2017年3月26日日曜日

読書随想:松本清張『削除の復元』(平成2年)

松本清張の短編に『削除の復元』(平成2年)がある。今の時代にこの表題が付けば電子的データのことだと思われるだろうが、ここにいう削除は明治33年のことである。
森鷗外が遺した「小倉日記」のある部分が毛筆で書かれた文字の上から和紙を張り付けて抹消してあった。隠れた部分はのちの時代に復元された。なぜ抹消されたのか。その謎を探る物語がこの作品である。

話がしばし横道にそれるが、私たちの使う年号には西暦と元号があって年号を書こうとするとき、どちらに拠るか迷うし、古い資料から引いてくるにも換算がいるなど、使うのに不便を感じることが多い。鷗外の生年は文久2年だが、生涯の事績を追いながらその時々の年齢の数え方がわからない。先走ったことをいうようだが、近い将来の天皇ご退位につながる年号表記は西暦だけにしてもらいたいと願っている。とはいうものの、鷗外最晩年の労作に『帝諡考』があることが思い出されて申し訳ない気持ちにもなる。
ところで、この『削除の復元』が書かれた平成2年は西暦1990年、問題の日記の謎の部分は明治33年、すなわち西暦1900年である。ちなみに清張さんが亡くなったのは1992年である。このようにあれから何年と考えるには西暦が便利である。けれども、こと鷗外の身辺を語るにはどうにも明治でなくては落ち着かないから、ここでは適当に使い分ける。

本題に戻って、物語の背景となる鷗外について復習しておく。鷗外森林太郎は明治22年、27歳で赤松登志子と結婚、翌年長男於菟を得たが離婚し、以後10年間独身であった。明治32年少将相当の軍医監となり、第12師団軍医部長として6月、小倉に赴任した。明治351月東京で荒木志げと再婚して小倉に連れ帰り、3月に第1師団軍医部長として東京に戻った。この3年間の小倉時代の日常を書き留めた記録を、のちに他人に清書させたのが「小倉日記」だ。現物は毛筆の楷書で書かれてあるという。

さて、小倉での3年間の独身生活は気楽であったかもしれぬが、世間の見る目は様々であり、殊に340歳代の男が独り住まいしていて同じ屋根の下に馬と馬丁のほかに女中がいるとなればあらぬ噂話のもとにもなる。身持ちの堅い鷗外は、夜分だけは自家の女中のほかに大家の女中を泊まらせたり、不要でもあえて二人目を雇ったりして、周囲に気を遣っていた。しかしその一方、女中運には恵まれず手癖の悪いのやら、家事がほとんどできないのやらで、信頼して家事を任せることができた者はわずかであったらしい。

このような背景を借りて、松本清張は本作『削除の復元』と『鷗外の婢』(1974)を書いている。どちらも鷗外が安心して使っていた女中の名前、木村元(もと)が登場する。小倉日記は文語体の文章だから用語も漢語が多く、女中は婢と書いた。

謎解きの謎のタネは「小倉日記」にあるが、岩波書店『鷗外全集第35巻』(昭和50年)に収録されたとき、編集者が稿本との相違点を「後記」の「注」に記載した。文章を訂正する場合、鷗外は墨で線を引いたそうであるが、ここに出てくる部分は範囲が広いためか、上から和紙で貼って抹消してあると説明がついている。この和紙で貼られた部分は上から透けて読めるらしいことが作品中に清張が書いている。透けて読めた内容を問題に仕立てたわけであるが、なぜ抹消したのか鷗外は説明していない。後年ほかで書いているということもないのであろう。鷗外研究家の清張だから謎に使えたのだと思う。小説の発端は、以前「小倉の鷗外」を発表している作家の畑中が未知の読者から質問を受ける。これはもう作り事だ。

岩波書店が昭和50年に発行した決定版『鷗外全集第35巻』に収録の「小倉日記」の今問題とする箇所には次のようにある(関連する語句だけ抜き書きするが、実際にはその他の出来事も連続して書かれている)。
明治331124日 婢元罷め去る。
明治331130日 旧婢元来り訪ふ。

「後記」の「注」によると、明治331124日「婢元罷め去る」は稿本の「婢元去りて人に嫁す」を訂し、同月30日の項は、「稿本左のようであったのを上から和紙を貼って削除してある」と説明して、「旧婢元来りていふ。始て夫婿の家に至りぬ」以下を全面抹消する、とある。
そのうえで次のように和紙が貼られた部分にあった記事を復元している。
≪旧婢元来りていふ。始て()婿(せい)の家に至りぬ。曾根停車場より車行二里、路頗る嶮悪なり。されど家は海に面し山を負ひ、景物人に可なり。後山躑躅花多きをもて、間々遊屐(ゆうげき)を着くるものあるを聞くと。夫婿は()()郡松枝村字畑の友石定太郎なり。現に東京商業学校に在りて、老母を留めて家に在り。元は往いてこれに仕ふるなり≫

これらのことから、はじめ鷗外は元が嫁に行くからやめたのだと思っていたが、後からそれが違うことが判明したから訂正と削除を行ったらしいことがよめる。ここまでは作り話ではない。

しかし、手紙をよこした読者は、たまたまこの友石家の縁続きであることから、古いことを調べてみると友石定太郎は生涯独身であったし、年齢が元より9歳も若い。ゆえに書かれたことは虚偽であること明白だが、なぜこんなことを言ったのだろうか。鷗外研究家のあなたはどう考えるか、という問い合わせである。

読者も手紙も清張の創作だ。鷗外が削除するに至った事情を創作したともいえる。

畑中もよくはわからないままに、旧主に伝えるのに婚家をよく見せようとした女性心理からだろうと適当に返事を出してことはそれで済んだ。けれども気になるので手を尽くして調べ始める。

清張の分身らしい作家の畑中は、史学の研究生に手伝いを頼んで小倉近辺の在所や寺などから探って、遂には鷗外に隠し子があったとの噂に行き着く。結局それはためにする策謀の未遂に終わったのだという推定結論を得る。
鷗外を敬愛する畑中は、あぶりだされた手のこんだ策謀にそんな馬鹿なことがあるはずがないと興奮し、鷗外にはひた隠しにしていた結核の病があるから清廉な日々を送っていたのだ、と自らに言い聞かせる。畑中の依頼した探索から怪しからぬ推論を導き出して報告に来た研究生は、畑中の剣幕にびっくりしていたが、いつのまにか姿を消していた。

最後に清張はシュテファン・ツヴァイクの言葉を引いて、「記録を徹底的に精査すればするほど、その記録に、すべての歴史的証言(と共に叙述)がもつ不確かさが、ますます痛切に認められてくる。…」(『メリー・スチュアート』より)と書き、鷗外の伝記に関する資料のどれ程が信憑性を持つものかとの疑問を出している。鴎外が小倉にいたころから90年も経っているのだから、すべての記録や証言はもはや歴史である、などと書きながら、結構お茶目な清張が独り楽しんでいるようにも見える。


推理ものは読者にとってどこまでほんとか、作り事との境目がわからなくなるという面白さを楽しめるが、筆者は念のため『鷗外の婢』も読んでみた。その結果、『削除の復元』に出てくる小倉近辺の在所や寺には清張自身が実際に訪れたらしいこと、墓の実在性に首をかしげるなど想像する楽しみも味わった。
それにしても小倉日記の記事を全集で実際に自分の目で眺めてみると、たくさんのこまごました事柄が列記されている文字群の中から婢元に関する語句を拾いだすことは、相当面倒な作業であることがよく分かった。清張さんは亡くなるまで鷗外に取りくんでいたにちがいない。
読んだ本:『宮部みゆき 責任編集 松本清張 傑作短編コレクション(上)』文集文庫(2004)、松本清張『鷗外の婢』新潮社(2012)Kindle版。
(2017/3)

2017年3月17日金曜日

読書随想:堀田江理『1941 決意なき開戦 現代日本の起源』人文書院 2016年

正確に言えばこの本は翻訳書である。原著は著者の堀田氏が英語で執筆してアメリカで2013年に出版した。それを著者自身が日本語に訳した。大幅な削除や加筆はしていないという。原題は『Japan 1941 Countdown to Infamy』。
日本流にいえば、昭和16年12月8日日本海軍が真珠湾を奇襲攻撃した。日本政府の伝達技術のまずさのために外交交渉の打ち切りの通告が行われるよりも早く基地が雷撃攻撃されてアメリカ海軍は将兵と艦船に大損害を被った。宣戦の通告はなされなかった。攻撃された当日のアメリカは12月7日、日曜日だった。翌月曜日にルーズベルト大統領は議会でスピーチを行って日本の行動をだまし討ちと非難し対日宣戦をした。この時に大統領が使った言葉がinfamyであるので、以後12月7日がThe day of Infamyと国民に記憶された。日本語で屈辱の日と訳されるこの言葉は、ともすればアメリカにとって不意打ちされた悔しい日であるかのように誤解されているが違う。infamyは全くたちの悪い悪意をいう語で、The day of Infamyはいうなれば「悪意にまみれた日」であって人の感情を直接指すのではなく、その日付がそのように意味づけられていることを表す。著者の堀田氏は「不名誉に汚された日」としている。いうまでもなく不名誉で破廉恥だったのは日本のそこに至るまでの姿勢と行動であって、それに対するアメリカの見方が表れているのである。
ルーズベルト大統領のこのスピーチによって戦争参加に反対だったアメリカ大衆が一挙に愛国者に変わっていった。合言葉は例の「リメンバー・パールハーバー」である。同名の楽曲が大ヒットして、スピーチと共に入ったCDも市販されている。
著者がこの本を書くことになった契機は、アメリカ国民の間で、なにかというと引き合いに出されるリメンバー・パールハーバーという言葉が、それがいったい何だったのか、わからなくなってきているというアメリカの現実があることや、高校時代に渡米して、なぜ日本が真珠湾攻撃をしたのか説明できなかったこと、また、現在の日本人の間でも当時の当事者たちについて、どれだけのことが知られているか疑問に思えることなどが挙げられている。著者自身が理解を深めてアメリカ人に説明するために書いた本でもある。複雑な経過をたどった開戦事情が非常にわかりやすく述べられていることが読んでみてよくわかった。近衛文麿、松岡洋右、東條英機など人柄と言動が上手に描かれていて、小説的な風合いもある。統帥権の問題もうまく書いたなと感心した。
何よりも、政策作成機関が正式に分割されていたことが問題だった。憲法の下で、軍は民事政府とは独立した形で、天皇に助言するということを認められていた。一般に「統帥権の独立」として知られるこの特権は、簡単に言ってしまえば、日本が、完全に矛盾している外交政策を同時に持つことができるということだった。(30ページ)
作品の焦点が1941年春から開戦までの8か月に合わされ、そこに至るまでの原因要素となった1920-30年代の出来事は背景としてスケッチのように触れられている構成がわかりやすさに貢献している。著者はウイキペディアに45歳と紹介されているが、文章の日本語表現がきわめて口語的であるのも年代の功だろうし、これまでのこの種の題材での評論的著述と大いに違っていると思う。英語と日本語の表現の違いが著者を戸惑わせた名残はわずかな校正漏れらしい個所にみられるが取り上げてうんぬんするほどではない。
表題の「決意なき」とか原題の「countdown」とかの言葉が言い表しているように「こんな勝ち目のない戦をなぜ始めたのだろうか」ということは真珠湾を語る時に必ず出てくる疑問である。「どうせやるなら…」、「こうなってしまっては…」、あるいは百条委員会に臨む石原慎太郎元東京都知事のように「座して死を待つ…」とか、戦国時代このかた切羽詰まったときにいつも出てくるこういう物言いが1941年後半に政治の奥深い場所で何度も交わされたことだろうが、これは「いちかぱちか」の賭けである。東條が「人生一度は清水の舞台から飛び降りる覚悟がいる」と言うように、指導者たちが最後の一手に打って出たのも自覚を持っておこなった選択なのだ。沈着な政治分析家であった山本五十六は「かかる成算なき戦争は為すべきにあらず」と軍令部に警告していたが、半面では、ばくち好きの戦略家だったのは歴史の大きな皮肉だったと著者はいう。彼がいなければ真珠湾攻撃はなかったかもしれない。それでも日本は開戦に向かって動いただろうが「窮地に追い込まれて避けられなかった」とは言えない。この本は、それでは誰が、そして何が日本を導いていったのかを探ろうとしている。決められない人たちが、空気に反対できなくて…という風な結論にも見えるが、追い込まれるようになった原因が自分たちの対支方針や南方政策にあったことに気が付かなかった、あるいは棚上げする人たちであった。
集団で物事を決める際に、たとえ表面的にでも合意することを好む性質は日本人の傾向だが、これを文化としてしまうわけにはいかないだろう。副題の「現代日本の起源」が示唆しているように、著者は最近の福島原発事故、新国立競技場建設などの問題に至る道のりや事後処理の経緯などに、1941年の開戦前夜における政策決定にまつわる諸問題と同質のものを見ている。指導者の当事者意識や責任意識が著しく欠如する様相があまりにもよく似ている。けれども、現代の日本人は信条にしろ表現にしろ、当時とは比べものにならないほどの自由が許されているのだから、その自由に付随する責任からも指導者任せにはできないことを自覚しようと提案している。巻末に挙げられている参照図書と引用に使われた図書の数には驚かされる。約半世紀に及ぶ欧州と日本と太平洋にまたがる国際関係史から焦点を絞ってまとめ上げた手腕に深甚の敬意を表します。 (2017/3)

2017年3月16日木曜日

国会の言葉遊び

政治家や官僚という人たちは「言葉遊び」で日を送っているのだろうか。
南スーダンの国連平和維持活動(PKO)に自衛隊を派遣しているのは、派遣先が戦場でないからだそうだ。ところが派遣部隊の日報に「戦闘」と記載があったことが判明し、戦闘があった場所に自衛隊がいたことが問題になったらしい。
伊勢崎賢治さんによれば「交戦できない自衛隊は、弾がまったく飛んでこない場所でなら活動できます。そんな「仮想空間」を戦場につくり、後方支援や非戦闘地域といった言い方で参加してきたのが、これまでの自衛隊によるPKOです」(2017年3月14日朝日新聞耕論)。
昨年7月以降にはその「仮想空間」に戦闘があったらしい。だから現場の部隊の日報には「戦闘」という文字が登場したようだ。
ところが国会討議では戦闘があっては自衛隊派遣の前提が崩れるために「戦闘」があってはならない。そこで、政府としては、いや、あれは「戦闘」ではなく大規模な「衝突」であった、と言葉を言い換えることで逃げようとした。
その答弁を追及された大臣が「憲法9条上の問題になる言葉は使うべきではないことから、武力衝突という言葉を使っている」と「答弁」した。 答弁ならば、武力衝突があったが、戦闘はなかった、とでも言えばよいはずである。大臣の言い方は答弁ではなく答弁の仕方の説明である。事務方が回してきた答弁書の書き方が、こうだからこのように話すようにという意味の書き方であったのかもしれない。いずれにしても、この大臣は言葉の使い方が理解できていないと思える。これで弁護士が務まったとは変な話だと思う。
大臣の答弁がおかしなことは別にしても、「説明」を「答弁」と承って質問側が了解したとは思えないが、それでは戦闘があったのですね、となぜ確認しなかったのだろうか。いや、したのかもしれないが当方の関心がほかに移ったのかもしれないからあまりえらそうには言えない。事実上、答弁で戦闘が存在したことを認めているのに、それ以上に問題が大きくならなかったのは疑問だ。

以上について調べたら、衆議院のホームページに質疑が載っていた。これらは官僚が作成した文章と思われる。これを読むと大臣はやはりシロートだと思う。言葉遊びのレベルではなく、相応の応答がなされているのでとりあえず安心した。こういうやり取りの挙句、総理も撤退を考えるように変わったのかなどと考えている。となると、「日報」発見は不作為の大手柄であるが、こんどは防衛大臣としての職能が問われることになった。記憶違いによる答弁は虚偽なのか、ことは人格の信頼性にかかわってきた。どうなることやら。
質問主意書
http://www.shugiin.go.jp/Internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a193054.htm
答弁主意書http://www.shugiin.go.jp/Internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b193054.htm

このたびは「戦闘と衝突」をキーワードにしてグーグルで検索したら上記の衆議院サイトに直ちに到達できた。これを衆議院ホームページから開くにはどうすればよいか。今後の参考に記録おきたいと思う。
まず「衆議院HP」をキーワードにしてインターネットを開く。
(URLはhttp://www.shugiin.go.jp)
トップページが開くので次の順を追って質問主意書・答弁書のサイトを開く。国会の回次を選択して質問一覧から質問件名で求める質問主意書をさがす。
衆議院トップページ  >立法情報  >質問答弁情報  >第193回国会 質問の一覧
質問一覧表で経過状況に答弁受理となっていれば、経過情報欄の青字の「経過」をクリックして、質問・答弁それぞれの情報が得られる。この情報にはHTMLとPDFの二種類がある。

実際にこの手順を踏んで必要な記事を探すには、いつの国会か、日時はいつかなど、求める情報についての周辺情報がいるから、うろ覚えで探すには適当なキーワードを使って捜査網を狭めてゆくしかない。今回の「戦闘と衝突」などは比較的最近のことであったから容易に目的を達せられたといえる。(2017/3)

2017年3月4日土曜日

玉虫佐太夫に惹かれて

上田秀人『竜は動かず 上・下』(講談社2016年12月)を読む。
この著者については知らなかったが、1959年大阪府生まれ、大阪歯科大学卒、97年小説クラブ新人賞佳作入選と巻末にあった。時代物で売れているらしい。本作は地方新聞各紙に2014年から380回連載した原作に手を入れたとある。副題の「奥羽越列藩同盟顛末」が内容を示している。
朝日新聞書評(2月19日)に「人気時代小説家が、幕末の動乱の中で非業の死を遂げた仙台藩士玉虫左太夫に光を当てた」とあったのが筆者の気を惹いた。「玉虫佐太夫」、この名前に覚えがあった。この侍がハワイの街なかを探訪して住民と話を交わす情景が書かれた本を読んだことがある。書棚を探すと出てきた。『日本人のオセアニア発見』平凡社1992年、著者は石川栄吉、京大のオセアニア民族学の先生である。その後何かでこの人物が切腹させられたことを知り、あたら開明的な人が、と残念に思ったことも覚えている。書評を見て即座に図書館に予約したが先約1名あり、同好の士かもしれない。
上巻は玉虫佐太夫が日米修好通商条約批准のためワシントンに向かう新見豊前守の従者としてポウハタン号に乗り組んでから、世界一周する航路をとって帰国するまでの見聞と思考の叙述に大半が費やされる。何しろ初めて国外に出る主人公は見るもの聞くものすべてが驚きの連続、話題には事欠かない。著者は軽い文章で佐太夫の目となり耳となって読者の気をそらさない。売れる作者だけのことはあると感心した。
貧しい武家に婿入りした学問好きが運命の導きによって儒家林復斎に拾われた幸運が外国奉行の従者にしてくれた。日本人初めての世界一周をこまめに記録した佐太夫は師の勧めに従って見聞を「航米日録」にまとめて、もとの出自の仙台藩の藩主伊達慶邦に献上した。おかげでわれわれもその『航米日録』をいま目にすることができる。
ここ20年ほどの間に、この種の見聞録や日記は原本の漢字かたかな混じりの難しい文章が有志有徳の諸氏によって現代文に訳されている。だからといって、この著者も多分そういう恩恵にあずかっていると考えるのは失礼かもしれない。ちなみに原文は岩波書店『日本思想体系66』「西洋見聞集」に収録されている。
参照図書は挙げられていないが、小説ながらドキュメンタリー・ノンフィクションでもある。日録に述べられた見聞から左太夫の考えたこと、感じたことには著者の思いも重なっているはず。唯一体験した異国のアメリカは人も国もその様子はまだ若々しい。何もかも珍しく、文明の差に驚愕した。読者も思わず想像を膨らませて引き込まれる。今の我々だから想像できるが、当時の日本人にはまさに想像のつかないことばかりなのだ。
フィクションらしい個所はホテルにアメリカ人大学生の女性が訪れてきて、片言の英語と絵を描いたりして会話をする場面。若い女性が堂々と発言する様子や学問をしていることに驚き、政治制度を教わって平等と共同の理念などを聞き取る。奴隷や植民地というものも知った。この体験が佐太夫の一生を決めることにつながる。
余談になるが、ニューヨーク近くで一時滞船中の3月20日に艦長が持ってきた新聞によって、井伊大老が3月3日に襲われて死亡したことを知る場面がある。一同驚愕して大騒ぎになったように描写している。筆者は当時のニュースの伝達速度などを知りたいと思って、ネットで見つけた「航米日録」現代語訳文にあたってみたが、閏3月20日の記事には「この場所で新聞紙の記事で3月3日の事項を知る」とだけあり、さらに岩波版の校注として「米国飛脚船により駐日米国公使ハリスの病死を知る」とあった。となればこの部分は著者の想像による脚色という可能性が大きい。小説だからそれでもいいわけではあるが、それだけでなく筆者が気になることがある。
著者が描く3月20日の情景は持ち込まれた新聞にハリスの顔写真が大きく載っていることが述べられているが、そのことについては説明がなく、話題は大老襲撃に移っている。4月23日フィラデルフィア滞在二日目として、村垣淡路守のもとに通詞が新聞をもって慌てて飛び込んでくる。そこには大老の死亡の顛末が載っていた、というくだりがある。「航米日録」にはそんなことは書いていない。
筆者が想像するに連載途中の手違いではなかろうか(であれば、単行本化する際に修正されるはずではあるが)。アメリカの新聞だからハリスの死亡が先に大きく報道され、井伊大老の桜田門事件は日本だけが係る事件だから顛末の全貌を事後に報道された。これが事実かもしれないと思うが確かめる術を持たない。筆者の習性で実際はどうであったかを知りたく思うだけである。しかし、作品としては3月20日の部分の叙述が中途半端だと思う。
(参照した「航米日録」現代語訳http://www7b.biglobe.ne.jp/~ryori-nocty/koubeinichiroku.htm)
10か月を経て横浜に入港するときにもたらされた話に、先に戻っていた咸臨丸を待っていたのは捕り方だったというのがある。3月3日に井伊大老を襲った不逞の輩の詮議をするから神妙にしろと奉行所が来たのだという。そのころ海の彼方にあった我らに不逞の輩がいるわけがないだろう、と勝海舟が怒鳴りつけたらしいが、奉行所の愚かさに一同あきれたとある。一事が万事で、帰国談をせがまれて話してもなかなか信じてもらえないことが多く、最後に佐太夫を迎える悲劇も一つはこういう頑迷固陋な人々に原因がある。
江戸屋敷、京屋敷、大阪屋敷とそれぞれ留守居役を置いている仙台藩であるが、ひとり藩主に情勢理解力があっても出先からもたらされる情報は、まことの実情を伝えるものではなく、それぞれ発信者のフィルターを経ている。わずかにただ一人アメリカを見てきた佐太夫の見識と分析力が頼りにされた。藩主は二度にわたって騒がしい京や西国の情勢を見てくるようにと佐太夫を派遣するが、藩内部の周囲は僻目嫉みばかりでまともに考えようする人は少なかった。何よりも幕府が倒れるなどということはないという盲信に邪魔される。
勅許を得ずに条約締結に踏み切った大老が殺されたことに始まる徳川幕府の終焉へのほぼ10年間の目まぐるしい変転を下巻一冊に収めてしまう著者の荒業は、読者を次から次へと事件を追って面白さで引っ張るが、所詮は紙芝居のように終わってしまう。佐太夫が恩返しをと誓った藩主も最後はいつの間にか病に伏していて、代わって藩の実権を預かるのが知識で負ける佐太夫を目の敵にする人物だったのが不幸の元凶で、どさくさに紛れて牢に落とされ、切腹させられてしまう。読者はああ可哀そうにと一旦は主人公に憐憫の情を催すが、それだけである。
というわけでこの作品、後半は完全に娯楽小説になった。世界周航はそれなりに読者も一緒に知識を吸収できるが、下巻に描かれる西国各藩の動静に左右される時代の動きはいかにもあわただしい。蒸気機関車に曳かれる列車の窓からの景色が速すぎて見えないという佐太夫の心持ちみたいだ。全体を通しての筆者の印象は近頃はやりのアニメ動画を文字でつづった作品、あるいは映画を作る時の絵コンテか。
10年間をこれだけにつづめた力量の裏にはおそらく資料の山が築かれているだろう。この作者にはしっかり数で稼いだ後は、じっくりと歴史小説に取り組んでほしいと思う。『竜は動かず』という表題の「竜」は仙台藩または伊達家を意味するようだ。どこにも説明はない。独眼竜の呼び名をもつた伊達政宗にちなんでいると解する。大藩といわれながら内実は周囲の小藩を集めてできていた戊辰戦争当時の仙台藩は、寄り合い所帯の構造が邪魔して一致団結した行動がとれずに列藩同盟の盟主でありながら自壊したのであった。(2017/3)