にこやかな顔の半藤一利さんがカバーになっている『歴史探偵 忘れ残りの記』(文春新書)。時々開いて拾い読みをする。終わりのほうに「わが銀座おぼろげ史」という章がある。昭和28年、半藤さんが入社した文藝春秋新社は銀座西5丁目のみゆき通りにあったが、30年には銀座西8丁目に移転した。この銀座西何丁目という町名はいまはなく、一帯は西も東もつかない銀座何丁目という呼び方になっている。関西育ちのわたしの方向感覚は、阪神間の北と南が基準で、山があるほうが北、海が南である。東京に来ると山も海も関係がなく、歩く場合にはともかく、地図上では縦横を間違う。だから、みゆき通りを歩いたことはあっても方角は定かではない。クラシック音楽の洋菓子喫茶店「銀座ウエスト」だとか、フランク永井の「西銀座駅前」などは町名改変で由縁がわからなくなった。おぼろげ史で懐かしみながら、地図を当たったりして自分の銀座もおぼろげに思い出した。
東京にいたのは昭和26年から30年春までの在学中が初めてであったが、学生分際が銀座に用があったのは多いはずはない。半藤さんによると、銀座の松屋が接収解除されたのが昭和27年9月だそうだ。進駐軍のための買い物センター、PXとして使われていたのだ。オフ・リミットという言葉がよく使われていた。服部も伊東屋もPXだったという。松屋は接収解除されて翌28年に新装開店したとほかの資料に書いてあったが、アルバイト先の会社から売り場に派遣されたのはその暮れだったと思う。デパートから昼食の御馳走にあずかったのは、ちょっと例がないかもしれない。
わたしのアルバイト先は日本信用販売という会社で、世間では月賦屋のあだ名があったらしい。城山三郎が創業者山田光成の善意と苦闘ぶりを讃えて綴った物語『風雲に乗る』を読んでみたが感心できなかった。名古屋にあった山田が計画して始めた事業は、サラリーマンが乏しい給料から、耐久消費財や値段のはる商品が買えなかったのを、販売店に月賦で売ってもらう仕組みだった。月給数千円の時代にランドセルとか自転車、ミシンなどは、日常の生活にぜひとも欲しいものである。インターネットで参照すると、戦前のランドセルには豚皮が使われ、昭和16年の記録に9円80銭というのが出ているが、戦時には革製品は民需には禁止された。紙や竹、さめ皮など代替品が試みられていたらしい。牛革製品が出回りだしたのは昭和26年頃、2000円、大卒公務員初任給6,000円ほどと記録されている。自転車は城山の小説で6千円と書かれている。山田は販売店月賦組合を組織して消費者大衆には喜ばれたものの販売店の資金が続かず山田はその資金繰りに苦心した。名古屋で自滅した山田が後援者を見つけて東京で再起したのが前記の会社であるが。結局は政治屋に利用される。
昭和26年に設立された日本信用販売の本社は本郷にあった。盆暮れのボーナス時期に協力百貨店に通用するクーポンを発行した。山田は同一会社での勤続年数と家族持ちであることがサラリーマンの信用の基礎をなすとの考えから、一般会社から法人会員を募って、一定の信用資格を認める社員を信用販売会社に紹介してもらう。わたしの仕事はデパートに出向して、紹介されてきた社員が持参する書類を点検して、手元の書類と照合して認証印を確認してクーポン券を発行することだった。記憶では上場会社の社員が多かった。わたしたちが発行するクーポンを手にした人たちは心なしか安心したような気配だったのを覚えている。出向いたデパートをいちいち覚えてはいないが、銀座の松屋だけは鮮明に覚えている。昼ご飯を御馳走してくれたからだ。会社からはアルバイト料だけだったから、デパートに出向く日のほかは10円のコッペパンに隣の肉屋で5円のコロッケ二つを挟んでもらった。それが出向いた先で御馳走してくれて、メニューがおでんに茶飯というのにまたびっくりした。学生には高級であった。
日本信販のその後は知らずに終わったが、デパートの月賦販売を認めることに小売団体から反対が出て政治屋が動いた話を噂に聞いたことがある。昼飯のことは別にしても割のいいアルバイトだったし、就職難でもあったから入社を誘われてかなり迷ったのは事実である。城山の小説は主人公がアメリカに出発するところで終わっている。行先はシティバンクのように書いているから、クレジットカードに衣替えの機会だったろうと思う。城山は小説の最後に「ある経済人の事業歴の一部をヒントにしているが、登場人物の設定など、すべて作者の虚構によるものであることを、おことわりします。」と述べている。大衆消費社会の救世主的存在を目指したはずの山田の初心はどうなったのか。のちにJCBを設立したり、UFJニコスになったりしたこの会社の結末は大資本に呑まれてしまったわけだろうから山田の敗北だ。城山は高潔な精神が泥まみれになるのを描いたとは思えないけれども通俗小説になってしまった。
同じころの銀座で思い出すのは生演奏が聴けるジャズ喫茶が誕生したことである。「テネシー」と呼んでいたが正式には「コーヒーショップ・テネシー」、コーヒーは100円だったとネットの情報にある。昭和28年9月の開店、西銀座6丁目だった。わたしもどこで知ったか足しげく通った。通学用のカバンを持ってジャズを聴きに行ったとは今なら考えられない。その頃はハワイアン・バンドもジャズバンドと呼ばれていて、バッキー白片やらポス宮崎なども来た。鈴木章治のリズムエースが来た。ジャズピアノの穐吉敏子『ジャズと生きる』(岩波新書)にこの店のことが詳しく載っている。何しろ彼女はここでオスカー・ピーターソンに聴いてもらったのが縁でアメリカに行くのだから。読んでみるとジャズ界の内輪など何にも知らずに、一杯100円でのんきに数時間過ごしていた自分が阿呆に思えるが、当時はだれもがポピュラー音楽に夢中だったのだ。翌春、サラリーマンになって大阪に移ったから、その後の「テネシ-」はどうなったか知らなかったが間もなく消えてしまったようだ。ナベプロの渡辺晋の事業だったとは知らなかった。最初の月給でレコードを買ったようだ。出始めたLPやドーナッツ盤EP、ドリス・デイ「ケ・セラ・セラ」、イヴ・モンタン「詩人の魂」などだったと思う。大阪の街で立ち見ならぬ立ち聴きでバンド演奏を聴いたのを覚えているが、たぶん映画館並みの入場料だったのでないだろうか。レコード・プレイヤーを自作したのもいい思い出だ。と書いてみたが完成した記憶がない。木工だけで終わったのかも。
銀座の思い出は多くはないが、大学に入ってすぐ東劇で『駅馬車』を見た。1939年製作の映画だから時間感覚がおかしくなりそうな話だけれど、色々調べていると劇場プログラムがネットで売りに出ていた。3200円だ。昭和26年と書いてあるから私の記憶に合っている。いまの東劇は高層ビルらしいが行ったことはない。
銀座ではないが、神楽坂まで映画を追っかけたことがあった。昭和29年だ。たしか『雨に唄えば』(1952)だった。テーマ曲”Singin' in the Rain" を昭和21(1946)年に聴いている。何の曲だか知らなかったが、和歌浦湾に停泊しているアメリカの軍艦から朝6時ごろ聞こえてくるのだ。仮住まいしていた親戚宅の奥の部屋から見つけ出したレコードの中に入っていた。原曲は1929年出版のポピュラーソングだが、私が聴いたレコードはおそらく戦前の輸入盤だったろう。毎朝のように軍艦から聞こえてくる音楽は、日本人が知る以前にアメリカでは手を変え品を替えして大流行していた歌だった。そして戦後に、無声映画からトーキーへの裏話をミュージカルに仕立てた映画『雨に唄えば』の主題歌として再び世に出たのが1952年、日本での封切は1953(昭和28)年4月1日と記録されている。おぼろげ話が次々思い出されるが銀座から離れてしまった。この辺でやめておこう。(2021/5)