2017年3月26日日曜日

読書随想:松本清張『削除の復元』(平成2年)

松本清張の短編に『削除の復元』(平成2年)がある。今の時代にこの表題が付けば電子的データのことだと思われるだろうが、ここにいう削除は明治33年のことである。
森鷗外が遺した「小倉日記」のある部分が毛筆で書かれた文字の上から和紙を張り付けて抹消してあった。隠れた部分はのちの時代に復元された。なぜ抹消されたのか。その謎を探る物語がこの作品である。

話がしばし横道にそれるが、私たちの使う年号には西暦と元号があって年号を書こうとするとき、どちらに拠るか迷うし、古い資料から引いてくるにも換算がいるなど、使うのに不便を感じることが多い。鷗外の生年は文久2年だが、生涯の事績を追いながらその時々の年齢の数え方がわからない。先走ったことをいうようだが、近い将来の天皇ご退位につながる年号表記は西暦だけにしてもらいたいと願っている。とはいうものの、鷗外最晩年の労作に『帝諡考』があることが思い出されて申し訳ない気持ちにもなる。
ところで、この『削除の復元』が書かれた平成2年は西暦1990年、問題の日記の謎の部分は明治33年、すなわち西暦1900年である。ちなみに清張さんが亡くなったのは1992年である。このようにあれから何年と考えるには西暦が便利である。けれども、こと鷗外の身辺を語るにはどうにも明治でなくては落ち着かないから、ここでは適当に使い分ける。

本題に戻って、物語の背景となる鷗外について復習しておく。鷗外森林太郎は明治22年、27歳で赤松登志子と結婚、翌年長男於菟を得たが離婚し、以後10年間独身であった。明治32年少将相当の軍医監となり、第12師団軍医部長として6月、小倉に赴任した。明治351月東京で荒木志げと再婚して小倉に連れ帰り、3月に第1師団軍医部長として東京に戻った。この3年間の小倉時代の日常を書き留めた記録を、のちに他人に清書させたのが「小倉日記」だ。現物は毛筆の楷書で書かれてあるという。

さて、小倉での3年間の独身生活は気楽であったかもしれぬが、世間の見る目は様々であり、殊に340歳代の男が独り住まいしていて同じ屋根の下に馬と馬丁のほかに女中がいるとなればあらぬ噂話のもとにもなる。身持ちの堅い鷗外は、夜分だけは自家の女中のほかに大家の女中を泊まらせたり、不要でもあえて二人目を雇ったりして、周囲に気を遣っていた。しかしその一方、女中運には恵まれず手癖の悪いのやら、家事がほとんどできないのやらで、信頼して家事を任せることができた者はわずかであったらしい。

このような背景を借りて、松本清張は本作『削除の復元』と『鷗外の婢』(1974)を書いている。どちらも鷗外が安心して使っていた女中の名前、木村元(もと)が登場する。小倉日記は文語体の文章だから用語も漢語が多く、女中は婢と書いた。

謎解きの謎のタネは「小倉日記」にあるが、岩波書店『鷗外全集第35巻』(昭和50年)に収録されたとき、編集者が稿本との相違点を「後記」の「注」に記載した。文章を訂正する場合、鷗外は墨で線を引いたそうであるが、ここに出てくる部分は範囲が広いためか、上から和紙で貼って抹消してあると説明がついている。この和紙で貼られた部分は上から透けて読めるらしいことが作品中に清張が書いている。透けて読めた内容を問題に仕立てたわけであるが、なぜ抹消したのか鷗外は説明していない。後年ほかで書いているということもないのであろう。鷗外研究家の清張だから謎に使えたのだと思う。小説の発端は、以前「小倉の鷗外」を発表している作家の畑中が未知の読者から質問を受ける。これはもう作り事だ。

岩波書店が昭和50年に発行した決定版『鷗外全集第35巻』に収録の「小倉日記」の今問題とする箇所には次のようにある(関連する語句だけ抜き書きするが、実際にはその他の出来事も連続して書かれている)。
明治331124日 婢元罷め去る。
明治331130日 旧婢元来り訪ふ。

「後記」の「注」によると、明治331124日「婢元罷め去る」は稿本の「婢元去りて人に嫁す」を訂し、同月30日の項は、「稿本左のようであったのを上から和紙を貼って削除してある」と説明して、「旧婢元来りていふ。始て夫婿の家に至りぬ」以下を全面抹消する、とある。
そのうえで次のように和紙が貼られた部分にあった記事を復元している。
≪旧婢元来りていふ。始て()婿(せい)の家に至りぬ。曾根停車場より車行二里、路頗る嶮悪なり。されど家は海に面し山を負ひ、景物人に可なり。後山躑躅花多きをもて、間々遊屐(ゆうげき)を着くるものあるを聞くと。夫婿は()()郡松枝村字畑の友石定太郎なり。現に東京商業学校に在りて、老母を留めて家に在り。元は往いてこれに仕ふるなり≫

これらのことから、はじめ鷗外は元が嫁に行くからやめたのだと思っていたが、後からそれが違うことが判明したから訂正と削除を行ったらしいことがよめる。ここまでは作り話ではない。

しかし、手紙をよこした読者は、たまたまこの友石家の縁続きであることから、古いことを調べてみると友石定太郎は生涯独身であったし、年齢が元より9歳も若い。ゆえに書かれたことは虚偽であること明白だが、なぜこんなことを言ったのだろうか。鷗外研究家のあなたはどう考えるか、という問い合わせである。

読者も手紙も清張の創作だ。鷗外が削除するに至った事情を創作したともいえる。

畑中もよくはわからないままに、旧主に伝えるのに婚家をよく見せようとした女性心理からだろうと適当に返事を出してことはそれで済んだ。けれども気になるので手を尽くして調べ始める。

清張の分身らしい作家の畑中は、史学の研究生に手伝いを頼んで小倉近辺の在所や寺などから探って、遂には鷗外に隠し子があったとの噂に行き着く。結局それはためにする策謀の未遂に終わったのだという推定結論を得る。
鷗外を敬愛する畑中は、あぶりだされた手のこんだ策謀にそんな馬鹿なことがあるはずがないと興奮し、鷗外にはひた隠しにしていた結核の病があるから清廉な日々を送っていたのだ、と自らに言い聞かせる。畑中の依頼した探索から怪しからぬ推論を導き出して報告に来た研究生は、畑中の剣幕にびっくりしていたが、いつのまにか姿を消していた。

最後に清張はシュテファン・ツヴァイクの言葉を引いて、「記録を徹底的に精査すればするほど、その記録に、すべての歴史的証言(と共に叙述)がもつ不確かさが、ますます痛切に認められてくる。…」(『メリー・スチュアート』より)と書き、鷗外の伝記に関する資料のどれ程が信憑性を持つものかとの疑問を出している。鴎外が小倉にいたころから90年も経っているのだから、すべての記録や証言はもはや歴史である、などと書きながら、結構お茶目な清張が独り楽しんでいるようにも見える。


推理ものは読者にとってどこまでほんとか、作り事との境目がわからなくなるという面白さを楽しめるが、筆者は念のため『鷗外の婢』も読んでみた。その結果、『削除の復元』に出てくる小倉近辺の在所や寺には清張自身が実際に訪れたらしいこと、墓の実在性に首をかしげるなど想像する楽しみも味わった。
それにしても小倉日記の記事を全集で実際に自分の目で眺めてみると、たくさんのこまごました事柄が列記されている文字群の中から婢元に関する語句を拾いだすことは、相当面倒な作業であることがよく分かった。清張さんは亡くなるまで鷗外に取りくんでいたにちがいない。
読んだ本:『宮部みゆき 責任編集 松本清張 傑作短編コレクション(上)』文集文庫(2004)、松本清張『鷗外の婢』新潮社(2012)Kindle版。
(2017/3)