそうにちがいないと思いながら本を閉じた。別の日にその話題を文章にしようと考えて全集を繰ってみたがない。目次にも出ていない。いつも同時に何冊かの本を引っ張りだす癖と、近頃忘却力が凄まじく身についてきたことから、他の本を探したりして見つけるのに苦労した。最後は再び全集に戻って端から頁を繰ってやっと見つかった。目次の「あくび指南書」という表題の章に含まれる一遍が「野ざらし」であった。昭和56ー56年、1年間の新聞連載の話題が『あくび指南書』の表題で単行本にまとめられている(昭和56年4月毎日新聞社)。全集収録はその中からの自選21篇である。
そこでとりあえず、「あくび指南書」の章をはじめから読んでみる。はじめは「粗忽の使者」、これが絶妙に面白い。落語の台本にちかい。ご本人は古典落語が好きだから、連載の随筆のネタに落語の題をにらみながら、書くことを何か思いつこうという算段だった。そそっかしい人物に見立てた新聞社の担当者を相手に、こういう心づもりをしたのだと明かしている。これで著者の魂胆が判明したので、あらためて「野ざらし」に戻る。

折角録っておいたから見ろと息子さんがすすめるビデオをいやいや見る場面で始まる。戦争末期の「日本ニュース」、特攻隊出撃の場面である。本当は見たくないのだが、再生ボタンを押したら、果たして映像が現れると同時に不愉快になった。
息子さんと同じ年頃の若者たちが、敬礼をして飛行機の方へ駆けて行って、機上から手を振って次々と離陸してゆく。
運がよければ手柄をたてて生還出来るといふのと、出たら必ず死んでしまふといふのとでは、同じ「決死の覚悟」でもまるきりちがふ。彼らに「帰りの飛行」は無く、あとで分かったことだが見るべき戦果も亦ほとんど無かった。
涙が出て来た。ニュース映画のカメラマンがフィルムに収め、三十五年後それがテレビで放映されたのをもう一度ビデオに収めた二重三重のうつし絵であるけれども、文字とちがってあまりに生々しく、あまりに残酷で悲しく腹立たしい。
「馬鹿。お前が先に死ね。陸式の馬鹿。気に入らん」
「笑ふな、馬鹿。お前早く死ねったら」
著者は涙を流しながらブラウン管に罵っている。出撃の将兵に毒づいているのではない。画面に富永恭次中将の姿が映っているのだ。軍刀を下げ、口もとに豪傑風の笑みを浮かべ、襲撃直前の特攻隊員を激励してまわっている。

阿川弘之入門(その2)に書いておいたが、富永中将というのはキスカ守備隊が海軍側の要請で小銃を海へ投棄し、霧にまぎれて救出艦隊に急遽乗艦、全員奇蹟の内地生還をした際、「いやしくも御紋章のついた銃を海へ棄てて来るとは何ごとか」と激怒した人である。当時東條陸軍大臣(兼総理)の次官であった。


東條辞任後、第四航空軍司令官として、特攻隊を送り出す立場に立った。「死んでも武器を離すな」の富永中将にとって、必至必殺の特攻作戦は我が意を得たものだったかも知れないが、「そんならお前はどう身を処した。笑ふな。笑ひごとぢゃない。お前が先に死んでしまやいいんだ」
陸軍を罵ってゐるうちに軍艦マーチが鳴り出し、画面が変わって、また一人気に入らないのがあらはれた。海軍の神風特別攻撃隊を、第十三航空艦隊司令長官福留繁中将が見送ってゐる。福留中将はフィリピンで一度捕虜になった人である。多分やむを得ざる状況の下だったらうし、そのこと自体をいけないとは思はない。むしろ、日本の陸海軍は敵味方の捕虜の扱ひをもっと公明にはつきりさせておかなかったのがいけないと思ふ。思ふけれども、とにかくいくさの最中一旦ゲリラの捕虜になりながら、生きて送り還されて来た人だ。「おい、あんたには(海軍だとお前呼ばはりしないところが我ながら偏見甚しく、奇妙なり)、彼らの死出の出撃を見送る資格は無いはずだぜ。あんたそんな姿をニュースに写されて恥しいと思はないのか。どうなんだ、おい、福留長官」
息子がつくづく感にたへたやうに言った。「犬にテレビ見せると吠えるっていふけどサ、ビデオ・テープに向ってよくそれだけ泣いたりわめいたり出来るね」

怒りっぽいことではよく知られた阿川さんでなくとも、この富永という人物はとかくの評判が多く、いろいろなところで話題になっている愚劣極まる俗物である。私も悪しざまに言いたい方の人間だが、ときにはその遺族が気の毒になったりもする。著者がここでは筆の走りを抑えて数々の呆れた挿話には触れていないから私も書かないでおく。

「軍艦長門の生涯」にも「野ざらし」にも著者が書いてくれているが、戦争中にアメリカ海軍はVT信管というものを開発した。高角砲弾に装着する電子信管で、これを使うと、計算上目標が50倍の大きさに膨れ上がる。小型戦闘機を狙って、今日のジャンボ旅客機を狙い撃つのと同じことになると説明されるが、それだけ照準が楽で命中率がたかくなるエレクトロニクス原理の利用である。原爆並みの機密扱いにされていたから日本側は最後までVT信管の存在を知らなかった。道理で片っ端から撃ち落とされたわけである。なんでこんなに落とされるのか、原因がわからず、同じ死なせるなら体当たり、特攻作戦以外もう道はないと一部の人が思いつめた。しかし、著者の言葉を借りると、高速避退運動中の軍艦に飛行機をぶっつけるのは、自転車で立木に体当りするのとわけがちがう。

たといVT信管がなかったにしても、犠牲の割に効果があまり期待できない。「必至必中一機一艦を屠る」などというのは机上の空想に過ぎないと練達の飛行機乗りたちは知っていた。本来特攻攻撃は命令によらず志望者を募る建前であったから、打診されて辞退した人達も多かった。作戦としては外道だからやるべきでないという反対意見も多かったが、こういう事実は新聞やニュース映画に一言半句も表れなかったと著者は強く批判している。しかし世の大勢に押されて次第に美化され、心理的には明らかな強制のもとで、何千人もの若者が戦果もあげ得ずに死んでいった。

「野ざらし」という題の文章には以上のようなことが書いてあった。何かちょっと無理して、題に内容を合わせた感もしないではないと私は思った。突っ込んでいった若者たちは名前がわかっている限り、軍神と仰がれて靖国神社に祀られた。遺骨はないはずだが、あるいは空の箱か、紙切れぐらいは入っていたかもしれない。とすれば海の底に打ち棄てられているに違いない。それなら河原のサレコウベと同じじゃないか。遺族には失礼な気持ちがするが、阿川さんの「野ざらし」と題した考えに納得した。落語の噺とちがうところはこの題には阿川さんの大きな怒りが籠められている。

ついでに考えた。辰巳芳子さんの結婚生活は20日で終わった。戦死した彼は死にたくないと言いながら応召していったから靖国にはいないのだという。ここ(自宅)にいるのだそうだ(朝日新聞9月18日)。ものは考えようである。こちらは遺骨ではなく、魂のことを考えている。喜々として(いるように私にはみえる)靖国に詣る国会議員たち。遺族でないならばカタチだけのことをしているにすぎない。いまで言うパフォーマンス、気楽なものである。これはこれで日本人の心をないがしろにしていると私は思う。(2015/9)

2015年9月14日月曜日

阿川弘之入門(その3)

阿川弘之全集第8巻 新潮社

阿川弘之「軍艦長門の生涯」は全集で二巻、千二百頁あまりにわたる長い作品である。読後の感想を物しようとしてもメモも取らずに読んでいたからあとになって詳しくは辿れない。前回同様頭に残ったことの一部だけ適当に書いておくことで読了の記念にしておこう。
第8巻は昭和11年末からの記事である。この作品には目次はなくて章立てはすべて数字であるので、何処に何が書いてあったかあとから探すのに骨が折れる。いずれにしろこの巻の戦はすべて敗け戦、つまり帝国海軍の終焉である。腹立たしいことが多い。敗けたことが腹立たしいのではなく、敗けることがわかっていて戦を始めたことが腹立たしいのだ。生産力、物量、技術などの比較だけでなく、そもそもの国民の知識水準、生活水準がアメリカほども高くなかった。能力の有無ではない、能力が開発されていなかったと。生活の水準が、例えば電話をかけたことがない、自動車を運転したことがない、タイプライターを使えないなどのことが兵隊の技能水準の差になって戦力の差を生むのである。さらに言えば指導層の思考の不思議さがある。物量に対抗するに精神力をもってするという信念の不思議である。ここまで考えると話が複雑になり阿川さんも立ち入ることはしていないから別の機会に考えることにしよう。

1942年6月のミッドウエー海戦以後日本の聯合艦隊は負け続け、日本の防衛線は後退につぐ後退でサイパンも落ち、最後のフィリピン、レイテ沖海戦(44年10月)で大敗北に終わった。作戦の是非はともかく、基本的には航空機による攻撃という戦法の変化についてゆけなかったという理由の他に、落としても落としても出てくる米軍飛行機という物量にも負けた。開戦前からわかっていた情勢による自明の結論だった。自明の論理を理解して主張しながらも、職務上自説に反する姿勢を続けなくてはならなかった司令長官山本五十六は43年4月にブーゲンビルで戦死した。
著者は書く。
昭和19年は、明治38年より数へて足かけ40年になる。日本海海戦の完勝から40年目に、帝国海軍は、世界戦史に例のないほどの一方的敗北を喫した。対馬沖の敗将ロジェストウェンスキー提督は、母国へ帰って軍法会議の法定に立たされた(判決は無罪)が、この敗戦の責を負ふ豊田聯合艦隊司令長官、栗田第一遊撃部隊指揮官ほか、軍法会議にかけられたり位階を剥奪されたりした提督は一人も無かった。(第8巻504頁)
10月28日夜半にブルネイに帰投した翌朝、長門の甲板上でキナバル山をのぞみながら、若い軍医大尉が「人の命はほんたうに紙一重だ。自分はまた生きのびた。戦争とは一体何だろう?」と思う。明治生まれの老主計少佐がかたわらに寄ってきてに語りかける。「人間はかうしてあくせくやってるけれど、自然は何千年も何万年も、少しも変わらずに存在してゐるネ。えらいいくさを戦ったもんだ。我が我がの闘争心のもたらした悲劇ですよ。智恵を持ったものの不幸ではないですかね」(同505頁)

11月15日内地回航の命令が出て最後の燃料補給を受けて長門はブルネイを出航した。途中僚艦が敵潜で沈没したりする中、無事に横須賀に帰り着き小海岸壁に繋留された。もはや補給を受ける重油は一滴もないらしかった。港に浮かべておくだけで、1日50トンの油を食うんだといわれて、生きながらえて母港に帰り着いた長門は、完全な厄介者扱いだ。同じ港内に完成したばかりの世界一といわれる6万2千噸の航空母艦信濃がいた。11月28日出航して呉に向かった。翌日未明、潮岬沖で潜水艦に襲撃されてあえなく沈没、乗員1500名の生死不明の報告があった。壮大な無駄。

昭和20年2月10日付で長門は横須賀鎮守府の警備艦となった。もう動かなくてよろしいとの引導を渡されたかたちになったと著者は書いている。3月10日東京空襲、19日は呉に空襲があり在泊艦艇のほとんどは戦闘能力を失った。4月1日米軍が沖縄上陸、生き残っていた大和は航空特攻に呼応する水上特攻として片道燃料で出撃したが7日に徳之島沖で最期を遂げた。長門には水上特攻の命令はこなかった。ただつながれているだけで日が過ぎていった。

大艦巨砲主義というのは帝国海軍の海戦に対する考え方で、長門の40サンチ主砲というのもその産物であった。レイテ沖海戦で偶然航空機相手でない艦船相手の戦闘機会に一度だけ遭遇した。まさに千載一遇、というのもこの海戦で就役24年目にして初めて40サンチ主砲徹甲弾を発射したのだ。
結果はあまり芳しいものではなかったようだが、最後の戦闘を終えた長門の主砲弾丸消費量は、水上艦艇に向けた一式徹甲弾が45発で残量が675発あったと記録され、6パーセントしか使わなかったことになる。同じく主砲の通常弾は対空戦闘に136発消費したと書いてあるが残量は不明である。小海岸壁に繋留されるようになってからも最後のご奉公をさせようと相模湾に上陸する米軍に砲撃するため艦を空襲から守り、江ノ島に弾着観測所を設ける作業が終戦まで続けられた。
その空襲があったのは7月28日午後、艦載機250機の編隊で横須賀が本格的に爆撃された。長門は艦橋が吹っ飛び、艦長以下35名が戦死した。迷彩を施したり覆いをかぶせたりしてあったものの上空から見ればひと目で戦艦と見破られるはずだ。前日の27日少数で飛来した敵機のうち一機が長門のマストをかすめるようにして飛び去った。これを見て「あ、長門が見つけられた」と叫んだのは田中富雄上等水兵、すぐ近くに繋留されて艤装作業中の第七富久川丸の乗組員だった。田中上水とは戦後の人気作家源氏鶏太氏である。34歳の応召兵、二人の同郷者とともに先月着任した。第七富久川丸は特設駆潜艇とされているが焼玉エンジン、270噸、最高速力7ノットの元石炭運搬船で、艤装ができたら船腹に膏薬を貼ったような格好で津軽海峡を回って富山の伏木港に回航することになっていた。源氏鶏太氏は短編「水兵さん」(昭和37年)に当時の経験をそのまま書いていると阿川さんは紹介している。B29の撒いた機雷原を突破して無事伏木までたどりつけるとは到底思えず絶望的な気持ちだったが、資材不足で作業が進まず一向に出港命令が出なかったのが幸いしてその後も1ヶ月船内で暮らしたとある。貧弱すぎて敵機の目に触れなかったのか、空襲では全く損傷を蒙らなかったそうだ。

最後の長門艦長は杉野修一大佐、日露戦争で旅順口閉塞隊員として戦死した杉野孫七兵曹長の長男だ。転勤命令を受けた時は旅順で第二期予備生徒の教育隊長を務めていた。家族と共にソ連の参戦でごったがえしている北朝鮮をどうにか通過し、釜山までたどり着いたところで、8月15日の放送を聞いた。着任したのは終戦から5日ばかりあとであった。間もなく長門は沖出しを命じられ、9ヶ月ぶりに小海の岸壁を離れて港内1番ブイに繋留された。米軍に引き渡す準備だった。艦長は副長の権平中佐とともに準備に大わらわであった。
米機動部隊の艦上機は25日から各航空隊の動静、艦船の運航を監視するため、日本上空の日施飛行を開始した。これが敗者に異様な威圧感を与える。
長門の古参兵の中には、処刑のデマに怯えて奴らと刺し違えるだの暴言を吐いたり酔っ払うのも出たりした。デマのせいである。「アメさんが一番恐ろしがっているのは、筋金入りの下士官だそうだ。将校なんて問題じゃない。志願兵上がりの海軍の下士官が如何に強いかは、奴らも知ってるんだ。進駐後これが最初に銃殺される」そういう噂が広まっていた。

下士官による水兵いじめの暴力沙汰は全巻のあちらこちらに出てくるが、著者は決してそういう場面を主役にしていない。下士官が処刑されると恐れるのは身に覚えがあるからか、兵隊は恨みを晴らしてもらえる期待からか、噂は加害者、被害者双方の想像の産物だ。刺し違えるなどとは幕末の攘夷志士のようだ。アメリカ人を直接見たこともないのは当時の日本人の大多数だったろう。閑話休題。

前回の当ブログで菊の御紋章がついていない写真を見たことを書いておいたが、御紋章が消えた経緯を著者はきちんと記録してくれてあった。ここにも阿川さんの筆の行き届きぶりがあった。
権平中佐の頭にはかつて江田島に飾ってあった露国戦艦「アリヨール」の艦載艇の姿がしみついていた。長門の記念物が持ち去られてアナポリスの兵学校あたりで永く辱めを受けるのは耐えがたい気がした。そこで艦長と相談の上せめて艦首の御紋章だけでも、というのでこれを取りはずして燃してしまうことにした。円材に十六花弁を刻んで金箔をかぶせた菊の紋章は直径1メートル20、欅かチークかの材質は非常に固く、外舷に腰板を吊るして作業員が少しずつ掻きとって、ようやく後甲板に持ち込み、一日がかりで灰にした。
菊の御紋章で思い出したが、阿川さんは昭和天皇の園遊会で南方熊楠のことが天皇との話題になったと何かに書いてあったように記憶するが、思えば昭和4年の白浜行幸の御召艦はこの長門であった。となれば、熊楠が長門艦上で古びたフロックコートでキャラメルの箱に入った菌類を献上して進講したことが第7巻にあったはずであるが失念した。

8月の終わりには軍人軍属三浦半島立ち退きの命令が出た。長門引渡し要員は再度艦上に戻り、接収の宣告を受けた。宣告の前に米兵の手で軍艦旗が降ろされ、星条旗が掲げられた。あとで新聞記者たちが軍艦旗を広げて記念撮影などしていたと書いてあるが、その軍艦旗の行方には触れていない。
長門が原爆実験の標的艦となってアメリカ人の操艦で最後の航海に出たのは昭和21年3月18日であった。ビキニ環礁の実験に使われた艦艇は70余隻、大部分がアメリカのフネで戦艦、空母、巡洋艦ほか、旧敵国のフネは長門、巡洋艦酒匂、ドイツの重巡「プリンツ・オイゲン」の3隻であった。実験は2回おこなわれ、その詳細も著者は書いているがここでは触れない。ただ、長門は1回目の空中爆発では沈まず、2回目の水中実験の5日後に誰にも見とられずに姿を消したと伝えられている。
ビキニは日本の委任統治時代聯合艦隊の泊地に使用されたことはなかったが、昭和15年の春、水上機母艦千歳が沖合で演習したことがあった。この演習で川竹、大久保二人の下士官が搭乗した水偵が墜落して殉職している。事故のあと乗組員の手で、ビキニ本島の浜辺に名を刻んだ「千歳航空殉職二勇士之碑」というものが建てられた。このいしぶみは二度の原爆実験にも倒れなかった。

『十字路作戦』に参加した日本人記者は一人もゐなかったし、長門の最期に実験に立ち会はせてもらった日本海軍の軍人もむろんゐなかったが、実験の全期間を通じて、川竹大久保両兵曹の碑だけはここに立ってゐた。碑は、その後度々の原水爆実験にもこはされずに、今もビキニの島に残ってゐる。 

「軍艦長門の生涯」はこの文で終わっている。誕生から予想外の終焉まで26年の間、数多の人々が関わった戦艦の生涯を描きながら、著者はその数多の人々について及ぶ限りの挿話と逸事を拾って克明に記述した。出版社は小説に分類したが記述された事実はフィクションではない。著者の思想に左右されない歴史である。中には著者の意に反するような事柄も、批判したい人物もあったはずだが、そういう場合にはたいてい言外に語っているようにみえる。読者はそれを汲み取ればいいのだ。読みながら私は大岡昇平氏の「レイテ戦記」と大佛次郎氏「天皇の世紀」を連想していた。島崎藤村「夜明け前」もそうだ。どれもが人間の行動を描いて歴史を物語っている。この大部の長門の物語を図書館で借りると期限は2週間しかない。続けて借りてもいずれ返さねばならない。本当はゆったりした気分で読んでみたかった。(2015/9)

2015年9月7日月曜日

阿川弘之入門(その2)

阿川弘之さんの『軍艦長門の生涯』を読んでいる。新潮社「阿川弘之全集」の第七巻と第八巻、それぞれ620頁ほどあるが小説とされている。
長門は戦艦であり、大正9(1920)年呉造船工廠で生まれた。阿川さんは広島生まれで生まれ年も長門と同じの元海軍士官だったことからこのフネを題材に取り上げたようだ。長門は昭和17(1942)年に大和にゆずるまで聯合艦隊の旗艦であった。
開戦後就役した大和武蔵を加へて、基準排水量で総計約48万トンの戦艦群は、長門を除いて終戦時までにすべて、沈められるか自沈するか、アメリカの飛行機にやられて海底に大破着座してしまった。「思ひもよらず我一人」といふ古い陸軍の軍歌のやうに、12隻中たった一隻、長門だけが不思議に命永らへて敗戦を迎へた。昭和20年の8月15日、長門はボイラーの火を消し、あはれな姿で母港横須賀の小海岸壁に繋留中であったが、ともかく帝国軍艦籍に在る軍艦として生きてゐた。
なまじっか生き残ったばかりに、長門は敗戦の翌年、ビキニへ連れて行かれて、アメリカの原爆実験の標的艦としてその生涯を閉じる。世界最大最強の戦艦として生れ、長く聯合艦隊の旗艦をつとめた「日本の誇り」は、今も中部太平洋の環礁の中に眠ってゐる。
阿川さん自身は暗号解読の特務士官でフネには乗らなかったが、長門に対しては多分に郷愁に似た感情を持っていた風に感じられる。作品は長門の履歴だけにとどまらず、造船から最期まで関係した人々を語り、事績を伝えて自ずから時代の風潮と移り変わりを現出して生きた歴史になっている。
著者の語り口は思想的には右せず左せず中庸を往くものであるが、その自然な姿勢のうちにも保守リベラルの色合いが滲み出る。旧海軍は英国を模範にしたといわれるが、阿川さんの文章も人間味豊かにユーモア精神も言葉の端々に見られる。 

日本の造船界の至宝とよばれた平賀譲博士は晩年東京大学の総長をつとめた。昭和17年9月の繰上げ卒業式は時の総理大臣東條英機と平賀総長の二人が対照的な祝辞を述べた。阿川さんもそれを聞いた一人だが平賀さんの「おめでとう」の言葉のほかは何もおぼえていないと正直に書いている。全文を記録した奇特な学生がいて後日雑誌に発表されたのを著者は引用しているが、総長の告辞はあきらかに年限短縮を強行した東條一派を非難する内容であった。

平賀博士の名前は譲であるが、「ニクロム線」のあだ名があったと紹介している。弱々しそうに見えて、抵抗にあうと灼熱するという意味である。海軍省や軍令部では、みんなが「あれは、平賀譲じゃなくて平賀不譲だ」と言っていたそうで、その他逸話に事欠かない人物であったらしい。

総排水トンは建造時32,700トン、最高速力26ノットの長門は建造費に4,390万円かかっている。著者は仮にいまの物価が当時の2千倍とすれば880億円となると計算する。大正9年の国家予算歳入額は13億円あまりである。その頃は戦艦16隻からなる八八艦隊の計画が続いていたが翌年のワシントン会議を機に海軍大臣加藤友三郎は廃案にした。金を借りようとしても相手はアメリカしかないのではどうしようもないということだったろう。また、長門の燃料設計は石炭と重油の併用であった。世界の趨勢は重油専焼になっていたが、重油のない日本は出来なかった。これもアメリカから買ってくるのである。対米戦争などとは笑止の沙汰にちがいなかった。このなけなしの油を使って長門が一昼夜全速力で走ると65,000円かかったという。今に換算すれば1億3千万円、これでは演習もままならないわけであった。まだ、第七巻までしか読んでいないが、建造から運用までの人事や出来事についての逸事逸話を追えばきりがない。私の興味を引いた一事をここに記しておくことにする。

御紋章と軍艦旗
大正9(1920)年11月に完成した軍艦長門は試運転も終わって25日に工廠の手を離れて海軍省に引き渡された。艦尾には新しい軍艦旗が上がった。
ここで阿川さんは説明してくれる。軍艦旗は陸軍の聯隊旗と少し性質がちがう。一種の備品だからよごれたら新しいのと取りかえると。
日の丸は明治3年にそれまでの船じるしが国旗に決まったが、同時に軍艦旗でもあった。明治22年10月に十六本の旭光をそなえた軍艦旗が国旗とは別に制定された。

カッター一隻でも、軍艦旗をかかげて他国の港へ入れば、日本領土の延長とみなされるのが国際法上の慣行であるから、海軍の軍人はむろん、軍艦旗に対しては礼をつくした。艦の碇泊中は、朝八時に信号兵のラッパ「君が代」吹奏、総員敬礼のうちに軍艦旗掲揚がおこなはれ、日没と同時に降下する。戦争になったら、戦闘中マストにかかげられて戦闘旗となる。 しかし、むやみと神聖視することはなかった。
陸軍の聯隊旗は、陛下から賜はったもので、平素桐の箱にをさめてうやうやしく隊内に安置してある。湿気と虫食ひで長年の間にぼろぼろになり、たいてい房しか残ってゐない。いざの時、陸軍の兵隊は、この房だけの軍旗を、死守しなくてはならなったが、海軍における軍艦旗の扱ひ方はかなりちがってゐる。アメリカ海軍では、乗艦退艦の際、エンサンに向かって敬礼するのが礼儀だが、日本の海軍ではそれもやらなかった。
 士官の腰の短剣についても同じような感覚が存在した。「あの短剣は何に使ふのですか?」 と聞かれると、海軍士官はよく、「リンゴの皮をむくんです」と答へたものである。人の短剣にふれたとかふれないとかで、海軍士官がまなじりをつり上げたなどという話は聞いたことがないし、軍艦旗を死守して戦死したといふ「美談」も聞かない。
大体、海軍士官といへば短剣をつているものと一般には思はれてゐるが、それは外出や儀式の時だけで、ふだんは丸腰であった。磁気コンパスが狂ふから、剣をぶら下げて艦橋に上るのは厳禁になっている。
「海軍の武器は大砲や魚雷なのに、短剣を磨いてゐるアホがあるか」 といふので、中は竹ミツといふ士官もゐたといふ。
艦首の御紋章も同様である。長門のへさきには、十六花弁をきざんだ木の上に金箔をかぶせた、直径1.2メートルの御紋章がついてゐたが、これを特別神聖視する人はゐなかった。フネが大破擱座したり、浅いところに沈没した場合は、できれば御紋章を取りはずせといふ程度である。軍帽の徽章に対する敬意を、さう大きく上まはるものではない。
昭和18年のキスカ撤退作戦の時、陸軍は皇室の御紋の刻印された小銃をすてて帰ることに強い抵抗を示したが、重いものは一切困るという理由で、撤収艦隊はこれをすべて海中に投棄させた。陸軍北海守備隊の司令官峯木十一郎少将は、のちに大本営に出頭して、富永陸軍次官から、「もってのほかのことだ」と、ひどく叱られたそうである。
海軍では、御紋章も軍艦旗も、しかるべき場所にきちんとしてあればいいので、かざりものは要するにかざりものなのであった。もっとも大事に取扱はれたのは御真影で、これだけは危急の時、主計長が命がけで安全を守ることになっていた。
話はとぶが、大岡昇平さんは35歳にもなってから招集されてフィリッピンに送られた。山の奥深く逃げこむだけの毎日に飢えと疲労とマラリアの身体には明治38年式の三八銃が重くて仕方がない。十分な武器もない部隊で暗号手だった大岡一等兵には壊れた銃があてがわれていた。暗号手は撃つ必要がないからという理屈らしい。撃てない銃など重いだけだから捨てたいのだが、捨てるには銃身に刻まれた菊の御紋章を削り取らなくてはならない。違反すれば懲罰が待っている。

こんな話を記憶している私はあるとき南海の底深く沈んでいる旧帝国海軍の軍艦の写真をみた。なんと菊の御紋が付いたままだ。フネが沈むときに紋章を削り取れとはさすがに軍でも言えなかったのだろうな、という程度に理解していたが阿川さんの説明で疑問は氷解した。それにしても天皇とか皇室とか、自分も皇国史観と呼ばれる歴史教育を受けてきた世代であるが、なんという厄介な重石が日本人の上にのしかかっていた、いやそれどころか、いまもって始末に困っていることかと思わざるをえない。すこしずつ薄紙を剥ぐように社会の理念から剥がれてきた感じはするけれど。私人としての皇室に生まれた方々は気の毒としか思えない。
なお、ビキニ環礁に連れて行かれるときの長門の艦首から御紋章が取り去られている写真がネット上に見ることが出来た。誰がこのような配慮をしたのか、知りたいことがまた増えた。

『軍艦長門の生涯』は昭和47年8月5日から昭和50年2月26日までサンケイ新聞夕刊に連載された。単行本は昭和50年12月新潮社より刊行された。
『阿川弘之全集』第7巻に収録されているのは昭和10年頃までの記述であるため、時代はかなりきな臭くはなっているが、まだ平時の話題が多かった。
『軍艦長門の生涯』は小説とされてはいるが、記録文学である。第8巻末に大量の参照文献があげられているのは当然のことかも知れないが、著者の真摯な姿勢がうかがわれる。(2015/9)