2023年4月4日火曜日

日々の卆論―生物学

 90歳になった。賀寿で言えば卒寿である。卒の漢字は卆とも書くので90を表す文字に使われる。日常、格別他にするべきこともないので、読んだり書いたりして過ごしている。というわけで今回のお題は「日々の卆論」とした。

昨年は本を読む時の関心が物理学から脳に移り生物学になってきた。どれをとっても知識がないのに無謀なことであるが、わかってもわからなくても面白く感じていた。ところが中でも生物学になると自分の守備範囲に大穴が開いていることがよくわかった。勉強の科目で言うと化学だ。半世紀も前に生物学はカエルやトンボ相手ではなく分子生物学と遺伝子の世界に変わっていたのだ。 

早期退職を思いついた頃ワープロやms-dosがあらわれた。その流れで今はもっぱらPCだ。必須の勉強道具になっている。アウトプットとインプット両方に重宝している。用語も論文も調べられるが、生物学に興が乗って広がりすぎた。細胞の中でアミノ酸がはたらいてエネルギーを作り出す、その工程は物理学だがアミノ酸がエネルギーになるのは生化学だ。話だけでも驚きであるが、モーターがあって回転するのを目で確かめた研究が語られる時代になっている。面白いがやはり基礎知識と用語知識が必須であると思い直した。

新聞の「売れてる本」のコラムに小林武彦『生物はなぜ死ぬのか』(①)の評が載っていた。人の死はプログラムされている、生き物は次の世代のために死ぬ、難易度は高校の復習程度などとあった。それならと実際に読んでみると、「高校程度」の程度の物差しが自分とは大違いであった。それに自分の関心事も生死のことはすでに通り過ぎている。この本に限らず、わからない用語などをインターネットで自習していると、わが関心事は物質でできているはずの人間が生きているとはヘンではないか、そもそも地球の始まりは無機質の世界だったはずが、なぜ生物が湧いてきたのだ、これもヘンだ、という具合に疑問が次々に出てくる。

『Whai is life?、生命とは何か』ポール・ナース著(②)がよさそうと考えて、読み始めると疑問が解けそうに思える。それでもやはり一般読者用に書かれているから、学界でまだ仮説の段階にある事柄については避けているようだ。でもこれなら面白い。

さて、生命とはなんぞや、自分なりに考えついたことは、それが機能であることだ。生き物には器官があり、組織があり、細胞がある。細胞のシステムがはたらいてくれるから私たちは生きているわけだ。そういう細胞の働きを生命と呼んでいる。このように考えついて②を開くと、話は細胞から始まっていた。

①の本は望遠鏡の話から始まっている。口径30メートルの望遠鏡で138億光年の昔を覗こうというTMT計画だ。何が見えるのかは別として、距離を克服する技術である。②の本は肉眼では見えない微細なものを見る技術の発達による発見を語る。光学の発達は素晴らしい、だけど光は何だかよくわからない。

細胞は小さなものとの思い込みは、鶏卵の黄身も一個の細胞だと教わってヘェと吹っ飛んだ。細胞はあらゆる生命体の構造単位であり、生命の機能単位でもある。1839年『細胞説』が出てきた。あらゆる生命体は細胞でできている。そしてすべての細胞は細胞から生まれる。これは細胞分裂のことだ。

細胞は脂質でできた細胞膜に包まれている。その細胞の中にも膜がある。大きいのは「細胞小器官」で、ほかにそれぞれ別個に膜に囲まれている。そのうち「核」は染色体に記された遺伝命令を含む細胞の指令センターだそうだ。「ミトコンドリア」はミニチュアの発電所で、細胞が増殖し生き延びるためのエネルギーを供給している。心臓の筋肉の一つひとつの細胞に何千ものミトコンドリアが必要だそうだ。需要量に応じるためには供給装置の規模があまりにも小さいため数が要る。「膜」はただの仕切りではない。その内外でイオンの電位差ができるそうだ。電位差という用語から物理学的な見当がついた。細胞内には他にも様々の器官や区画があって高度な生産・物流機能を果たしている。

今年の宮中講書始の儀では脳神経細胞内の物流機能が講じられていた。テレビニュースが報じた画面では両陛下の手元には刷り物があったが、参列者には配られていなかった。きらびやかに並んだお姫様方にはミクロの世界の不思議は伝わったのだろうか。誰かが居眠りをするだろうと期待して画面を眺めていた。

ミトコンドリアの内部で行われているエネルギー源の産出工程を推測したのはイギリスのピーター・ミッチェルだ。「変人化学者の推測」という小見出しでポール・ナースはあらましを説明してくれる。1978年のノーベル化学賞を受けている。受賞理由は「ATP合成のメカニズム発見により」とWikipediaにあるが、ミッチェルが「化学浸透圧説」をNature誌に発表した1961年には誰もが信用しない珍奇な推測だった。ミトコンドリア内膜を介して生じる水素イオンの電位差勾配を利用するATP合成過程が年を追ってようやく理解されるようになり、さらに日本の研究者が産出装置と観測技術を開発して分子モーターが回転する実証実験に成功した。その2年後の受賞だった。吉田賢右(よしだまさすけ)東京工大名誉教授はこの受賞に貢献できたと語っている。『生命誌』サイトの同氏談話や野地博行氏の記事は研究と実験がよく分かる。

https://brh.co.jp/s_library/interview/67/

https://www.brh.co.jp/publication/journal/043/research_11

②の本は発行元がうたう著名人の推奨が派手であるが、良い読み物であると思う。訳文が若年層を狙ってかあえてくだけた風になってるのが、かえって文意をそらしかねない気もするが言葉に難しさはない。編集ミスによる誤記を見つけた。「人の30億個ともいわれる細胞すべてに、最低ひとつは微生物が棲んでいる」とあるが、「30兆個」の誤りであろう(電子本で読んだのでページ数が指摘できない)。

基礎を学ぶつもりでNHK高校講座「生物基礎」を利用することにした。手始めに第3回「生命活動を支える代謝」を動画で見てみる。講師(東大教授 高橋紳一郎)の説明がスルスルと頭に入る、これは実感である。伝え方が上手だ。言葉もよく分かる。これはやらずばなるまいという気になった。

ちなみに同じ動画でもYoutubeの講座トライがある。もっぱら受験対策のようだが、この動画に付帯する字幕は機械変換だろうか誤変換が多い。まことにお粗末だ。NHKのほうはさすがと思わせる。

話が前後するが、『What is life?』の著者ポール・ナース氏も、2001年にリーランド・ハートウェル、ティモシー・ハントとともにノーベル生理学・医学賞を受賞した。wikipediaには、「分裂酵母を材料にして細胞周期に欠損をもつ変異株の分離を手がけ、cdc2と呼ばれる遺伝子が細胞周期の主要な制御因子であることを見いだした。cdc2がコードするプロテインキナーゼは、サイクリンと複合体を形成して、細胞周期の進行を司ることが判明」、この業績による受賞と説明がある。②にも細胞周期とcdc2について発見の経緯を述べているが受賞には触れていない。訳者があとがきで著者はノーベル賞受賞者であると明かしている。

書評によると、この本に図版が一切ないのは言葉を重んじる英国流だとあった。図版多用は米国流かも知れないがわかりやすくていいと思う。高校講座で、「ATPといっても白い粉です」と野地氏が写真を見せてくれ、更には同氏らが実験したF1モーターなどの模型図があって、機構がイメージしやすい利点が大きい。対象が目に見えない物だけに効果絶大だと思う。

筋肉細胞が収縮するメカニズムに関しては日米の研究者間で論争が続いている。二つの蛋白質繊維、ミオシンフィラメントとアクチンフィラメントの間で生じる滑り運動が筋繊維の短縮をもたらすことまでは判明していて争いはないが、アクチンを動かすミオシン頭部が、一方は機械部品のように固定されているとするに対して、他方は柔軟なブラウン運動をしてその都度都合の良い方に動くとする考えである。後者が日本の研究者で、考え方の基礎に自然物の動きにブラウン運動的なことは往々見出されるとの観念も含まれているように思える。対するアメリカ、スタンフォード大学はメカニズムにそれはふさわしくないとの前提観念があるらしい。日本チームはすでに実験装置と観察機器を開発済みで、この微妙な物質の動きの現実を見せながら説明中であるようだ。「百聞は一見にしかず」、人は見ることで信用する。

すでに本になり教科書に説明が載るような事柄であっても、なお細かい点では未解明であり得るし、気づいていないこともたくさんあるのだろうと想像できる。だからどこにも書いてないことが研究対象であることも多いし、当方の素人疑問の説明がなかったりもする。学校の頃になかった学問の種を今頃拾い歩きするような日々の勉強、といえば多少かっこいいいかも知れないが、分裂症の予備軍かもしれない。適当に時間をつぶしていればそのうち自然に人生が終わるだろう。

推奨できる読み物:生命誌研究館 サイエンティスト・ライブラリ https://brh.co.jp/s_library/interview/ 

(2023/4)