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2015年9月19日土曜日

随想 『阿川弘之全集』から

野ざらし

阿川弘之さんの全集を借りてきて拾い読みをしていた。あるエッセイに「野ざらし」という題が付いている。内容には「軍艦長門の生涯」を読みながらちょっと気になった人物のことが出ている。興味深くその小編を読み終えたが、「野ざらし」に関係する話はなにもない。私が「野ざらし」という言葉を聞いてすぐ思い出すのは落語の外題である。釣りに出かけて河原に転がっているサレコウベを見つけて供養してやる噺である。阿川さんも落語が好きだと私は勝手に決めつけていたから、きっとそうにちがいないと思いながら本を閉じた。別の日にその話題を文章にしようと考えて全集を繰ってみたがない。目次にも出ていない。いつも同時に何冊かの本を引っ張りだす癖と、近頃忘却力が凄まじく身についてきたことから、他の本を探したりして見つけるのに苦労した。最後は再び全集に戻って端から頁を繰ってやっと見つかった。目次の「あくび指南書」という表題の章に含まれる一遍が「野ざらし」であった。昭和56ー56年、1年間の新聞連載の話題が『あくび指南書』の表題で単行本にまとめられている(昭和56年4月毎日新聞社)。全集収録はその中からの自選21篇である。
そこでとりあえず、「あくび指南書」の章をはじめから読んでみる。はじめは「粗忽の使者」、これが絶妙に面白い。落語の台本にちかい。ご本人は古典落語が好きだから、連載の随筆のネタに落語の題をにらみながら、書くことを何か思いつこうという算段だった。そそっかしい人物に見立てた新聞社の担当者を相手に、こういう心づもりをしたのだと明かしている。これで著者の魂胆が判明したので、あらためて「野ざらし」に戻る。

折角録っておいたから見ろと息子さんがすすめるビデオをいやいや見る場面で始まる。戦争末期の「日本ニュース」、特攻隊出撃の場面である。本当は見たくないのだが、再生ボタンを押したら、果たして映像が現れると同時に不愉快になった。
息子さんと同じ年頃の若者たちが、敬礼をして飛行機の方へ駆けて行って、機上から手を振って次々と離陸してゆく。
運がよければ手柄をたてて生還出来るといふのと、出たら必ず死んでしまふといふのとでは、同じ「決死の覚悟」でもまるきりちがふ。彼らに「帰りの飛行」は無く、あとで分かったことだが見るべき戦果も亦ほとんど無かった。
涙が出て来た。ニュース映画のカメラマンがフィルムに収め、三十五年後それがテレビで放映されたのをもう一度ビデオに収めた二重三重のうつし絵であるけれども、文字とちがってあまりに生々しく、あまりに残酷で悲しく腹立たしい。
「馬鹿。お前が先に死ね。陸式の馬鹿。気に入らん」
「笑ふな、馬鹿。お前早く死ねったら」
著者は涙を流しながらブラウン管に罵っている。出撃の将兵に毒づいているのではない。画面に富永恭次中将の姿が映っているのだ。軍刀を下げ、口もとに豪傑風の笑みを浮かべ、襲撃直前の特攻隊員を激励してまわっている。

阿川弘之入門(その2)に書いておいたが、富永中将というのはキスカ守備隊が海軍側の要請で小銃を海へ投棄し、霧にまぎれて救出艦隊に急遽乗艦、全員奇蹟の内地生還をした際、「いやしくも御紋章のついた銃を海へ棄てて来るとは何ごとか」と激怒した人である。当時東條陸軍大臣(兼総理)の次官であった。


東條辞任後、第四航空軍司令官として、特攻隊を送り出す立場に立った。「死んでも武器を離すな」の富永中将にとって、必至必殺の特攻作戦は我が意を得たものだったかも知れないが、「そんならお前はどう身を処した。笑ふな。笑ひごとぢゃない。お前が先に死んでしまやいいんだ」
陸軍を罵ってゐるうちに軍艦マーチが鳴り出し、画面が変わって、また一人気に入らないのがあらはれた。海軍の神風特別攻撃隊を、第十三航空艦隊司令長官福留繁中将が見送ってゐる。福留中将はフィリピンで一度捕虜になった人である。多分やむを得ざる状況の下だったらうし、そのこと自体をいけないとは思はない。むしろ、日本の陸海軍は敵味方の捕虜の扱ひをもっと公明にはつきりさせておかなかったのがいけないと思ふ。思ふけれども、とにかくいくさの最中一旦ゲリラの捕虜になりながら、生きて送り還されて来た人だ。「おい、あんたには(海軍だとお前呼ばはりしないところが我ながら偏見甚しく、奇妙なり)、彼らの死出の出撃を見送る資格は無いはずだぜ。あんたそんな姿をニュースに写されて恥しいと思はないのか。どうなんだ、おい、福留長官」
息子がつくづく感にたへたやうに言った。「犬にテレビ見せると吠えるっていふけどサ、ビデオ・テープに向ってよくそれだけ泣いたりわめいたり出来るね」

怒りっぽいことではよく知られた阿川さんでなくとも、この富永という人物はとかくの評判が多く、いろいろなところで話題になっている愚劣極まる俗物である。私も悪しざまに言いたい方の人間だが、ときにはその遺族が気の毒になったりもする。著者がここでは筆の走りを抑えて数々の呆れた挿話には触れていないから私も書かないでおく。

「軍艦長門の生涯」にも「野ざらし」にも著者が書いてくれているが、戦争中にアメリカ海軍はVT信管というものを開発した。高角砲弾に装着する電子信管で、これを使うと、計算上目標が50倍の大きさに膨れ上がる。小型戦闘機を狙って、今日のジャンボ旅客機を狙い撃つのと同じことになると説明されるが、それだけ照準が楽で命中率がたかくなるエレクトロニクス原理の利用である。原爆並みの機密扱いにされていたから日本側は最後までVT信管の存在を知らなかった。道理で片っ端から撃ち落とされたわけである。なんでこんなに落とされるのか、原因がわからず、同じ死なせるなら体当たり、特攻作戦以外もう道はないと一部の人が思いつめた。しかし、著者の言葉を借りると、高速避退運動中の軍艦に飛行機をぶっつけるのは、自転車で立木に体当りするのとわけがちがう。

たといVT信管がなかったにしても、犠牲の割に効果があまり期待できない。「必至必中一機一艦を屠る」などというのは机上の空想に過ぎないと練達の飛行機乗りたちは知っていた。本来特攻攻撃は命令によらず志望者を募る建前であったから、打診されて辞退した人達も多かった。作戦としては外道だからやるべきでないという反対意見も多かったが、こういう事実は新聞やニュース映画に一言半句も表れなかったと著者は強く批判している。しかし世の大勢に押されて次第に美化され、心理的には明らかな強制のもとで、何千人もの若者が戦果もあげ得ずに死んでいった。

「野ざらし」という題の文章には以上のようなことが書いてあった。何かちょっと無理して、題に内容を合わせた感もしないではないと私は思った。突っ込んでいった若者たちは名前がわかっている限り、軍神と仰がれて靖国神社に祀られた。遺骨はないはずだが、あるいは空の箱か、紙切れぐらいは入っていたかもしれない。とすれば海の底に打ち棄てられているに違いない。それなら河原のサレコウベと同じじゃないか。遺族には失礼な気持ちがするが、阿川さんの「野ざらし」と題した考えに納得した。落語の噺とちがうところはこの題には阿川さんの大きな怒りが籠められている。

ついでに考えた。辰巳芳子さんの結婚生活は20日で終わった。戦死した彼は死にたくないと言いながら応召していったから靖国にはいないのだという。ここ(自宅)にいるのだそうだ(朝日新聞9月18日)。ものは考えようである。こちらは遺骨ではなく、魂のことを考えている。喜々として(いるように私にはみえる)靖国に詣る国会議員たち。遺族でないならばカタチだけのことをしているにすぎない。いまで言うパフォーマンス、気楽なものである。これはこれで日本人の心をないがしろにしていると私は思う。(2015/9)

2015年9月7日月曜日

阿川弘之入門(その2)

阿川弘之さんの『軍艦長門の生涯』を読んでいる。新潮社「阿川弘之全集」の第七巻と第八巻、それぞれ620頁ほどあるが小説とされている。
長門は戦艦であり、大正9(1920)年呉造船工廠で生まれた。阿川さんは広島生まれで生まれ年も長門と同じの元海軍士官だったことからこのフネを題材に取り上げたようだ。長門は昭和17(1942)年に大和にゆずるまで聯合艦隊の旗艦であった。
開戦後就役した大和武蔵を加へて、基準排水量で総計約48万トンの戦艦群は、長門を除いて終戦時までにすべて、沈められるか自沈するか、アメリカの飛行機にやられて海底に大破着座してしまった。「思ひもよらず我一人」といふ古い陸軍の軍歌のやうに、12隻中たった一隻、長門だけが不思議に命永らへて敗戦を迎へた。昭和20年の8月15日、長門はボイラーの火を消し、あはれな姿で母港横須賀の小海岸壁に繋留中であったが、ともかく帝国軍艦籍に在る軍艦として生きてゐた。
なまじっか生き残ったばかりに、長門は敗戦の翌年、ビキニへ連れて行かれて、アメリカの原爆実験の標的艦としてその生涯を閉じる。世界最大最強の戦艦として生れ、長く聯合艦隊の旗艦をつとめた「日本の誇り」は、今も中部太平洋の環礁の中に眠ってゐる。
阿川さん自身は暗号解読の特務士官でフネには乗らなかったが、長門に対しては多分に郷愁に似た感情を持っていた風に感じられる。作品は長門の履歴だけにとどまらず、造船から最期まで関係した人々を語り、事績を伝えて自ずから時代の風潮と移り変わりを現出して生きた歴史になっている。
著者の語り口は思想的には右せず左せず中庸を往くものであるが、その自然な姿勢のうちにも保守リベラルの色合いが滲み出る。旧海軍は英国を模範にしたといわれるが、阿川さんの文章も人間味豊かにユーモア精神も言葉の端々に見られる。 

日本の造船界の至宝とよばれた平賀譲博士は晩年東京大学の総長をつとめた。昭和17年9月の繰上げ卒業式は時の総理大臣東條英機と平賀総長の二人が対照的な祝辞を述べた。阿川さんもそれを聞いた一人だが平賀さんの「おめでとう」の言葉のほかは何もおぼえていないと正直に書いている。全文を記録した奇特な学生がいて後日雑誌に発表されたのを著者は引用しているが、総長の告辞はあきらかに年限短縮を強行した東條一派を非難する内容であった。

平賀博士の名前は譲であるが、「ニクロム線」のあだ名があったと紹介している。弱々しそうに見えて、抵抗にあうと灼熱するという意味である。海軍省や軍令部では、みんなが「あれは、平賀譲じゃなくて平賀不譲だ」と言っていたそうで、その他逸話に事欠かない人物であったらしい。

総排水トンは建造時32,700トン、最高速力26ノットの長門は建造費に4,390万円かかっている。著者は仮にいまの物価が当時の2千倍とすれば880億円となると計算する。大正9年の国家予算歳入額は13億円あまりである。その頃は戦艦16隻からなる八八艦隊の計画が続いていたが翌年のワシントン会議を機に海軍大臣加藤友三郎は廃案にした。金を借りようとしても相手はアメリカしかないのではどうしようもないということだったろう。また、長門の燃料設計は石炭と重油の併用であった。世界の趨勢は重油専焼になっていたが、重油のない日本は出来なかった。これもアメリカから買ってくるのである。対米戦争などとは笑止の沙汰にちがいなかった。このなけなしの油を使って長門が一昼夜全速力で走ると65,000円かかったという。今に換算すれば1億3千万円、これでは演習もままならないわけであった。まだ、第七巻までしか読んでいないが、建造から運用までの人事や出来事についての逸事逸話を追えばきりがない。私の興味を引いた一事をここに記しておくことにする。

御紋章と軍艦旗
大正9(1920)年11月に完成した軍艦長門は試運転も終わって25日に工廠の手を離れて海軍省に引き渡された。艦尾には新しい軍艦旗が上がった。
ここで阿川さんは説明してくれる。軍艦旗は陸軍の聯隊旗と少し性質がちがう。一種の備品だからよごれたら新しいのと取りかえると。
日の丸は明治3年にそれまでの船じるしが国旗に決まったが、同時に軍艦旗でもあった。明治22年10月に十六本の旭光をそなえた軍艦旗が国旗とは別に制定された。

カッター一隻でも、軍艦旗をかかげて他国の港へ入れば、日本領土の延長とみなされるのが国際法上の慣行であるから、海軍の軍人はむろん、軍艦旗に対しては礼をつくした。艦の碇泊中は、朝八時に信号兵のラッパ「君が代」吹奏、総員敬礼のうちに軍艦旗掲揚がおこなはれ、日没と同時に降下する。戦争になったら、戦闘中マストにかかげられて戦闘旗となる。 しかし、むやみと神聖視することはなかった。
陸軍の聯隊旗は、陛下から賜はったもので、平素桐の箱にをさめてうやうやしく隊内に安置してある。湿気と虫食ひで長年の間にぼろぼろになり、たいてい房しか残ってゐない。いざの時、陸軍の兵隊は、この房だけの軍旗を、死守しなくてはならなったが、海軍における軍艦旗の扱ひ方はかなりちがってゐる。アメリカ海軍では、乗艦退艦の際、エンサンに向かって敬礼するのが礼儀だが、日本の海軍ではそれもやらなかった。
 士官の腰の短剣についても同じような感覚が存在した。「あの短剣は何に使ふのですか?」 と聞かれると、海軍士官はよく、「リンゴの皮をむくんです」と答へたものである。人の短剣にふれたとかふれないとかで、海軍士官がまなじりをつり上げたなどという話は聞いたことがないし、軍艦旗を死守して戦死したといふ「美談」も聞かない。
大体、海軍士官といへば短剣をつているものと一般には思はれてゐるが、それは外出や儀式の時だけで、ふだんは丸腰であった。磁気コンパスが狂ふから、剣をぶら下げて艦橋に上るのは厳禁になっている。
「海軍の武器は大砲や魚雷なのに、短剣を磨いてゐるアホがあるか」 といふので、中は竹ミツといふ士官もゐたといふ。
艦首の御紋章も同様である。長門のへさきには、十六花弁をきざんだ木の上に金箔をかぶせた、直径1.2メートルの御紋章がついてゐたが、これを特別神聖視する人はゐなかった。フネが大破擱座したり、浅いところに沈没した場合は、できれば御紋章を取りはずせといふ程度である。軍帽の徽章に対する敬意を、さう大きく上まはるものではない。
昭和18年のキスカ撤退作戦の時、陸軍は皇室の御紋の刻印された小銃をすてて帰ることに強い抵抗を示したが、重いものは一切困るという理由で、撤収艦隊はこれをすべて海中に投棄させた。陸軍北海守備隊の司令官峯木十一郎少将は、のちに大本営に出頭して、富永陸軍次官から、「もってのほかのことだ」と、ひどく叱られたそうである。
海軍では、御紋章も軍艦旗も、しかるべき場所にきちんとしてあればいいので、かざりものは要するにかざりものなのであった。もっとも大事に取扱はれたのは御真影で、これだけは危急の時、主計長が命がけで安全を守ることになっていた。
話はとぶが、大岡昇平さんは35歳にもなってから招集されてフィリッピンに送られた。山の奥深く逃げこむだけの毎日に飢えと疲労とマラリアの身体には明治38年式の三八銃が重くて仕方がない。十分な武器もない部隊で暗号手だった大岡一等兵には壊れた銃があてがわれていた。暗号手は撃つ必要がないからという理屈らしい。撃てない銃など重いだけだから捨てたいのだが、捨てるには銃身に刻まれた菊の御紋章を削り取らなくてはならない。違反すれば懲罰が待っている。

こんな話を記憶している私はあるとき南海の底深く沈んでいる旧帝国海軍の軍艦の写真をみた。なんと菊の御紋が付いたままだ。フネが沈むときに紋章を削り取れとはさすがに軍でも言えなかったのだろうな、という程度に理解していたが阿川さんの説明で疑問は氷解した。それにしても天皇とか皇室とか、自分も皇国史観と呼ばれる歴史教育を受けてきた世代であるが、なんという厄介な重石が日本人の上にのしかかっていた、いやそれどころか、いまもって始末に困っていることかと思わざるをえない。すこしずつ薄紙を剥ぐように社会の理念から剥がれてきた感じはするけれど。私人としての皇室に生まれた方々は気の毒としか思えない。
なお、ビキニ環礁に連れて行かれるときの長門の艦首から御紋章が取り去られている写真がネット上に見ることが出来た。誰がこのような配慮をしたのか、知りたいことがまた増えた。

『軍艦長門の生涯』は昭和47年8月5日から昭和50年2月26日までサンケイ新聞夕刊に連載された。単行本は昭和50年12月新潮社より刊行された。
『阿川弘之全集』第7巻に収録されているのは昭和10年頃までの記述であるため、時代はかなりきな臭くはなっているが、まだ平時の話題が多かった。
『軍艦長門の生涯』は小説とされてはいるが、記録文学である。第8巻末に大量の参照文献があげられているのは当然のことかも知れないが、著者の真摯な姿勢がうかがわれる。(2015/9)
 


2015年8月25日火曜日

阿川弘之入門

8月3日阿川弘之さんが亡くなった。94歳。志賀直哉のお弟子さんで師匠の伝記『志賀直哉』を書いている。文章は旧仮名遣いを用いて名文であるとされている。私は昔「暗夜行路」を読んだような気がするが、話が暗いうえに面白いとは思えず放り出したように思う。こちらが若かったせいもあるだろう。志賀直哉は戦後、日本の国語をフランス語にしたほうがよいと言ったそうで、なんと幼稚なことを言う方だろうと少し呆れた。このことは後に撤回されている。その方のお弟子さんというので、阿川さんは読まず嫌いだった。けれども「山本五十六」「米内光政」などの評判が高いのは気になっていた。それがお亡くなりになったと聞くと、やはり一度は目を通さなければいけないように思って少し読んでみることにした。

「自選紀行集」「春風落月」
まず軽い読み物からと思ってこの2冊を借りてきた。ここで大変な乗り物好きだったと知った。鉄道、舟、飛行機、自動車なんでも来いみたいな感じで、鉄道は百間先生の後継者を自負し、時刻表を読む趣味もプロ級だ。プロ級というのは宮脇俊三さんが頭にあるからだが、宮脇さんの本職は作家生活になる以前は中央公論社の編集長で常務取締役だったから厳密には時刻表のプロではない。阿川さんも趣味を通じて親交があったようだ。
「自選」とあるだけにどの紀行文も面白いものだった。なかでも「アガワ峡谷紅葉旅行」は、はしなくも阿川家のルーツ探しの様相も示して私には興味津々だった。

アガワ峡谷はカナダのオンタリオ州だが、景色もさることながら「AGAWA」へ行きたい一心で、特別に頼んで命がけで行ってきた話。観光列車から切り離された貨物用の車両で行き、熊に食われなければ帰り便に旗を振って合図して乗せてもらえと言われたという。電話帳にAGAWA姓を8軒発見、英語の達者なご子息に言いつけて物好きにもその一つに電話する。その地のAGAWAはすべて先住民で、はるかな昔祖先が地続きだったべーリング海を越えて来たとの伝承を聞き出した。姓の持つ意味は川の屈曲する処だとも。帰宅後、漢和大辞典で「阿」を調べると「川の屈曲するところ」と出ていたと書く。また本籍のある山口県には阿川の地に阿川神社もあることを教えられた。こうなると私の空想癖が頭をもたげて肝心の読書の妨げになって困った。ご子息尚之さんが留学初年の頃のお話だつた。そのほか「ドナウ源流をたずねて」は佐和子さんをナヴィゲーターにしての冒険ドライブ旅行、アウトバーンを170キロでとばす阿川氏を想像するのはちょっと難しいことだった。このほか豪華船でのクルージングでは、とかくエピソードの多い斉藤茂吉夫人やら狐狸庵先生、マンボウさんと組んだ3人組のお笑い道中など謹厳な大作家を想像しそうな読者にとっては愉快な文章が続いていた。(2001年、JTB刊)



いっぽうの「春風落月」はゆったりとした空気が全頁に流れる随筆集。ここでは名にし負う著者の文章が堪能出来た。私の興味から強く記憶に残ったのは日本語の使い方の問題で、「立ち上げる」を例に引いて自動詞と他動詞をごちゃ混ぜにしていると大層ご立腹の様子だった。きたない言葉であるとあったが、いまやパソコン関係の記事には氾濫している。たしかに手元の広辞苑や新明解国語には「立ち上がる」はあっても「立ち上げる」はない。文章論では佐和子さんの初期の文章修業の教師としてなかなか厳しそうな様子がうかがえた。(2002年、講談社刊)


「雲の墓標」「春の城」
阿川さんは東大国文科卒、学徒出陣の被害者だ。昭和17年9月に繰り上げ卒業で海軍に入る。所定の教育課程を経て、翌年少尉に任官して軍令部に配属され暗号解読などに従事した。興味半分で受講したことのある中国語が生きたのだそうだ。
上の2冊で当たりをつけた感触が良かったので少し追っかけファンになりかけて長い小説を読んでみた。ここにあげた作品が二つとも載っている『自選作品集 1』(新潮社 昭和52年)を選んだ。

「雲の墓標」は広島高等学校同期生から譲られた特攻要員の日記を題材にした小説。小説も日記の体裁にしてあるがフィクションが混在している。本人と親しい友人たちを中心に同期卒業の若者の身体と精神が軍隊でどのように造られてゆくか、抑えた筆致で静かに語られる。昭和18年12月の海兵団入団から始まり昭和20年7月の出撃直前の朝に書く両親と友人宛の遺書でおわる。末尾に本人の友人が復員後に本人の遺族である両親宛に書いた手紙を載せる。詩作が添えられているが、日記を譲られた同窓生の作品、著者自身には詩作の才能がないと後記している。題名「雲の墓標」は出撃直前に書かれた友人宛の遺書から取られている。               
出水市の特攻慰霊碑
雲こそ吾が墓標/落暉よ/碑銘をかざれ

後年出水を訪ねたときには元の航空隊はゴルフ場に変わっていて、はずれにこの句を彫った慰霊碑があったそうである(作品後記より)。
ついでながら同後記にあったエピソード。執筆前に出水を訪れた際に急行列車の中にこの大切な日記の一冊を置き忘れたことがあった。気を鎮めて考えた挙句にこの急行の折り返し列車を確かめて八代の駅で捕まえた。列車ボーイに聞くと、「ありましたよ、とっておきました」と返してくれた。汽車のダイヤに興味を持っていることの一得と書いてあった。

さて、「雲の墓標」はフィクションが混じるとはいえ、現実の日記を母体としていることで実録といってもよいだろう。国文科で万葉集を読んでいた学徒が無理やり学問や恩師から引き離され特別攻撃隊という戦闘要員に育てられてゆくのは悲劇である。これは死ぬための教育訓練なのだ。練習機を赤とんぼと呼んでいたのは子供の頃から知っているが、艦攻、とか艦爆とかの用語は出てきても適当に想像して読み進めた。海兵出身と差別されて予備学生は何かといじめられるということも頻りに出てくる。これでは死ぬ訓練も大変だと嫌でも思わされるが、著者の筆致は冷静そのもの。日記自体がそれだけ淡々と書かれていたということだろう。特攻機は「ワレ突入ス」の電信を最後に目標に突入してゆくが、たいていは打電直後に撃ち落とされて海に沈んだと私どもは聞いている。そういう場面は作品には出てこないけれども、そういうことが必至であると知って読んでいる気分は誠にむなしいものがある。全編を通じて若者の苦悩や覚悟など様々な形で出てくるが、読み終わっての感想はみんなマジメだったのだなぁという感嘆が入る。「本分を尽くす」とはいまどき忘れられた言葉だが、思わず脳裏にひらめいた。同時に「あはれ」という言葉も湧いてきた。登場する若者たちにはこういう言葉がピッタリだと思う。
(「新潮」昭和30年1月号~12月号、単行本 昭和31年4月、新潮社刊)


「春の城」

一般に戦後書かれた軍隊生活の様子などは、それまでの皇軍万歳一辺倒の風潮の裏返しのような作品が多く、「阿諛便乗が正義の顔をしたと同じやうに、吐け場を見出した怨念が思想のお面をかぶって通ってゐる。これは違ふと思った」(作品後記より)。ならば本当のことを書いてやろうと5年がかりで書き終えた作品だそうだ。著者最初の長編、三度に分けて雑誌に発表された。題名は杜甫の詩をかりたそうだ。という意味は調べてみて杜甫の「春望」であろうと推察する。8世紀、安禄山に敗れた唐の都、長安の廃墟の眺めである。
国破山河在 国破れて山河あり
城春草木深 城春にして草木深し
 (以下略)
著者の身代わり小畑耕二が主人公で自伝的要素が濃い。広島に両親がいる東京の大学生、小説家志望で文学部に籍がある。広島高等学校の教師の感化で国文科を選んではみたが講義には気が乗らない。郷里の年上の友人、伊吹の妹と親しいが将来を決めているわけでもない。何か茫漠とした気分の日々に戦時の社会的な予定が色々と迫ってくる。やがて徴兵検査があり、大学生の繰上げ卒業制度が発表され、文科生にも海軍士官候補生になる道が開ける。この時代、昔からの日本の風習で、年頃の子女のある家庭では家の跡取りとか嫁入りとかが大きな問題になり、親も子どもも頭を痛めるが、戦時でもそれは同じであった。しかし、やがて戦場に出てゆく身としては内心は複雑にならざるをえない。こんな背景事情を考えながら読んでゆくと、航空隊で事故死の同僚を荼毘に付すとき、生まれたばかりの乳飲み子を抱いた若い母親が故人を訪ねてきたりする。庶民の生活が平時から戦時に移り、描かれる場面も家庭や軍隊内の生活、家族、上官、下士官、空襲、戦場、沈没、闇の海上などと変転する。マリアナ沖海戦、原爆投下。それぞれの場にそれぞれの人生があった。人間の物語の積み重ねが歴史になる。こうして読んだ歴史はよく理解できて身につく。読んだ人の心のひだに潜み思想のDNAになってゆくと思う。

作品の発表順は次のようになっている。
「新潮」昭和24年11月号、「別冊文藝春秋」昭和26年7月第22号、
「新潮」昭和26年12月号、
単行本『春の城』昭和27年7月、新潮社
昭和27年4月までは連合軍による占領期間である。なんでもが自由になったはずが、郵便は検閲され、作品発表には種々制限がかかった。吉田満『戦艦大和ノ最期』は占領軍とその協力者たち(粕谷一希氏のことば)によって「軍国主義を鼓吹するもの」と断定されて掲載した雑誌「創元」は発売禁止になった。阿川さんの作品は中庸を往くその穏やかな文章のために検閲にかからなかったのかもしれない。どちらも同時代の戦争の真実を語った文学である。

第3章だったかに大陸の漢口に赴任した耕二が狂暴になるというくだりがある。内地の軍令部で暗号解読の小グループをまとめていたのが、一転230人ほどの集団を率いる立場に変わったからだ。怠けるやつ、狡く立ちまわるやつ、上から下までそれこそ阿諛便乗の輩がいっぱいいるのが軍隊だろう。著者は短気で瞬間湯沸し器のあだ名を持つ人ではあるがそれは親しみを持つ周囲が言うことで、本質は真っ直ぐな人だ、曲がったことは嫌い。下士官から兵隊からてんで勝手な連中を統率するのは、全員の命がかかるだけにときには狂暴にもなろうというものだ。軍隊の宿命のような気もする。小説ではなく生身の阿川さんは当時辛かっただろうとお察しする。
「春の城」も「雲の墓標」と並んで見事な作品だと思う。私の阿川さん追っかけは続く気配がする。(2015/8)