2016年11月8日火曜日

古代史拾い読み(その5)万世一系という嘘

最近の政治家の発言のなかに、神武天皇の偉業を偲び、というくだりがあった。続いて万世一系と言ったような気もするが、これは当方の思い過ごしかもしれない。神武天皇は神話の中の存在であることをこの政治家は知らないのだろうか。

113日は文化の日であるが、これを明治の日にしようという気運が出ている。113日が文化の日になる前は明治節だった。明治天皇の誕生を記念する日である。当時は祝日といわずに祭日といった。小学校では全員登校してお祝いの式があり、明治節の歌を歌って、戦争がひどくなる前は紅白の饅頭をもらって帰ってきた。「今日の良き日は大君の 生まれたまひし良き日なり」で始まる歌詞のはじめだけ覚えている。良き日がふたつ重なるのは変だと今では思っているが、これで正しいらしい。

ある時期までは「文化の日」という言葉には「菊薫る」という言葉が枕詞のようについていた。多分新聞が使っていたのが一般化したように思える。
季節としては菊が咲き誇る時期であるからこういう物言いが生じたのだろう。最近のテレビでもこの日の街の風景や話題には、あちこちで開かれる菊の展示会や優秀作品表彰の様子が映される。菊と文化が結びつくのは季節が一致するからか、考えてみるとその必然性はない。あるとすれば「菊」に原因がある。菊は天皇家の紋章である。花びらが十六枚の、いわゆる「十六菊」である。だから「文化の日」に「菊薫る」と飾りことばをつけた、その心は、元は明治節だったのだとの思いであったに違いない。

現人神(あらひとがみ)というおかしな言葉を作り出したのは明治であるように考えていたがそうではないらしい。天皇を神と考えるのは万葉の昔からであるらしい。明治は、神聖にして侵すべからずと憲法にうたっているのを利用して、神であるとまでしてしまう空気を作り出したとでもいえばいいか。
いずれにしても、その天皇家の菊の御紋の効き目は強く、いい目をした人も多いだろうが、このためたくさんの兵隊がひどい目にあった。何が菊薫るだと言いたいところではあるが、世の中はおしなべて菊薫るで平穏だった。
そんなこんなもどこへやら、ただ明治を取り戻そうとかいうオカシナ合言葉で明治の日を作ろうという。何の事はない明治節に戻せというに等しい。つまり今の世の過去を知らない人が言うことだ。歴史を知らないとまでもいえない、近い過去を知らないのだから、そんな浅い知識で政治に携わってくれては困るのだ。

万世一系というのも相変わらず使われている表現である。日本最古の歴史書である『日本書紀』は編纂当時の天皇が正統であることを示すことを目的として、累代の天皇紀を記述している書物ときくが、万世一系の語はないようである。
明治22(1889)年公布の大日本帝国憲法第一条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定められたのが、「万世一系」という言葉が普及した根源であろう。
一系とは何を指すかということでは戦前も戦後も議論の定まらない課題ではある。おおかたの頭のなかでは天皇家の血筋の問題として考え、男系という考えが優勢であるらしい。現皇室でも男系がいなくなることが一時的に問題になったが、幸いにして問題が自然消滅したので、喫緊の問題として議論する姿勢は消えてしまった。

昭和の小学生だったころ、第124代の今上天皇ということが刷り込まれて未だに消えない。それが最近では民主党政権の官房長官殿でさえ、いまの天皇さんは何代目かも知らないと答えて話題になった。以前はジンムスイゼイアンネイイトク…と暗記させられた向きも多かったはずだ。

ところが頼りにされた最古の歴史書『日本書紀』に載る神武天皇に始まる皇統は作り話だったということがわかって来た。民の竈が賑わっているなと謡った仁徳天皇より前はただのお話で真っ赤な嘘だというのが定説である。
そこに述べられていたのは671年の天智天皇の死によって生じた後継争い「壬申の乱」で天武天皇が勝って即位する673年までの出来事をなぞって創作された物語にすぎない。なぜこのような創作が必要であったかといえば、日本がシナとも韓半島とも関係なく、全く独自に列島を領土として紀元前7世紀から天皇によって統治されてきた国柄であることを内外に示すためであった。
まさに歴史書『日本書紀』編纂の目的である。そのために600年以上時代を遡らさなくてはならなかった。

仁徳天皇は実在した。『宋書』「夷蛮列伝」に記述されている倭王・武が宋の皇帝に送った手紙(478年)に事績が書かれていた事で証明される。倭王・武というのは雄略天皇にあたることが稲荷山古墳出土の鉄剣銘により比定された(1978年)。
仁徳天皇は369年の日付と銘文のある「七枝刀」(天理市石上神宮に現存)によって倭王の地位を外国から承認されたことが明らかになっている。それまでの倭王がシナ皇帝の認定を得たのとは異なり、韓半島に成立していた百済王国が認定している。仁徳朝の倭国は高句麗王国に対抗していた百済王国と同盟した。

岡田英弘氏は、この369年をもって河内王朝の建国の年とみなし、畿内倭国の起源としている。これより古い邪馬台国などの倭国は300年ごろシナの晋が崩壊したために韓半島の楽浪郡、帯方郡が消滅すると援護がなくなって消えてしまったのである。したがって邪馬台国は日本の皇室とは全く関係がない。

河内王朝は、仁徳、履中、反正、允恭、安康、雄略の諸天皇と清寧天皇の七代が続いた後、血統が断絶した。あとは清寧天皇の皇后・飯豊女王が即位して、兄の顕宗天皇に皇位が継がれるが(播磨王朝)、その兄・仁賢天皇、その息子・武烈天皇と続いて506年に血統が断絶する。すると、『日本書紀』では越前の三国から継体天皇を持ってくる。継体は仁賢の娘と結婚して倭王となった(越前王朝)。

ところが『日本書紀』は女系の相続を認めない。河内王朝から播磨王朝への継承には伝説の「押磐尊(おしはのみこと)」を河内王朝第二代の履中天皇の息子とし、さらに、もともと押磐尊の遠い子孫だった顕宗天皇をこの押磐尊の息子と書き換えて男系でつながることにした。

播磨王朝から越前王朝へは、気比神社の祭神を応神天皇という人間に仕立ててその5世の孫が継体天皇だったことにした。「万世一系」という言葉は使っていないが、とにかく男系でつなげるというのが『日本書紀』の主張だったらしい。

仁徳天皇以前については倭國の王たちの系譜は伝わっていないため伝承もない。
『日本書紀』で仁徳天皇の父親としてある応神天皇は上述のように敦賀の気比神社祭神であって、人間ではない。だから、御陵もなく事績も殆どない。応神天皇の両親としてある仲哀天皇と神功皇后も海神であって人ではない。こちらは斉明天皇と中大兄が唐・新羅連合と戦った折の博多の香椎宮の祭神から創作された。

天智天皇と天武天皇は兄弟である。父親が天智天皇の先代舒明天皇だ。その前は推古天皇で在位が592628年とされている。ところがシナの記録『隋書』「東夷列伝」には600年に多利思比孤(たらしひこ)という倭王が使いをよこしたが、その妻は()()、太子を利歌(りか)()()(ふつ)()といったとある。明らかに男王であり、推古天皇でも聖徳太子でもない。608年にも同じ倭王から使いが来たので、翌609年随の煬帝は(はい)(せい)(せい)を倭国に遣わした。裴世清が面会した倭王は男であったという。

岡田博士は推理する。
『日本書紀』が、この時期の王位は推古天皇であったとするのは何か重大な事実を隠すための故意の嘘としか考えられない。推古天皇の後継者が敏達天皇の孫で、しかも推古天皇の血筋ではない舒明天皇であること、舒明天皇の死後間もなく、聖徳太子の息子・山背大兄が殺されることを考え合わせると、推古天皇と聖徳太子についての『日本書紀』の記述は、おそらく舒明天皇が倭国の王位を奪った事情にまつわる後ろ暗さの反映であろう。『日本書紀』の編纂を命じたのが、舒明天皇の息子の天武天皇だから、そう考えるのが自然である。
私としては『日本書紀』を読み解く能力もないから岡田説を信ずるほかはないが、王位の継承に再々切れ目があったり、架空の物語が歴史にされたりしていたのでは「万世一系の天皇が統治される國」などとはとても言えないように思える。自分の國の物語としては、神話があってもいいし、他国の歴史に負うところがあっても良しとする姿勢が欲しいと思う。生い立ちが古いことには違いはないから、それで十分ではないか。

今回も参照したのは『岡田英弘著作集Ⅲ 日本とは何か』藤原書店2014年である。
(2016/11)