2015年9月7日月曜日

阿川弘之入門(その2)

阿川弘之さんの『軍艦長門の生涯』を読んでいる。新潮社「阿川弘之全集」の第七巻と第八巻、それぞれ620頁ほどあるが小説とされている。
長門は戦艦であり、大正9(1920)年呉造船工廠で生まれた。阿川さんは広島生まれで生まれ年も長門と同じの元海軍士官だったことからこのフネを題材に取り上げたようだ。長門は昭和17(1942)年に大和にゆずるまで聯合艦隊の旗艦であった。
開戦後就役した大和武蔵を加へて、基準排水量で総計約48万トンの戦艦群は、長門を除いて終戦時までにすべて、沈められるか自沈するか、アメリカの飛行機にやられて海底に大破着座してしまった。「思ひもよらず我一人」といふ古い陸軍の軍歌のやうに、12隻中たった一隻、長門だけが不思議に命永らへて敗戦を迎へた。昭和20年の8月15日、長門はボイラーの火を消し、あはれな姿で母港横須賀の小海岸壁に繋留中であったが、ともかく帝国軍艦籍に在る軍艦として生きてゐた。
なまじっか生き残ったばかりに、長門は敗戦の翌年、ビキニへ連れて行かれて、アメリカの原爆実験の標的艦としてその生涯を閉じる。世界最大最強の戦艦として生れ、長く聯合艦隊の旗艦をつとめた「日本の誇り」は、今も中部太平洋の環礁の中に眠ってゐる。
阿川さん自身は暗号解読の特務士官でフネには乗らなかったが、長門に対しては多分に郷愁に似た感情を持っていた風に感じられる。作品は長門の履歴だけにとどまらず、造船から最期まで関係した人々を語り、事績を伝えて自ずから時代の風潮と移り変わりを現出して生きた歴史になっている。
著者の語り口は思想的には右せず左せず中庸を往くものであるが、その自然な姿勢のうちにも保守リベラルの色合いが滲み出る。旧海軍は英国を模範にしたといわれるが、阿川さんの文章も人間味豊かにユーモア精神も言葉の端々に見られる。 

日本の造船界の至宝とよばれた平賀譲博士は晩年東京大学の総長をつとめた。昭和17年9月の繰上げ卒業式は時の総理大臣東條英機と平賀総長の二人が対照的な祝辞を述べた。阿川さんもそれを聞いた一人だが平賀さんの「おめでとう」の言葉のほかは何もおぼえていないと正直に書いている。全文を記録した奇特な学生がいて後日雑誌に発表されたのを著者は引用しているが、総長の告辞はあきらかに年限短縮を強行した東條一派を非難する内容であった。

平賀博士の名前は譲であるが、「ニクロム線」のあだ名があったと紹介している。弱々しそうに見えて、抵抗にあうと灼熱するという意味である。海軍省や軍令部では、みんなが「あれは、平賀譲じゃなくて平賀不譲だ」と言っていたそうで、その他逸話に事欠かない人物であったらしい。

総排水トンは建造時32,700トン、最高速力26ノットの長門は建造費に4,390万円かかっている。著者は仮にいまの物価が当時の2千倍とすれば880億円となると計算する。大正9年の国家予算歳入額は13億円あまりである。その頃は戦艦16隻からなる八八艦隊の計画が続いていたが翌年のワシントン会議を機に海軍大臣加藤友三郎は廃案にした。金を借りようとしても相手はアメリカしかないのではどうしようもないということだったろう。また、長門の燃料設計は石炭と重油の併用であった。世界の趨勢は重油専焼になっていたが、重油のない日本は出来なかった。これもアメリカから買ってくるのである。対米戦争などとは笑止の沙汰にちがいなかった。このなけなしの油を使って長門が一昼夜全速力で走ると65,000円かかったという。今に換算すれば1億3千万円、これでは演習もままならないわけであった。まだ、第七巻までしか読んでいないが、建造から運用までの人事や出来事についての逸事逸話を追えばきりがない。私の興味を引いた一事をここに記しておくことにする。

御紋章と軍艦旗
大正9(1920)年11月に完成した軍艦長門は試運転も終わって25日に工廠の手を離れて海軍省に引き渡された。艦尾には新しい軍艦旗が上がった。
ここで阿川さんは説明してくれる。軍艦旗は陸軍の聯隊旗と少し性質がちがう。一種の備品だからよごれたら新しいのと取りかえると。
日の丸は明治3年にそれまでの船じるしが国旗に決まったが、同時に軍艦旗でもあった。明治22年10月に十六本の旭光をそなえた軍艦旗が国旗とは別に制定された。

カッター一隻でも、軍艦旗をかかげて他国の港へ入れば、日本領土の延長とみなされるのが国際法上の慣行であるから、海軍の軍人はむろん、軍艦旗に対しては礼をつくした。艦の碇泊中は、朝八時に信号兵のラッパ「君が代」吹奏、総員敬礼のうちに軍艦旗掲揚がおこなはれ、日没と同時に降下する。戦争になったら、戦闘中マストにかかげられて戦闘旗となる。 しかし、むやみと神聖視することはなかった。
陸軍の聯隊旗は、陛下から賜はったもので、平素桐の箱にをさめてうやうやしく隊内に安置してある。湿気と虫食ひで長年の間にぼろぼろになり、たいてい房しか残ってゐない。いざの時、陸軍の兵隊は、この房だけの軍旗を、死守しなくてはならなったが、海軍における軍艦旗の扱ひ方はかなりちがってゐる。アメリカ海軍では、乗艦退艦の際、エンサンに向かって敬礼するのが礼儀だが、日本の海軍ではそれもやらなかった。
 士官の腰の短剣についても同じような感覚が存在した。「あの短剣は何に使ふのですか?」 と聞かれると、海軍士官はよく、「リンゴの皮をむくんです」と答へたものである。人の短剣にふれたとかふれないとかで、海軍士官がまなじりをつり上げたなどという話は聞いたことがないし、軍艦旗を死守して戦死したといふ「美談」も聞かない。
大体、海軍士官といへば短剣をつているものと一般には思はれてゐるが、それは外出や儀式の時だけで、ふだんは丸腰であった。磁気コンパスが狂ふから、剣をぶら下げて艦橋に上るのは厳禁になっている。
「海軍の武器は大砲や魚雷なのに、短剣を磨いてゐるアホがあるか」 といふので、中は竹ミツといふ士官もゐたといふ。
艦首の御紋章も同様である。長門のへさきには、十六花弁をきざんだ木の上に金箔をかぶせた、直径1.2メートルの御紋章がついてゐたが、これを特別神聖視する人はゐなかった。フネが大破擱座したり、浅いところに沈没した場合は、できれば御紋章を取りはずせといふ程度である。軍帽の徽章に対する敬意を、さう大きく上まはるものではない。
昭和18年のキスカ撤退作戦の時、陸軍は皇室の御紋の刻印された小銃をすてて帰ることに強い抵抗を示したが、重いものは一切困るという理由で、撤収艦隊はこれをすべて海中に投棄させた。陸軍北海守備隊の司令官峯木十一郎少将は、のちに大本営に出頭して、富永陸軍次官から、「もってのほかのことだ」と、ひどく叱られたそうである。
海軍では、御紋章も軍艦旗も、しかるべき場所にきちんとしてあればいいので、かざりものは要するにかざりものなのであった。もっとも大事に取扱はれたのは御真影で、これだけは危急の時、主計長が命がけで安全を守ることになっていた。
話はとぶが、大岡昇平さんは35歳にもなってから招集されてフィリッピンに送られた。山の奥深く逃げこむだけの毎日に飢えと疲労とマラリアの身体には明治38年式の三八銃が重くて仕方がない。十分な武器もない部隊で暗号手だった大岡一等兵には壊れた銃があてがわれていた。暗号手は撃つ必要がないからという理屈らしい。撃てない銃など重いだけだから捨てたいのだが、捨てるには銃身に刻まれた菊の御紋章を削り取らなくてはならない。違反すれば懲罰が待っている。

こんな話を記憶している私はあるとき南海の底深く沈んでいる旧帝国海軍の軍艦の写真をみた。なんと菊の御紋が付いたままだ。フネが沈むときに紋章を削り取れとはさすがに軍でも言えなかったのだろうな、という程度に理解していたが阿川さんの説明で疑問は氷解した。それにしても天皇とか皇室とか、自分も皇国史観と呼ばれる歴史教育を受けてきた世代であるが、なんという厄介な重石が日本人の上にのしかかっていた、いやそれどころか、いまもって始末に困っていることかと思わざるをえない。すこしずつ薄紙を剥ぐように社会の理念から剥がれてきた感じはするけれど。私人としての皇室に生まれた方々は気の毒としか思えない。
なお、ビキニ環礁に連れて行かれるときの長門の艦首から御紋章が取り去られている写真がネット上に見ることが出来た。誰がこのような配慮をしたのか、知りたいことがまた増えた。

『軍艦長門の生涯』は昭和47年8月5日から昭和50年2月26日までサンケイ新聞夕刊に連載された。単行本は昭和50年12月新潮社より刊行された。
『阿川弘之全集』第7巻に収録されているのは昭和10年頃までの記述であるため、時代はかなりきな臭くはなっているが、まだ平時の話題が多かった。
『軍艦長門の生涯』は小説とされてはいるが、記録文学である。第8巻末に大量の参照文献があげられているのは当然のことかも知れないが、著者の真摯な姿勢がうかがわれる。(2015/9)