2021年12月30日木曜日

年末に想うー-アルキメデスに閃いたこと

アルキメデスが「ユーリカ!」と叫んで浴場から裸で跳びだした逸話は、明示はされていないけれども、純金の冠の成分を確かめる方法が主題だった。
金の冠の形は、研究者のドレクセル大学ロレス教授によれば古代ギリシャのリース(英語:wreath)だという。インターネットで "The gold of Macedon" を検索してその画像サイトを見ると、おびただしい数の発掘品が揃っている。冠は leaf crown とか wreathとか幾種類かの名で呼ばれているが、どれも実に繊細で複雑な形をもつ。
冠を壊すことなく成分を調べるために体積を知りたいアルキメデスはうまい手立てが思いつかない。浴場で湯につかった途端、溢れる湯を見て、「あ、これだ」とひらめいたにちがいない。水ならばどんなに複雑な形であっても隅々までゆきわたるから、水に浸した物体が排除した水の量を調べれば体積が分かる。水に漬ければいいのだ。アルキメデスにひらめいたのは、こういうことだったろうと、わたしは確信している。
ものの重さ、体積、密度、比重などの関係をアルキメデスはすでに知っていたと思う。重さだけは王が細工師に預けた純金と同じだから自明であるが、体積が分からない。この入り組んだ形の細工物の体積をどうやって測ろうか、彼は考えあぐねていたに違いない。だから湯が溢れたときにアッと思ったのだ。
いま手元に、いわゆる「アルキメデスの原理」について二人の物理学者の表現がある。 
「彼が見つけたのは、湯船から溢れ出た湯の量(体積)は湯船につかった体の体積に等しいということだった」とは池内了氏の文である。酒井邦嘉氏は「空中と水中で量った物体の『重量差』が、物体と同じ体積の水の重量分だということに気づいたのだ」と書く。どちらの文もはじめのうちは私には納得できなかった。なんでそんな事がわかるのよ、という気持ちであった。テッサロニキ博物館の見事な金冠の数々を眺めながら、物理学の先生の説明と見比べていても虚しく湯ならぬ時間が流れるだけだ。ふと思いついて小学生の理科向けのサイトにあたってみた。
石ころの体積を量ってみようとの課題と説明の図が出ている。一目瞭然、そうか、そうか、これがわたしの「ユーリカ」だった。水が「溢れる」ことは「増える」ことだった。水槽に入れた水の中に石ころを沈めたとき、石ころと同じ体積の水の量が追い出されるのだ。水槽の縁が高ければ追い出された水は溢れないで水位が上がるだけである。
石ころを水に入れて体積を知る問題(文末URL参照)

 石ころの体積を求める問題は小学5年生の学習にあるようで、それがなかなか理解されない   らしい。そうだろうな、この問題は考えているだけでは納得しにくい。体験してみて自然の 法則を受け入れるしかない。筆者のわたしも5年生並みなのだということがよく分かった。
さらに、「空中で量った重量を、その重量差で割ることで比重が分かる」と、酒井先生はおかしなことを書いている、と思った。ここの重量差は先の文と同じように括弧付きが本来だろうが、「その」をつけることで括弧を省略したようだ。わたしは自分の言葉に置きなおして考えてやっと結論が出た。分かってみれば、石ころの図で全部説明ができている。酒井氏の文は表現が個性的なのだと思う。
冠を水に漬ければ難題は解決するとアルキメデスは考えた、とは、どこにも書き残されていない。水につけて排水量を比較する考案は紀元前1世紀のローマの建築家が書いている。これはロレス教授が披露していて、水量が微妙すぎて実際的でないとしている。アルキメデスをよく研究していたガリレオが述べているように、アルキメデスが研究した中に静水中の物体についての議論と梃子の議論がある。ロレス教授は、天秤秤で純金塊と冠を均衡させたのを水に漬けて、純金の方に天秤が傾くことで簡単に解決すると立論している。ブリタニカ百科事典でのこの逸話の扱いを調べてみたが、同じことが書いてあった。
一般的に逸話には事実が混じっているにせよ、時々の人々の楽しみにつくられている。冠の話は自然の法則であったり、原理が導かれる基本になったりする事柄が含まれていて興味深い。物体が静水の中で重さが変わることなど、風呂場での経験は豊富であっても、いまだにわたしは腑に落ちたとは言えない。「アルキメデスの原理」と呼ばれる事柄はいくつかあるのだろうけれども、いまここで勉強したつもりの水中の物体に関しても、たとえば船の重さ、排水トンをどうやって測定するのか、聞かされても芯からは信じられない。先だってスエズ運河で座礁した日本のコンテナ船の写真をみても、つくづくと、よくも平気で運航されているものだと疑う眼しかわたしにはないみたいだ。それはそれとして、お風呂での出来事はこれくらいにして、いつもの読書に戻ろう。ようやくのことに長く停滞していたのが進みそうだ。それにしてもアタマの弱くなったことよ。まもなく、またひとつ歳をとる。
余談。「Yahoo!知恵袋」でみた。「…水槽に石を入れたら深さが5cmふえた。ふえた水の体積は何cm³ですか。」の答えを教えてくださいというのがあって、回答者は「石が押し退けた水の分だけ、水かさが増えたのですから」として、水槽のタテxヨコx5㎝で答えたあとに、ほんとは増えたのではないから、答えは「ふえた水はありません」または「0」かもしれませんね、と皮肉った。お礼の言葉に「息子にも教えてやりましょう」と書いてあった。親も大変なんだね。
参考にした本:池内 了『物理学の原理と法則』(講談社学術文庫)、
       酒井邦嘉『科学という考え方』(中公新書)
インターネット:https://jukensansuu.com/mizuniireru.html、
        "Archimedes Home Page"、"The gold of Macedon"など。(2021/12)


 

2021年12月10日金曜日

脳とことば 気まぐれべんきょう

酒井邦嘉氏の名を知ったのは、「知は力なり」と題した朝日カルチャーセンターへの寄稿文だった(朝日朝刊2021年11月8日)。東京大教授言語脳科学の肩書がついている。物理学科に入って宇宙へ、そして脳へと関心が移った結果のご専門だという。アメリカはマサチューセッツ工科大学での言語学者ノーム・チョムスキー教授との出会いが現在の研究の基となっているそうだ。「ことばの研究」といえば文系の学問のように響くが、言語学は自然科学である。ことばは音声から始まる。音声は音であり振動なのだから物理学の領分だ。物理学は自然の法則を探る学問であり、人間も自然の一部であるからには言語学は自然科学なのである。

チョムスキーといえば「普遍文法」あるいは「生成文法」の代名詞のような人物である。言語は生得的である、つまり生まれながらに獲得するというのがその主張の基礎にある。幼児が言葉を話すようになる過程を親となった経験のある人はみな見ているはずだ。カタコトをしゃべったと言って、カワイイと笑い転げるだけでは人間の大事を見逃していることになる。ことばを脳の構造と結びつけて、話すことができる様子を探究するのが脳言語学だ。昔流の文系とか理系とかを分ける垣根を超える学問である。

脳について素人は普通アタマがいいとか悪いとか言い、最近では認知症など理解や記憶の装置として考える。頭が痛いというときも果たして脳のどこが痛いのか。その内部はどうなっているのか知る人は少ない。

『脳の言語地図』より

本を読むときの脳の働きについて酒井教授が説明してくれる。活字は視覚的な刺激として与えられ、視神経を通じて脳の「視覚野」に入る。視覚野は大脳皮質の後ろの後頭部にあり、網膜に映った外界を再現するために特化した部分である。活字は脳に対する豊富な入力ではあるが、眼は一度にたくさんの情報を受け取ってはいない。両眼を動かして眼球の中心でとらえた活字しか読むことができない。黙読しているときは、音声化できる活字はいったん脳の中だけの「音」に変えられ、記憶との照合によって自動的に単語やテニヲハなどの文法要素が検索される。検索された情報は、さらに単語の意味や、文を作る文法を分析するため「言語野」へと送られる。そこで初めて「読む」という行為が確かに言語と結びつくのである。「言語野」は少なくとも4つの領域に分かれていると教授は考えている。その場所を脳表上に示したものが脳の「言語地図」だ(図参照)。なお、耳で音声を聞く場合には聴覚的な刺激は聴神経を通じて脳の「聴覚野」に入る。聴覚野は大脳皮質の側面下側の側頭葉にある。視覚野と聴覚野とから言語は脳に入るが、その先はどちらも言語野に合流する。

わたくしたちが外界から受け取る情報のうち活字、音声、映像で情報の量を比べると映像が一番情報量が多い。つまり見てわかる部分がほとんどである。活字は逆に情報量が一番少ない。読み直し、考え直してわかるという手順が必要な場合が多い。その上でわたくしたちは想像で結論したりする。この「想像」によって欠落している情報を埋める作業を経て「わかる」状態に至る。この「想像力」とは、平たく言えば、「自分の言葉で考える」ということだと説明される。 

学校では国語の時間に音読させることが多い。スラスラ読める人は文や語句の区切りなどを見分けて、聞いた人もよく分かるように読む。漢字が読めなくてつっかえ、かなの切れ目が分からなくてつっかえする読み方では聞き手どころか自分もわかっていない証拠である。長期政権を誇る元総理の読み方は、妙なところでプッツンと切れることがよくあった。これは自分自身が読めていない証拠だろう。官僚に書かせた答弁書を読んで「ここまでが大臣のお話です」と注書きまで読んでしまった代議士がいた。おおかたの政治家が、普段本を読んでいないことがよくわかる。

黙読であっても自分の言葉にして読めなくては文意の理解はできない。酒井氏は次に出てくる言葉が予想できる先読み能力も大切で、これは脳の働きだと説明している。想像力は創造力でもある。酒井氏の著書『脳を創る読書』は読書の大切さを説いている。

科学の協同によって脳の内部を診る技術が進んだ結果、アタマの中で脳がしていることがかなり分かってきた。MRIといえば医療診断装置である。MRIによる診断を磁気共鳴画像法という。それに機能的を表すFの小文字がついてfMRIという検査方法ができている。これでMRI装置を利用して脳の活動状態を、領野ごとに見分けられるようになった。Wikipediaの解説が刺激的だ。100年以上も前から脳の血流と神経活動の関係が知られていた、と書かれている。100年もの間、世間の人はちっとも知らなかった。fMRIというのは、脳や脊髄の活動に関連した血流動態反応を視覚化する方法の一つであると書かれてある。診断ではなく研究の方法である。

酒井教授はこの新しい方法を使って言語に関して脳のどの領野が活動するかを研究されている。脳の状態が見ることができないうちは、チョムスキー教授の言語生成説は誰も立証することができなかった。いまでは脳の領域に言語野という中枢が存在していて、文法の正誤をも判断する機能も備えていることが分かってきたのである。チョムスキーとの出会いがあり、fMRIの出現があり…と、酒井教授はまことに強運の人だと思う。

教授は駒場時代に進路に迷っていたころ、寺田寅彦の言葉で迷いが吹っ切れたと話している。

学生の時に接した寺田寅彦の次の言葉は、私の迷いを見事に払拭してくれました。

「サイエンスは一つのものです。物理学をやるにしても、他の多くの部門の知識が必要です。自分の専門以外のことをちっとも知らなかったために、回り道をしたりして、つまらぬ損をすることは少なくありません。けっしてフィールドを狭くしてはいけません」(「進学の決定論 -物理から脳、そして言語へ- 」)(http://park.itc.utokyo.ac.jp/agc/news/46/sakai.html )

酒井教授のこの文章には一瞬とまどう。えっ!学生のときに寺田寅彦に接したの !? まさか…。これが日本語なのだ。だが、ここは講演を文字化した文であり、もとは音声による言葉だから「接した」のは「寺田寅彦の次の言葉」だと聞き手は理解できる。これが脳の仕業なのだ。

その酒井先生が説明によく提示する例文には、「みにくいあひるの子」とか「かっこいいサカイセンセイのじてんしゃ」などがある。これらはあいまい文であるけれども読んだ人や聞いた人が文の意味を取り違えることは少ない。文脈だとか抑揚だとかで、その場にふさわしい解釈をする。それは脳が文の構造を判断する働きをするからだと説明される。いわば本能である。

「みにくいあひるの子」を例にして、AIによる翻訳はまだまだ実用に遠いことを書いたwebへの投稿を見た。「みにくい」が 英語では hard to see になるとあった。google翻訳を試すと、たしかにそうなった。「みにくいあひるの子」と入力しても何故かそのままでは受け付けない。たぶん、かな文字の読み分けができないためだろう。「みにくい」を「醜い」と表記すると、uglyと返してきた。

酒井教授は、形容詞「みにくい」が修飾するのは「あひる」か「あひるの子」かという構文解釈の課題では、正解は後者で、AI論議の場では、ただしい英訳は ”The ugly duckling” だと話している(https://www.sakai-lab.jp/media/20201130-090519-465.pdf)。

構文についての問題はチョムスキーの『統辞構造論』(1957)を借りての酒井教授の例文であるが、脳が解釈して正しい構文を導く例として使われる。提示した図像は左脳の言語野に存在する単語、文法、音韻、読解の各分野を示しているが、これらが相互に情報をやりとりした結果が人間の発話や文に現れる。脳に情報が伝わったときにどの分野が活動するか、fMRI装置を用いて神経を伝わる電流に脳の各部分に赤や青の色を表示させて判定することができる。別の実験では脳が文法(ことばの並び方)の正誤や文の意味の有無判定をする機能を持っていることも判明している。これはチョムスキーが「統語論」と「意味論」は別個であって関係しないとする主張を補強しているのだそうである。文法は自然の産物であって生得的に脳に備わっているが、「意味」は人間が作り出した産物である。どの言語が母語であろうとも、土台となる基本的な言語システムは変わらないのだそうだ。

クレオールという音葉の種類がある。植民地などで異民族の間にかわされる共通語をさすが、その言語ができ上がってくる過程は子どもが始まりだそうだ。クレオールのもとはラテン語で「創造する」との意味がある。アフリカ各地から集められた奴隷が働かされたカリブ海域のフランス領植民地をさしてクレオールと呼んだ。奴隷は雇い主のヨーロッパ人の言葉を理解できないし、奴隷相互も生まれ故郷が別々で互いの言語も通じない。家庭を持たない奴隷集団に生まれた子どもは大人のやり取りする不完全な共通言語(ピジン言語)で育つが、ピジン語には仕事に関する言葉だけで、人間生活全般におよぶ語彙も文法もない。そういう中で子どもたちは共通の言葉の語彙と文法を身につけて育つ。子供の成長と同じくしてクレオール言語も発達する。こうしてできあがるのが各種のクレオール言語で、スペイン語系やフランス語系などの広がりをもつ。参照した西谷修氏の説明には「興味深いことに、語彙はもとになる言語によってそれぞれに違うが(それでも共通語も多い)、文法構造はたいてい似通っており、それが人間の言語形成能力に関して様々な憶測を呼び起こす」とある(『クレオールとは何か』シャモアゾー+コンフィアン著、西谷訳 平凡社 1995年)。ここにはまさにチョムスキーの唱える「普遍文法」が生得的に文法構造を知っている子どもたちによってみちびかれて、クレオール語という自然言語が生成される事実が示されている。

酒井教授が話す興味深い例は手話のクレオール化である。80年代半ばにニカラグァのろう学校の子どもたちが手話を使い始めた。10歳ぐらいの子どもたちが上級生に教えながらジェスチャーをクレオール化する。この能力は小さい子だけが持っていて上級生はできないのだそうである。これも言語生得説の裏付けになる貴重なデータだという。ちなみに日本手話も明治初期に誕生したそうだが、ろう学校で日本語を教えていたところ耳が聞こえない子どもたちは、音声が入ってこないのでジェスチャーをクレオール化して初めて手話が生まれたそうだ。ただ残念なことに、その場には言語学者も脳科学者もいなかったので、その新たな言語誕生の瞬間は記録されなかった。いづれにしても、子どもだけが自然に作られた構造を持ち続けているのが人間の言語であって、大人の考えた言語は自然に合わないと酒井教授はいう。

話がすこし飛ぶが、日本語のテニヲハの使われ方は未だにうまく説明されていない。「お茶が飲みたい」「水がほしい」など、のどをうるおしたい時に自然に出る言葉に現れる「が」はどうしても説明がつかない。文法的には目的語の「お茶」「水」には「を」が使われるべきであるのに、である。「が」と「は」の使い分けも日本語の大学者さんには頭痛の種だ。それが本能だからそうなっているとの説明で済むなら教師はおおいに助かる。学習者は一時は困るだろうが自然言語だからじきに覚えることだろう。やたら肩肘を張るだけの「学説」がなくなるだけ朗報だ。

ここに思いつくままに述べたような研究のためには、相当に広い範囲についての知識が必要であり寅彦の言葉そのままである。言葉の次には心の問題がひかえている。心も脳のうちであり物質的には神経細胞である。心について考える場合にも言葉が使われるはずだ。お互いが気持ちよく言葉が通じ、さらに心も通じたと感じる場面は誰しも経験するところだ。あの感慨はどこからもたらされるのだろうか。酒井教授は既に心に関しても脳言語学の立場からの著述もあるようだが、当方はまだ手も頭もまわりかねる。

(参考記事)○https://www.jsps.go.jp/j-jisedai/data/life/LS030_outline.pdf日本学術振興会 最先端・次世代研究開発支援プログラム「脳は電気的信号を発する無数の神経細胞で形作られたネットワークである。」掲記websiteに明快な図示がある。

○http://web2.chubu-gu.ac.jp/web_labo/mikami/brain/index.html 「脳の世界」 三上研究室、中部学院大学

○https://www.scj.go.jp/omoshiro/kioku2/kioku2_2.html 日本学術会議 おもしろ情報館

参考にした本:酒井邦嘉『脳を創る読書』2011年 実業之日本社     

         同 『脳の言語地図』2009年 明治書院

 (2021/12)

2021年11月16日火曜日

スマホの危険性

 スマホを枕元においてはいけないという記事をネットで見た。電磁波を出す機器だから脳の近くには置かないようにとの警告だ。思い出したが今世紀への変わり目あたりだっただろうか、いまガラケーと呼ばれるケータイの普及と電波中継塔の建設が競合していた頃だった。電磁波の健康への危険がかしましかった。世間並みにケータイを持ってみたものの、生活のアクセサリみたいな感じでいる間に論争が下火になったか、こちらの関心が薄くなったかしてスマホを持つようになってもその危険性については殆ど忘れていた。それが久しぶりに危険だよと言われて、あらためてネット情報を見てみると、絶対に危険だとの情報はまだなくて現在の普及機器にはそれなりの安全性が見込まれているとの情報が多い。我が国ではスマホ普及推進を図る政府(総務省)と業者団体の連携の声が大きいようだ。それに比べて医師たちの発言は目立たない。

通話画面でスピーカーのアイコンが表示される

そんな中でセキュリティ業者のノートンが電磁波対策として、電話するときはへッドホンを使うかハンズフリーにしたほうが良いとしていた。また医師ではなくマッサージ治療を業とする人物が真剣に枕元に置くなと説いている。この人がヘッドホンやイヤホンが聴覚に及ぼす危険性も主張しているのが気になった。これらの意見につられてネット探索のアンテナを電磁波からヘッドホンの弊害の方に向けてみると、ナンと自分が難聴になった原因がストンと腑に落ちた。

補聴器の厄介になってすでに10年以上過ぎているが、そんなに大音響で聴いていたわけでもないヘッドホンが継続的に内耳に作用したことが主因らしいと判断できた。慶応大学医学部の小川 郁(おがわ かおる)教授が説明しているのだ。私が音楽の音程、例えばメロディに異常を感じはじめてアチラコチラの耳鼻科医院を聞き回っている頃、ヘッドホン難聴という用語はなかった。ヘッドホンを大音響で聴くと突発性難聴になるよという程度でしかなかった。それが今や継続して聴くことに問題ありとするように変わっている。

慶応大の小川教授は1時間ほど聴いたら5分以上休むことを提案している。内耳の有毛細胞をいたわリながらヘッドホンを使えということだ。そうすれば有毛細胞も消耗が少なくなるという。私にこういう知識があれば音楽を聞く楽しみももう少しぐらい長く続けられたかもしれない。いま出ているネット情報ではスマホの電話を聞くのにハンズフリー機能を使うよう提案している。これは音響でなく電磁波が耳に近く当たらないようにせよという警告である。たいていのスマホにはハンズフリー機能がついているようだ。Androidでは通話画面でスピーカーアイコンが浮き出るようになっている。スマホになれないうちは、電話がつながると相手の声を聞き逃すまいと耳にスマホを当てで画面を見ないからこの機能に気が付かなかった。電話が作動している間しかアイコンは見えないのだ。運転することをすでにやめていたからハンズフリーが必要とも思わなかった。

スマホには電磁波への近接の危険があり、ヘッドホンやイヤホンには長時間継続聴取の危険があることがわかった。電磁波の問題にはスマホ普及に躍起となっている総務省が大きなページを割いて安全であるかのように発表している。それに比べて聴覚への危険信号は少ない。一般的に聞こえの問題は被害者の声が小さいし社会的認識が足りない。今後は増えることだろう。余談になるが、交通警察にしても認識不足は昔ながらで進歩がない。交通事故の原因には難聴者あるいは難聴を自覚していない人の運転感覚と身体感覚不感症が潜むことを見逃している。

難聴者の私は電話は苦手であるが、スピーカー機能を知ってからは固定電話よりスマホの電話のほうが聞き取りが楽になった。業者のサービス態勢には、故障の場合など電話で応対するのが圧倒的で難聴者には不親切だ。家族や友人などとはメールのほうがありがたい。

スピーカー機能は周囲にまで相手の声が聞こえるのは不都合だとの欠点がある。NTTはスピーカー音を50センチの範囲に制限するよう機能を変えることにして現在申請中との報道があった(11月17日朝日朝刊)。(2021/11)




2021年10月21日木曜日

眼の手術をした話

 眼の手術をした。白内障の手術をしてもいい時期にきてますよと言われた。自覚症状もないしそんな気はないから、そうですかとだけ返事しておいた。そのときはドライアイを診てもらっていただけだったが、次の機会に手術しなければどうなるのか訊ねてみた。見えなくなります、あっさり言われた。放任して見えなくなるのと寿命が尽きるのと、どちらが早いかなど考えたりした。まだ旅立つことにはなりそうもないし、半ば好奇心も手伝って、お願いするとすればどんな段取りになるのか、日を改めて聞くことになった。手術日の設定はかなり先のことだ。コロナのワクチン接種を済ませてからと考えて8月半ばに手術を受けることにした。

ドライアイの診察は次席の女医さん、手術についての一般説明は専任の看護師さん。この医院では男性は院長一人だけ、全部で10人あまりの陣容だ。

説明には立派なパンフレットが準備されていて、知識のない当方の疑問に先回りするような懇切丁寧な解説が絵入りで書かれていた。

手術前から手術当日までの三日間は3種類の薬が処方され、患者は自分で使い分けて点眼しなくてはならない。医師と共同作業の形だ。

同じ眼に2種類以上の点眼には5分の間隔をあけなくてはならず、両眼の場合、3種類それぞれの使い分けはかなり複雑なことになる。院長が患者の眼を直接診るのは手術当日だけで、術前術後とも複数の看護師によって数種の検査機器で読み取った状態を院長が映像とデータで診断する。

この医院は日頃の診察も手術日も来院時間が指定される。コンベアこそないものの全ては流れ作業で多くの患者を手際よくさばいている。手術当日は来院時間の指定があるほか、手術3時間前から2種類の薬を1時間おきに決められた時間に点眼しなくてはならない。最終の点眼が終わると、頭部と全身に手術着を着用させられて待機する。

手術日は週二回午後から、一度に片眼だけ、一人あたりほぼ15分ぐらいで終わる。中には30分かかる患者もある。観察の結果一日に20人ほどが施術されるようだ。終わると厳重に片目を覆う眼帯がつけられて翌日までとれない。翌々日まで3日間は機器検査と院長の診察がある。その後は週一回の検査と院長診察に通う。術後10日間は保護メガネをかけることが強制される。4週目からは間隔が1か月、次は6か月おきになる。術後は自分で3種類の薬を使い分けて1日2~4回を1カ月間、うち1種類は3か月後まで毎日点眼しなくてはならない。

最初の事前説明のときに、あらたに挿入される眼内レンズを希望選択する。単焦点レンズであれば健康保険の適用がある。遠近2重焦点、遠中近3重焦点それぞれのレンズが開発されているが、これらを挿入するのは手術費全額が自費負担になる。私は若い頃からメガネ常用者で、最近は遠近両用レンズやパソコン作業には中近用などいろいろ使っているから、遠用単焦点を選んだ。近距離には別途メガネを使うことになるが、これまで常用者だから負担には感じない。老眼になってからでも乱視もあるし視力も変わるから、眼内レンズでは交換の自由は利かないだろうと判断した。ちなみに手術費用は医院の診療費明細には水晶体再建術121000点とあったから、自己負担割合が1割ならば12,100円だ。 

術後1カ月過ぎるまではメガネは調製しないように言われる。眼の具合が安定しないからだ。メガネなしで外出するのは実に久しぶりだったがほとんど問題ない。ただし、手元や細かい文字は読めない。従来のメガネは遠近用も手元用も、もはや役に立たない。手元の細かい文字などが見えないと、外ではたいして問題なくても家の中では困ることが多い。年をとって巣ごもりが常態だから本が読めないし、新聞も見出しだけで我慢する。パソコンは大画面モニターを繋いでいるし、電子本も拡大できるから問題ない。テレビは見えなきゃ困るというものではない。スマホは文字が見えなくても電子マネーはなんとか使える。しかし、日常生活で不自由なくできることは僅かしかない。

退屈しのぎに自家製DVDで映画を見てみた。難聴だから音楽がだいじな要素になるものは見ない。黒澤明監督の『待ち伏せ』があった。三船敏郎のセリフはいつもどおりでよく聞き取れないが、ストーリーは単純だからそれなりに面白かった。

こんな日常で読み書きなしの2か月が過ぎた。家族のアルバムが嵩張ってきて、いざ店じまいのときに困ると思いつき、スキャンとプリントで整理を思いたったらプリンターに意地悪された。複合機は値段は安くなったが修理費は割高だから、キャノン買替便というのを利用して新しくした。時代はPCよりスマホ優勢だから、新製品は何かにつけスマホに便利に仕向けてある。我流でパソコンとつないで作業しようとしても素直に動かない。やっと自分流に使いやすくなったが、なにか無駄な造りが増えた感じである。今はとにかくこれで時間をつぶしている。

読み書きを休んでいる間にノーベル物理学賞が決まった。ひとりは真鍋淑郎さん、90歳だという。自分と2歳しか違わないので嬉しくなった。好奇心が気象に向いていたのが良かったとのこと。気象というのは物理学では複雑系になるのかな、要素還元主義の時代に寺田寅彦は複雑系を考えていたなどと考えを巡らせていたので、早速なにか関連本を読もうとしても運悪く字が読めない。

実は、手術からひと月過ぎて早々にメガネを誂えた。癖になっているのでメガネがないと自分で自分のような気がしないのだ。遠近用で遠の部分に度が入っていない。近用部分の面積が大きい。これで手元もほぼ困らなくなったが、それでも本を読むには目が疲れる。レンズは眼と合っていても、メガネを耳にかけ、鼻で支え、そのうえ読むときには姿勢と顔の上下の角度がさまざまである。結果として眼とレンズの角度がずれる。解決策は手元専用メガネで補うことだ。かくしてメガネ到来まで今しばらく辛抱の時期が続いている。

そうそう、いつの間にかWindows 11の更新準備ができたとパソコンに通知が入っていた。暇つぶしにいいと思ってダウンロードを始めたが、インストールを含めて2時間近くかかったのでないだろうか。何の問題もなく終わったが、とりあえず開けてみた画面はタスクバーのアイコン群が中央に来たほか目立った変化はない。動かしているうちに少しずつ変わった部分に気がつくが、使う手順もそれなりに変わった。わかってみればアップデートする必要もなさそうに思えるが、素人にはわからない部分でセキュリティが向上したのだろう。無料だというのは実感として当然だ。徒然なるままに綴ってみた近況はこんなところです。(2021/10)



2021年8月10日火曜日

顕微鏡で動く微粒子を見てみたい

 このまえブラウン運動のことをちょっと書いた。動くはずのない花粉が水の中では動くとの偽情報を信じ込んだのは日本人だけでなかったようだ。偽情報を出した誰もが自分で確かめたことがなかったとは、人の話はいい加減なものだと思わされる。

ブログではブラウン氏の原文を読んでみたら…と好学の士に水を向けてみたがどうだったろうか。古い時代の植物学者の報告書は正直あまり面白くはない。やたら植物の学名みたいなのが出てきてそいつは何やらわからない。論文の趣旨は固有の植物に限ったことではないから植物の名は重要ではない。水の中をうごめいていたのが花粉でも花粉から出てきた花粉粒でもなくて、もっと小さな粒だったという話だ。紹介しておいたURLは、ニューヨーク植物園の研究者スティーヴンソン氏が提供された。ブラウンの1828年「植物の花粉に含まれている粒子(原文表記はparticles)について」と1829年「有機物、無機物を通じて遍在する動く分子について」(原文表記:on the general existence of active molecules in organic and inorganic bodies)の顕微鏡観察報告である。二番目のactive moleculesを見れば花粉とは別物であることがわかりそうなもの、と考えるのは偽情報に担がれた過去を知っているものの特権だろうか。

ところが、ブラウン氏が見たものを学生たちといっしょにこの目で見てみたいと考えた先生がおられた。

信州大学素粒子論研究室教授美谷島實教授は『「2005年世界物理年」プロジェクトR. Brownはブラウン運動(花粉に含まれている微粒子の運動)を如何に観察したのか』を立ち上げた。道具立てとしてブラウンが使った顕微鏡を探したが当然日本にはない。原文にバンク社の焦点距離32分の1インチの両凸レンズをはじめ使っていたが、のちにローランド社の小型単式顕微鏡が提供されたとあるので、日本でそのレプリカを製作してもらった。測量図が入手できなかったので論文から想像図を作成したのを同学卒業生の専門家が図面を引いてくれたという。この過程で名前は明かされていないがレーベンフックの顕微鏡と呼ばれるごく初期の顕微鏡を試作した高校の記録がインターネットで見つかるなど、貢献したネットワークは素晴らしい。

レーベンフックの顕微鏡の形状としくみは「NHK for school」が参考になる。次のURLを利用されたい。

(https://www2.nhk.or.jp/school/movie/clip.cgi?das_id=D0005401826_00000)

出来上がった顕微鏡で、はじめに観察したのは身近に咲いていたオオキンケイギクだった。約20㎛の花粉から放出された微粒子のブラウン運動が撮れたとある。ついでブラウンゆかりのホソバノサンジソウを試したところ三角のおむすびのような大きな花粉、約100㎛から動画を撮影したとして、その画像2枚が紹介されている。映像撮影には学内研究室の協力を得ているが、報告者の美谷島氏は物理学教室の教授だ。200年前の論文から材料を探して道具を開発して先人の記録を確認する探求精神は見事だと思う。

映像解説に付記して、なお普通の顕微鏡で3つの頂点から微粒子を放出している瞬間の映像も撮れたと記されているのには、言外に素直な喜びが表れてるようだ。

花粉と微粒子のブラウン運動。5秒間に上の微粒子は、約1μm、下は3μmの移動をしている。

このプロジェクト報告の末尾には多くの参照論文等が列挙されている。筆者はその中の『日経サイエンス』(1998年7月号)の記事を参照してまた一つ勉強させてもらったので追記する。

「先人たちが見たミクロの世界」としてレーベンフックとロバート・ブラウンの逸事が載っている。レーベンフック(1632~1723)はオランダの人、史上初めて顕微鏡を使った人物と書いてあるが、500台以上の初歩的な顕微鏡を自作しては微生物、細胞、細菌などを観察した。ただの布地商人だったこの人を世間は全く信用せず単なるもの好きとして片付けられていた。今日でも彼の単眼顕微鏡では見えなかったはずだとその成果を否定する声があるという。美谷島教授のレポートには彼の顕微鏡の図が載っているが、奇妙な道具で顕微鏡の概念とは大きく違う形をしている。それでも日本の高校ではそれを製作してちゃんと観察しているのだ。『日経サイエンス』の記事では英国のブリアン・J・フォード氏という生物学者が、後年ブラウン氏も同じように世の非難を浴びたと述べている。ここでは外科医としてあるブラウンは「ブラウン運動(水分子の熱運動のせいで,水中の微粒子が細かく動く現象)」を1927年に発表し、その後、細胞の中で粒子が移動する「原形質流動」も観察した。さらに1831年には植物表皮の細胞の中に「細胞核」と名付けることになる構造を発見した。彼にもまた単眼顕微鏡では細胞の中の構造まで見えたはずはないとする中傷を受けている。けれども、フォード氏は二人の先人が使ったような簡単な顕微鏡で生きているバクテリア,細胞核,ブラウン運動が見えるということを発見した。ブラウンの顕微鏡では,細胞核の何百分の一程度の大きさのミトコンドリアさえ見えたという。二人の先人は顕微鏡で見たままを忠実に書き移していると断言している。

ついでに筆者が発見したのは『ナショナル・ジオグラフィック』にもレーベンフックについての記事があることだ。これはなかなか愉快な内容だ。URLを記しておく。

( https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/080400292/)。

(2021/8)


2021年8月1日日曜日

熱運動とブラウン運動--しろうとの物理学メモ

前回宿題にした熱運動という用語について書く。いつも引き合いに出す本、『物理学の原理と法則』池内了著には44ページの圧力の説明に初めて登場する。「液体や気体は原子や分子から成り立っており、それぞれがランダムな熱運動をしている。その熱運動によって原子や分子は互いにぶつかり合っており、運動量のやりとり(速度が大きくなったり小さくなったり)をしている」。

熱運動については、これっきりでほかにはどこにも出てこない。仕方がないから自力で調べ始める。わかってきたのは、この言葉は厳密な定義などではなく、一般的な俗称のように用いられている語彙であるらしい。19世紀以降の観測技術の発達に従って進化した物質の微視的研究の成果によって、物質を構成する分子や原子など粒子の働きが読めてきた。つまりこれら粒子が動き回っていることがわかった。動きが激しいほど温度があがること、物質の姿によって動き方に違いがあるなどの事実が究められた。姿と書いたが、物質の態様であり、気体、液体、固体の三態である。動き回ることで温度が上がるから、その動きを熱運動と呼ぶことになったらしい。動きの激しさを熱という。

水の分子構造モデル:アメブロから拝借した


中学生向けの実験のやり方が書いたサイトがあった(https://resemom.jp/article/2018/07/25/45843.html)。

 [振動で水の温度を上げる]という実験は、魔法瓶に水を1/3ほど入れて周囲と同じ温度にしてから蓋を閉めて振る。1000~1500回ほど振ると温度が上がったことが確かめられる。500回ごとに温度を測ってグラフにする。クラスで交代で振れば楽しくできそうだ。

 [解説]分子をくわしく調べると、常に振動していることがわかります。この振動が「熱」の正体です。また、振動の激しさの度合いが「温度」であり、振動が激しいと「温度が高い」ということになります。

水に振動を加えて温度が上がるのは、加えた振動の一部が水の分子に伝わり、水の分子の運動が激しくなるためです。

熱い水は、冷たい水よりも分子の運動が激しくなっています。そのため、熱い水は分子の間隔も広がっています。物を温めると、少しだけ体積が増えるのはこれが原因なのです。(ここまで上記サイトによる。作者は理科教諭の野田新三氏)

金属をハンマーで叩くことで熱くする実験も紹介されている。いずれも日常的なことで温度変化が確かめられる楽しい学習だ。筆者のように文字で読むしか能のない者にとっては新鮮であるし驚きでもある。探せばほかにも台所の科学とかいろいろな知識が得られるサイトがある。振動が与えられて動きが激しくなるという水の分子について次の説明があった。

水は酸素原子1個と水素原子2個が集まってできた水分子でできている。水分子1個分の大きさは0.38nm(ナノメートル)で目に見えない。https://ameblo.jp/zipang-sauna/entry-10607866755.html

物質の状態変化については大阪教育大学の岡博昭氏のホームページ の中の第90章にくわしい。以下はその要約である。

物質の状態によって分子、原子の運動の様子が変わるのは粒子間に働く力の具合による。

 固体の場合には、粒子の熱運動に比べて粒子間にはたらく引力の方が強くなっている。したがって,粒子はほぼ一定の位置に固定され,その位置で振動している。定位置での原子の振動を熱振動(Thermal vibration)と呼んで熱運動(thermal motion)と区別する。

液体では,熱運動により位置を自由に変えることができる。したがって,流動性がある。しかし,粒子間に働く引力もかなり強いため,液体はほぼ一定の体積を示すことになる。

気体では,粒子の間の距離が大きく,粒子間の引力がほとんど働かない。したがって,粒子が空間を自由に飛び回ることができる。また,体積や形が一定しない。(http://www.osaka-kyoiku.ac.jp/~hiroakio/okaindex.html )

これだけのことをにわか勉強して冒頭の池内さんの記述を読みなおす。「液体や気体は原子や分子から成り立っており、それぞれがランダムな熱運動をしている」と、ちゃんと固体は避けて書いてあることにあらためて気づくのである。


さて、そこでブラウン運動( Brownian motion )のことを書いておこう。ブラウン運動というのは液体中に浮遊する微粒子がランダムに動き回る運動のことをいう。紛らわしいが熱運動のことではなく、その原因になる動きのことだ。結果的に分子や原子の存在を証明することができた重要な発見である。インターネットでは名古屋市科学館の説明が誤解を避けられてよいと思う。

http://www.ncsm.city.nagoya.jp/cgi-bin/visit/exhibition_guide/exhibit.cgi?id=S521&key=%E3%81%AD&keyword=%E7%86%B1%E9%81%8B%E5%8B%95

PDFのダウンロードもできるからURLを書き留めておこう。http://www.ncsm.city.nagoya.jp/exhibit_files/pdf/S521.pdf

1827年、イギリスの植物学者ロバート・ブラウンは、花粉を水のなかに入れて顕微鏡で観察していたところ、花粉粒(pollen grain)から放出された微粒子がたえず細かく不規則に動いていることに気づいた。生命があるから動くと考えたが、無生物の粉末で試しても動いた。ブラウンはついにその理由がわからずに終わったが、微粒子のそういう動きに発見者の名をかぶせてブラウン運動と名付けられた。ブラウンの時代には分子や原子の概念はあったが、その実在は確認されていなかった。

1905年、アインシュタインは、微粒子のまわりにある気体や液体の分子の運動が、ブラウン運動の原因と考え、数学的に解析した。

1908年にフランスのジャン・ペランが、ブラウン運動を観測し、アインシュタンの理論が正しいことを証明した。こうして、原子や分子の存在が広く信じられるようになった。ペランはこの功績で1926年度ノーベル物理学賞を得ている。


ところでこのブラウン運動が日本に紹介される段階で、ロバート・ブラウンが「花粉が水中で動く」ことを発見したかのように伝えられる事態が多く生じた。事実としては花粉も花粉粒も動かない。花粉粒から出た微粒子が動くのだ。ブラウンは微粒子の動きを観察していたのである。

明治時代の物理学の権威であった長岡半太郎氏もブラウン運動を紹介する講演で花粉が動いたことが観察されたと述べたと記録されている(『東京物理学校雑誌』1910年7月号)。誤解した誰もが、花粉粒から出た微粒子が動いたことを花粉が動いたと取り違えたのだった。観察しての間違いではなく、伝聞や早とちりのせいで間違えたのだ。生物の先生は顕微鏡で花粉を覗いて確かめようとして動かないことに随分悩んだらしい。物理の先生は実見するまでもなく花粉が動くと思いこんでしまったようだ。出版界では教育啓蒙の書籍雑誌が一斉に誤った情報を伝えたから問題は重大である。教育関係の執筆に名のある板倉聖宣氏などが事の修正に尽力されている。『思い違いの科学史』(朝日文庫2002年)に詳しい。物理学の人は植物に疎く、湯川秀樹さん以下ノーベル賞級学者も全滅などと書かれている。原文をあたった人も字面は追っても頭では読んでいないということもあっただろう。愉快だけれども深刻な話である。

アインシュタインがブラウン運動を取り上げた論文他二編を発表した1905年から百年を経た2005年、国連総会はこの年を世界物理学年とした。これを記念して、英誌"Nature"が募集した論稿の中にも同じ誤りが多かった模様だ("Nature"2005.Mar.10)。

<投稿者の多くはブラウンがpollen grain を顕微鏡下で観察していたと述べているが間違いだ。ブラウンはpollen grainよりもはるかに小さいおよそ直径500分の1インチほどの微粒子(particles)を観察していたのは明らか>としてDavid M. Wilkinson氏が1828年の原論文を引用している(https://www.nature.com/articles/434137c.pdf )。

前記朝日文庫刊行の後も、海外では同じような誤りが伝承されているらしいことがわかる。日本では改まっただろうか。

上の< >内は筆者の要約であるが、原文にはpollen grain とparticlesが使われている。日本語ではpollenを花粉、pollen grainを花粉粒と使い分けしたり、どちらも花粉とする場合もある。生物、物理ともに専門としない筆者には知識がないが、ブラウン運動を語る際には少なくとも「花粉から出た微粒子が動く」と明確にしたほうがよいのは明らかだ。ブラウンは微妙な動きをするものをparticles、あるいは便宜的にMoleculus とした。現代ではうえの名古屋市科学館の例ではコロイド粒子としている。コロイド粒子とは水に溶けきれずに濁った溶液ができる牛乳や墨汁などがその例だ。ここから先は混乱しそうだからこの辺でやめておく。独学は気をつけなくてはならない。ときには密かに師匠をも疑ってみる必要がありそうだ。

当時のブラウンの原文がPDFでダウンロードできるから好学の士は一読されるのもよいと思う。URLを掲げておく。https://sciweb.nybg.org/science2/pdfs/dws/Brownian.pdf

筆者が俄仕込みの知識で上述のようなことを書くのは僭越なことではあるが、インターネットで関連事項を見ていると現代においても先端工業や医学、具体的には半導体工場の清浄維持、脳科学とコンピュータへの導入計画などミクロな分野では驚くべき発想が実現へと試みられていて決して過去の遺物にとどまっていないことがわかる。研究はすべて数式につながっているが、なんとか読める知識を得たいと夢のようなことを考えるこの頃である。オリンピックは遠い世界の出来事みたいに思える。(2021/8)




 

2021年7月26日月曜日

波は現象である―物理学の言葉の意味

脳みその普段使わない部分をたまに動かそうとしてもなかなか反応しない。先日飛行機が飛ぶ理屈を考えて以来理屈の世界に入ってしまった。物理学の池内了さんを頼ってみたものの、先様は専門家だから易しく話しているおつもりでも当方はすぐにはついていけない。ちょっと待ってもらってはアチラコチラわかりやすい説明を探してはもとに戻ることを繰り返している。インターネットで小学生や中学生向けの解説をさがしたり高校物理のサイトを読む。そのうちに記述の仕方が文芸作品や歴史物などとちがって物理学の説明には日常用語と同じ語彙を使っていても腑に落ちないことがあるのに気がついた。一つの例が音波という語である。

ウイキペディア 「波動」より。

熱運動についての記述に圧力が出てきて、「どこかに圧力の高い部分ができれば、その情報は音波によって伝わる」と書かれてあった。まったく音に関係しない話題であるのになぜ音波が出現するのだろうと不思議だった。不思議は一旦お預けにして読み続けると、「圧力が高い部分ができれば、その情報は音波によって伝わる。それによって周りの部分を圧縮して広がろうとする。すると圧縮された部分の圧力が上がってさらにその周辺部を圧縮する、ということが次々空間をつたわっていく。それが音波である。物質自身が動くのでなく、圧力の高い状態が伝わっていくので波になるのだ。実際には、密度の高い部分と低い部分が交互に連なる疎密波となっている」と説明される(『物理学の原理と法則』講談社学術文庫44ページ)。

この説明は一般的に音が伝わる仕組みについて記述される場合と全く同じであるし、この内容はよく理解できる。熱運動という分子のエネルギーの動きの話の中に音波という無関係の語が現れたから当方は戸惑ったわけである。

いろいろと調べるうちに[音波]という言葉の使い方に狭義と広義があり、自分の知識は狭義のものでしかないことを知った。

ウイキペディアには、「広義では、気体、液体、固体を問わず、弾性体を伝播するあらゆる弾性波の総称をさす。狭義の音波をヒトなどの生物が聴覚器官によって捉えると音として認識する。」とある。音の話でないところに音の漢字を使うからいけない、などと文句は言うべきでない。ここは物理学の用語としてこのように表現すると理解しよう。弾性体とは弾力をもつ物質のことであり、弾性波は弾力を有する波のことだ。弾力は  押せば押し返す力をいう。空気の波や水の波にも弾性がある。

「[周り]の部分を圧縮して広がろうとする」とあるが、その記述の前に「圧力は等方性で[どの方向]にも働く」と抜かりなく説明が入っている。さらにそのまえには、熱運動が[ランダム]に起きていることが述べてある。小さい言葉が用意周到にはめ込まれているのを、シロウトの当方は翫味しないで読み飛ばしている。繰り返し読み直すたびに小さな言葉のうちにもある程度の長さの説明が含まれていることを発見した。文科系の文章ではあまり経験しない読み方の手落ちである。専門学者による物理現象についての説明文では、たとえ素人向けであっても教本であるかぎり正確であるはずだ。実はいつでもそういうふうには言えないことも知ったが、そのことは別の機会に述べる。

ネットで[波」にこだわったらしい説明を見つけた。空気や水などの媒体に圧力が加わった部分の密度を変化させるのは振動である。密度が濃くなった部分と薄い部分が交互に出現して振動が伝わっていく。「物理的な波とは、“振動している何かが空間を伝わっていく現象のこと”を指します。振動とはその場で周期的に動いているものを指しますが、その振動が空間を伝わって遠くまで届く現象を、単なる「振動」と区別して「波動」と呼びます。「波」とは波動の簡単な言い方です。」(https://iec.co.jp/media/corner/hikouki/07)

そうだった、さきの説明では[物質自身が動くのでなく、圧力の高い状態が伝わっていく]とあった。空気や水が動くのではなくて、[状態]が伝わっていくのである。波とか波動とかと聞くと水や海を連想するけれどもそうとは限らない。文字に罪はないけれど漢字のせいだろうか。英語でだってwaveは音であったり水の波であったりするが、もとは手を振ったりするという意味の動詞にあるのではないか。だとすれば波の漢字にサンズイがあるのがいけないとか文句をつけずに、言葉の用法の歴史に少しは敬意を表しておくべきかもしれない。

ところで熱運動って何でした?ということがお預けになっているが、長くなるし話が散漫になるから別の機会に考えることにしよう。

(2021/7)


2021年7月10日土曜日

寺田寅彦の随筆

漱石の『猫』に登場する明治の物理学者、水島寒月さんこと寺田寅彦の実生活は実験物理学の学者であるが、日常目にする自然の現象をとらまえて物理の深奥を極める才人であった。寺田は熊本の高校で田丸卓郎という物理教師の教えに惹かれて初志の造船工学から転向したのが生涯を決定した。英語教師にはロンドン帰りの漱石がいた。試験にしくじった学友を救うため委員に選ばれた学生が担当教師のもとに請願に行く風習があったらしい。漱石宅でその役目の請願を終えた後、寺田は俳句とはどんなものかと質問した。このことを契機に寺田は子規、漱石流の俳句を生涯続けることになった。田丸と漱石、二人の教師についてそれぞれ追憶が随筆に残っている。寺田が東京大学に入り、漱石はロンドン留学を経て東京に来て、二人の親密な交際が続く。

寺田が古いフィロソフィカル・マガジンで「首つりの力学」を見つけたので漱石に報告したら見せろというので、借りてきて用立てた。それが「猫」の寒月くんの講演になって現れている。高等学校時代に数学の得意であった先生は。こういうものをちゃんと理解するだけの素養をもっていた。文学者には異例であろうと思うと随筆に書いている。

中谷宇吉郎は寺田寅彦の直弟子である。同氏の、恩師を語る『寺田寅彦』(講談社学術文庫)にはマクロのレベルでの話題が豊富である。寺田は自然が好きだったし、植物愛好者でもあった。中谷は漱石の句「落ちざまに虻を伏せたる椿哉」を思い出しながら寺田の研究姿勢について話を展開している。

寺田寅彦の随筆「思い出草」の中に熊本から帰郷する途次、門司の宿で友人とこの句について一晩論じあったことが記されている。どんなことを論じあったか覚えていないとしてあるが、つづいて「ところがこの二三年前」と前置きして、椿の花は落ち始めにうつ向いていても、空中で回転して仰向けになろとする傾向があるらしいことに気がついて、実験の結果そのことが確かめられた云々と述べている。前置きの「二三年前」は「思い出草」を記している時点からの二三年前である。このことは、この文が昭和9年1月『東炎』記載であること、および、後述するように椿の花の落下運動の論文は昭和8年に発表されていることからわかる。すなわち、1933年理化学研究所彙報『空気中を落下する特異な物体の運動――椿の花』がそれである。椿の花の落ちざまを2年がかりで観察することになったきっかけは、ある知人から椿の花が仰向けに落ちるのはどうしてかと質問されたことにあったらしい。想像するに前記友人との議論の的は「虻を伏せたる椿」にあったのではなかろうか。うつ伏せと仰向け、正反対の様子が人々に受け止められている、漱石の句は実景だろうか、空想かもしれないなどと。

ロンドン留学中の門弟の藤岡由夫に珍研究を始めたと書き送った手紙がある。

「この間、植物学者に会ったとき、椿の花が仰向きに落ちるわけを、誰か研究した人があるか、 と聞いてみたが、多分ないだろうということであった。花が木にくっついている間は植物学の問題に なるが、木を離れた瞬間から以後の事項は問題にならぬそうである。学問というものはどうも窮屈なものである。」(1931年2月14日付)

ここで寺田のいう窮屈という言葉の使い方は面白いと思う。簡単に言えば将来性のあるネタが潜んでいるかもしれないものをもったいないことをする、発展性がない、とかいう意味をもっていると感じられる。その珍研究の英文論文に書き込みがあるタイプ原稿が高知県立文学館に所蔵されていると教えてくれるのは松尾宗次さんという冶金学者で工学博士、鉄屋さんのOBの方である。この方は寺田寅彦という稀代の学者をもっと世に知らしめたいとの思いを沢山の文章にこめて発表されている。ここに書いた件ほか多数が、同人のホームページや寺田寅彦記念館友の会会報『槲(かしわ)』に寄せられている。便宜のためURLを書き留めておく。oykot30はどうやら東大理一昭和30年卒業という意味らしいと見当をつけた。であれば筆者と同年の方々の集まりである。頭の構造が違う人達だ。

http://oykot30.web.fc2.com/bunshu/40matsuo/teradatorazoku_0002.pdf

http://oykot30.web.fc2.com/mokuji.htm

松尾氏は文理両面にわたる知の領域をお持ちのようで、寅彦の父利正が幕末の土佐藩に起きた井口刃傷事件で詰め腹を切らされた宇賀喜久馬の介錯をした人物であることから、寅彦が明かさなかった心の裡を推し量っている。その面から寅彦と漱石の繫がりをさぐり作品に現れる椿の花にも関心を向けている。かくして物理の話題であったはずのものが、こと文芸におよび『それから』を開いてみた筆者も冒頭の枕許の椿の場面にぎょっとさせられたのである。

椿の花の研究に話題を戻すと、寺田は花びらが受ける空気抵抗の観察を単純化するために円錐形の紙模型を考案して円錐の開き角度を色々変えて試している。その半世紀以上も経た1994年に「一枚の紙の落下挙動」という論文が権威ある専門誌に掲載される。複雑系研究の金子邦彦氏の実験結果である。寺田の円錐の角度を180度にすれば同じ現象が捕まえられるわけであるから、寺田は金子の半世紀先を行っていたことになる。寺田の物理学を趣味的として軽んじる向きが多かったといわれるが、本人は常にその先にあるものを追求していたことが理解されなかったのである。有馬朗人東大総長が寺田は生まれるのが50年早すぎたと嘆いた所以である。金平糖の角(つの)の出来具合とか線香花火の観察、ガラスのひび割れの研究、そして墨流しの研究、それぞれに奥が深く単なる日常的現象の探求に終わるものではない。3・11の地震と福島原発事故は古の災害につながっていた。地震予知などはほぼ不可能なぐらい自然の営みは奥深いことを寺田は喝破していた。味わい深い随筆集を繙きながら再び頻発する昔と同じ震源域の揺れを感じているこの頃である。中央大学松下貢教授のコラムが参考になる。

https://www.phys.chuo-u.ac.jp/labs/matusita/doc/zuisou5.htm

ここには寅彦が当時の要素還元思考的な物理学一辺倒の中にあって、50年先に周囲が気がつくようになった複雑系の物理学の方法を随筆の中に示していたと記されている。

(2021/7)



 

2021年7月2日金曜日

アルキメデスと金の冠

アルキメデスに純金の冠の純度不正を見破る話がある。
湯船から溢れ出た湯の量が湯船につかった体の体積に等しいことを見つけた。そのことを「アルキメデスの原理」という。池内了氏はこのように書く(『物理学の原理と法則』)。すぐあとに、そんなことは当たり前の物質保存則であって原理などと大げさな言明ではないと書くが、原理と呼ぶのは適切でないとする表現であって、溢れ出た湯の量は湯に入った体の体積に等しいことをアルキメデスは見つけたのだ。この発見で冠を直接いじることなしに成分を明らかにし得たわけだから当時の大発見だったのだ。それでアルキメデスは「エウレーカ」と2回叫んで裸で街へ飛び出してゆく。ギリシャの言葉で「わかったぞッ」という意味だ。この叫び声で逸話が世界的に有名になったのだろう。それでいて、いったい何がわかったのだろう、と2千年以上時を隔てた今も議論が多い。ご本人がこのことをどこにも書き遺さなかったからだ。

第二次ポエニ戦役でカルタゴと組んだシチリアは、アルキメデスの考案した強力な武器を使って優勢であったが、裏切りが出たために敗れてローマに屈した。シチリアの故郷シラクサに住まうアルキメデスは数学の解法の研究に没頭して家にこもっていたため、戦況の推移もシラクサの陥落も知らなかった。アルキメデスの優秀さを知るローマの将軍は彼を見つけても殺さないよう命令を出していた。家にあって砂盤に描いた図形の上に屈みこんで考えごとに夢中になっているところにローマ兵が来た。声をかけても「私の図形を踏むな」というだけで相手にされないので腹を立てて刺殺してしまった。この話も伝説かもしれないが、時は紀元前212年だったのは確かなことだ。『プルターク英雄伝』にはこんなことも書いてあるらしいが読んだことはない。「エウレーカ」が有名になった故事は「黄金の冠」であるが、話の順序として次に要約する。

アルキメデスと親しかったシラクサの領主ヒエロ2世は、あつらえた純金製の冠に銀が混ぜられたと聞いて調べようとしたが、方法が見つからなくてアルキメデスに相談した。複雑な形を損なわないで純度を調べる手立てがない。現代の非破壊検査のはしりである。公共の浴場に出かけたときに冒頭に書いた発見をした。体を水に浸けたときの水位の変化に問題解決へのインスピレーションが働いたというのである。結論は細工師が銀を混ぜたことが暴露されて、めでたしとなった。

アルキメデスの著作のうちにこの話は出ていないとのことだ。話の出どころは、紀元1世紀のローマの建築家ウィトロウィウスの『建築について』に記されていることが知られており、私たちはその文章を読むことができる。だが、この著作の評判はかならずしも良くない。この著作に述べられたアルキメデスが採った方法は、彼の「限りない才能」の表れにふさわしくなく、かなり杜撰であるという評が多い。ついでにウィトロウィウスの評判も良くない。何がいけなかったのか。

インターネット上でウィトロウィウスの遺した文章を見ることができる。元のイタリア語の文と対比した英文を載せている次のURLを紹介しておく。

https://www.math.nyu.edu/~crorres/Archimedes/Crown/Vitruvius.html

ウィトロウィウスの文章に書かれてあるのは次のような経緯だ。

1.浴槽に体を沈めるほどにその分だけ余計に湯が流れ出る。これが難題を解く方法だと気づいたアルキメデスは浴槽を跳びだして「エウレーカ、エウレーカ」と叫んで走って帰った。

2.冠と同じ重さの銀塊を容器の縁まで一杯に満たした水の中に浸ける。水に浸けた銀塊の体積と同じ嵩の水が溢れる。銀塊を水から取り出したあと、計量容器(英訳では a pint measure)を使って流れ出た水を元の容器に戻して縁まで一杯にする。これで一定量の水に対応する銀の重さを知った。

3.次に冠と同じ重さの金塊を水に浸ける。引き揚げてから流れた水の量を測ると、同じ重さの銀塊より嵩が小さいだけ流れた水が少なかった。

4.最後に同じ量の水に冠を沈めたところ同じ重さの金塊の場合より多くの水が流れ出した。これは金塊と同じ重さの冠の中に銀を混ぜ込んだためであると見破って細工師の窃盗を暴いた。

さて、ガリレイ(16世紀)はアルキメデスをよく勉強していた。アルキメデスには「梃子の原理」や「浮体について」の論文があるから、それらを利用すれば、もっと簡単に結末がわかったろうと言っている。ガリレイは秤の重りを工夫して、天秤に載せれば直ちに金、銀の別がわかる工夫をしたと伝えられる。日本語のWikipediaではウィトロウィウスの方法に対する批判があると述べたあと、天秤にかけて水中に入れる方法が記載されている。それぞれ同じ重さの純金と疑念のある冠を空気中で均衡させて、そのまま水中に浸ける。秤は当然純金のほうに傾く。これも正解にちがいないが、アルキメデスがそのようにしたかどうかはわからない。

筆者が読んだ限りで説得力があるようにみえる批判論は、アメリカ、ドレクセル大学、クリス・ロレス数学教授の説だ。この説には、英文ではa golden crownとしてある冠が、実はリース(wreath)だと明言している。ギリシャでは昔、月桂樹、 マートル、 樫、オリーブなどの枝葉で冠を作った。マラソン勝者の頭に飾るあれだ。ついでながら、2016年5月、ロンドンのデイリー・メール紙が報じているギリシャの金製のリースは2300年前のものとされる。差し渡し8インチ(=20.32cm)で100gだという。故人となった一般旅行者が遺した一品が発見されたとの記事であるが、オークションに出されれば1~2億円相当という話だ。

ロレス教授がもちだしたのは、1970年、マケドニア地方のヴェルギナ出土の品でアレクサンダー大王の父君の墓から出た4世紀のものだ(上の図参照)。目下のところ最大のリースだ。直径18.5㎝、部分的に葉っぱが欠けているが重さ714gである。教授は、このような冠ではアルキメデスの時代に測定が無理だったろうとして、ウィトロウィウスの記述を批判する。長くなることを承知で以下に計算過程を述べる。

ヴェルギナの冠を参考にして、例証のデータをそろえる。出土品の葉っぱの欠けた分も考えて問題のリースの重さを1000g、水を入れる容器の直径を20㎝と仮定して検証にかかる。データから計算すれば、容器の開口面積は314㎝²。金の密度19.3g/cm³、1000gの体積は1000/19.3=51.8cm³(D-battery=単1乾電池ほどの大きさ)。水に浸けたときの水位の変動は高さで、51.8/314=0.165cmと計算できる。

銀が30%=300g 混ぜられたと仮定する。銀の密度は10.5g/cm³、冠の体積は700/19.3+300/10.5=64.8cm³、水に沈めると、64.8/314=0.206cm だけ水位が上昇する。純金の場合との排水量の差は水面の高さで0.206-0.165=0.041cm(または 0.41mm)となる。この値は水の表面張力、粘着度、リースの葉の間の水泡などを考えれば目測で計量するには誤差が避けられない。ましてリースの重さが1000g以下であるとか、容器の径が20cm以上あるとか銀が30%より少ないとかであれば、水位の変化は0.41mmよりも少なくなる。

教授は続ける。もっと実用的な方法がある。アルキメデスの浮体論と梃子の原理を利用するのだ。疑念のあるリースを秤の一方に吊り下げ、反対側に金の塊を吊り下げて平衡させる。そのまま秤を水を入れた容器に浸ける。均衡が保たれればリースと金が同じ体積で両方の密度は同じである。もし金のほうに傾くならば、リースの密度が金より小さいために体積が金より大きいからだ。リースは金と金より軽い金属との合金だからそのようになる。

この技術を30%合金のリースが1000gだとして検証してみよう。体積が64.8cm³だから排出水量は64.8gだ(水の比重は1g/cm³)。重さは1000ー64.8=935.2g。純金のほうは1000-51.8=948.2g。その差は13gである。天秤を均衡させて水中に浸けると13gの差が傾きに現れる。アルキメデスの頃でもこの計量差は確実に把握できたはずだ。まして、ウィトロウィウスの方法による誤差は起こり得ないのだ。

合金のリースと純金の塊が空気中で均衡しなくても、秤による方法が有効だ。水に入れる前に支点を調節すればよいのだ。

二つの方法を要約しよう。リースを30%の合金と仮定すると、純金塊との体積の差が13cm³。ウィトロウィウスの方法では排出水量の容積を調べることでこの体積差を測ろうとした。13cm³の水は一辺が2.35㎝の立方体であるなら簡単に調べられる。しかし、13cm³の水がリースを十分展開できる広さ(例では314cm²)に広がったなら、水の高さは僅か0.41㎜でしかなく、目測や流量計での正確さには程遠い。秤による方法は13cm³の体積を目盛りの上で13gの差に変換し、それは古代の秤でも検証可能なのだ。

ロレス説はいかにも説得力がありそうだ。しかし、ウィトロウィウスの文章に単位当たりの銀の重さがわかったとあるのはどう考えるのだろうか。ロレス教授は体積にこだわるから平べったく容器に張り付いた水の高さを測る羽目になる。重さならギリシャ・ローマの時代にもそれなりの測定法はあった。天秤を使わなくても純金と銀の合金との重さの違い13グラム(当時の単位は当然別の用語)は測れたのである。ウィトロウィウスの文章は信用できる。

それでは浴場でのインスピレーションから何が得られたのだろう。比重ではないかと言明するのはブログに書く秀衛門さんだ。重さを測ったとウィトロウィウスの文章にあることを指摘するのもこの人だ。ロレス教授よローマ人の文章をよく読んであげてください。

筆者は秀衛門さんにネット上で偶然に出逢って教えられた。この人はウィトロウィウスの測定方法を道具を工夫して実験をしている。その実証は見事だと思う。池内教授はアルキメデスが比重を心得ていたとしているが、ウィトロウィウスはそれらしいことには触れていない。

「エウレーカ」の故事をもって浮力の発見とする説が多いが、冠の課題解決に浮力は必要ないはずである。アルキメデスが見つけたことは何だったのか。物体を水と置き換えるときの自然法則か。比重説は有力だと思う。秀衛門さんのブログのURLを書いておく。

http://hide-emon2803-2.blog.jp/archives/5547756.html 全体が複数のサイトにわたっている。

https://www.cs.drexel.edu/~crorres/ ロレス教授のホームページ(英文)

https://www.math.nyu.edu/~crorres/Archimedes/Crown/CrownIntro.html 冠のサイト。souceの項にウィトロウィウスの文章がある。(英文)

(2021/7)

 

2021年5月22日土曜日

今は昔のおぼろげ史

にこやかな顔の半藤一利さんがカバーになっている『歴史探偵 忘れ残りの記』(文春新書)。時々開いて拾い読みをする。終わりのほうに「わが銀座おぼろげ史」という章がある。昭和28年、半藤さんが入社した文藝春秋新社は銀座西5丁目のみゆき通りにあったが、30年には銀座西8丁目に移転した。この銀座西何丁目という町名はいまはなく、一帯は西も東もつかない銀座何丁目という呼び方になっている。関西育ちのわたしの方向感覚は、阪神間の北と南が基準で、山があるほうが北、海が南である。東京に来ると山も海も関係がなく、歩く場合にはともかく、地図上では縦横を間違う。だから、みゆき通りを歩いたことはあっても方角は定かではない。クラシック音楽の洋菓子喫茶店「銀座ウエスト」だとか、フランク永井の「西銀座駅前」などは町名改変で由縁がわからなくなった。おぼろげ史で懐かしみながら、地図を当たったりして自分の銀座もおぼろげに思い出した。

東京にいたのは昭和26年から30年春までの在学中が初めてであったが、学生分際が銀座に用があったのは多いはずはない。半藤さんによると、銀座の松屋が接収解除されたのが昭和27年9月だそうだ。進駐軍のための買い物センター、PXとして使われていたのだ。オフ・リミットという言葉がよく使われていた。服部も伊東屋もPXだったという。松屋は接収解除されて翌28年に新装開店したとほかの資料に書いてあったが、アルバイト先の会社から売り場に派遣されたのはその暮れだったと思う。デパートから昼食の御馳走にあずかったのは、ちょっと例がないかもしれない。

わたしのアルバイト先は日本信用販売という会社で、世間では月賦屋のあだ名があったらしい。城山三郎が創業者山田光成の善意と苦闘ぶりを讃えて綴った物語『風雲に乗る』を読んでみたが感心できなかった。名古屋にあった山田が計画して始めた事業は、サラリーマンが乏しい給料から、耐久消費財や値段のはる商品が買えなかったのを、販売店に月賦で売ってもらう仕組みだった。月給数千円の時代にランドセルとか自転車、ミシンなどは、日常の生活にぜひとも欲しいものである。インターネットで参照すると、戦前のランドセルには豚皮が使われ、昭和16年の記録に9円80銭というのが出ているが、戦時には革製品は民需には禁止された。紙や竹、さめ皮など代替品が試みられていたらしい。牛革製品が出回りだしたのは昭和26年頃、2000円、大卒公務員初任給6,000円ほどと記録されている。自転車は城山の小説で6千円と書かれている。山田は販売店月賦組合を組織して消費者大衆には喜ばれたものの販売店の資金が続かず山田はその資金繰りに苦心した。名古屋で自滅した山田が後援者を見つけて東京で再起したのが前記の会社であるが。結局は政治屋に利用される。

昭和26年に設立された日本信用販売の本社は本郷にあった。盆暮れのボーナス時期に協力百貨店に通用するクーポンを発行した。山田は同一会社での勤続年数と家族持ちであることがサラリーマンの信用の基礎をなすとの考えから、一般会社から法人会員を募って、一定の信用資格を認める社員を信用販売会社に紹介してもらう。わたしの仕事はデパートに出向して、紹介されてきた社員が持参する書類を点検して、手元の書類と照合して認証印を確認してクーポン券を発行することだった。記憶では上場会社の社員が多かった。わたしたちが発行するクーポンを手にした人たちは心なしか安心したような気配だったのを覚えている。出向いたデパートをいちいち覚えてはいないが、銀座の松屋だけは鮮明に覚えている。昼ご飯を御馳走してくれたからだ。会社からはアルバイト料だけだったから、デパートに出向く日のほかは10円のコッペパンに隣の肉屋で5円のコロッケ二つを挟んでもらった。それが出向いた先で御馳走してくれて、メニューがおでんに茶飯というのにまたびっくりした。学生には高級であった。

日本信販のその後は知らずに終わったが、デパートの月賦販売を認めることに小売団体から反対が出て政治屋が動いた話を噂に聞いたことがある。昼飯のことは別にしても割のいいアルバイトだったし、就職難でもあったから入社を誘われてかなり迷ったのは事実である。城山の小説は主人公がアメリカに出発するところで終わっている。行先はシティバンクのように書いているから、クレジットカードに衣替えの機会だったろうと思う。城山は小説の最後に「ある経済人の事業歴の一部をヒントにしているが、登場人物の設定など、すべて作者の虚構によるものであることを、おことわりします。」と述べている。大衆消費社会の救世主的存在を目指したはずの山田の初心はどうなったのか。のちにJCBを設立したり、UFJニコスになったりしたこの会社の結末は大資本に呑まれてしまったわけだろうから山田の敗北だ。城山は高潔な精神が泥まみれになるのを描いたとは思えないけれども通俗小説になってしまった。

同じころの銀座で思い出すのは生演奏が聴けるジャズ喫茶が誕生したことである。「テネシー」と呼んでいたが正式には「コーヒーショップ・テネシー」、コーヒーは100円だったとネットの情報にある。昭和28年9月の開店、西銀座6丁目だった。わたしもどこで知ったか足しげく通った。通学用のカバンを持ってジャズを聴きに行ったとは今なら考えられない。その頃はハワイアン・バンドもジャズバンドと呼ばれていて、バッキー白片やらポス宮崎なども来た。鈴木章治のリズムエースが来た。ジャズピアノの穐吉敏子『ジャズと生きる』(岩波新書)にこの店のことが詳しく載っている。何しろ彼女はここでオスカー・ピーターソンに聴いてもらったのが縁でアメリカに行くのだから。読んでみるとジャズ界の内輪など何にも知らずに、一杯100円でのんきに数時間過ごしていた自分が阿呆に思えるが、当時はだれもがポピュラー音楽に夢中だったのだ。翌春、サラリーマンになって大阪に移ったから、その後の「テネシ-」はどうなったか知らなかったが間もなく消えてしまったようだ。ナベプロの渡辺晋の事業だったとは知らなかった。最初の月給でレコードを買ったようだ。出始めたLPやドーナッツ盤EP、ドリス・デイ「ケ・セラ・セラ」、イヴ・モンタン「詩人の魂」などだったと思う。大阪の街で立ち見ならぬ立ち聴きでバンド演奏を聴いたのを覚えているが、たぶん映画館並みの入場料だったのでないだろうか。レコード・プレイヤーを自作したのもいい思い出だ。と書いてみたが完成した記憶がない。木工だけで終わったのかも。


銀座の思い出は多くはないが、大学に入ってすぐ東劇で『駅馬車』を見た。1939年製作の映画だから時間感覚がおかしくなりそうな話だけれど、色々調べていると劇場プログラムがネットで売りに出ていた。3200円だ。昭和26年と書いてあるから私の記憶に合っている。いまの東劇は高層ビルらしいが行ったことはない。

銀座ではないが、神楽坂まで映画を追っかけたことがあった。昭和29年だ。たしか『雨に唄えば』(1952)だった。テーマ曲”Singin' in the Rain" を昭和21(1946)年に聴いている。何の曲だか知らなかったが、和歌浦湾に停泊しているアメリカの軍艦から朝6時ごろ聞こえてくるのだ。仮住まいしていた親戚宅の奥の部屋から見つけ出したレコードの中に入っていた。原曲は1929年出版のポピュラーソングだが、私が聴いたレコードはおそらく戦前の輸入盤だったろう。毎朝のように軍艦から聞こえてくる音楽は、日本人が知る以前にアメリカでは手を変え品を替えして大流行していた歌だった。そして戦後に、無声映画からトーキーへの裏話をミュージカルに仕立てた映画『雨に唄えば』の主題歌として再び世に出たのが1952年、日本での封切は1953(昭和28)年4月1日と記録されている。おぼろげ話が次々思い出されるが銀座から離れてしまった。この辺でやめておこう。(2021/5)




 

2021年4月26日月曜日

無重力と飛行機

1909年製の飛行機の例 ファルマンⅢ型
カフカは機械マニアだった。カフカがプラハのドイツ語新聞に「ブレシアの飛行機」と題するルポルタージュを寄稿した。1909年9月のこと。北イタリアへ旅行したときに飛行機ショーのポスターを見かけたので駆けつけたのだそうだ。ブレシアはロンバルディア州の街。カフカが飛行機の話題に惹かれたのは、この新しい乗り物が、車輪によらないで移動することが珍しかったからのようだ。おおかたがまだ二葉式のころとあるが、飛行機ショーは記録を競って賞金が出た。1位がアメリカ人で滞空時間49分34秒、総飛行距離50キロ、高度ではフランス人が198メートルを記録、世界初のレコードだった。(池内紀『となりのカフカ』光文社新書 2004)

さて、池内さんがいうには、バイクマニアでもあったカフカが飛行機ショーのポスターに惹かれて、旅程になかったブレシアに向かったのは、車輪による移動がもっぱらだった当時にあって飛行機が珍しかったからだと想像している。そして、飛行機が車輪を必要とするのは、助走と着陸の短い時間だけであって、あとは虚空を無重力状態で移動していくと書いている。カフカの考えを代弁したのかも知れないが、はて、これでいいのかな? 飛行機が無重力状態の中をゆく…。ここでわたしは思わず混乱したのである。

理屈に合わないとか、言い方が正確でないとか、表現をあげつらうつもりは全くない。のんびりした話題だし、これで十分通じるからいいのではあるけれど、わたしは自分の知識があやふやだからまごついたわけである。こんな場合に無重力という言葉が出てきたのでまごついたのだ。例えば空中をゆく、でもよかったろう。何も科学的に正確な空気中の状態を言わなくても良い。軽い日常会話である。

小学生のころのわたしは竹ひごと紙を使った模型飛行機をたくさん作ったものだ。神風特別攻撃隊ができたのがきっかけで、出撃の報道が新聞に出るつど一機、また一機と作っては押入れの上段に並べていった。ゴム紐動力のプロペラ機であったけれども、主翼に少し仰角をつけて飛ばすと中空に浮いて飛んでいった。だから飛行機はどうやって飛ぶのか、理屈でなく実感的に知ったつもりである。エンジンが止まったら落ちるのだ。前に進むから浮く。400トン近くもあるジャンボがなぜ落ちないのかは不思議ではあるが、現に浮き上がって飛んでいるからそれでいい。その先の理屈まであまり考える必要もない。

そんなわたしが池内紀さんの書きように惑わされた。では理屈調べてみようとしても手元に物理の本など置いてないし、こういう場合はとにかくインターネットだ。あるある、検索語次第で各種各様さまざまな記事があった。重力だの引力だの揚力だの浮力だのと力の字がつく用語が次々出てきた。わたしがこれらの用語をしっかり理解していないことがはっきりわかった。日常会話につかう範囲でしか知らないから、用語を使った物理の説明の意味がほんとに理解できるわけがないことをあらためて思い知った。

話を戻す。ドイツ文学者の池内紀さんは飛行機は無重力状態の虚空を移動するという。弟君で宇宙物理学者の池内了さんが飛行機の移動についてなにか書いてくれていないかと探してみたが、あいにく飛行機については見つけられなかった。緻密な表現をなさる学者さんだからと期待したが残念だった。その代わりではないけれども、アルキメデスの原理を勉強させてもらった。あれは体積の問題であって浮力のこととするのは正確でないとあった。浴槽にからだを沈めたときに溢れ出た水の体積とからだの体積が等しいことを発見したのであると。王冠のような複雑な形の物体の体積を図る便利な方法を発見したわけだ。その説明のあたりを再三読み返していると、「水や空気のような連続体には圧力が働いている。」と出ている。水や空気が重力の方向に重なって存在していると、高い場所の圧力より低い場所の圧力のほうが大きいから、浮力が生じる。圧力とはその呼び名通り、面を押し付ける力のことで、単位面積あたりに面に垂直に働く力の大きさであると定義すると述べている。(池内了『 物理学の原理と法則 科学の基礎から「自然の論理」へ』講談社学術文庫 2021)。

ところで、重力ってのは地球の万有引力と自転する地球の遠心力の合力だそうで、遠心力は比較的小さいから、重力は引力とほぼ同じと考えてもシロウトの会話ではさしつかえなさそうだ。となれば一般的に水中や空気中には引力と、その反対方向の浮力が働いているともいえる。水中に静止している物体には浮力が生じる。空気中に静止してる物体にも同じ理屈が通用する?。その物体の体積分の重さに等しい浮力が生じる??。物体の上と下での圧力の差が浮力を生む???。どうも現実とは違うような気がするではないか。

2009年10月5日、名古屋におけるJAXAタウンミーティングでは、石川理事という方が、落ちない飛行機はない、YS-11でエンジンが両方止まれば落ちる、YSでもなんでも、いくつかのエンジンの一つが止まっても落ちない設計にはなっていると答えている。理屈がどうであれ、やはり落ちるのだ。つまり浮力なんてのは当てにならない、と考えるほうがよさそうである。https://fanfun.jaxa.jp/c/townmeeting/2009/39/opinion.html 参照。

日経ビジネス電子版に「『飛行機はなぜ飛ぶか』わからないって本当?」というのがある。担当記者が宇宙物理学者松田卓也氏に教えを請うている連載記事である(会員読者限定記事)。https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00059/061400036/ 。

飛行機が飛ぶためには揚力が必要である。揚力は翼の上面の空気の流れが下面のそれより速いことによって生まれる気圧の差が作用して生じる。翼の上面の気圧が小さくなるからである。空気の流れを得るには静止していてはだめだ。飛行機は前進するための推力が得られないと空気の流れをつくれないから必要な気圧差が得られない。

『航空実用辞典』の記述には「揚力…この空気力の,飛行方向に垂直な方向の成分を揚力と呼び,飛行機が空中を飛行できるのは,機体の重量に等しい揚力を翼で発生し,重力(weight)と上下方向の力のバランスを保っているからである」とある。

この説明で水中で物体が受ける浮力と空中の飛行機が受ける揚力の違いが分かった。それでも翼の上下で空気流の速度がなぜ異なるのか、その理由がわからない。いや理由はわかっているのだそうだ。翼の周囲には幾種類かの渦ができるからだそうである。わたしには理解が難しいが渦流の存在が気流の速度に関係するとのことらしい。そしてこの渦流の出来具合が未だに解明されていない。飛行機が飛べる理屈は百年前からわかっていて、現実に飛んでいる。それでもなお飛べる原理がわからないとはこの問題があるからだそうだ。

また、一般書の竹内薫『99.9%は仮説』(光文社新書)とあわせて読むと面白い。予測はできているが原理は解明されていないという結論になる。この本は大ベストセラーだけれども、竹内氏の書き方が過激だから気をつけて読めとアドバイスしてくれるサイトもある(https://www.gakushuin.ac.jp/~881791/RikaTan/RikaSensei200705.pdf)。

何日間かこの問題に取り組んだあとで前記の松田氏による解説を見つけた。揚力ができるための渦の問題はやはりむずかしいが、親切な説明である。基礎科学研究所という機構に拠っている。他の問題にも非常に有益なサイトだ。末尾にURLを書いておく。

なぜ飛ぶかは揚力によることが百年前からわかっている。しかし揚力についての説明には大学教授であっても間違う人が多いそうだ。当方も半藤さんのいうロートルの仲間だから弱い頭は適当にねぎらって湯船でアルキメデスの気持ちを味わうのが関の山だとよく分かった。もう旅行もしないからいいけれども、なぜ飛べるかの問題を考えるのは旅行するより疲れることを体験した。池内紀さんは大して悩むこともしないでさっさと彼岸に渡って行ってしまった。

参照した資料:

池内紀『となりのカフカ』光文社新書 2004

池内了『物理学の原理と法則 科学の基礎から「自然の論理へ」』講談社学術文庫 2021 Kindle版

竹内薫『99.9%は仮説 思い込みで判断しないための考え方』光文社新書 2006

基礎科学研究所のサイト:http://jein.jp/jifs/scientific-topics/1817-topic138.html

(2021/4)

 

2021年4月17日土曜日

「あゝそれなのに」のこと

ことしの初めに亡くなった半藤一利さんの置き土産『歴史探偵 忘れ残りの記』のなか、第一章 昭和史おぼえがきは「おかしな言葉」としてテニヲハの遣いかたへの疑念をあげている。「食べれる」「着れる」などと、おかしな日本語として槍玉にあげられるのは、いまの若者の言葉遣いだけではなく、われらロートルが親しんでいる昭和史を飾る言葉にだって、首を傾げたくなるのがあるが、不思議に誰もおかしいとは思わない。と、このように書いていくつかの例を出したあげくに、畏れ多くも終戦の詔書にもあると。「堪ヘ難キヲ堪へ忍ビ難キヲ忍ビ」。いうまでもなく「終戦の詔書」の一節である。当時の雑音だらけのラジオ放送はよく聴き取れなかったけれど、この言葉だけは多くの人口に膾炙している。半藤センセイいわく、「忍ぶ」とちがって「堪える」は自動詞であるから「何々に堪える」と「を」ではなく「に」でなければならいのではあるまいか。したがって、「堪え難きに堪ヘ」が正しい。ああそれなのに……、とこの短文を結んでいる。ここで筆者は思わずニヤリとした。ああそれなのに、に反応したのである。

 「ああそれなのに それなのに。ネェ、おこるの~は、おこるの~は、あったりまえでしょう」がリフレインになっている昭和の流行歌だ。なんと、このごろはユーチューブでも聞けるから驚きである。曲名「ああそれなのに」、古賀政男作曲・星野貞志作詞、歌・美ち奴、テイチクレコード、昭和12年、 日活映画「うちの女房にゃ髭がある」主題歌。作詞の星野貞志とはサトウハチローの変名だそうだ。

半藤さんは昭和5年生まれ、当方は昭和8年だ。一世を風靡した流行歌だもの、チビどももみな覚えたのだろうと思う。筆者の記憶にもいつの間にやら忍び込んでいた。歌詞の出だしは「空にゃきょうもアドバルーン」であったが、当時は広告宣伝のアドバルーンがどこの街でもデパートの屋上から上げられていたものである。坂の街、小樽の高台にあった我が家からも今井百貨店に「フルヤのキャラメル」と大書したアドバルーンが上がっていたのを見た記憶がある。稲穂小学校に上がって翌年はキゲンハ ニセンロッピャクネンとなるが、それまでの昭和の世間は大正の続き、戦塵は遠く、まだまだ明るかったのである。

そこでまた古い話を思い出した。斎藤茂吉がこの唄を歌に詠んだという話。同じ歌でもこちらは短歌、しかも茂吉さん編集の歌誌『アララギ』の昭和12年4月号に発表した。発表までのいきさつについて、斎藤茂吉著『童馬山房夜話、第二』「152自作一首」という記事にある。(八雲書店 昭和19年 アララギ叢書;第百一一六号 所収)国会図書館で読める。冒頭の一節を引用する。

私がアララギ四月号に発表した歌の中に、『鼠の巣片づけながらいふこゑは 「あゝそれなのにそれなのにねえ」』といふのがある。これは私のところに働いて居る為事師が、天井裏にもぐって鼠の巣を取除けながらあの唄をうたっているのが妙に私の心をそそったので、歌にしようと思っていろいろと試みたすゑに、辛うじてあんなものが出来たのであった。                 無論果敢ないもので、どうのかうのと云ふべき性質のものではないが、作るとき少しく難儀したので、やはり捨てずにとっておきたいともおもったのである。ただアララギに公表しようかしまいかと迷ったが、友人のすすめに任せてとうとう公表したものである。

これに続けて「不覚な美少年強盗」という表題の新聞記事を紹介。少年強盗が押し入った家で明け方まで寝込む場面があって、寝る前に便所に行きながら、「あゝそれなのに……と流行歌を声高らかにやる朗らかさ」という記事で、私にはおもしろいと書いている。

また5月になって石見国の山中で蕗を取りに来た十歳から十二歳ぐらいの女の子たちがあの唄を歌うのに出逢ったとの話が続く。当時の流行ぶりがわかる。

歌壇からいろいろ批評してもらったが、公表した上は俎上の魚、じたばたしても仕方がない。そして、その程度の歌が私の精一杯の力量だと書く。これが片手間の巫山戯歌だなどと思うものがあったら、それは私を買い被っているものだという。そのうえで佐藤佐太郎氏がそれらの批評を丹念に集めてくれたから、記念としてこの夜話に添えることとする、として多くの評を載せている。それらにもまた楽しいのもあり、辛辣なのもあってなかなか興趣が尽きない。大方が好意的な批評で、本格調の歌ではなくとも軽みをもつのも茂吉流とする褒め方もあるのは当然だろうし、他の人ではなかなかこのように堂々と発表できまいというのも頷かせる。一つひとつを腰を据えて読んでみると当時の歌壇が沈滞気味で心ある人達の嘆きも聞こえてくるかのように感じられる真面目な文章もあるので、これらをどんな気持ちで読んだであろうかと茂吉の心中を想像する。ここにすべての評言を紹介することはできないが、一つおいて次の節に「154 二たび『あゝそれなのに』」として米国歌壇から寄せられた評と茂吉の反発が載っている。「童馬山房夜話」は『アララギ』に連載した茂吉の随筆である。筆者はこの米国からの批判に応じる文章に斎藤茂吉の剛柔備わった勁い人柄を感じ得た気がする。痛快でもあるので簡単に紹介する。

 昭和13年1月5日、北米にいる歌人高山泥舟氏から雑誌『とつくに』昭和12年12月11日号が贈られてきて評論文「歌の構へ」の中に拙歌『あゝそれなのに』の一首に言及されていた。高山氏は年来茂吉氏の声に傾倒し憬仰してきた一人であったと告白し、その信仰が一夕にして動揺を余儀なくされて一種の疑念が煙幕の如く拡がりつつある。何に起因する乎?と前置きして、それは歌誌アララギの巻頭に例の歌が作者斎藤茂吉の名に於いて公表せられた為であるという。この歌を一読した高山氏の驚きは到底口には現し得ないものだった。萬葉以来の国歌の大道も、ヤレヤレここまで来たのかと悲しかったのだそうだ。一雑誌の誌面の埋草として投げ出したチャランポコの口説とするなればアララギの殿堂に糞土を塗るもの……何の顔(かんばせ)あって地下の赤彦に白し得よう乎?とあった。

 この非難に対して茂吉は「憬仰」はありがたいけれども、この歌一首によって動揺してしまうようでは自分に対する「憬仰」の度が足りない。自分のような末世の一人間に仏像かなんぞのように憬仰されたりすると變でならない。どうしても憬仰してやまないというならば、もっと骨髄に徹するような憬仰をしてもらうほうが気持ちがいいというものだ、と開き直るのである。そして云う、高山氏はミレエを尊敬してやまないと言っている。ミレエの素描集一巻を所持し、鑑賞して『生活以上のまこと』を貴しとしているということだ。ミレエの素描は現存する油絵の素地をなしたものだから、真面目な敬虔なものばかりである。これをもってミレエを憬仰してやまぬことは認めることができる。 然るにミレエの素描に、Souvenir de Franchard と題した1871年にかいたものがある。此は嵐のために一婦人が倒されて臀部がまる出しになったところである。これはいつもミレエが取扱ふやうな態度でかいたものでなく、寧ろポンチ繪的にかいたもので、1836年ごろのミレエの畫風の地金が出たもののやうである。ここで、高山氏が、ミレエの初期の畫、或はこのフランシャルの回想のやうなものを見て、忽ちその憬仰尊敬の念が失せてしまふだらうかどうであらうか。この例は私に引きつけて解釋すると少しく不遜になるけれども、云って見れば先ずそんなものである。(後略)

一読してこれでケリが付いたかと思ったがさにあらず、このミレエの話をしている時さらに高山氏の一件同様の議論が他誌に出ていることが聞こえてきて、非難の声が果てしなく続くかのような当時の歌壇の情景が見えるようである。ここで茂吉は、「この一首は、私の歌全體から見れば、『無論果敢ないもので、どうのかうのと言ふべき性質のものでない』が、現今歌壇では誰一人、『あゝそれなのに』の流行唄を取上げてゐない。それを私は一種の感動を以て取上げただけである。私があの一首を公表してから、あんな歌は誰でも作り得るが、下等だから作らないのみであると空嘯くのは餘りおもしろくない。世に、コロンブスの卵といふ譬があるが、物事はやってみたうへでの詮議でなければつまらぬ。」と述べて信念を穏やかに披瀝している。

さらに、折しも始まった支那事變を詠んだ歌についても評価のあるべき姿を問うている。その骨子は、「作った歌に縦ひ一首でも物になるものがあらば、作らずにその方が高級だ高尚だと云ってゐるよりもどのくらゐましだか知れない」とある。

いつだったか読んだ臼井吉見氏の戦時中の俳壇の議論とあわせて歌壇も大変だった様子がわかる。最近のSNSとやらの口論合戦に似ていなくもない。世間はうるさいものである。

『童馬山房夜話』は以下のURLで読める。

国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1141874

(2021/4)




2021年4月4日日曜日

フランツ・カフカ『変身』池内 紀訳

『変身』初版表紙

カフカ『変身』を読む

むかし新潮社が全集を売り出した頃に読んだ。主人公が虫に変身したことのほかは何も覚えていなかった。池内紀さんの『記憶の海辺』を読んで、大学の勤めをやめたあとの仕事の中心にカフカ全集を全部ひとりで翻訳するとの課題を置いたと知った。池内さんの日本語は自然で読みやすいからすきだ。というわけでとりあえず白水社のカフカ・コレクションで『変身』を読むことにした。このコレクションは池内訳の全6巻を8冊に再編して多少手直しをしたもので、新書判の大きさ、巻末に訳者による解説がついている。

『変身』が最初に書かれたのは1912年で、3年後に小さな雑誌に発表された。その後薄っぺらな本になったがほとんど注目されなかった。世に知られだすのは死後かなりのことだそうだ。カフカは1924年、喉頭結核で亡くなった。41歳。

ある朝、グレーゴル・ザムザが不安な夢から目をさますと、自分が虫に変わっていた。この事件だけで十分に有名な作品だから、『変身』についての感想や論文はたくさんある。自分が虫になるなんてことはあり得ないから、そのことを論じてもあまり収穫はなさそうに思える。それでもどんな虫になったのだろうとは誰もが考えそうだ。作家がのこしてくれた手がかりはある。甲羅のように固い背中、こげ茶色をした丸い腹はアーチ式の段になっている。からだにくらべるとなんともかぼそい無数の足がある。それらは勝手にワヤワヤと動く。以上が目覚めた時に知ったグレーゴル自身の知覚である。無数の脚と書かれては背中や腹の描写に適合する生物はいないのではと思う。全体が作者の想像と考えるほうがよさそうだ。

本文を気をつけて読んでも眼や耳の有無や形状については書いてない。変身して日数が経つとだんだん眼が効かなくなってくるような描写がある。暗闇で触覚があることに自分で気づく。筆者のにわか勉強によれば、例えばゴキブリは触覚が眼の代わりをする。音については空気の振動をどこで感知するか虫によって異なるから、この小説では不明だ。だが変身した後のグレーゴルは人間の言葉はすべて理解していることになっている。

口はどうなっているか、一般に咀嚼する昆虫は顎を左右に動かして咀嚼するというから、グレーゴルもこうやって腐りかけの野菜や固いチーズを食べたと考えておこう。顎は鍵穴に指したままの鍵を回すときに活躍している。ただし、この場面、描写してあるようにうまくいくものなのか、あまり信用できない。カフカ本人が実演したことがあるらしいが、途中でカフカがプッと吹き出してしまったと解説にある。

虫の大きさはどれほどなのか。ベッドから落ちたとき音がした。ドアの向こうで支配人が「なかで何か落ちましたぞ」と言う。だからそれなりに重量があるのだろう。そのため椅子を背中で押すことができた、とは言えそうだ。背丈は椅子の背もたれよりは高そうだ。からだを細い脚で支えるのは辛かっただろう。思わず倒れて腹ばったとき急にからだが楽になったと書いてある。はじめて自由に動き回れたとも。本来の虫なら立つという発想はない。ソファの下にもぐるとき、からだに幅があるので入れきれない。どんなソファかわからないが、この表現と椅子の背もたれから推定できる体型がおぼろげに知れる感じがする。さして大きくもない人型である。顔の形については、母親に向かって叫ぶ「母さん、母さん!」が、ただ顎をパクパクするだけだから母親は悲鳴を上げた。かなり怪異な顔相が想像できる。

ミルクの匂いに惹かれたが味は全く受けつけない。口にあう食いものは腐りかけの野菜や食卓の食べかすばかり。グレーゴルの話すことは音声もことばも家族に通じないが、家族の話すことはすべて理解できる。だが家族はそれを知らない。父親が言う。「こいつに言葉がわかるようだとな」、グレーゴルはもはや存在する人間とは言えない。

天井や壁をはいまわるとも書いてある。重い体はどうなったのだろう。壁にかけてある好きな絵が運び出されそうだと思えば、その上に張り付く。見つけた母親は壁のシミだと目をやった途端に驚愕して失神する。虫は大きいのか小さいのか。虫の形にこだわって文章をおっていると、読む方の想像力がついていけない。だがかなり怪奇なものであるとの雰囲気は十分である。

本になるとき出版社は表紙に虫男の絵を出したいと申し出てきたが、カフカは断っている。無名作家の作品がそれでは売れないと言うので妥協して、半開きの扉によって立っている男の姿が表紙になった。半開きの扉は本文中で虫がはじめて人々の前にお目見えする舞台装置である。

把手に頭をのせるとドアは大きく開いた。留め金がかかっている方のドアに身をもたせていた、支配人や父母のいる方からは、からだの半分と片側にかしげた顔だけが見えた。支配人に事情をよくわかってもらおうと、寄りかかっていた扉を離れ、開いたところから身を押し出すようにして支配人の方へ向かおうとした。グレーゴルは支えを失って脚を下にして倒れた。からだが実に楽になったような気がした。無数の脚はしっかり床についている。うれしいことに脚はちゃんと言うことをきく。行きたい方へすぐにもからだを運ぼうとする。

セールス行商人の社内における弱い立場、家庭の事情、訴えたいことがいっぱいある。言葉の通じないこと忘れて懸命に論じたてるが、相手は怯えるばかり。逃げ腰でいる支配人を説得しなくては。逃してはならじ、突進した。気配を感じた支配人は「ウワッ」と叫びをのこして姿を消した。

虫と人間、こんなにも通じ合えないものか。片や虫に変身しても人間であったときのままの精神状態なのだ。人間の方は虫にも道理があることなど想像もできない。怪奇さに怯えるばかり。

あるとき、父親は虫を部屋に追い込もうとリンゴをぶつけてきた。小粒のリンゴ、食堂の果物籠からとって制服のポケットに詰め込んだのを次々と投げる。一つが背中に当たって食い込んだ。痛い。こいつはついに最後まで取れずに虫の背中で腐っていった。

しだいに家計が苦しくなる。父親は銀行の守衛になった。喘息持ちの母親は賃仕事の縫い物をしている。親譲りの装身具を処分した。小娘の台所女中と時間ぎめの掃除女。いまの生計を維持するには家が広すぎると結論して、間借り人をおいた。3人。ユダヤ人のようだ。徹底したきれい好きで、家中の部屋を片付ける。グレーゴルの部屋は物置部屋になった。虫はホコリと自らの粘液にまみれて過ごす。

間借り人は食堂で食事をとる。家族は台所でとる。夕食時に妹がバイオリンを弾いた。全員が聴いているとき、たまたま開け放されてあったドアからグレーゴルも部屋から出てきた。汚らしい姿が間借り人に見つかった。間借りの契約が破棄され慰謝料も要求される。

両親と妹が相談する。あの虫はもうグレーゴルではない。自分たちに良い思い出さえ残っていれば、いなくなってもよい。

ひもじいままに痩せて干からびて平べったくなる虫、ほうきで掃きよせられるようにまでなる虫。小さくなったのかな。

虫は食物も摂らず衰弱して死んだ。掃除女が箒でつついてみて、「くたばってる!」

平和なときが戻った一家3人は春の一日、電車ででかけた。いい天気だ、夫妻は娘の明るい様子を眺めながら、そろそろ相手を見つけなくてはと思う。これが結論だ。めでたしめでたし。

ここには文のあとさきに関係なく、情景を読み取る要素を書き連ねた。書かれたことを忠実に考えればこうなる。グレーゴルが人間である限りは家族の一員でいられた。家族は、はじめのうちは虫の姿であってもグレーゴルだと思おうと努力したり、元の姿に戻る希望を持った。それらの努力や希望が諦めに変わったとき、虫のグレーゴルは虫でしかなかった。家族にとって無用の存在、さらには邪魔である。グレーゴルがどんなにつらい思いをしながらであっても、その経過は家族に一切伝わることなく、死とともにいなくなった。

筆者は素直に文章を読んで楽しんだ。同じ作家の他の作品と比べたり、原語で追求したりする人も多いようだ。面白い小説だった。

ハプスブルグ家のオーストリー・ハンガリー帝国のボヘミア王国であったチェコの首都プラハが物語の舞台である。永年にわたる官僚政治のもとでの社会の様子も少しうかがえて興味深い。無気力な老人生活から銀行の守衛づとめになった父親の制服へのこだわりぶりは、まさにハプスブルグ家の栄光を慕う姿にみえる。カフカ家はボヘミアのユダヤ人家系、登場する3人の間借り人もひげが象徴するユダヤ人らしい。カフカはドイツ語で書いたがプラハもドイツ語圏だった。ちなみに『変身』という表題は元のドイツ語でも同じ、グレーゴルが変身した「虫」の原語は「害虫」を意味するそうである。

読んだ本:『変身』カフカ 池内紀 訳 白水Uブックス 2006 白水社

(2021/4)

2021年3月22日月曜日

池内紀さんのこと

池内紀さんが亡くなったのは2019年8月30日だが、ついこの間という感じがする。書物を通じて存じ上げていただけであって、もともと身近にいた人ではないから、もう会えない、声が聞けない、という喪失感はない。その語り口にはなぜか波長の合う人だった。読んだのはほんの一部の作品でしかない。まだまだ未読の作品があるから楽しみである。

自分の歳を棚に上げて失礼だが、おばあさんの方が愛読者だと投稿していたのを最近見た。温泉巡りや里山歩きなどの文章を通じて親しめて嬉しいという。池内さん良かったですねぇ。予想通りにいってよかったですねぇ。

ご自分の好きな外国の人のことを数年がかりで一生懸命翻訳しても、得られる印税はしばしばサラリー一ヶ月にもとどかない。専門のドイツ文学では小遣いすら稼げないのだ。

このように語っているのは45歳のとき東京大学教授という職を請けるにあたって10年の年期を限ったその後の方策のことである。ではどうするかと思案した結果の一つが、書くことは嫌いでなかったから趣味を活かすことだった。たとえば山歩きや温泉宿についてのことはすでに色々知っていたから、それを使おう。こうして書き出したエッセイのいくつかがおばあさん読者の嗜好にあったというわけである。池内さんにとっては温泉宿巡りも東欧圏をあちこち歩き回るのもひとしなみに価値ある「人生の休日」だった。いざ教師をやめるとなって、さしあたり三つの予定を立てた。1 カフカの小説をひとりで全部訳す。2 北から南まで好きな山に登る。3 なるたけモノを持たない生活をする。

仕事の面で選択を始めたわけだ。中心に大きな予定が入れば、その場かぎりのものはおのずからへっていく。1と2はこれまでしてきたことの「発展的延長」にあった。第二の人生だからといって、新しい人間になれるわけではない。過去とつながっており、過去を生かして将来に向かうしかない。3はまるきり逆であって、「モノを持たない」のは人間関係も含んでいる。そちらの過去とはスッパリ縁を切る。職業でできたつき合いは、友人でも知人でもない。自分のひそかなモットーにした。つまり、仕事の終わりが縁の切れめ。

こうして年期が明けて55歳、辞職願を事務に出して3月末から旅に出たそうである。生活を中断する。世間から一時オサラバをする。そのためには地球の反対側がいい。おなじみのウイーンへ行って旧友に会ったりした後は未知の街ばかり。ハンガリー、スロヴァキア、チェコ、ポーランド。どこであれ言葉が通じない。これが実に面白そうで芯から楽しんできたようだ。リュックに下着や何やかやを詰めてというスタイルは日本での銭湯巡りとあまり変わらないのもこの人らしい。

文筆業はいたってあやふやな職種であり、そもそも「業」とすら言えないが、間口をひろげておけば一応の生活はできる。50歳近くになって、そんな見通しが立ちだした。あれこれ寄り道したのが助けてくれる。どうやら人生にムダはないらしい、と書くが、相当に苦労されたはずだ。苦労を苦労と感じたかどうか、ムダをムダと思うかどうか、受け取り方をかえれば、またとない宝になる。フ~ム。やはりこの人物は人生の達人なのだと思う。

3の、なるたけモノを持たない生活をする・・・この人の家庭にはテレビ、パソコン、ケータイはない。自家用車も別荘ももちろんない。小型のラジオはあり、CDはどっさりあるそうだ。新聞もなく、たまにドイツの週刊誌シュピーゲルを買う。時代にとっくに置いてきぼりをくってるでしょうと自覚している。周回遅れの長距離ランナー、トシはとっても3年先にどんなものをつくれるか、たとえかすかであれ、自分の可能性に賭けていなくては、いきている意味がないのですよと断言する。

こんなことを書いたのは2016年、75歳ごろだろう。「記憶の海辺」は月刊誌『ユリイカ』に18回連載した文章にすこし手を入れて単行本になった。一人で全部訳した「カフカ小説全集」(白水社)の完結が2003年、それまでの肩書「ドイツ文学者」に加えて「エッセイスト」をつけることにしたそうだ。こうしておばあさんにも親しまれる物書きになったが、ドイツ文学者の池内さんは、カフカもゲーテもむかし日本人がありがたがって読んだのとは大違いなことを発見したようだ。だからこそのひとり全訳という大業を始めた。私の読んだカフカは昭和28年頃の新潮社版だった。友人マックス・ブロートが編集したとか喧伝されていたのを覚えている。カミュだのサルトルだのの実存主義とか不条理とかの言葉が流行ってその一環でもあった。池内さんが発見したカフカは「笑い」の文学でさえあるという。大学生だった私が読んだと思っていたのとは全く違っているという。だから新しい個人訳をぜひ読んでみたい。カフカだけではない、この『記憶の海辺』にはウイーンで池内さんが見出した宝物がいっぱい詰まっている。人生の達人に案内されながら再読して、こちらも宝さがしに出かけよう。いまや身体を運ぶのはままならず、ただ紙の上か池内さんの知らない電子本でしかできないが。

ついでながら氏の死因は虚血性心不全だったと聞く。病気一つしなかった氏であるが血圧が高かったらしい。人生の達人にもふだんの生活に落とし穴があったということだろう。眠りについたまま逝ったようだが年齢からは少し早すぎるのが惜しい。

読んだ本:池内紀『記憶の海辺  一つの同時代史』青土社 2017年 著者によるイラストがついている。各章にはその時代の世界の出来事が摘記されている。読み終えてもなかなか別れがたい書物。(2021/3)



2021年2月25日木曜日

『コモンの再生』内田樹著、を読んで

内田樹『コモンの再生』(文藝春秋 2020)の新聞広告を見たとき、頭をよぎったのはブラウン神父の物語「The Blue Cross」のある情景だった。

映画『シェーン』(1953)

フランボーを追ってハムステッド・ヒースを目指すヴァランタンと二人の刑事が、狭くて日の当たらない道を縫うように通り抜けると、突然誰もいない空き地に出た、という場面である。そこは公園と訳されていたが、原文ではcommon(コモン)なのだ。草っぱらであり、共有地である。日本では里山の入会地などなら珍しくはないが、市中の共有空き地はまず見当たらないかもしれない。

内田樹という人は直接には存じ上げないがウィキペディアには武道家という肩書がはじめに書いてある。あちこちの大学で教授職をもち、専門はフランス思想とかと紹介されているが、社会的に広く発言もされているからファンも多いようだ。この書物は出版社の編集者と時事百般について語り合ったうちから内田の発言をまとめてできている。2020東京五輪が迫る中でコロナ禍を迎えて対策に突発的な政策を振りかざしつつ退陣していった安倍内閣に取り残された世情が背景である。だから話題も自然に東京オリンピックから始まっていて、内田の発言に出てきた「コロナの再生」が書物のタイトルになった。

1964年のオリンピックでは日本中が盛り上がったかのように言われるが、子どもたちにとってはそうではなかった。遊び場がなくなったのだ。大田区の多摩川べりの工場街でも家の前には原っぱが広がっていたし、荻窪の祖父母の家の近くの雑木林にはお気に入りの散歩道があった。その雑木林がなくなって環八になったのはショックだった。世間ではそれまで土地に手を付ける気力も失っていた人々が、オリンピックで地価が上がり始めると皆結構な財産家になって、自分の土地を囲い始めた。子どもが出入り自由だった「コモン」が私有化されて鉄条網で囲い込まれた。「私有地につき立入禁止」。みんな貧乏だったけれども互いに助け合って暮らしていた「共和的な貧しさ」(関川夏央)が崩れ、貧富の差が現れてきた。豊かになるにも遅速があり、よそより早く豊かになった家は羨望と嫉妬の「邪眼」を避けて塀を作り門戸を閉ざした。内田にとって東京五輪は、遊び場がなくなったことと、テレビを見せてもらっていた隣家が閉ざされたことの記憶とともにあるという。

ここで内田が使った「コモン」はカッコ書きが示すように英語でいう意味とは違う。英語ではコモンに対照する語にエンクロージャーがある。共有地や共同で利用されていた土地を私有化したのがエンクロージャー(囲い込み)であり、この制度が行われるようになって大地主と小作農、富裕農家と貧窮農民、そして産業革命期には賃金労働者が大量に発生する。この書物では内田先生に「ホームステッド法」というアメリカの制度を教わった。なんとこれが映画『シェーン』の背景なのだそうだ。知らなかったのは私だけではないとみえて、ご存じないかもしれないが、と挿入句がついているので妙に安心した。

5年間国有地に定住して開墾すれば64ヘクタールの土地を無償でくれるという法律で、西部開拓に利用された。64ヘクタールは19万3600坪だそうだから、へぇと感心するだけで広さの実感がない。1840年代のことだそうだ。おかげでヨーロッパから何百万の人々が渡米して西部は一挙に開拓された。こういう事態を背景にして作られた映画が『シェーン』(1953)だったというのである。

あらためて調べてみた。homesteadには家屋敷つき農家の意味があり、アメリカ・カナダでの用法には移民へ移譲される自作農場とある。これが法律の名になると1862年にリンカーンが署名して発効したThe Homestead Actだ。法律というものは良くも悪くも働く。西部の乾燥地帯では土地争いに水争いがつきまとう。『シェーン』の物語の背景になったのは1890年代のワイオミング州にあったジョンソン郡戦争だそうだ。大牧場主が水源確保のために開拓農民を追い払って広い土地を確保するのに法律を利用した。善良な農民と悪徳牧場主という図式が出来上がるわけだ。大学生だった私も西部劇は好きだったが、アラン・ラッド扮するシェーンよりも殺し屋を演じたジャック・パランスがカッコいいと喜んでいたものだ。ちなみに彼は両親がウクライナからの移民だったそうで2006年に87歳で亡くなっている。

映画では、農家にとどまることになったシェーンが「私有地につき~」の囲いの柵作りを手伝う場面があったそうだが、覚えていない。多分それが牧場主との喧嘩のきっかけだったのだろう。内田は、『シェーン』というのは、土地はコモンなのか私物なのかという原理的な重い主題を提示している深い映画なのですと教えてくれる。

イギリスでもアメリカでも囲い込み、つまりコモンの私有化は土地を効率よく発展させることで資本主義にとっての正解だった。遊び場を失った内田の東京五輪は「コモンの喪失」に始まった。しかし近年はどうかと見れば、「コモンの再生」が始まっているのでないかと彼は考える。高齢化、過疎化、空き家、耕作放擲地が増えている。空き家も所有者不明の土地も役所は勝手に手を出せなくて困っている。そこで彼は「逆ホームステッド法」を適用してはどうかと提案する。例えば一定期間所有権の申立のない土地家屋は公有にする。そのうえで無住の家に5年住むとか、荒れた農地を一定期間作農するとかすれば払い下げる。土地は一定期間誰かが管理するべきではあっても私物にしてはならないと主張する。

フランス人がミシシッピー川を下って船から見える一帯全部が俺の土地だと宣言した上でルイ14世に進呈したルイジアナも、ナポレオン戦争の戦費調達のためにアメリカに売られた。代金は1500万ドル、平方キロあたり15セントだった。こんなふざけた売り買いが行われる土地というものはいったい何なのだろう。土地は私有財産というのはまるっきり虚構ではないのかと問う。その主張の仕方は何やらあやふやに聞こえるけれども、土地は私有財産と考えるのは間違っていると私もそう思う。何かもっとうまい言い方はないものかと考えている。『コモンの再生』と題されたこの書物の前半には、「公共」に対する日本人の考え方について種々の切り口から述べられている。コモンはカール・マルクスのコミュニズムの語源でもある。これを共産主義としたのは誰だったのか。内田は「共産」という言葉は日常生活にはないという。ただ内田は、立て万国の労働者というほどの大きな事を考えているのではない、お互いに助け合う「ご近所共同体」があればいいなと話しているのだという。それなら、いまあちこちでぼつぼつ出てきているのではないかと私は思う。(2021/2)

2021年2月2日火曜日

バッテリーがあがった――パソコンの話

 ノートパソコンの画面がスーッと暗くなっておしまい。めったにないことだから慌てた。電源ボタンを何度か押してみたが反応無し。そのうち起動したようだったが、すぐ黒い画面に文字が現れた。小さい文字が並んでいる。英語だ。瞬時に読み取れた単語はreplaceだった。すぐに消えた。

予備のPCで探り当てたのは次の文言だ。HP Battery Alert(下図参照)、HPはヒューレット・パッカード、このパソコンのメーカーだ。

電池量がごく僅かになっている、交換が必要である、詳しくは下記URLを参照せよ、といった文章である。大事なのは4行目の、Enter-Continue Startupだ。

スーッと画面が暗くなったときにEnterを押すと起動するから、それまでの作業内容を保存するなどして一旦電源を切る。その後に点検その他必要な作業をするのが妥当な手順だと思う。しかし、電気が切れることなどふだんは予期していないから慌ててパニックになる。意地の悪いことに、この画面は15秒で切れる。起きてからの警告でなく、前もって教えておいてくれれば良いが、それでは商品の印象が悪くなるだろう。ノート型を使うならこの程度のことは承知しておけよということなのだ。

hpにはバッテリーチェッカーがあって、ヘルプから呼び出せる。今回バッテリーを何日か休ませたら起動したので、チェッカーを試すと、充電はされているが障害があります、と表示された。通知領域のバッテリー・アイコンが満タン状態になって「完全に充電されました」と出たが、何分も働かないうちに切れてしまった。チェッカーは正直である。もはや充電しても貯めておく能力がないというわけだろう。

エラーコード601の内容を見ると、交換指示の理由として、機器の使用期間、またはバッテリーの使用期間が長くなったからだという。本機は2017年製でバッテリーは2016年製だ。4年では少し短い気もする。バッテリーは消耗品に違いないし、使われ方によって寿命に差が出る。高校物理で習った電気の仕事量、W=VxIを思い出す。バッテリーの電圧は一定だから仕事が多いと電流がたくさん必要というわけで理にかなっている。

ノート・パソコンのバッテリーは何のためにあるのか。電源のない場所でも使いたいというのがノート型の発想の元だという。搭載するバッテリーには大きさと持続時間の制約があるから、再充電可能な電池が使われている。コンセントに繋ぐACアダプターは電力会社から送られて来る交流電流をパソコンに必要な直流電流に変換する装置である。これに故障がない限りバッテリーは再充電を繰り返しながらパソコンを動かす。停電などの場合に作業中の仕事を保存するまでの時間稼ぎである。いうなればつなぎ融資であるな。デスクトップ型の場合には直流電流を得るための電源ユニットが内蔵で使われている。バッテリーはついていない。慎重な需要家はUPSという電源障害に備える装置を用意する。パソコンにはもうひとつCMOS電池というOSの起動情報を保持するための電池が要る。普通のボタン電池で5年ぐらいの寿命がある。時計を動かしているらしい。

さてノート型パソコンでバッテリー交換が必要になった。幸い当方のノート型はケースの一部分がバッテリーごと脱着自在になっている。中についているラベルにはreplace with 807957-001とあり、別の箇所に電池容量やら電圧など虫眼鏡が要るが読めるから、市場で探す手がかりになる。メーカーの在庫はないということなのでネットで探す。純正品として品番など手がかりが出ている販売業者が安心だと思う。実は当方はそこまでわかる店が探せなかったので品番だけで買ってみたが実際に取り付けてみるまで不安があった。ただし、買わなくてもバッテリー無しでパソコンは動いてくれる。取り付けないでいるとホコリなどが入るだろうから取り付けることにした。市販の価格の幅は数千円程度だがメーカー直販よりは遥かに安いはずだ。以上がこの度勉強した事柄である。(2021/2)


2021年1月10日日曜日

リポジトリって何だ?

論文や資料をインターネットで探しているとリポジトリというカタカナ日本語によくお目にかかる。最近の現象である。先ごろも朝河貫一について調べていて、早稲田大学レポジトリを知った。大学の説明によると「教職員、学生、研究員、校友などが作成した知的生産物をデジタル化し永続的に保存・公開するための電子的なシステム」である。早稲田大学の場合、システムの管理は大学図書館が行っている。これまで個人的な費用や努力によって、研究成果を公表していた研究者にとっては嬉しい制度だと思う。何年か前だが、書店で知人の博士論文が著書として刊行されたのを見つけたが、七千円であった。学術書の値段はどういうふうにして決まるのか知らないが、著者の長年にわたる研鑽の価値の表象にはちがいないから他人が高いの安いのといえるわけがない。それがリポジトリであれば無料で読めると喜ぶのは勝手すぎるが、無償で広く知られるということにも価値がある。著作権のうち複製権と公衆送信権を図書館に認めることで公開が可能になり、著作権まで譲ることではないらしい(筑波大学の説明)。こういう事情を知って、これまで何であるかを知らないままに利用していたリポジトリの役割が理解できた。

その一方で私はコンピューター・プログラミング用語にもリポジトリがあることを知っていたので、大学図書館のリポジトリとどこかで繋がっているように思われた。それで素人なりにあれやこれやと調べはじめた。

ネット上のIT用語辞典のひとつには、「リポジトリとは、容器、貯蔵庫、倉庫、集積所、宝庫などの意味を持つ英単語。日本語の外来語としては、複数(多数)のデータや情報などが体系立てて保管されているデータベース(学術機関の「機関リポジトリ」など)のことを指すことが多い。」と大要を説き、使われ方に、プロジェクト管理やバージョン管理に用いるリポジトリとシステム管理に用いるリポジトリの二通りの例があがっている。90年代の終り頃、町内会の会合で学者の方がリレーショナル・データベースを使えばそんなのはわけないですよ、と発言して煙に巻かれたことなど思い出した。IT用語辞典もデータベースのことを指すことが多いというからには、何も事新しくリポジトリを使う必要はなさそうにも思えるが、実務上はそうもいかないようだ。

現在進行しつつある日本の学術機関リポジトリの普及は、2006/7年に国立情報学研究所が学術機関リポジトリ構築連携支援事業(CSI委託事業)として各大学の機関リポジトリ形成を支援したことに始まるらしい。(注:CSIは、Cyber Science Infrastructureの略語。最先端学術情報基盤と訳される。)

もともとはアメリカの大学が学術雑誌の価格高騰に対処するためと研究果実を広く周知させるためオープン・アクセス方式を構築することを目的として開発された。アメリカの図書館のオンライン検索の進展などを調べているとクリフォード・A・リンチという人物が浮かび上がる。長らくカリフォリニア大学の図書館長だった彼が電子化の推進者であったようだ。この人はコンピューター学のPh.Dである。次の米国教育省サイトで、カリフォルニア大学におけるリンチ氏ほか1名による実施可能性研究(1990年6月20日)の概要が紹介されている。ここにはまだリポジトリの語は見当たらないが、「データベースのディレクトリ」が同様の意味で使われている。

https://eric.ed.gov/?id=ED354003

霞が関リポジトリ構想という文書を見つけた。発行元は総務省、平成22年3月の文書とことだ。沿革を含めた解説もあって参照資料として便利である。それから10年以上経っているがこの文書がどのように使われたのかさっぱりわからない。リポジトリが政府文書を扱う場合には非公開の部分にも対処しなくてはならないと明記されてあるのも興味深い。オープン・アクセスをうたいながらも隠すべきは隠すべしとあるのは人権配慮のことならいいのだが。URLを次に書いておく。https://www.soumu.go.jp/main_content/000537359.pdf

『文藝春秋新年号』に『東洋経済オンライン』でcovid-19のデータ分析を読者にわかりやすく伝えている荻原和樹さんについての記事があった。そのウエブサイトは見事にグラフで埋められている。データとコードソースはGITHUBで公開している、と書いてある。したがって、そこに発表されている資料は誰でも自由に利用できるわけである。現実に操作ができる医師たちは感染対策に非常に重宝しているという。当方は全くのシロートでグラフをいじる技がないので、まず言葉の意味GitHubから探ることになる。例えば、あるサイトで調べると、

Gitは、自分のパソコンなどのローカル環境に、サーバー上にあるリポジトリの複製が作成されます。サーバー上にあるリポジトリをリモートリポジトリ(共有リポジトリ)、ローカル環境に複製されたリポジトリをローカルリポジトリと呼びます。ローカルリポジトリにはすべての変更履歴がコピーされるので、ローカル環境のままで、サーバーに接続しているのと同様に作業することができます。GitHubは、GitHub社という企業によって運営され、個人や法人を問わず利用できるWebサービスです。

という説明があって、Gitを使ってエンジニアを支援するWebサービスがGitHubであると結論される。東洋経済オンラインでは、現実の医師たちに大いに助かりますと喜ばれている。荻原氏の仕事はデータ・ジャーナリズムとよばれる。プログラマーの技術を持ちながら世の人々にデータをわかりやすく興味深く説明したいという目的があるそうだ。ちなみに東洋経済オンラインでは、「新型コロナウイルス 国内感染の状況」という特設ページにグラフを署名入で掲載し、昨年2月28日から毎日更新している。https://toyokeizai.net/sp/visual/tko/covid19/

それはそれとして、リポジトリが頻々と出てきた。ここにいうリポジトリでは、日々のプログラム作業では加除訂正が頻繁になされても、以前のを抹消することなくその都度新版が記録されて累積される。必要なら訂正前の旧版に戻れるというほどの意味がわかればいい。このような仕組みを上述のクリフォード・リンチが文字言語の学術情報に応用しようとしたのが、学術機関レポジトリの起源であろう。

リポジトリは英語のrepositoryのこと、日本語ではレポジトリと書く場合もある。英語の意味は集積所とか貯蔵所とか、納骨堂にいたるまでいろいろの場所であり、もとの動詞の休む、休ませる、などのreposeにもとづいている。モノを集めて用途に合わせて置いておく場所だ。英語ではどんな用途に使ってもrepositoryの表記は変わらないが、用途を示す形容詞がつけられるのが普通のようだ。日本語ではリポジトリそのものを何らかの漢字にしてしまう。逆に言えば使いみちによって新しい表記を作らなくてはならない。使いみちが増えるにつれて意味が周知された語彙が足りなくなる。しかたがないからカタカナのまま使う。解説書などには最近は工夫してパッケージ・リポジトリ(配布所)のように表記している。この場合パッケージは既知の対象物である。大学のリポジトリは、Institutional Repository(機関リポジトリ)と表記するが、機関はすでにして学術機関の略である。日本語の語彙は融通無碍なのだ。上例はどちらも使用する場面が限定され、いつでもどこでもという具合にはいかない。また、文章ではよしとしても、音声では意味が取りにくい。喋る側はその都度、聞く側で用途を判断せぇ、というわけだ。意味を表す漢字で外来語を表示した明治人は知恵者であったが、書物を通じての外国が相手だったからそれで間に合っただけのことだ。その後遺症は未だに続いている。 

こんな事をくよくよ考え始めたのは、大学図書館のシステムに使われているリポジトリが、コンピューター・プログラムの説明にも出てくるから戸惑ったためである。違う世界に同じ言葉があるという感じだ。けれどもリンチ氏の考え方を知れば同質だと理解できる。運用される場が違うだけだ。あるサイトには、プログラム言語のリポジトリは機関リポジトリとは別であると書いてあるが、違うとも同じとも言える。ずいぶん考えてみたが、実りのないことであった。下手な考え休むに似たりとは言うけれど、休むどころかくたびれた。 

(2021/1)