2016年11月15日火曜日

北白川宮のこと  台湾征伐

瘴癘の地という言葉がある。熱帯地など伝染性熱病や風土病がある土地の意味で、近くは外務省の在外公館勤務者に関わる規定に使われていた。現在は不健康地という表現に変わっているかとも思うが、要するに、そういう地域に勤める人には健康維持の目的で有給の長期休暇を与える制度だ。勤務期間ひと月に対し、ひと月の割合でもらえるというから、程度問題もあろうがアリガタイ制度である。

私が訪れた1975年のシンガポールも外務省ではそういう土地にランクされていた。まだ同地が日本人一般にはよく知られていなかったこともあるが、中心部は冷房の行き届いたビルが並ぶ風景で、住宅地もゴミや蚊はリー・クァンユー首相の名だたる罰金制度で清潔に保たれ、緑の多い庭園都市を誇っていた。それでも日本大使館の人たちは「瘴癘の地」の言葉に護られて優雅な勤務であったようだ。思うに外務省規定は明治時代の想定の名残であって、役人たちは自分たちに有利な制度で、しかも外部からは見えにくい事柄だから長らく今日まで持ち越していたのだろうと思う。

岡田英弘氏の本で教わったが、今の大阪の難波(なにわ)という土地は、幕末の頃でも低湿地帯で、マラリア患者がいたという。マラリアを媒介するアノフェレス蚊は標高がある程度以下になると非常に多くなると書いてある。アノフェレス蚊って何だ?と調べたらハマダラカの学名だそうである。そういえば仁徳天皇が大規模な灌漑工事で大和川の水を抑制したり、今日でも掘割がたくさんあって八百八橋とかいわれたりするのは、大変な低湿地であったためなのかと今にして改めて思ったりする。マラリアは熱帯で罹る病気と思っていたが、日本にいても罹ることがあるというわけか。古代の日本は今より暖かかったのか。去年、今年と駆除に大騒ぎしていたのは、デング熱とジカウィルスを予防するためだった。蚊は恐ろしいと考えて用心するに越したことはない。

台湾が清國の領土であった頃、清国政府は「化外の地」と称して統治を放擲していた、まさに瘴癘の地であった。日清戦争の勝利で清國から割譲された台湾では、新たな事態に承服しない勢力が蜂起して日本政府に従わないため「台湾征伐」の軍が起こされた。1895(明治28)年のことである。台湾ではその年の干支から(いつ)()戦争と呼ばれるらしい。
北白川宮(よし)(ひさ)親王という宮様は、台湾征伐に向かってマラリヤに罹って亡くなった。台湾征討近衛師団長だった。「明治」と「宮様」から「宮さん宮さんお馬の前でひらひらするのはナンじゃいな、とことんやれトンヤレナ」という歌を思い出す。鼓笛隊を戦闘に「しゃぐま」と呼ぶ赤い毛の付いた帽子(?)の大将以下が行進する絵をよく見たものだ。
台湾征討隊は日清戦争の後のことだから、もちろんあんなものではない。しかし総大将、まして宮様なら普通は最後尾の安全な位置に留まって全体を俯瞰しながら指揮をするというのが古来兵法の建前のはずだが、この宮様は違った。わらじ履きで脚絆を巻いて、双眼鏡と弁当を腰につけ、竹の杖をついて歩き、夜は野営して兵とともに進んだという。5月末に北西部に敵前上陸して台北を経て島の西側を南下する。
9月に入るとマラリア性の熱病「(おこり)」が師団を襲った。10月下旬に宮様も高熱に倒れた。すでに亡くなった将官もある。途中から轎(きょう)という駕籠で運ばれ、最後は竹で編んだ寝台に横臥して終焉の地、台南に着いた。階級の上下を問わずコレラ、赤痢などの風土病に脚気が加わって健康者は全兵力の五分の一になったとある。ちなみに陸軍の将兵が五万人、軍属と軍夫二万六千人、軍馬九千五百頭という陣容であった。軍馬の数には驚くしかないが、いまのジープ、トラックの陸揚げを考えれば当然かもしれない。
森鷗外も乃木希典も従軍していた。鷗外は台北で作戦部隊と別れ、軍医監として衛生業務の指揮などにあたった。宮様とはかけ離れた暢気な駐屯だったらしい。鷗外自身の記録は「徂征日記」に残されている。

戦い終わって10年の後、鷗外は請われて、宮内庁ほかからの資料によって「能久親王事蹟」を編んだ。おかげで今、私たちは陣中の様子を知ることが出来る。
政府は宮の喪を伏せたまま柩を日本に輸送し、東京に着いてから死が発表されて国葬が営まれた。一方現地では宮は台湾開拓の神とされ、台湾神社、台南神社ほか順次地方に神社が創建され66社にも及んだが、大東亜戦争の日本の敗戦により台湾統治が終わると一切が破却された。

神となった能久親王自身は靖国神社に合祀されたという。
ここでちょっと首をかしげる向きも多いと思う。能久親王の経歴を振り返れば幕末には上野寛永寺貫主、輪王寺門跡を継いだ。成り行きとはいえ、戊辰戦争では上野に立て籠もった彰義隊に担がれ、しゃぐまの官軍に攻め立てられて東北まで落ちていった挙句に降参、自身は謹慎の身となった。のちに許されて宮家に復帰するが、一旦は賊徒に加担したわけである。招魂社として設立された靖国はこれら賊徒を明確に排除したはずである。なのに、なぜ。
ここに書いた宮様の話は、主として、黒川創氏『鷗外と漱石のあいだで』という著作に拠っている。著者は侵攻作戦における宮様の奮闘ぶりに、かつて彰義隊に担がれて多くの配下を失ったことへの後ろめたさに執念の源をみる。とすれば、靖国に祀られたことは宮様を苦しめるものだったかもしれない。
それにしても、靖国神社の曖昧さとは別のことだろう。

話のついでに悲劇の宮家と呼ばれた北白川宮家の係累に触れておこう。
能久親王が48歳の生涯を台湾で閉じたあと、この宮家には子息と孫の不幸が重なって襲う。

能久親王の没時、遺児成久王は8歳であったが、成人して明治天皇の第七皇女房子内親王と結婚、1910年、第一王子の永久王が生まれた。1921年に妃同伴でフランスに留学、やがて自動車運転を覚え自家用車を買う。運転に慣れてきたころ、ノルマンディまでのドライブを思いつき、同時期滞在の東久邇宮稔彦王や朝香宮鳩彦王を誘った。東久邇は運転未熟ぶりをみて計画を危ぶみ、やめておくように諭したが聞き入れず、房子妃、朝香宮ほかフランス人2名と出発して、案の定、事故を起こして即死した。192341日だったそうだ。朝香宮は重傷、房子妃は車の下から助け出されたが下肢に障碍が残った。

194094日。30歳になった永久王は参謀の陸軍砲兵大尉として内蒙古の張家口に赴任していた。この日、演習中に不時着してきた戦闘機の翼の先端に接触して重症を負い、その日のうちに絶命した。

能久親王妃富子は旧宇和島藩主伊達宗徳の次女、一旦、島津久光の養女となった後、能久親王に嫁いだ。先に土佐藩山内容堂の長女光子という妃があったが、子はなく、光子は病気を理由に宿下がりしていた。他に5人の側室との間に10人の子女がいたが、富子はその教育にも熱心であったという。成久王は第3王子にあたるが、事故で亡くしたあとは葉山の別邸でひっそりと暮らし、1926年に台湾神社に参拝したほかは表立った行動はしていない。1936年、74歳で死去している。成久親王妃房子は戦後女性初の伊勢神宮祭主となり、また皇籍を離脱し北白川房子となった。197484歳で死没。

永久王妃祥子は男爵徳川義恕の次女、1935年に嫁いだ。3歳の長男が北白川家を継ぎ、47年皇籍離脱となったあと、北白川房子と共に北白川家を支えた。1969年女官長に就任、香淳皇后に長く仕えた。2015年急性肺炎で死去、98歳。

台湾征伐の現地の様子なども含めて、こういう細々した人々の暮らしは歴史の表面には出てこない。宮家の不運続きへの同情もあって、余計なことかもしれないが記録しておく。

ついでにもう一つ。台湾征討軍は二つの船団に分かれて出発した。一つは輸送船「横浜丸」の船団、宇品から出帆した。台湾総督樺山資紀、森鷗外らが乗っている。他は満州旅順からの輸送船「薩摩丸」の船団。宮様らが乗る。両船団は527日に途中の沖縄中城湾で落ち合って総督の命令を伝達した。次いで台湾現地情勢を見極めた上で上陸地点を定めることを予定して、二日後の29日午前10時に台湾基隆の東北方向にある「尖閣島の南5哩」すなわち「北緯2520分、東経122度」に再集合が命令された(ここでの哩は海里の意味)。この「尖閣島」は現在中国との間で対立している島々ではない。別の尖閣島が存在したのだ。もちろん緯度経度も違う。それでも当時から二つの同名の島々があったことを著者は明らかにしている。
当時の英国海軍の海図・水路誌での呼称が同じPinnackle(尖塔)を用いた呼称が使われていた。船団はこの水路誌を使用いたようだと著者は突き止めた。さらにもう一つ別の島に同様の名がつけられて(Japanese)としてあるのを見つけたという。これはトカラ列島の島である。三つも同じような名前がつけられていたということは、つまり、ある程度距離が離れてさえいれば、同じ名がつけられていても別に航海に不自由はなかったということであり、それらがどこの國に属するかは気にかける者もいなかったわけである。

思えば今の尖閣問題、議論すれば喧嘩になるから棚上げにしておこうという知恵がどうしてわからなかったのか。中国人、特に商売人は信頼すれば、書面も何もなしで約束は守る人たちなのだと私は思っている。棚上げしたことを蒸し返したりはしないものだ。

以上の話題は黒川創『鷗外と漱石のあいだでーー日本語の文学が生まれる場所』(河出書房新社2015年)から借りた。本の主題は副題にあるように別のところにある。主に鷗外や漱石の時代に台湾、清国、朝鮮などの人々がどういう言葉を用いていたのか、そこで日本語がどのような作用を及ぼしたのか、などが語られる。

その間に関連して鷗外と漱石の私的生活に文献を通じて立ち入ってもいる。留学生たちの日本における活動や作品に疎い私には厄介な資料であるので、知識を増やしてから改めて読んでみよう。(2016/11)

2016年11月8日火曜日

古代史拾い読み(その5)万世一系という嘘

最近の政治家の発言のなかに、神武天皇の偉業を偲び、というくだりがあった。続いて万世一系と言ったような気もするが、これは当方の思い過ごしかもしれない。神武天皇は神話の中の存在であることをこの政治家は知らないのだろうか。

113日は文化の日であるが、これを明治の日にしようという気運が出ている。113日が文化の日になる前は明治節だった。明治天皇の誕生を記念する日である。当時は祝日といわずに祭日といった。小学校では全員登校してお祝いの式があり、明治節の歌を歌って、戦争がひどくなる前は紅白の饅頭をもらって帰ってきた。「今日の良き日は大君の 生まれたまひし良き日なり」で始まる歌詞のはじめだけ覚えている。良き日がふたつ重なるのは変だと今では思っているが、これで正しいらしい。

ある時期までは「文化の日」という言葉には「菊薫る」という言葉が枕詞のようについていた。多分新聞が使っていたのが一般化したように思える。
季節としては菊が咲き誇る時期であるからこういう物言いが生じたのだろう。最近のテレビでもこの日の街の風景や話題には、あちこちで開かれる菊の展示会や優秀作品表彰の様子が映される。菊と文化が結びつくのは季節が一致するからか、考えてみるとその必然性はない。あるとすれば「菊」に原因がある。菊は天皇家の紋章である。花びらが十六枚の、いわゆる「十六菊」である。だから「文化の日」に「菊薫る」と飾りことばをつけた、その心は、元は明治節だったのだとの思いであったに違いない。

現人神(あらひとがみ)というおかしな言葉を作り出したのは明治であるように考えていたがそうではないらしい。天皇を神と考えるのは万葉の昔からであるらしい。明治は、神聖にして侵すべからずと憲法にうたっているのを利用して、神であるとまでしてしまう空気を作り出したとでもいえばいいか。
いずれにしても、その天皇家の菊の御紋の効き目は強く、いい目をした人も多いだろうが、このためたくさんの兵隊がひどい目にあった。何が菊薫るだと言いたいところではあるが、世の中はおしなべて菊薫るで平穏だった。
そんなこんなもどこへやら、ただ明治を取り戻そうとかいうオカシナ合言葉で明治の日を作ろうという。何の事はない明治節に戻せというに等しい。つまり今の世の過去を知らない人が言うことだ。歴史を知らないとまでもいえない、近い過去を知らないのだから、そんな浅い知識で政治に携わってくれては困るのだ。

万世一系というのも相変わらず使われている表現である。日本最古の歴史書である『日本書紀』は編纂当時の天皇が正統であることを示すことを目的として、累代の天皇紀を記述している書物ときくが、万世一系の語はないようである。
明治22(1889)年公布の大日本帝国憲法第一条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定められたのが、「万世一系」という言葉が普及した根源であろう。
一系とは何を指すかということでは戦前も戦後も議論の定まらない課題ではある。おおかたの頭のなかでは天皇家の血筋の問題として考え、男系という考えが優勢であるらしい。現皇室でも男系がいなくなることが一時的に問題になったが、幸いにして問題が自然消滅したので、喫緊の問題として議論する姿勢は消えてしまった。

昭和の小学生だったころ、第124代の今上天皇ということが刷り込まれて未だに消えない。それが最近では民主党政権の官房長官殿でさえ、いまの天皇さんは何代目かも知らないと答えて話題になった。以前はジンムスイゼイアンネイイトク…と暗記させられた向きも多かったはずだ。

ところが頼りにされた最古の歴史書『日本書紀』に載る神武天皇に始まる皇統は作り話だったということがわかって来た。民の竈が賑わっているなと謡った仁徳天皇より前はただのお話で真っ赤な嘘だというのが定説である。
そこに述べられていたのは671年の天智天皇の死によって生じた後継争い「壬申の乱」で天武天皇が勝って即位する673年までの出来事をなぞって創作された物語にすぎない。なぜこのような創作が必要であったかといえば、日本がシナとも韓半島とも関係なく、全く独自に列島を領土として紀元前7世紀から天皇によって統治されてきた国柄であることを内外に示すためであった。
まさに歴史書『日本書紀』編纂の目的である。そのために600年以上時代を遡らさなくてはならなかった。

仁徳天皇は実在した。『宋書』「夷蛮列伝」に記述されている倭王・武が宋の皇帝に送った手紙(478年)に事績が書かれていた事で証明される。倭王・武というのは雄略天皇にあたることが稲荷山古墳出土の鉄剣銘により比定された(1978年)。
仁徳天皇は369年の日付と銘文のある「七枝刀」(天理市石上神宮に現存)によって倭王の地位を外国から承認されたことが明らかになっている。それまでの倭王がシナ皇帝の認定を得たのとは異なり、韓半島に成立していた百済王国が認定している。仁徳朝の倭国は高句麗王国に対抗していた百済王国と同盟した。

岡田英弘氏は、この369年をもって河内王朝の建国の年とみなし、畿内倭国の起源としている。これより古い邪馬台国などの倭国は300年ごろシナの晋が崩壊したために韓半島の楽浪郡、帯方郡が消滅すると援護がなくなって消えてしまったのである。したがって邪馬台国は日本の皇室とは全く関係がない。

河内王朝は、仁徳、履中、反正、允恭、安康、雄略の諸天皇と清寧天皇の七代が続いた後、血統が断絶した。あとは清寧天皇の皇后・飯豊女王が即位して、兄の顕宗天皇に皇位が継がれるが(播磨王朝)、その兄・仁賢天皇、その息子・武烈天皇と続いて506年に血統が断絶する。すると、『日本書紀』では越前の三国から継体天皇を持ってくる。継体は仁賢の娘と結婚して倭王となった(越前王朝)。

ところが『日本書紀』は女系の相続を認めない。河内王朝から播磨王朝への継承には伝説の「押磐尊(おしはのみこと)」を河内王朝第二代の履中天皇の息子とし、さらに、もともと押磐尊の遠い子孫だった顕宗天皇をこの押磐尊の息子と書き換えて男系でつながることにした。

播磨王朝から越前王朝へは、気比神社の祭神を応神天皇という人間に仕立ててその5世の孫が継体天皇だったことにした。「万世一系」という言葉は使っていないが、とにかく男系でつなげるというのが『日本書紀』の主張だったらしい。

仁徳天皇以前については倭國の王たちの系譜は伝わっていないため伝承もない。
『日本書紀』で仁徳天皇の父親としてある応神天皇は上述のように敦賀の気比神社祭神であって、人間ではない。だから、御陵もなく事績も殆どない。応神天皇の両親としてある仲哀天皇と神功皇后も海神であって人ではない。こちらは斉明天皇と中大兄が唐・新羅連合と戦った折の博多の香椎宮の祭神から創作された。

天智天皇と天武天皇は兄弟である。父親が天智天皇の先代舒明天皇だ。その前は推古天皇で在位が592628年とされている。ところがシナの記録『隋書』「東夷列伝」には600年に多利思比孤(たらしひこ)という倭王が使いをよこしたが、その妻は()()、太子を利歌(りか)()()(ふつ)()といったとある。明らかに男王であり、推古天皇でも聖徳太子でもない。608年にも同じ倭王から使いが来たので、翌609年随の煬帝は(はい)(せい)(せい)を倭国に遣わした。裴世清が面会した倭王は男であったという。

岡田博士は推理する。
『日本書紀』が、この時期の王位は推古天皇であったとするのは何か重大な事実を隠すための故意の嘘としか考えられない。推古天皇の後継者が敏達天皇の孫で、しかも推古天皇の血筋ではない舒明天皇であること、舒明天皇の死後間もなく、聖徳太子の息子・山背大兄が殺されることを考え合わせると、推古天皇と聖徳太子についての『日本書紀』の記述は、おそらく舒明天皇が倭国の王位を奪った事情にまつわる後ろ暗さの反映であろう。『日本書紀』の編纂を命じたのが、舒明天皇の息子の天武天皇だから、そう考えるのが自然である。
私としては『日本書紀』を読み解く能力もないから岡田説を信ずるほかはないが、王位の継承に再々切れ目があったり、架空の物語が歴史にされたりしていたのでは「万世一系の天皇が統治される國」などとはとても言えないように思える。自分の國の物語としては、神話があってもいいし、他国の歴史に負うところがあっても良しとする姿勢が欲しいと思う。生い立ちが古いことには違いはないから、それで十分ではないか。

今回も参照したのは『岡田英弘著作集Ⅲ 日本とは何か』藤原書店2014年である。
(2016/11)