『岡田英弘著作集Ⅲ 日本とは何か』藤原書店2014年から
「日本人」とは倭人、新羅人、百済人、高句麗人、任那人、漢人など日本列島に雑居していた諸種族の総称である。これらの諸種族を全部カバーするアイデンティティーとして「日本」という概念が生み出された。では、日本の建国はいつかというに668年に天智天皇が大津宮で即位したときとする。この即位という行為はその前に制定された近江律令の規定によって定められた国号「日本」と王号の「天皇」に基づいている。この建国は何を意味するかといえば、唐・新羅連合軍の日本列島への侵攻に備えて、それまでたくさんの集団に分かれていた列島内を統一して唐・新羅に対抗する勢力をつくることであった。663年に皇太子中大兄皇子が指揮する倭国艦隊が白村江の海戦に敗れたことが契機で、中大兄が統一のための建国事業に着手し、飛鳥宮から大津宮に遷都し、自ら即位して天智天皇となった。
さて、雑居民からなるこの時代の日本で行われていた言語の状況はどんな風であったか考えると、新羅人、百済人、高句麗人、任那人、漢人それぞれ漢語の方言を使っていたと思われる。倭人はもともとの原住民であればいわゆる土語であり、韓半島にいたことがある倭人はそこで使っていた漢語の方言だったろう。列島原住の倭人は文字を持たず、政治や経済の語彙もない。倭語共通の方言もない。倭人は商業種族ではなかったから共通語を普及させられなかった。結局どのグループもお互いの間に共通する言葉はなかった。シナの漢字方言では文語に近い言語でなければ漢字で書けないということがあるそうで、現代の広東語は漢字で書けるが福建語ではできないという。
岡田氏の考えでは、七世紀までの日本列島で、共通語の役割を果たしたのは、南朝のシナ文化の影響が強い百済方言だった。百済語も、ほかの華人の話す口語よりも、漢字で綴った文語に近い言語だったからである。
漢語を国語とすることは危険であった。新羅の公用語が漢語だったから、新羅と対抗して独立を維持するには、別の途を選ばねばならなかった。それは漢字で綴った漢語の文語を下敷きにして、その一語一語に、意味が対応する倭語を探し出してきておきかえる、対応する倭語がなければ、倭語らしい言葉を考案して、それに漢語と同じ意味をむりやり持たせる、というやり方である。これが日本語の誕生であった。
日本語の誕生直後の姿は、『万葉集』のなかに見ることができる。以下すべて岡田氏の受け売りである。
『万葉集』巻七に載る「柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ」とことわった歌は倭語の書き表し方から見てもっとも古風であるという。たとえば、
「天海丹 雲之波立 月船 星之林丹 榜隠所見」は「あめのうみに くものなみたち つきのふね ほしのはやしに こぎかくるみゆ」と読む。表し方の基本は倭語の単語を意訳した漢字を、倭語の語順に従って並べる。意訳には当て字を使う。「丹」は「赤色の土」の意味だが、倭語では「に」といったことを利用した。倭語の動詞には語尾変化があるが、漢字には語尾変化はない。「たち」は「立」と書くが語尾の「ち」を送らない。「榜」も「隠」も意訳漢字で書き表すだけで語尾は送らない(「榜ぐ」こぐ)、「隠る」かくる)。助詞は漢字の助字で意訳することもあり(「之」)、しないこともある(「天の」の「の」を省く)。こういう書き方は漢文の一種ともいえる段階の文体であろう。
日本語の成長の第二段階は、『万葉集』巻一の天武天皇の歌に見られる。
「紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾恋目八方」は、「むらさきの にほへるいもを にくくあらば ひとづまゆゑに われこひめやも」と読む。ここでは、どの一句にもかならず意味を表す漢字が入る。そして、それぞれに倭語の音訳漢字を添える。音訳漢字を平仮名で置き換えると、次のようになる。
「紫草の にほへる妹を にくく有者 人嬬故に 吾恋めやも」。また「め」を「目」、「やも」を「八方」のように、発音は同じでも意味が違う倭語を表す漢字、つまり当て字を使っている。岡田氏はこれを、原形では音訳漢字を連ねる「柿本人麻呂歌集」の歌のようなものだったのを、『万葉集』の編者が書き直して読みやすくした結果、このような書き方になったのであろうとしている。
第三の段階は八世紀初めの山上憶良に見ることができる。『万葉集』巻五の「貧窮問答歌」の反歌は、次のように書かれている。
「世間乎 宇之等夜佐之等 於母倍杼母 飛立可祢都 鳥尓之安良祢婆」
これは、「よのなかを うしとやさしと おもへども とびたちかねつ とりにしあらねば」と読む。名詞の「よのなか」を「世間」、「とり」を「鳥」、動詞の「とびたち」を「飛立」と書いているのだけが意訳漢字で、それ以外の倭語は、動詞、形容詞、助詞すべて一音節に漢字一字を当てて音訳してある。このようになるまで半世紀かかっているが、あとは漢字意訳をなくすれば、漢語から完全に独立した国語になれる。
『万葉集』巻十四「東歌」の書き方が次に来る。
「可豆思加乃 麻万能宇良未乎 許具布祢能 布奈妣等佐和久 奈美多都良思母」は、「かづしかの ままのうらみを こぐふねの ふなびとさわく なみたつらしも」と読む。この書き方になると、もはや名詞その他の品詞の区別なく、倭語の一音節ごとに漢字一字が音訳して当てられている。完全音訳のこのやり方で、日本語は、漢字を使いながらも、漢字から絶縁して、独立の国語の姿がとれるようになった。
『日本書紀』は天武天皇が681年に編纂を命じたが完成まで39年を要して元正天皇の720年に完成した。この間に倭語の歌謡の表記について、編集方針に変更があったらしいことがわかる。最初は歌謡はすべて漢字意訳でなされていたが、のちに完全音訳が実現して、現行本では一音節一漢字の音訳になっている。
岡田博士は『万葉集』を日本語発明の記録であるという。上のような説明の後に「こうして、新たに生まれた日本語は、ようやく漢字を離れて、耳で聞いても多くの人にわかるようになり、国語の資格をそなえるところまで来た」と述べているが、この「漢字を離れて、耳で聞いてもわかる」というのはどういうことだろうか。漢字で書かれていても、それは漢語を書いた文字ではない、漢字のような文字だが日本語音を持っている文字、つまり日本文字だということと解してよいかと思う。このあとに続く説明には「次の段階では、何かほかに一音節一字の文字体系を考案して、音訳にも漢字を使わないことにすればいい。そうすれば、表意文字である漢字との最後のつながりも切れて、日本語は完全に音声だけの、漢語から独立した国語になれる」と書く。ということで、平安時代には音訳漢字を草書体にした平仮名と、筆画の一部だけをとった片仮名が出現するにいたる。
古代史の書物でありながら、日本語論の一部をこれだけ面白く説明してくれたものは、ほかにはあまりなさそうである。岡田氏はまだこのうえに仮名文、散文など続けて述べられているが、日本語の誕生として題するのはこの辺で終わろう。
これまでの説明にある一音節一漢字は、いわゆる万葉仮名として私たちに親しい文字である。万葉仮名は上に述べられたような漢字を崩した草書体で書いた文字で仮名とはいいながら実は漢字だったわけだ。変体仮名とも呼ばれる。江戸から明治への時代に活版印刷が始まると次第に衰退したのだから、考えればずいぶん寿命の長い文字であった。江戸時代の公文書は草書体であったということを何かで見たが、平安時代も同じだったことになる。話は飛ぶが、いまの人間のほとんどが読めない草書体の変体仮名をコンピュータで扱うことがずっと研究されているそうだ。文字コードは大体できたが、フォントの開発に時間がかかっているとも聞いた。楽しそうな話だが筆者の目には入らずに終わりそうだ。(2016/10)