2015年12月6日日曜日

『小森陽一、ニホン語に出会う』(大修館書店 2000年)

帰国子女の小森クンは日本語に自信があった。でもクラスで何かものを言うとあちこちでクスクス笑ってる。なぜだ。腹がたったので立ちあがって怒りをぶちまけた。
「ミナサン、ミナサンハ、イツタイ、ナニガオカシイノデショウカ」
かえってきたのは教室全体を揺るがす大笑いだった。

著者はこれが文章語だったと書いている。この日以来、まわりの子たちの話す言葉を注意深く聴くようになって、話しことばとしての日本語が文章語としての日本語と全く異質なことに気づく。
現代の日本語は「口語体」で、話しことばと書きことばが一致した「言文一致体」である、という教科書に記されたウソに身をもって気付かされた。

同書の同じ場面を論文で引用した日本語学者の小池清治氏は、説明している。
どの言語においても、口頭言語(話しことば)と書記言語(書きことば)とは厳密には一致しない。なぜならば、口頭言語は音声を媒介とし、書記言語は文字を媒介とする。口と耳を便りとする表現と文字と目を便りにする表現とは自ずから異質な表現体系をなすからである。そのようなわけで、「言文不一致」となるのが言語の自然なのである。(「『言文一致運動』の展開に見る日本・中国の相違」宇都宮大学国際学部研究論集 2001、第12号)
専門家によってこのように解説されると「やはり」言文一致はないのだとこっちも確信が持てる。一般には「言文一致」とは話すときに使うことば遣いで文を書くということと思われているようだ。そのようにして書かれた文体が言文一致体であるとも。まして教科書にそのように書かれていれば、誰しもそうかと思う。そんなことはないのに、ずっとそのように言われてきた。だから小森氏は幻想だと言っていつも括弧つきで書く。

この本は著者が自分の言語形成過程について書いてみないかという提案を受けたのが動機で書いたと明かしている。出来上がった本書は日本語がうまく出来なかったことに端を発して皮肉にも国文学者になり、さらに教職について広く異文化研究に進んだ体験が語られている。その体験が多様であるだけに個々のトピックに関して読者も自分なりに関心事の材料が与えられる楽しみもあった。

著者が知識も学力もない国文科で困ったのは卒業論文だ。少しはましな特技はロシア語しかないところから二葉亭四迷の翻訳小説の文体と翻訳の質を分析することをテーマにして辛くも卒業できた。
論文の出来はさておいても、このテーマの選択は成功だった。二葉亭の『あひゞき』でツルゲーネフの翻訳の問題から取り組みはじめた。
参考文献を集めだしてみると、近代の日本語、とりわけ小説における『言文一致』体の成立をめぐって、この『あひゞき』の翻訳が決定的な意味をもっていたことがわかってきましたし、日本で最初の『言文一致』体小説としての『浮雲』が成立するうえでも、この『あひゞき』の翻訳が重要な転機になっていることも見えてきました。(中略)あらためて、翻訳という過程をとおして、ある言語システムにおける新しい表現の変容が発生することに気づかされることになります。
ここで著者が驚かされたのは、ツルゲーネフにとっても、『あひゞき』の収められている『猟人日記』を書くことが、詩人から散文作家に変わる転機になり、そこに翻訳という問題がかかわっていたことだった。ツルゲーネフがフランスに滞在していたとき、すでにフローベールなどによっていわゆる視点描写、つまり作品の内部に身を置いている特定の作中人物の感覚に即して、外界を叙述するという表現方法が創出されていた。となれば、『猟人日記』中の作品は文学先進国のフランスに学び、まずフランス語でロシアの自然を書き、それをロシア語に翻訳するというプロセスを経て成立した可能性が見える。同じ事が二葉亭の中でも起こっていたのではないかと思ったそうだが、これは正解で二葉亭自身が、まずロシア語で書いてから日本語に直した、という苦心をどこかで語っている。小森氏はこの卒論の作業を通じて「近代『言文一致』体とは、実は翻訳言語であり、翻訳文体ではないか」という感触を得た。

旧ソ連のロシア語学校では小学校低学年では「祖国の語り」という学科と「ロシア語」の二つが日本の「國語」教科にあたる。高学年では「祖国の文学」と「ロシア語」になる。「ロシア語」では書き取りなどを通して言葉のスペルを覚え、文法が叩きこまれ、それに基づいた作文がある。「祖国の語り」の教科書には近代ロシア語の基礎を築いたプーシキン以後の著名な表現者の散文や詩が、自然や人事をめぐるあらゆる領域にわたって収録されている。「國語」も「社会」も「理科」もみな含まれる総合科目になっていた。

帰国した日本で出会った國語教科書にはそのような豊かな内容はなく、文章も半端で短く、二日もあれば読み終えてしまう退屈なものだった。授業の退屈さはそれどころではなかった。まず「段落分け」という作業があって、これが何のためやら、さっぱりわからなかったという。何でも「形式段落」と「意味段落」があって、最後にまとめの作業がある。教科書には「学習の手引」という部分があって「作者の気持ちを考えてみよう」とか「登場人物の心の動きを整理してみよう」とかの問いがある。教師はそれらに短い文で当たり障りのない正解を提示する。これが授業だった。
一つの物語のある場面における作中人物の気持ちを語り始めたら無限にあるはずなのに、どうしてこんな単純化される結果になるのか不思議だった。

ロシア語の「祖国の語り」教科の授業は生徒が教科書の文章をまるごと暗記して、それを表現力豊かに発表するのだった。これが唯一の指導方法ではないだろうけれども、そのクラスでは定評ある文章や詩を元の形をこわすことなく生徒が自分で操ることのできる表現として身体に刻み込んでしまう方法をとっていたわけだ。「水準の高い言語表現を暗記して再表現するということは、そのことばを自らの言語にしてしまうことにほかならない。『祖国の語り』の授業は、生徒が声を出す場であり、教師は生徒の発表に対し短いコメントをするぐらいだった」という。作品について生徒同士の議論はあっても、教師から均質的な解釈を求められることはなかった。

はて、全体主義で思想統制されていたはずのソ連なのに、教師からの制約はなかったのかと疑問に思ったが、時代は既にフルシチョフの頃だ。ベルリンの壁が出来たりしたけれど、初等教育は別なのか。よく分からないが著者が書くとおりであったのだろう。

「祖国の語り」の授業に比べて、「國語」の授業では生徒は沈黙を強いられ続け、教師が誘導尋問した時だけ答えを言うことが出来る。しかもそれはあらかじめ予定されているのだ。「國語」の授業は何とも息苦しい時間に思えたと回想する。
「教科書ガイド」を買って読めば全部出ていることをあとで知る。そこには黒板に板書される事柄すべてが載っているのだ。これを丸暗記すればテストで100点も可能になる。

小森氏は書いている。「後に、高校で『國語』の教科を教えることになって、『教科書ガイド』なるものが、それぞれの教科書に、教科書会社が附録としてつけている『教師用指導書』なるものに従って作られていることを知り、『國語』という教科の解釈中心主義が、『國語』という市場全体を支配する構造的なものだったことを理解することにな」った。

この辺まで読んで考えこんでしまった。教室で「段落分け」をさせられるというのを読んで、そういう経験がないのでネットで調べてみた。すると、用語の解説以外に、何のためか、どうすれば分かるか、とか授業に出ていればわかるだろうにと思える質問がたくさんあったのに驚いた。50年たっても同じことが行われている。

「段落分け」が教科に入っているのは、なにごとも外国を手本にしようとして明治20年代の文部省が国定教科書の文章に段落をつけたからだそうだ。段落は一字下げることだけが一般に伝わったが、それにまとまった意味があるなど知らなかった。先生もわからないから教えない。教えられない。段落は英語のパラグラフであって、元来日本語にはなかったものだから國語では気にする必要はなかった。(外山滋比古『國語は好きですか』大修館書店 2014)

人間性を育てる教育とか謳っていながら、千差万別の考えが出て来そうなクラスで答えが一つとは問題だろうと思う。数学や実験結果じゃあるまいし。ここに政治の作為はないのだろうかと疑う。教科書会社はサービス過剰とも思うが、ひょっとして学校側が望んでいるのかもしれない。教科書をこなせる教師がいないのではなかろうか。
ロシアにロシア語の教科があるのなら日本には教科として「日本語」があってもよいはずが、義務教育にあるのは「國語」だ。教育の歴史に「國語」が登場しても不思議ではないが、現代の義務教育にも昔のままに「國語」があるのにはなにか目に見えない意志の力を感じる。

小森先生が工夫した授業の実践例を三つ、ライヴ記録として載せている。私が一番びっくりしたのは高校生と読んだ『どんぐりと山猫』だ。言わずと知れた宮沢賢治の作品、一般には童話として知られているし、もちろんその通りに読んで構わないが、ここでは紙背に隠された事柄を拾い出す作業をしている。出てくる答えは一通りであるはずはないが、ここに誌された報告をおもしろく読んだ。おそらくこのライブ授業から20年たった今では同じような読み解きが普通になっているかもしれないが、私には初めての体験であった。かつて私が読んだのは小学校から中学2年までの間、70年も昔だ。初期の『注文の多い料理店』という一冊だったが、面白いお話として強く記憶に残っている。おとなになっても、それを新たに読みなおして分析しようとは思いつかなかった。今回は青空文庫の新字新かなで読んだ。原文は賢治の作法として、同じ語に平がなと漢字の使い分けをしているので、青空文庫の校正は信用できるにしても、読むほうにとってはやや心許ない。

ライヴ記録『どんぐりと山猫』は自由の森学園高等学校二年生、1996年2月。教室には落ち葉がたくさん敷かれていて風も吹いている(扇風機で!)、と舞台の説明があった。はじめに小森先生が授業の趣旨を説明する。読者の一人一人には違った読み方があり、話し合うことでいくらでも多様な豊かな意味が見いだせる。最初に全体を先生が朗読し、次いで生徒が自由に意見や疑問を出して議論するという形をとる。ジャズのジャム・セッション風。各人が各自の楽器を好きな音色でアドリブをする感覚で進行する。楽器で音を出す場合と違うのは、各人が思ったことを声で外に出す前に言葉にしなくてはならない。そのとき思ったことがそのまま言葉で伝えられるとは限らない。大抵少しずれたようになる、相手がどう受け取るか、それをまた修正する、こうして言葉で発信して議論することが鍛錬される。朗読の後、初版の『注文の多い料理店』発売に際して、賢治自身が書いた宣伝文の中の「どんぐりと山猫」についての文章が紹介される。
山猫拝と書いたおかしな葉書が来たので、こどもが山の風の中へ出かけて行くはなし。必ず比較をされなければならない今の学童たちの内奥からの反響です。
この文章にセッションの狙いもあることを知らせて討論に入る。この宣伝文は初めて知った。朗読が終わってからセッションが始まるせいか、物語の終わりに近い部分から討議が始まっている。金色に輝くドングリたちが、誰が一番エライかを問題にしてわいわいがやがや、「めんどなさいばん」である。高校生たちは、偉いってなんだろうとの疑問にぶつかる。物差しが要ると立会の教師が口を出して助ける。小森先生は比べるって事が大事だ、と補足する。「必ず比較をされなければならない学童」、人間を比較するとはどういうことか、物差しで何をはかるのか、考える。偉いという「抽象的な価値の基準は、その世界のなかでは決められなくて、外の権威に頼らなければならないわけだね」と小森先生。最後にはいちばんエライのは天皇か、との発言もあって、賢治の時代ならクラス全員死刑だと笑いもでる。ここで終業のチャイムが鳴ってしまったので、小森先生がまとめるが、授業の発言と進行に沿った説明からは自ずから近代日本の過去の姿勢も例に出された。「どんぐりと山猫」という物語には食う、食われるという食物連鎖、自然と人間への視点も内包されている。

普通なら素通りしてしまう言葉の意味内容に対する感性がとぎすまされる。「どんぐり」から何を引き出すか、「とびどぐもたないでくなさい」の意味は何だ、深く考えればいろいろな事柄や問題が見えてくる。
「このなかでいちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなってないのがいちばん偉い」(一郎の発言)と、「このなかでいちばん偉くなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、あたまのつぶれたやうなやつが、いちばん偉いのだ」(山猫の発言)と、どうちがうのか、違いを見つけるのはまるで哲学のようだ。

自由の森学園は私立学校だからこんなこともできたのだろう。公立校なら教師用指導書のとおりに上滑りして一つの答えだけで終わりになるのだろうか。そもそも『どんぐりと山猫』は危険思想だから(!)公立では採用されないかも。

第8章に「心と体で表現する日本語」という章がある。言葉には意味とコンテクスト(文脈、あるいは背景情報)があり、会話では意味はわかっても、相手の生活環境や文化によるコンテクストがわからなければ円滑な会話にならない。教師がコンテクストのずれに気が付かないことが教育場面にも多いことが述べられる。

要約すれば、こういうことになると思うが、実は理解しにくかった。ここには平田オリザ氏との対談の一部が載せられていて、平田氏の指導するワークショップの例題を使って対談が進む。その対談で本文を補足する意図だろうが、プロの二人の対談がそのまま読者に理解されるとは限らないだろう。著者の手抜きか編集の失敗だと思う。読者のためにはそれこそ対談のコンテクストを補うべきだったのでないか。
平田氏はワークショップでコミュニケーションのためのコンテクストのすり合わせなどを指導している。本書発刊当時と違って現在ではウェブサイトがあるので、それを参照することで理解できた。

「あとがき」の結びには「『ふつうの日本人』や『ふつうの日本語』という幻想から、私たちが自由になり、各自の個別的な言語実践を肯定できるようになることを心から願っています」とある。
「ふつうの日本人」や「ふつうの日本語」というのは帰国児童の小森クンが劣等感を抱いた対象を指している。後に分かってみれば、すべてまやかしだった。極論すれば日本人はみんな個別の心の奥底にあるものをどこかに置き忘れて、うわべだけの人間になっている。ほかの人と同じ、みんなと同じでありたいとの願望に生きているみたいだ。
とにかくこの書物は面白く読ませるかのようにみえて、実はそうではない。随分考えることがありすぎるくらいだ。あえてまとめて言うとすれば「國語」がおかしい。総ては明治に始まっている。
(2015/12)

2015年11月18日水曜日

言文一致と速記術

日本の統治主体が徳川家から天皇を中心とする政府になって、政策の進行とともに社会のありようが変わった。言葉について言えば国民一般のしゃべる言葉遣いと政府の通達に使う言葉遣いに大きな違いが目立ってきた。大きく上下の階層に分けて考えるなら、下の階層は生まれ育った土地でひとりでに身についた言葉で暮らした。上の階層は漢語を日本流にこなした言葉を使う。政府の通達は漢文をこなした特別の書き言葉であった。維新になって社会の上下が入り混じり混沌としたため人々は対人関係をどういう言葉で処理すればいいか戸惑うばかりになった。
時とともに幕末の頃から兆していた西欧の文明が色濃くなってくると、それに関係する言葉が翻訳されて新しい言葉としてそれまでの言葉と入り交じるようになる。この場合に生まれた言葉は漢字の意味を利用しながら日本語の音声を持つ翻訳言葉であった。新式の漢字熟語である。音読みだけがあって訓読みがない。政治には上から広く下層へ向けてする伝達方法が必要だ。もはや高札に張り出すだけでは間に合わない。文書にして下層を統括する役所に階段式に伝達するだけでなく一度に広く内容を行き渡らせる広報がいる。広報の内容をより分かりやすく庶民に伝える手段もいる。江戸にはかわら版があったが、明治には新聞が誕生する。活版印刷が可能になって実現した。
日本では漢字かな交り文という文体ができていた。漢字だけでは足りない箇所を仮名で補う、あるいは仮名だけでは分かりにくい箇所に漢字を使う。明治の新聞も同じであるが基本になる文体を漢語育ちの文語体にするか、話し言葉の口語体にするかの違いがある。仮名だけの新聞もあったらしいが、だいたいは和漢混淆の文語体で始まったようだ。新聞記者というような上等な職業ではないみたいだが、新聞に文を書く人たちは話し言葉で文を書くことを知らなかったようだ。
ざっとこういう状況で明治20年になった(と勝手に考えている)。

話し言葉で文章ができないものか、いいかえれば口語で文を綴れないか、これを言文一致体の文章というようになっていたらしい。文学者たちもなんとかそういう風な仕事をしてみたいと考えたのであろう。
二葉亭四迷、本名長谷川辰之助、市ヶ谷で生まれた(元治元年2月28日、これは旧暦で西洋暦では1864年4月4日になるそうだ)。日露衝突を予想して旧外国語学校ロシア語科に入学したが、途中で文学に目覚めた。この上なく上質の教師に出会ってロシヤ語を身につけた。教師が上質だったから単なる訳読ではなく西洋の論理の運び方、単語の持っている本質的な意味まで学びとることができたという。優秀な学生であった辰之助は制度の犠牲となって商業学校に移らされることになり、怒って卒業目前に退校してブラブラしていた。そこへ言文一致体運動がやってきた。

なんとかこれをモノにしてみたい、とは思うものの方策がわからないから親しく出入りしていた坪内逍遥のもとにどうすりゃいいか訊きに行った。師曰く、圓朝の落語を知ってるだろう、あの落語の通りに書いたらどうだろうなと言ってくれたので、そのとおりにして書いてみた。
出来上がったのを持って行って見てもらうと、これでいい、なまじっか直すよりこのままでいいと言ってくれた。
というわけで圓朝ばりの言文一致体で書いた作物ができたのさ、と『余が言文一致体の由来』(明治39年5月『文章世界』所収)に書き遺している。師匠はいいと言ったが本人にはまだ不満が残っていた。ま、これはまたの話にしよう。こうして出来た作品が『浮雲』第一編だそうだ。
(参考;http://www.aozora.gr.jp/cards/000006/files/1869_33656.html

さて、二葉亭四迷は圓朝ばりの文章を書くにあたって、どのように圓朝を模したものか。これは高座を聞いてから書いたのであろうけれども、速記によって文章化された噺を参照した可能性が高い。手元に読み物になった印刷物をおいて、時々参考にしながら原稿を書いたと考えるほうが自然だろうから。折しも圓朝の噺の速記本がおおはやりで、二葉亭の利用したのが『怪談牡丹燈籠』らしいから、それは講談落語などの口演が速記で筆記された最初の作物である。日本の速記法はこの頃ようやく実用に向けて出来上がってきたのであった。

わが国速記法考案の祖と云うべき田鎖鋼記が欧米のステノ・フォノ・グラフィーにヒントを得て、これを日本に移植しようと苦心惨憺した。結果がようやく芽を出し始めたのが明治15年の「日本傍聴記録法」の講習会であった。実務的には未完成のままの技法を講習を受けた弟子の若林玵蔵たちが改良を重ねた。郵便報知新聞紙上で速記法と名称もあらたに、改進・自由両党の問答を記録したのが翌16年7月、実地応用の最初とされる。次いで東京法院での審問弁論や政治小説『経国美談』後編の口述速記などを經驗の後、明治17年3月に同僚酒井昇造とともに埼玉県会の速記に従事した。これは地方議会速記の最初で、これはまだ要領筆記との併用であった。当時の弁論などの筆記記録は内容をかいつまんで書き残すやり方だったから、あとで記録を持ち寄ると何がどう討論されたのか筆記者によって結論もまちまち、役には立たないシロモノだったらしい。

明治17年秋、東京稗史出版社の企画を若林玵蔵と酒井昇造の二人が依頼を受けて三遊亭圓朝の新作『怪談牡丹燈籠』を初めて速記技術を使って筆記した。筆記の結果は印刷された雑誌として販売され、評判の高い圓朝の噺がそのままに読めるということで人気を呼んだ画期的な出来事であった。
若林と酒井の両人のそれまでの速記現場経験は上に述べた新聞社と埼玉県会などであったから、筆記した内容も政治向けの言葉であり、ヨーロッパの思想が苦心して日本語に直された翻訳漢字熟語が多かったはずである。
『怪談牡丹燈籠』は全編を15日間かかって語る長い噺、語られる言葉はいわゆる俗語の話し言葉である。若林と酒井の両人は寄席の噺の速記は未経験のこととて多少の不安があったものの、内容は難しくないので二人で協力すればまとめられるだろうと吹っ切って始めた。それが二人がかりの理由だったが、初日をうまく乗り切れたので、あらためて圓朝に申し出て全席引き受けることになり、15日間通しで寄席に出張って筆記したという。
(参考図書;福岡 隆『日本速記事始―田鎖綱紀の生涯』岩波新書1978)
速記文の例『坊っちゃん』の一部
http://sokkidouraku.com/index.html

若林玵蔵が『怪談牡丹燈籠』「序文」に記している。
(前略)所謂言語の写真法を以て記したるがゆえ、其の冊子を読む者は亦寄席に於て圓朝子が人情話を親聴(しんてい)するが如き快楽(けらく)あるべきを信ず。以て我が速記法の功用の著大(ちょだい)なるを知り給うべし。但(たゞし)其の記中往々文体(てい)を失し、抑揚(よくやう)其の宜(よろし)きを得ず、通読に便ならざる所ありて、尋常小説の如くならざるは、即ち其の調(てう)を為さゞる言語を直写せし速記法たる所以にして、我国の説話の語法なきを示し、以て将来我国の言語上に改良を加えんと欲する遠大の目的を懐(いだ)くものなれば、看客(かんかく)幸いに之を諒(りやう)して愛読あらんことを請う。
(青空文庫より、()はルビを示す)

ここで若林は自らの速記の優秀さを自負するだけでなく、ときには欠陥もあると指摘して読者に了解を求めている。速記法を案出した結果は、言語を直接写してその片言隻語をも間違うことなく、その筆記を読んでその説話をその場で聴いているような気持ちにさせることにあるが、それでもなお文の形が乱れて、抑揚も調子悪く、読みにくいところができることがある。これはわが国の語法が不完全なためであって、速記法は将来それを改良する目的を持っているのだからお許しを乞うというわけである。

通読に便でない言葉とは口語としてこなれていない言葉のことであろうか。つまり聞いただけでは庶民にはわからない言葉ということになるが、それがあるとすればどんな場合か。侍や高僧が使う難解な漢語かもしれないし、新しいほうでは西洋渡りの訓読みのない翻訳語かもしれない。いずれにしても通読に便でない箇所は、それが速記者の聞き違いでなければ演者の口述する言語に誤りがあったわけであろう。いや、ここは書き言葉をもとにして口演する圓朝の語る話し言葉のせいで、もとの書き言葉が崩れる場合を指すと考えられる。速記は忠実に口述が写されなくてはならないから、速記者による手直しは筋が通らない。当今の編集者のように修正や校正はできないだろう。だから、この若林の言い草は話されたまんまを写したんだという自信を述べたうえで、今後とも速記を応援してくれよとの挨拶と受け取っておこう。
日本速記協会のサイトより

ところで、稗史出版社の企画は大当たりをとり、名人の噂の高い圓朝の噺が手元でいつでも読めるということになって大層売れた。圓朝物だけでも速記本はこのあと十八本も出たという。余計なことだが、「稗史」の音読みは「はいし」だが当時のルビに訓読みで「よみほん」となっている場合もある。「稗史」だけでなく、漢字熟語を和漢どちらにでも都合の良いように読もうというのがその頃の読み方だ。逍遥の言葉の中の圓朝の「落語」も読みは「はなし」だと思う。「落語家」は「はなしか」なのだ。


若林たち速記者は講談速記をするまでは実務修練を兼ねて速記者の職場獲得に懸命であったが、前に述べた程度の範囲の需要では情勢はあまり芳しくなかった。穿った見方をすれば、政治に立ち入ると当局に引っ張られることも多い時代だったから、その方面に積極的に職場を開拓することはしにくかった。しかし講談速記の大盛況の余波で新聞雑誌のメディアが速記に目をつけたことで大きく運が開けた。
また、折しも明治14年、政変を機に再燃した民権運動を抑えるため政府は国会設置を決断して詔勅を出した。10年後の明治23年に第1回帝国議会が開かれることに決定される。
議会開設に先立ち枢密院書記官金子堅太郎は速記採用の進言をして自ら欧米議会をつぶさに見た結果、これはどうでもわが国議会も速記が必要と認識があらためられた。少し前までの金子は西欧に速記術があることを知って書物を取り寄せてみた結果、これは日本語には使えないと結論してそのままになった事実があったのだ。速記術は話される音声を書き取る技であるから、たとえば英語の速記は英語音声だけにしか使えない。いくら西欧の事物を取り込むに熱心な日本でも、こればかりは直輸入しても役に立たないのは自明の理である。考えをあらためて数か国の議会の実際を自分で視察したのは賢明であった。田鎖の発想は賞賛されるべきだった。

さて必要になるのは速記者だ。金子は速記者養成にも取り組んでいた若林たちの実務技能を幾通りもの試験で使用に耐えると確認してから速記の採用を決定して国会速記制度を設けた。これにより第1回議会から速記による議事録作成が実行されることとなり、現在までも続いている。
と言ってしまえば簡単だが、田鎖の個人的関心と発想、若林たちの技能開発と市場開拓の熱意、枢密院書記官金子堅太郎の判断、官報局長高橋健三の判断によるフランスから高速印刷機の輸入など総て個人の能力に負うところが大きい。田鎖の発想から僅々18年ほどで速記術により議会議事録が発言通りに記録され官報に印刷されて発行される、まさしく綱渡りのような僥倖ではあった。英国では200年を要したと伝えられるのだ。次に紹介する金子堅太郎の挨拶は速記の出現で変化した議員心理も面白いが、発言内容が事細かに文章の上に再現されることへの感動がうかがわれる。

金子は第一議会が閉会したあと、速記者を集めて次のようなあいさ つを行っている。
「それからもう一つ愉快なことは、今度の議会が済んですぐ宴会があり、いろい ろ集会のところで話をするには、議員は、実に言葉を慎まなければならない、今までの日本のように、でたらめの演説をするということは将来慎まなければならない。というのは、おのれの脳髄の反射したものが日本帝国議会の議事速記されることは、実にコワイものだ。それで最初はでたらめに演説したが、2度目から は前の晩に草稿をつくって、それをひとりでしゃべって、翌る日議事堂において演説するようにして、速記者により、自分の精神も、脳髄も、思想も、緻密にさ れたと、あまたの議員が私に語った。してみれば、あなた方速記のおかげで、こ れまで錯雑しておる思想も緻密になり、慎まざる言語も慎むようになって、これ から私は日本の演説が一変するだろうと思う。まず帝国議会の演説から。また次には日本の文章というものが一変するだろうと思う。この速記術が流行してきて、 ことにことしのごとく帝国議会で満足なる結果を来した以上は、日本の文章は、 速記で書くようなものが文章になるだろうと思う。今までは言文一致しておらぬ ゆえに、帝国議会の速記術がだんだんと年々歳々轍を追い、この慣例に従ってい くときには、日本の文学が私は一変するだろうと思う。清少納言や紫式部が大和文を書き始めて日本の文学が一変し、それから(荻生)徂徠あたりがあらわれて、 また文学が一変し、(頼)山陽、(藤田)東湖があらわれてまた一変し、明治の 初年にいたって片仮名がはやって日本の文学が一変し、明治23年の帝国議会 より日本の言文が一致するようになる。ヨーロッパどおりに書くことも言うことも一致する。帝国議会の速記術のために言文一致の結果を生ずることに必ずなる だろう。この私の予言が数十年後に的中したならば、これまた諸君のために愉快 なることと私は思う」
(「速記という文化」http://homepage3.nifty.com/Steno/001o/04.html

この談話に登場する「言文一致」は金子に代表される当時の官界政界のお歴々による使い方であって、その指す内容は「喋ったことがそのまま文字になる」という至極単純な事態の理解だ。この場合は言と文のそれぞれが指す内容が一致することを意味している。國語改良だの漢語排斥だのの議論とは全く関係がない。政治の世界が如何に普通の生活の世界とかけ離れているかの見本のようだ。この人たちはこうして速記を採用した後も長らく漢字主体の文語体で仕事をしていたわけだ。

ここで再び逍遥と二葉亭の話に戻れば、『余が言文一致体の由来』とあるように、問題にするのは内容の指す事実の一致だけでなく、使われる語彙や語法が口語であること、そして何よりも文末のくくり方を含む総合的な文体だ。引用文「由来」の後に続く部分には言文一致体で作品を綴る際の苦心が述べられている。便宜上、二葉亭の自説に番号を付けて部分引用する。

(1)自分は少し氣味が惡かつたが、いゝと云ふのを怒る譯にも行かず、と云ふものゝ、内心少しは嬉しくもあつたさ。それは兎に角、圓朝ばりであるから無論言文一致體にはなつてゐるが、茲にまだ問題がある。それは「私が……で厶います」調にしたものか、それとも、「俺はいやだ」調で行つたものかと云ふことだ。坪内先生は敬語のない方がいゝと云ふお説である。自分は不服の點もないではなかつたが、直して貰はうとまで思つてゐる先生の仰有る事ではあり、先づ兎も角もと、敬語なしでやつて見た。これが自分の言文一致を書き初めた抑もである。

(2)自分の規則が、國民語の資格を得てゐない漢語は使はない、例へば、行儀作法といふ語は、もとは漢語であつたらうが、今は日本語だ、これはいい。併し擧止閑雅といふ語は、まだ日本語の洗禮を受けてゐないから、これはいけない。磊落といふ語も、さつぱりしたといふ意味ならば、日本語だが、石が轉つてゐるといふ意味ならば日本語ではない。日本語にならぬ漢語は、すべて使はないといふのが自分の規則であつた。
(3)成語、熟語、凡て取らない。僅に參考にしたものは、式亭三馬の作中にある所謂深川言葉といふ奴だ。「べらぼうめ、南瓜畑に落こちた凧ぢやあるめえし、乙うひつからんだことを云ひなさんな」とか、「井戸の釣瓶ぢやあるめえし、上げたり下げたりして貰ふめえぜえ」とか、「紙幟(のぼり)の鍾馗といふもめツけへした中揚底で折がわりい」とか、乃至は「腹は北山しぐれ」の、「何で有馬の人形筆」のといつた類で、いかにも下品であるが、併しポエチカルだ。俗語の精神は茲に存するのだと信じたので、これだけは多少便りにしたが、外には何にもない。尤も西洋の文法を取りこまうといふ氣はあつたのだが、それは言葉の使ひざまとは違ふ。

(1)はいわゆる待遇表現の問題。日本語では、話すときには自分と聞き手、自分と話題の人物との関係によって自他の人称を使い分け、敬語を使うかどうか考える。文章にした時、文末を「だ」「です」「ございます」など、敬意の程度が変わるのでどのように締めくくればよいかが難しい。圓朝の噺を真似るにしても向こうは高座からお客に語りかけるわけだから、小説家が聞き手ゼロの立場で描写する時に真似ることは出来ない。『浮雲』と『あいびき』で見るとどうやら「た」を文末に置くことで解決されたようだ。このあたりの文体論を作品を見ながら検証する能力は筆者にはない。うまく説明できないから、取りあえずこれで分かったことにしておこう。
(2)国民語という語をつくり出したようだが、庶民の言葉としてこなれた語の意味だろう。よく意味がわかっている言葉を使うということだと思う。でも実際に出来た作品には今の目で見れば随分変なのがある。時代の違いは仕方がない。
(3)俗語には話す人の心情がこもっているという意味に解してはどうだろうか。ここにあげられている三馬の例の意味はわからない。ポエチカルと辞書を引いて「詩的な」と置き換えても役に立たない。ここは洒落言葉とか地口というもので、飾らない庶民の口からほとばしる言い尽くされた言葉で、おかしみの中に実感がこもるといったものであろうか。『浮雲』では戯画風に描く言葉が使われている。
というわけで、二葉亭の実作にあたっての自己規律については、理解はよく出来ないながらも作家が四苦八苦する様子は感じられる。『浮雲』は第一編よりは第二編のほうが、相変わらずごちゃごちゃ感は残るが、ましになった。第三編は作家自身が大失敗と認めているので圏外として、『あいびき』を読むと随分すっきりしたなと思う。語彙が古臭いのは仕方ない。ともかく言文一致体らしくはある。何はともあれ、二葉亭四迷は言文一致体で名作を遺したと言われているのだ。

さて、志賀直哉が日本語をやめようとまで嘆いた理由は何か知らないままに、明治の日本語をあれこれ嗅ぎまわって言文一致で躓いた。「一筆啓上仕り候」を喋る時の言葉で書こうよということだったのだ。結局二葉亭さんの名作でめでたく成功となったが、いかんせん今の時代に読んでみればなんとも古臭い言葉の連続、しかしそれでも当時は口語だった。うたは世につれというように、時とともに言葉は変わる。今や言文一致などという声はまず聞かない。電子文の時代になって、つぶやきだのラインだのって言だけで文がなくなってきた。

それはそれとして、「言文一致」は自己矛盾、一致することはない。速記の技法は文字通り早書きの術だ。声をいかにしてすばやく文字に写しとるか。聴いた声を一旦棒やら点などの印にしたものを、あとで見ながら文字に直すという作業をする。はじめはこれこそ言文一致だと思ったことだろう。金子堅太郎が語ったとおりだ。

日本語の歴史を読んでも速記に触れた文章は非常にすくない。今度思いがけなく速記の歴史を読んで大変面白く、また勉強になった。圓朝のこともいろいろ知った。福沢諭吉が演説をした時には、前もって話す通りに下書きをしたという。それはそうだろう、誰でも原稿なしで話しだすと話の方向が分からなくなることが多い。でも福沢の頃は誰もそんなことは考えなかった。圓朝も必ず下書きをしたに違いないが、そういうことを書いた文にまだ出会わない。晩年の田鎖のもとに圓朝が見てもらいたいと言って原稿を持って来たとの真偽不明の話があるそうだ。

二葉亭四迷の筆名は「くたばってしまえ」、東京語の人だから「くたばってしめえ」からだと本人が書いていた。出版するに坪内さんの名を借りて本屋を納得させる有様は情けない不埒な人間の仕業だ、というところにはじまった。ホントはこの上なく真面目な自分に正直な人柄だった。

之は甚(ひど)い進退維谷(ジレンマ)だ。実際的(プラクチカル)と理想的(アイディアル)との衝突だ。で、そのジレンマを頭で解く事は出来ぬが、併し一方生活上の必要は益々迫って来るので、よんどころなくも『浮雲』を作(こしら)えて金を取らなきゃならんこととなった。で、自分の理想からいえば、不埒な不埒な人間となって、銭を取りは取ったが、どうも自分ながら情ない、愛想の尽きた下らない人間だと熟々(つくづく)自覚する。そこで苦悶の極、自(おのず)から放った声が、くたばって仕舞(しめえ)(二葉亭四迷)!
(『予が半生の懺悔』明治41年6月「文章世界」所収、青空文庫より、()はルビを示す)

(2015/11)



2015年10月26日月曜日

志賀直哉の「国語問題」

阿川弘之氏の著作を少し続けて読んできたので、このあたりで『志賀直哉』を読んでみようと思った。新潮社『阿川弘之全集 第15巻』を図書館で借りて読んだ。この巻には「志賀直哉」(下)が入っている。下巻から読み始めたのは予て関心があった志賀直哉の「国語問題」について参考になることが多くあるのではないかという期待からである。

阿川氏の志賀直哉論は下巻だけでも志賀直哉(以下直哉と略記する)という人物を十分に彷彿させる大変に印象深い作品であり、大いに堪能した。作品に対する評価は一切行わないで、直哉の日常をありのままに描くことによって人物像を描写した。阿川氏の師に対する態度は時に隣人であり、友人でもありながら敬愛の情が横溢している。また直哉を偉い人として敬遠するかのような見方をしていた人でも、いったん会って話をしてみると皆が皆のように温かい心をもったおおらかな人との感想を持ったということについても大いに感銘をうけた。最後のお別れから納骨まで記されているが、老いが進んでゆく生活の状況があまりに具体的なため、それに近づきつつあるわが身のことも合わせて、まさに身につまされるような思いもしたことを白状しておこう。

さて、志賀直哉の「国語問題」というのは昭和21年、『改造』4月号に収載された随筆であるが、国語に対する提案である。3,200字という小論だが発表されると、その発想の奇抜さで大きな話題になり、70年の時を経ても未だに話題に上る。不便で不自由を極める今の国語を棄ててフランス語を国語に採用しようというのだから、大方の反応は戸惑いからの無視に近いものであったのは当然だろう。阿川氏も反応らしいものは殆どなかったと書いている。しかし本人は大真面目であり、これは思いつきなどではないと、ことあるたびに確認し、十数年後までもその意見は変わらなかったことが後々の談話などで明らかにされている。没後の全集に収録される原稿も何ら改められることはなかったという。なお、阿川氏の全集には「国語問題」の原文は載っていないので志賀直哉全集(岩波書店)で読んだ。

提案は突飛な内容であったが、そのようなことを発表したについては、思いつきどころではなく、作家としての心の底からの思いであったろうことは、わずかにその文章からうかがえる。「日本の国語が如何に不完全であり、不便であるか、四十年近い自身の文筆生活で常に痛感してきた」というのであるが、それがどういうことであったのかは、「ここで例証することは煩わし過ぎてできない」とあるだけで読者には伝わらない。

日本語と取り組んで日本とは何かという問題の研究に生涯をついやした大野晋氏は、この作家が日本語を棄ててまでもフランス語に取り換えたいと願った心境については大いに同情の気持ちを隠さない。氏の『日本語について』(同時代ライブラリー、岩波書店1994年)に所収の「日本語の将来」には直哉の「煩わしすぎて」を補足するかのように日本語の包含する問題を易しく述べてくれている。問題の所在は多岐複雑であって、ここに紹介するのでさえ煩わしすぎる。しかし、日本語を研究したり、教える経験を持つものには誠に至当なことばかりなのである。なお同氏の所論は阿川氏が『志賀直哉』の中で触れた大野氏の考えそのままではなく、うえの書物に収載する際に全面的に稿を改めていることに留意したい。このことは直哉が当時慨嘆した以上に私たちの国語がますます扱いにくい容態に変化していることだけでなく、ほぼ全部の国民が将来を慮ることなく事態を放置しながら平然としている様を明らかにしている。ちなみに大野氏は2008年に亡くなったが、その述べるところの日本語の変わりようは現在も同じである。

志賀直哉は明治16年生まれである。その生涯の前半生を国語の問題に絞って眺めてみれば、漢字を多用し、その上ルビふりまでした新聞があった明治時代、国語審議会の制定、漢字節約論、かな文字論、ローマ字論、漢字使用制限、そして占領軍によるローマ字使用勧告などが背景にある。昭和21年の9月に「現代かなづかい」、11月には『当用漢字表』と来ては、こんなものが使えるかと思ったのではないか。当の直哉は「国語問題」発表の後も終生新しい方針に与することなく正漢字と旧仮名遣いによる文章で通した。

「国語問題」には「国語を改革することの必要はみんな認めていることだが、私は今までの国語を残し、それを作り変えて完全なものにするということには悲観的である」とある。そもそも言葉が完全とはどういうことか、考えてもわからない、結論の出ようのない問題なのだ。フランス語が一番良さそうだというにしても直哉は仄聞か想像で言っているに過ぎない。大野氏は明治大正時代に育った日本人にとっての知識の限界や外国観の劣等意識がそのように思わせたのだろうと推測する。昭和21年という時機を考えれば「敗戦」がきっかけかもしれないとも書いている。直哉の文章から提案の根拠が見いだせないのなら、せめて戦時中に度々想い起こしたという森有礼の考えを探るしかないが、そちらは端的に言って西洋文明を摂取するにはあまりにも貧弱なと考えた日本語への絶望感であった。直哉も同じように絶望感を持ったのだとすれば、それは矢張り大野氏が想像するように敗戦という事態が作用したと考えるのが妥当かもしれない。

阿川氏が大野氏から聞いたこととして直哉の長男、直吉氏の証言がある。「国語問題」に関して父君がどのようにか言われていたことはないかとの電話による問いに直吉氏が答えた内容である。その要点は次のようであったと。

よその国に通じない言葉である。言葉の障害が戦争の一因だ。日本文学が海外で読まれていない。若い頃から自分が作り上げてきたものでも、一向に分かってもらえない。フランス語のような国際語で書かれていればそんなことはない。自分の文学は芸術だ。

芸術の域まで高めた自分の文章が芸術の国フランスで読んでもらえない、この悔しさはひとえに日本語のせいだ、とでも言わんばかりの嘆きが聞こえそうだ。猫も杓子もフランスであった明治末年から大正時代を経た人たちにとって、フランスが素晴らしい國に見えたに違いない。実のところは当時既に統一されていたフランス語ももとはといえば北の方の地域語のオイル語が標準に採用されたもので、外された他の地方では未だにその憤懣が残っている。日本の東北訛りが東京語に気圧されたと同じように、フランスの地方訛りの人たちは中央に出る時にはひたすらお里訛りを消すことに努めるのは今に変わらないそうだ。さもなくば能力まで疑われるという。直哉にはこういうことがわからなかったのは、当時の人間としてやむを得ないだろう。

もう一つエピソードとして阿川氏が公にしなかったことが「志賀直哉」に述べられていた。
「新しい仮名遣ひと漢字制限に、直哉は嫌悪感を示した。その最大原因は、新聞に寄稿すると内閣告示に従うという新聞社の社是の方が優先し、往々文章の風格を滅茶滅茶にされてしまうから」であり、特に昭和25年正月の朝日新聞の扱いに問題があった。問題になった点を抜書きする。
寅年の寅とトラ、虎もトラ、生まれ年のとしもその人の歳も年、書き癖の「矢張り」は「やっぱり」になおされてしまう。
「探幽の『水飲みの虎』といふのは剥落で眼つかちになってゐるが」は「探幽の『水飲みのトラ』というのははげて眼つかちになっているが」と改められ、「だうもう」と読んでもらうつもりで「獰猛な虎」と書いたのは「ねいもうなトラ」に、橋本雅邦の「龍虎図」をとりあげた「龍に怯えた牝虎の姿」は「リュウコ図」の、「リュウにおびえたオスのトラの姿」と牝牡まちがへてカタカナだらけにされた。紙幅の枠に収まらなくなって終わりの方63字削除されたので、「虎を踏まへて砂糖ない」という駄洒落の部分が何のことかわからなくなった。

こういうことで、原文のまま載せてくれない新聞社には寄稿しないことに決めた。全集編纂の阿川氏も直哉の著作物としてみなさないことに決めて全集には収録しなかったという。
最後のくだりの「虎を踏まへて砂糖ない」というのは「虎を踏まへて和藤内」の国性爺合戦の主人公の名をもじったものであるのは言うまでもない。この事件で朝日新聞はしばらくお呼びでない状況になったが、時日がたって和解したそうである。

しかし、こういう事態になれば予て不便だと感じていた文字遣いが、一層不便になった上に漢字制限の行き過ぎでしかない様子に変わったのでは直哉ならでも怒るのは当然と言える。国語審議会というのはおかしな集団であった。やがて常用漢字表が発表されて多少は改良されたかに見えるが、漢字制限の効果は着実に作用して新しい教育を受けた人たちは漢字が読めなくなってきた。そうして世の中のメディアは新聞とラジオからテレビになる。それは漢字を読む、書くという作業が要らなくなることでもあった。さらにワープロだ。耳で聞いた言葉はキーを打てば漢字かな交じりに機械が変えてくれるのでは、頭は不要になったわけである。
国語問題というのは直哉の提案はささやかな波紋しか起こさなかったが、深い深い国民的な問題なのである。

直哉は阿川氏に尋ねたそうである。「品川は『しながは』かい」。「はい、川は『かは』ですから」、「ああいふことは煩いね」。
(2015/10)

2015年10月19日月曜日

閑中忙あり パソコン悪戦苦闘の巻

閑人(ヒマジン)は何かをきっかけとして様々なことを思いつく。
妻が使っているPCがおかしいという。音がするという。HDが古くなったか、冷却ファンがくたびれたか、素人判断でそろそろ寿命かもしれないとも思ったりした。2008年から使っているが、一度はボタン電池の寿命切れ、二度目は基板チップの不良が生じてのACアダプターの自動オフ、という履歴がある。
とにかく動いている間に新品を用意しようとネットで注文して5日目に到着。さっそく妻の使いやすいようにセットして、古い方は私の部屋に引き取った。翌日古い方にご機嫌伺いしてみると、もはや全く起動しなくなっていた。過去二回お世話になったすばらしい「PCレスキュー」さんに頼むことも考えたが、ノート型の蓋の部分にいつの間にかネジ穴のような穴が二ヶ所あいたり、その周りにサビがついたり、なぜこんなことにと思うほどの汚れ方。低位クラスのマシンとはいえ、いかにも材質が悪い感じがしたので廃棄に決めた。あえて名を明かすならDELL Inspiron 1526。もとのVistaにWin7のアップグレードサービス付きで売りだしたのを買った。
ちなみに1年遅れで買った同様機種のInspiron 1545は、外観もまだピカピカで元気で働いてくれているから、製造地域の違いなどが影響するのかもしれない。サポート期間の長いプロフェッショナル・エディションにして使っているのをこの夏Win10にアップグレードした。
10年以上DELLを使い続けたが今回の出来事で信用失墜、今度は昔なじみのhpに変えた。これは日本製造である。

ところで、古いPCを廃棄するのにはリサイクル・ラベルがついていたから、DELLに回収を申し込んで無事引き取ってもらった。すべてwebサイトの画面上のやりとりだからヒトコトも口を利かなかった。hpを買う時も同じ、耳の悪い当方には有難いことです。送られてきた伝票類には「排出」という言葉が使われていて、なにか奇妙な感じがした。法律の文言ならまだしも、普通の家庭から郵便局に頼んで持って行ってもらって先方の工場に送る、この過程を排出というのかな。なぜ「送る」とか漢字の熟語なら「送付」、あるいはせめて「搬出」などの普通の言葉があるだろうに、けったいなことやなぁと思った。要らなくなったものはゴミのように排出するわけかな。

さて、上に書いたDELL 1545の隣ではDELL 1501というのが動いている。これは2007年に購入したもので、Win7の無料アップグレードサービス付きだった。この機械の素性はもとのXPからの着せ替えである。当初付帯アプリが少しゴタゴタして一度工場に戻した履歴がある。その後は順調に働いてくれている。HDDが少しくたびれているらしく、時にはゼイゼイあえいでいる感じがする。保存はすべて外付けHDまたはクラウドにして、本体は運用だけに使うようにした。
2台を横に並べてデュアル・モニタで一方はwebの参照、片方は入力などのように使うが非常に便利だ。両方のPCをつないでマウスと外付けキーボードを共用している。これにはmouse without bordersという無料のフリーソフトを使う。Microsoft garageという技術者集団の製品でなかなかのスグレモノである。

Google chromeでしょっちゅうweb参照をしていると、用はないけれども面白そうなサイトが目につく。
金型通信社というサイトがあった。どうも金型の設計製造に関連する技術通信が本業で、サイドビジネスに操作図解の手法を利用してコンピュータ・ソフトの解説などもやっているみたいで、microsoft garage日本版といえばいい過ぎか。なかなか興味深い会社だ。たぶんWin10の操作について探っている時に行き当たったのだと思う。そこにLinuxのことが出ていたのを見つけたのが運の尽きだったかもしれない。華やかに並んだたくさんの誘惑的なコピー文句に惹かれて、これさえあればLInuxなんてへっちゃらみたいな思いで、解説CD(1,510円)を申し込んだ。すぐさま送ってきたCDで色々と勉強させてもらった。選択肢がいろいろある中で、当面の結論はこれを使えば古いPCも十分使えそうだ、ということだった。しばらくはWindowsとLinuxの両用、つまりデュアル・ブートにして、Linuxの使い方に見極めがついたら全面的にLinuxでいく,でどうだろうとか夢想した。

LinuxはOSの名前だ、というのは正しくないらしいが、まだ勉学途次で説明はできない。実際にPCに組み込むOSはいろいろなリナックスがある。Linuxにはいろいろなディストリビューションがあるというのが正しい言い方らしい。
起動にはHDDかCDかUSBメモリを使う。起動用のメディアを作成するには配布元からダウンロードしてインストールする。配布元はディストリビューションの数だけある。ほとんどが無料だが、有償のはサポートがつくらしい。金型通信社はとにかく何でもが無料のを使って経営に役立てる精神だ。その薦めるUbuntuというのを考えることにした。これまで聞いていたLinuxについての話はだいたいプログラマー的な知識が要るらしいと思っていたが、最近はWindowsと同じように扱えることがわかった。ただ知識がないと、ちょっと困った時の処置をwebで聞いてもコマンドを教えてくれたりされると、とたんにお手上げになる可能性はある。早い話が起動にはPCのブート・メニューを使って、どのデバイスを優先させるか指示する。故障した時にロゴが出る前にF2ボタンを押す、あれだ。知れば簡単なことだが、その先で何か引っかかったら・・・勉強がいるぞぉ。

古い方のPCで実験してみたくなった。起動する道具ができたら使ってみたくなるだろうが、失敗してPCごとダメになっても大して惜しくはないと自分に言い聞かせて始めた。
2014年バージョンが今一番安定しているという。これのインストール用のデバイスはCDでは不足で、DVDが要る。DVDの焼き方も金型通信社が教えてくれる。
何度かやり直してDVDでUbuntuが起動できたが、Windowsができない。その理由が分からないままやり直しているうちに、ディスク全体を削除してUbuntuだけをインストールする選択肢が残った。これで実行したらWindowsとはおさらばだ。しようがないからWindowsを諦めましょう。結果はうまく行ったがもはやデュアルではない。無事にUbuntuが動き出した。自分なりに使うためにGoogle Chromeをインストールした。さらに文書作成用にテキストエディターのWritebox for Chromeを入れた。 この文章はそれで書いている。
Linux用の文書作成ソフトはWordの役目をするLibre Office Writerがある。
Ubuntuのデスクトップ画面

そんなことより大事なことがあった。ハードディスク、DVD 、USDメモリ、それぞれ作ったが、起動の時途中で赤やら青やら細い縦縞模様が画面いっぱいに現れて先に進まない現象が出る。これは機械の故障ですな。たぶんグラフィックボードちゅうのが壊れてるのだろうな。さもなくばハードディスクか。インストールにはカシャカシャ音が出ていたけれど、Ubuntu起動は静かそのものだから、ボードのほうがいけないと思う。実験の土台になるPCが壊れているのなら、インストールメディアの不良も判断できないわけだ。他にも不具合があるが省略する。
結局Linuxでいたずらの挙句、動いていたPCを潰してしまったことになりそうだ。縦縞模様は出始めると、何度やり直しても治らない。昨日、今日は問題なく起動した。きまぐれで信頼できない。当分これで遊ぶことにしよう。
けれども別の誘惑の手が伸びてきている。金型通信社のCD内容をよく読むと、Windowsのファイルシステムの上にインストールしてUbuntuが利用できるWubiというソフトが紹介されている。パーティションをいじることも不要で、いやになれば、コントロール・パネルからアンインストールすればいいのだそうだ。これは耳寄りな話ではなかろうか。なぜ先に気が付かなかったのかな。後悔先に立たず。
早速今動いているWin10で実験してみたいところだが、また失敗するとちょっと困る。Linux用に安いPCを調達するか、中古品を買うか、新品にするか、今の現役もすでに7年経過しているし、思案のしどころにさしかかった。(2015/10)

2015年10月1日木曜日

『年を歴た鰐の話』山本夏彦訳、レオポール・ショヴィ原作

あれこれ参照しながら本を読んでいるときに偶然その存在を知った本。辛口コラムで著名な山本夏彦氏(2002年死去、享年87歳)が24歳のときに翻訳した作品。昭和16年のことだったそうだが、文藝春秋社のホームページには「幻の名訳を完全復刻!」とのコピー入りで同氏の一周忌を前に復刊した2003年版を紹介している。これは昭和22年にもとの版元櫻井書店が判型を横版に変えて再刊したものが底本になっている。
あるブログには山本氏の本の最後には著書一覧があって、この本が一番最初に書いてある、とあったので、へぇ、と思って確かめたらそのとおりであった。同じ大きさの活字でズラーと並んだ書名の最初ではあるが今まで全然気が付かなかった。だいいちこんなところまで目が行ってなかったらしい。あらためて書名リストを確認はしたが、それだけでは取り立てて注目すべきとも感じない。フツーの本並でしかない。後述のようにそれが5万円の稀覯本(?)と知れば、俄然まるでそこだけブロック活字ででもあるかのように見えてくるから不思議だ。見る者の欲だろうか、いや別にほしいとは思わないから野次馬の目だろう。文字に命はないから、これは人間の意識の問題だ。別のブログ「最終回文庫」には本の内容よりも出版の経歴が書いてあった。初版単行本が昭和16年、鰐の話の初出が「中央公論」の昭和14年4月1日発行春季特大号だそうで、検索でヒットした値段が4,500円だったそうだ。単行本の4版がネットオークションで5万円もしていると書いているが、当の初版本をお持ちだとのことで、奥付の画像がある。定価2円30銭となっていた。
http://blog.goo.ne.jp/saisyukai-bunko/e/42d43ff1d686c72aa4d00cd0e5cec2c5

幸いわが町の図書館にあったので借りてきた。文藝春秋社2003年版である。原作者のレオポール・ショヴォ氏が挿画・挿絵も担当している。作品は他に「のこぎり鮫とトンカチざめ」「なめくぢ犬と天文学者」の2篇が収載されている。図書館にはショヴィ作品が10点近くあったがいずれも福音館書店の児童書であった。本作も訳者を変えて発行されている。

昭和21年冬、秋田県横手町にて訳者識、として表題頁の次にはしがきがある。その述べるところによれば、見開き2ページにわたる文章は初版の解説だと。そして5年を経て、その間、版を重ねること3回、いま装釘を一変して4版が世上に出る。どうしてこんなに売れるのかと櫻井書店主人に質したら、童話と間違えられて誤って売れたのだそうだ。訳者の思いとしてはこれが童話として売れることに不満はないけれども、書肆が折角童話らしくない装釘を凝らして、なんとか世間の具眼の士に届けたいと念じても、それは儚い工夫であるという。童話として売られて、破れ、棄てられた挙句に、残った一部が好事家の手に帰することを願ったほうが賢明だろうと薄情とも思える書き方である。山本氏が具眼の士というのは、この作品がただものでないと自負しているからだ。そういう作品に惚れ込んで出版してくれたことを山本氏はありがたく思っている。はしがきの末尾に「開板当初に劣らぬ熱情を示す主人と対座中、彼こそ具眼者の随一かと訳者はしばしば舌をまいた」とある。これは対談して櫻井店主が昔でいう赤本屋という商売で出版を会得したのが不運のはじまりで、これぞと思う優れた作品だけを世に残したいという熱意が、かつての履歴が邪魔して出版界や作家に評価されないまま終わったことを話したからである。その高い志にうたれたことを「私の岩波物語」にも書いている。こういう履歴の書物が、過去の刊行分には上述のような古書価格がつき、さらに文藝春秋が復刻再販しているわけであるが、文春版には吉行淳之介、久世光彦、徳岡孝夫の諸氏が寄せた文章が載る。


どの頁も見開きの左側は一ページ大の挿絵で右側頁に本文がある。内容は難しくないけれど、用語用字は旧漢字、旧仮名で歴史的仮名遣いである。なのに児童書だとは、世の中の人は随分そそっかしいのだなと思う。もっとも昭和前半の子どもなら、これでよかったのかななどとも思うが、我が身の場合を思い出してもやはり首を傾げる。
鰐は年をとっている、何しろ娘がもう500歳になろうかというほど年を歴ているのだ。「経ている」でなくて「歴ている」だぞ。この漢字の使い方が気に入った。こっちも年を歴たのだなと思う。
世界中泳ぎまわって、折角できた友達も食べつくし、すっかり孤独になって生まれ故郷のナイル上流にまで戻ってきた。彼の姿を見ると鰐は皆逃げてしまう。眠りこけてる間にドンドコドンドコ嬉しげに騒ぎ立てる輩が集まってきて、神様にされた。なんでだろ?「年を歴た鰐の話」はこんな話だ。
別に意味はなさそうだ。訳者はノンセンスだと言いながら、それを読者に押し付けつる気はないと言う。それがどうした、と思う人は読まなければよい。私は内田百閒の作品の幾つかを連想した。何やら心の充足感を味わった。
「のこぎり鮫とトンカチざめ」は、ならず者の二人連れがクジラの母親に復讐されるまでの物語。「なめくぢ犬と天文学者」は望遠鏡を覗く犬と難しい計算をする犬が盲人の天文学者を手伝っていると、世界のおしまいの日に遭遇する。流星が衝突するのだ。さぁ、たいへんだ、という話。どちらも経過が楽しい読み物になっている。
幼児は好きな絵本を持ってきて、読んでくれとせがむ。何度も同じ本を持ってくる。大人なら美術全集のようなのを手元に置き、気が向いたときにページを開いて眺める。この本もそういう読み方がされそうである。さぁ、ヘタウマの画を眺めながら時を過ごそう。(2015/10)

2015年9月19日土曜日

随想 『阿川弘之全集』から

野ざらし

阿川弘之さんの全集を借りてきて拾い読みをしていた。あるエッセイに「野ざらし」という題が付いている。内容には「軍艦長門の生涯」を読みながらちょっと気になった人物のことが出ている。興味深くその小編を読み終えたが、「野ざらし」に関係する話はなにもない。私が「野ざらし」という言葉を聞いてすぐ思い出すのは落語の外題である。釣りに出かけて河原に転がっているサレコウベを見つけて供養してやる噺である。阿川さんも落語が好きだと私は勝手に決めつけていたから、きっとそうにちがいないと思いながら本を閉じた。別の日にその話題を文章にしようと考えて全集を繰ってみたがない。目次にも出ていない。いつも同時に何冊かの本を引っ張りだす癖と、近頃忘却力が凄まじく身についてきたことから、他の本を探したりして見つけるのに苦労した。最後は再び全集に戻って端から頁を繰ってやっと見つかった。目次の「あくび指南書」という表題の章に含まれる一遍が「野ざらし」であった。昭和56ー56年、1年間の新聞連載の話題が『あくび指南書』の表題で単行本にまとめられている(昭和56年4月毎日新聞社)。全集収録はその中からの自選21篇である。
そこでとりあえず、「あくび指南書」の章をはじめから読んでみる。はじめは「粗忽の使者」、これが絶妙に面白い。落語の台本にちかい。ご本人は古典落語が好きだから、連載の随筆のネタに落語の題をにらみながら、書くことを何か思いつこうという算段だった。そそっかしい人物に見立てた新聞社の担当者を相手に、こういう心づもりをしたのだと明かしている。これで著者の魂胆が判明したので、あらためて「野ざらし」に戻る。

折角録っておいたから見ろと息子さんがすすめるビデオをいやいや見る場面で始まる。戦争末期の「日本ニュース」、特攻隊出撃の場面である。本当は見たくないのだが、再生ボタンを押したら、果たして映像が現れると同時に不愉快になった。
息子さんと同じ年頃の若者たちが、敬礼をして飛行機の方へ駆けて行って、機上から手を振って次々と離陸してゆく。
運がよければ手柄をたてて生還出来るといふのと、出たら必ず死んでしまふといふのとでは、同じ「決死の覚悟」でもまるきりちがふ。彼らに「帰りの飛行」は無く、あとで分かったことだが見るべき戦果も亦ほとんど無かった。
涙が出て来た。ニュース映画のカメラマンがフィルムに収め、三十五年後それがテレビで放映されたのをもう一度ビデオに収めた二重三重のうつし絵であるけれども、文字とちがってあまりに生々しく、あまりに残酷で悲しく腹立たしい。
「馬鹿。お前が先に死ね。陸式の馬鹿。気に入らん」
「笑ふな、馬鹿。お前早く死ねったら」
著者は涙を流しながらブラウン管に罵っている。出撃の将兵に毒づいているのではない。画面に富永恭次中将の姿が映っているのだ。軍刀を下げ、口もとに豪傑風の笑みを浮かべ、襲撃直前の特攻隊員を激励してまわっている。

阿川弘之入門(その2)に書いておいたが、富永中将というのはキスカ守備隊が海軍側の要請で小銃を海へ投棄し、霧にまぎれて救出艦隊に急遽乗艦、全員奇蹟の内地生還をした際、「いやしくも御紋章のついた銃を海へ棄てて来るとは何ごとか」と激怒した人である。当時東條陸軍大臣(兼総理)の次官であった。


東條辞任後、第四航空軍司令官として、特攻隊を送り出す立場に立った。「死んでも武器を離すな」の富永中将にとって、必至必殺の特攻作戦は我が意を得たものだったかも知れないが、「そんならお前はどう身を処した。笑ふな。笑ひごとぢゃない。お前が先に死んでしまやいいんだ」
陸軍を罵ってゐるうちに軍艦マーチが鳴り出し、画面が変わって、また一人気に入らないのがあらはれた。海軍の神風特別攻撃隊を、第十三航空艦隊司令長官福留繁中将が見送ってゐる。福留中将はフィリピンで一度捕虜になった人である。多分やむを得ざる状況の下だったらうし、そのこと自体をいけないとは思はない。むしろ、日本の陸海軍は敵味方の捕虜の扱ひをもっと公明にはつきりさせておかなかったのがいけないと思ふ。思ふけれども、とにかくいくさの最中一旦ゲリラの捕虜になりながら、生きて送り還されて来た人だ。「おい、あんたには(海軍だとお前呼ばはりしないところが我ながら偏見甚しく、奇妙なり)、彼らの死出の出撃を見送る資格は無いはずだぜ。あんたそんな姿をニュースに写されて恥しいと思はないのか。どうなんだ、おい、福留長官」
息子がつくづく感にたへたやうに言った。「犬にテレビ見せると吠えるっていふけどサ、ビデオ・テープに向ってよくそれだけ泣いたりわめいたり出来るね」

怒りっぽいことではよく知られた阿川さんでなくとも、この富永という人物はとかくの評判が多く、いろいろなところで話題になっている愚劣極まる俗物である。私も悪しざまに言いたい方の人間だが、ときにはその遺族が気の毒になったりもする。著者がここでは筆の走りを抑えて数々の呆れた挿話には触れていないから私も書かないでおく。

「軍艦長門の生涯」にも「野ざらし」にも著者が書いてくれているが、戦争中にアメリカ海軍はVT信管というものを開発した。高角砲弾に装着する電子信管で、これを使うと、計算上目標が50倍の大きさに膨れ上がる。小型戦闘機を狙って、今日のジャンボ旅客機を狙い撃つのと同じことになると説明されるが、それだけ照準が楽で命中率がたかくなるエレクトロニクス原理の利用である。原爆並みの機密扱いにされていたから日本側は最後までVT信管の存在を知らなかった。道理で片っ端から撃ち落とされたわけである。なんでこんなに落とされるのか、原因がわからず、同じ死なせるなら体当たり、特攻作戦以外もう道はないと一部の人が思いつめた。しかし、著者の言葉を借りると、高速避退運動中の軍艦に飛行機をぶっつけるのは、自転車で立木に体当りするのとわけがちがう。

たといVT信管がなかったにしても、犠牲の割に効果があまり期待できない。「必至必中一機一艦を屠る」などというのは机上の空想に過ぎないと練達の飛行機乗りたちは知っていた。本来特攻攻撃は命令によらず志望者を募る建前であったから、打診されて辞退した人達も多かった。作戦としては外道だからやるべきでないという反対意見も多かったが、こういう事実は新聞やニュース映画に一言半句も表れなかったと著者は強く批判している。しかし世の大勢に押されて次第に美化され、心理的には明らかな強制のもとで、何千人もの若者が戦果もあげ得ずに死んでいった。

「野ざらし」という題の文章には以上のようなことが書いてあった。何かちょっと無理して、題に内容を合わせた感もしないではないと私は思った。突っ込んでいった若者たちは名前がわかっている限り、軍神と仰がれて靖国神社に祀られた。遺骨はないはずだが、あるいは空の箱か、紙切れぐらいは入っていたかもしれない。とすれば海の底に打ち棄てられているに違いない。それなら河原のサレコウベと同じじゃないか。遺族には失礼な気持ちがするが、阿川さんの「野ざらし」と題した考えに納得した。落語の噺とちがうところはこの題には阿川さんの大きな怒りが籠められている。

ついでに考えた。辰巳芳子さんの結婚生活は20日で終わった。戦死した彼は死にたくないと言いながら応召していったから靖国にはいないのだという。ここ(自宅)にいるのだそうだ(朝日新聞9月18日)。ものは考えようである。こちらは遺骨ではなく、魂のことを考えている。喜々として(いるように私にはみえる)靖国に詣る国会議員たち。遺族でないならばカタチだけのことをしているにすぎない。いまで言うパフォーマンス、気楽なものである。これはこれで日本人の心をないがしろにしていると私は思う。(2015/9)

2015年9月14日月曜日

阿川弘之入門(その3)

阿川弘之全集第8巻 新潮社

阿川弘之「軍艦長門の生涯」は全集で二巻、千二百頁あまりにわたる長い作品である。読後の感想を物しようとしてもメモも取らずに読んでいたからあとになって詳しくは辿れない。前回同様頭に残ったことの一部だけ適当に書いておくことで読了の記念にしておこう。
第8巻は昭和11年末からの記事である。この作品には目次はなくて章立てはすべて数字であるので、何処に何が書いてあったかあとから探すのに骨が折れる。いずれにしろこの巻の戦はすべて敗け戦、つまり帝国海軍の終焉である。腹立たしいことが多い。敗けたことが腹立たしいのではなく、敗けることがわかっていて戦を始めたことが腹立たしいのだ。生産力、物量、技術などの比較だけでなく、そもそもの国民の知識水準、生活水準がアメリカほども高くなかった。能力の有無ではない、能力が開発されていなかったと。生活の水準が、例えば電話をかけたことがない、自動車を運転したことがない、タイプライターを使えないなどのことが兵隊の技能水準の差になって戦力の差を生むのである。さらに言えば指導層の思考の不思議さがある。物量に対抗するに精神力をもってするという信念の不思議である。ここまで考えると話が複雑になり阿川さんも立ち入ることはしていないから別の機会に考えることにしよう。

1942年6月のミッドウエー海戦以後日本の聯合艦隊は負け続け、日本の防衛線は後退につぐ後退でサイパンも落ち、最後のフィリピン、レイテ沖海戦(44年10月)で大敗北に終わった。作戦の是非はともかく、基本的には航空機による攻撃という戦法の変化についてゆけなかったという理由の他に、落としても落としても出てくる米軍飛行機という物量にも負けた。開戦前からわかっていた情勢による自明の結論だった。自明の論理を理解して主張しながらも、職務上自説に反する姿勢を続けなくてはならなかった司令長官山本五十六は43年4月にブーゲンビルで戦死した。
著者は書く。
昭和19年は、明治38年より数へて足かけ40年になる。日本海海戦の完勝から40年目に、帝国海軍は、世界戦史に例のないほどの一方的敗北を喫した。対馬沖の敗将ロジェストウェンスキー提督は、母国へ帰って軍法会議の法定に立たされた(判決は無罪)が、この敗戦の責を負ふ豊田聯合艦隊司令長官、栗田第一遊撃部隊指揮官ほか、軍法会議にかけられたり位階を剥奪されたりした提督は一人も無かった。(第8巻504頁)
10月28日夜半にブルネイに帰投した翌朝、長門の甲板上でキナバル山をのぞみながら、若い軍医大尉が「人の命はほんたうに紙一重だ。自分はまた生きのびた。戦争とは一体何だろう?」と思う。明治生まれの老主計少佐がかたわらに寄ってきてに語りかける。「人間はかうしてあくせくやってるけれど、自然は何千年も何万年も、少しも変わらずに存在してゐるネ。えらいいくさを戦ったもんだ。我が我がの闘争心のもたらした悲劇ですよ。智恵を持ったものの不幸ではないですかね」(同505頁)

11月15日内地回航の命令が出て最後の燃料補給を受けて長門はブルネイを出航した。途中僚艦が敵潜で沈没したりする中、無事に横須賀に帰り着き小海岸壁に繋留された。もはや補給を受ける重油は一滴もないらしかった。港に浮かべておくだけで、1日50トンの油を食うんだといわれて、生きながらえて母港に帰り着いた長門は、完全な厄介者扱いだ。同じ港内に完成したばかりの世界一といわれる6万2千噸の航空母艦信濃がいた。11月28日出航して呉に向かった。翌日未明、潮岬沖で潜水艦に襲撃されてあえなく沈没、乗員1500名の生死不明の報告があった。壮大な無駄。

昭和20年2月10日付で長門は横須賀鎮守府の警備艦となった。もう動かなくてよろしいとの引導を渡されたかたちになったと著者は書いている。3月10日東京空襲、19日は呉に空襲があり在泊艦艇のほとんどは戦闘能力を失った。4月1日米軍が沖縄上陸、生き残っていた大和は航空特攻に呼応する水上特攻として片道燃料で出撃したが7日に徳之島沖で最期を遂げた。長門には水上特攻の命令はこなかった。ただつながれているだけで日が過ぎていった。

大艦巨砲主義というのは帝国海軍の海戦に対する考え方で、長門の40サンチ主砲というのもその産物であった。レイテ沖海戦で偶然航空機相手でない艦船相手の戦闘機会に一度だけ遭遇した。まさに千載一遇、というのもこの海戦で就役24年目にして初めて40サンチ主砲徹甲弾を発射したのだ。
結果はあまり芳しいものではなかったようだが、最後の戦闘を終えた長門の主砲弾丸消費量は、水上艦艇に向けた一式徹甲弾が45発で残量が675発あったと記録され、6パーセントしか使わなかったことになる。同じく主砲の通常弾は対空戦闘に136発消費したと書いてあるが残量は不明である。小海岸壁に繋留されるようになってからも最後のご奉公をさせようと相模湾に上陸する米軍に砲撃するため艦を空襲から守り、江ノ島に弾着観測所を設ける作業が終戦まで続けられた。
その空襲があったのは7月28日午後、艦載機250機の編隊で横須賀が本格的に爆撃された。長門は艦橋が吹っ飛び、艦長以下35名が戦死した。迷彩を施したり覆いをかぶせたりしてあったものの上空から見ればひと目で戦艦と見破られるはずだ。前日の27日少数で飛来した敵機のうち一機が長門のマストをかすめるようにして飛び去った。これを見て「あ、長門が見つけられた」と叫んだのは田中富雄上等水兵、すぐ近くに繋留されて艤装作業中の第七富久川丸の乗組員だった。田中上水とは戦後の人気作家源氏鶏太氏である。34歳の応召兵、二人の同郷者とともに先月着任した。第七富久川丸は特設駆潜艇とされているが焼玉エンジン、270噸、最高速力7ノットの元石炭運搬船で、艤装ができたら船腹に膏薬を貼ったような格好で津軽海峡を回って富山の伏木港に回航することになっていた。源氏鶏太氏は短編「水兵さん」(昭和37年)に当時の経験をそのまま書いていると阿川さんは紹介している。B29の撒いた機雷原を突破して無事伏木までたどりつけるとは到底思えず絶望的な気持ちだったが、資材不足で作業が進まず一向に出港命令が出なかったのが幸いしてその後も1ヶ月船内で暮らしたとある。貧弱すぎて敵機の目に触れなかったのか、空襲では全く損傷を蒙らなかったそうだ。

最後の長門艦長は杉野修一大佐、日露戦争で旅順口閉塞隊員として戦死した杉野孫七兵曹長の長男だ。転勤命令を受けた時は旅順で第二期予備生徒の教育隊長を務めていた。家族と共にソ連の参戦でごったがえしている北朝鮮をどうにか通過し、釜山までたどり着いたところで、8月15日の放送を聞いた。着任したのは終戦から5日ばかりあとであった。間もなく長門は沖出しを命じられ、9ヶ月ぶりに小海の岸壁を離れて港内1番ブイに繋留された。米軍に引き渡す準備だった。艦長は副長の権平中佐とともに準備に大わらわであった。
米機動部隊の艦上機は25日から各航空隊の動静、艦船の運航を監視するため、日本上空の日施飛行を開始した。これが敗者に異様な威圧感を与える。
長門の古参兵の中には、処刑のデマに怯えて奴らと刺し違えるだの暴言を吐いたり酔っ払うのも出たりした。デマのせいである。「アメさんが一番恐ろしがっているのは、筋金入りの下士官だそうだ。将校なんて問題じゃない。志願兵上がりの海軍の下士官が如何に強いかは、奴らも知ってるんだ。進駐後これが最初に銃殺される」そういう噂が広まっていた。

下士官による水兵いじめの暴力沙汰は全巻のあちらこちらに出てくるが、著者は決してそういう場面を主役にしていない。下士官が処刑されると恐れるのは身に覚えがあるからか、兵隊は恨みを晴らしてもらえる期待からか、噂は加害者、被害者双方の想像の産物だ。刺し違えるなどとは幕末の攘夷志士のようだ。アメリカ人を直接見たこともないのは当時の日本人の大多数だったろう。閑話休題。

前回の当ブログで菊の御紋章がついていない写真を見たことを書いておいたが、御紋章が消えた経緯を著者はきちんと記録してくれてあった。ここにも阿川さんの筆の行き届きぶりがあった。
権平中佐の頭にはかつて江田島に飾ってあった露国戦艦「アリヨール」の艦載艇の姿がしみついていた。長門の記念物が持ち去られてアナポリスの兵学校あたりで永く辱めを受けるのは耐えがたい気がした。そこで艦長と相談の上せめて艦首の御紋章だけでも、というのでこれを取りはずして燃してしまうことにした。円材に十六花弁を刻んで金箔をかぶせた菊の紋章は直径1メートル20、欅かチークかの材質は非常に固く、外舷に腰板を吊るして作業員が少しずつ掻きとって、ようやく後甲板に持ち込み、一日がかりで灰にした。
菊の御紋章で思い出したが、阿川さんは昭和天皇の園遊会で南方熊楠のことが天皇との話題になったと何かに書いてあったように記憶するが、思えば昭和4年の白浜行幸の御召艦はこの長門であった。となれば、熊楠が長門艦上で古びたフロックコートでキャラメルの箱に入った菌類を献上して進講したことが第7巻にあったはずであるが失念した。

8月の終わりには軍人軍属三浦半島立ち退きの命令が出た。長門引渡し要員は再度艦上に戻り、接収の宣告を受けた。宣告の前に米兵の手で軍艦旗が降ろされ、星条旗が掲げられた。あとで新聞記者たちが軍艦旗を広げて記念撮影などしていたと書いてあるが、その軍艦旗の行方には触れていない。
長門が原爆実験の標的艦となってアメリカ人の操艦で最後の航海に出たのは昭和21年3月18日であった。ビキニ環礁の実験に使われた艦艇は70余隻、大部分がアメリカのフネで戦艦、空母、巡洋艦ほか、旧敵国のフネは長門、巡洋艦酒匂、ドイツの重巡「プリンツ・オイゲン」の3隻であった。実験は2回おこなわれ、その詳細も著者は書いているがここでは触れない。ただ、長門は1回目の空中爆発では沈まず、2回目の水中実験の5日後に誰にも見とられずに姿を消したと伝えられている。
ビキニは日本の委任統治時代聯合艦隊の泊地に使用されたことはなかったが、昭和15年の春、水上機母艦千歳が沖合で演習したことがあった。この演習で川竹、大久保二人の下士官が搭乗した水偵が墜落して殉職している。事故のあと乗組員の手で、ビキニ本島の浜辺に名を刻んだ「千歳航空殉職二勇士之碑」というものが建てられた。このいしぶみは二度の原爆実験にも倒れなかった。

『十字路作戦』に参加した日本人記者は一人もゐなかったし、長門の最期に実験に立ち会はせてもらった日本海軍の軍人もむろんゐなかったが、実験の全期間を通じて、川竹大久保両兵曹の碑だけはここに立ってゐた。碑は、その後度々の原水爆実験にもこはされずに、今もビキニの島に残ってゐる。 

「軍艦長門の生涯」はこの文で終わっている。誕生から予想外の終焉まで26年の間、数多の人々が関わった戦艦の生涯を描きながら、著者はその数多の人々について及ぶ限りの挿話と逸事を拾って克明に記述した。出版社は小説に分類したが記述された事実はフィクションではない。著者の思想に左右されない歴史である。中には著者の意に反するような事柄も、批判したい人物もあったはずだが、そういう場合にはたいてい言外に語っているようにみえる。読者はそれを汲み取ればいいのだ。読みながら私は大岡昇平氏の「レイテ戦記」と大佛次郎氏「天皇の世紀」を連想していた。島崎藤村「夜明け前」もそうだ。どれもが人間の行動を描いて歴史を物語っている。この大部の長門の物語を図書館で借りると期限は2週間しかない。続けて借りてもいずれ返さねばならない。本当はゆったりした気分で読んでみたかった。(2015/9)

2015年9月7日月曜日

阿川弘之入門(その2)

阿川弘之さんの『軍艦長門の生涯』を読んでいる。新潮社「阿川弘之全集」の第七巻と第八巻、それぞれ620頁ほどあるが小説とされている。
長門は戦艦であり、大正9(1920)年呉造船工廠で生まれた。阿川さんは広島生まれで生まれ年も長門と同じの元海軍士官だったことからこのフネを題材に取り上げたようだ。長門は昭和17(1942)年に大和にゆずるまで聯合艦隊の旗艦であった。
開戦後就役した大和武蔵を加へて、基準排水量で総計約48万トンの戦艦群は、長門を除いて終戦時までにすべて、沈められるか自沈するか、アメリカの飛行機にやられて海底に大破着座してしまった。「思ひもよらず我一人」といふ古い陸軍の軍歌のやうに、12隻中たった一隻、長門だけが不思議に命永らへて敗戦を迎へた。昭和20年の8月15日、長門はボイラーの火を消し、あはれな姿で母港横須賀の小海岸壁に繋留中であったが、ともかく帝国軍艦籍に在る軍艦として生きてゐた。
なまじっか生き残ったばかりに、長門は敗戦の翌年、ビキニへ連れて行かれて、アメリカの原爆実験の標的艦としてその生涯を閉じる。世界最大最強の戦艦として生れ、長く聯合艦隊の旗艦をつとめた「日本の誇り」は、今も中部太平洋の環礁の中に眠ってゐる。
阿川さん自身は暗号解読の特務士官でフネには乗らなかったが、長門に対しては多分に郷愁に似た感情を持っていた風に感じられる。作品は長門の履歴だけにとどまらず、造船から最期まで関係した人々を語り、事績を伝えて自ずから時代の風潮と移り変わりを現出して生きた歴史になっている。
著者の語り口は思想的には右せず左せず中庸を往くものであるが、その自然な姿勢のうちにも保守リベラルの色合いが滲み出る。旧海軍は英国を模範にしたといわれるが、阿川さんの文章も人間味豊かにユーモア精神も言葉の端々に見られる。 

日本の造船界の至宝とよばれた平賀譲博士は晩年東京大学の総長をつとめた。昭和17年9月の繰上げ卒業式は時の総理大臣東條英機と平賀総長の二人が対照的な祝辞を述べた。阿川さんもそれを聞いた一人だが平賀さんの「おめでとう」の言葉のほかは何もおぼえていないと正直に書いている。全文を記録した奇特な学生がいて後日雑誌に発表されたのを著者は引用しているが、総長の告辞はあきらかに年限短縮を強行した東條一派を非難する内容であった。

平賀博士の名前は譲であるが、「ニクロム線」のあだ名があったと紹介している。弱々しそうに見えて、抵抗にあうと灼熱するという意味である。海軍省や軍令部では、みんなが「あれは、平賀譲じゃなくて平賀不譲だ」と言っていたそうで、その他逸話に事欠かない人物であったらしい。

総排水トンは建造時32,700トン、最高速力26ノットの長門は建造費に4,390万円かかっている。著者は仮にいまの物価が当時の2千倍とすれば880億円となると計算する。大正9年の国家予算歳入額は13億円あまりである。その頃は戦艦16隻からなる八八艦隊の計画が続いていたが翌年のワシントン会議を機に海軍大臣加藤友三郎は廃案にした。金を借りようとしても相手はアメリカしかないのではどうしようもないということだったろう。また、長門の燃料設計は石炭と重油の併用であった。世界の趨勢は重油専焼になっていたが、重油のない日本は出来なかった。これもアメリカから買ってくるのである。対米戦争などとは笑止の沙汰にちがいなかった。このなけなしの油を使って長門が一昼夜全速力で走ると65,000円かかったという。今に換算すれば1億3千万円、これでは演習もままならないわけであった。まだ、第七巻までしか読んでいないが、建造から運用までの人事や出来事についての逸事逸話を追えばきりがない。私の興味を引いた一事をここに記しておくことにする。

御紋章と軍艦旗
大正9(1920)年11月に完成した軍艦長門は試運転も終わって25日に工廠の手を離れて海軍省に引き渡された。艦尾には新しい軍艦旗が上がった。
ここで阿川さんは説明してくれる。軍艦旗は陸軍の聯隊旗と少し性質がちがう。一種の備品だからよごれたら新しいのと取りかえると。
日の丸は明治3年にそれまでの船じるしが国旗に決まったが、同時に軍艦旗でもあった。明治22年10月に十六本の旭光をそなえた軍艦旗が国旗とは別に制定された。

カッター一隻でも、軍艦旗をかかげて他国の港へ入れば、日本領土の延長とみなされるのが国際法上の慣行であるから、海軍の軍人はむろん、軍艦旗に対しては礼をつくした。艦の碇泊中は、朝八時に信号兵のラッパ「君が代」吹奏、総員敬礼のうちに軍艦旗掲揚がおこなはれ、日没と同時に降下する。戦争になったら、戦闘中マストにかかげられて戦闘旗となる。 しかし、むやみと神聖視することはなかった。
陸軍の聯隊旗は、陛下から賜はったもので、平素桐の箱にをさめてうやうやしく隊内に安置してある。湿気と虫食ひで長年の間にぼろぼろになり、たいてい房しか残ってゐない。いざの時、陸軍の兵隊は、この房だけの軍旗を、死守しなくてはならなったが、海軍における軍艦旗の扱ひ方はかなりちがってゐる。アメリカ海軍では、乗艦退艦の際、エンサンに向かって敬礼するのが礼儀だが、日本の海軍ではそれもやらなかった。
 士官の腰の短剣についても同じような感覚が存在した。「あの短剣は何に使ふのですか?」 と聞かれると、海軍士官はよく、「リンゴの皮をむくんです」と答へたものである。人の短剣にふれたとかふれないとかで、海軍士官がまなじりをつり上げたなどという話は聞いたことがないし、軍艦旗を死守して戦死したといふ「美談」も聞かない。
大体、海軍士官といへば短剣をつているものと一般には思はれてゐるが、それは外出や儀式の時だけで、ふだんは丸腰であった。磁気コンパスが狂ふから、剣をぶら下げて艦橋に上るのは厳禁になっている。
「海軍の武器は大砲や魚雷なのに、短剣を磨いてゐるアホがあるか」 といふので、中は竹ミツといふ士官もゐたといふ。
艦首の御紋章も同様である。長門のへさきには、十六花弁をきざんだ木の上に金箔をかぶせた、直径1.2メートルの御紋章がついてゐたが、これを特別神聖視する人はゐなかった。フネが大破擱座したり、浅いところに沈没した場合は、できれば御紋章を取りはずせといふ程度である。軍帽の徽章に対する敬意を、さう大きく上まはるものではない。
昭和18年のキスカ撤退作戦の時、陸軍は皇室の御紋の刻印された小銃をすてて帰ることに強い抵抗を示したが、重いものは一切困るという理由で、撤収艦隊はこれをすべて海中に投棄させた。陸軍北海守備隊の司令官峯木十一郎少将は、のちに大本営に出頭して、富永陸軍次官から、「もってのほかのことだ」と、ひどく叱られたそうである。
海軍では、御紋章も軍艦旗も、しかるべき場所にきちんとしてあればいいので、かざりものは要するにかざりものなのであった。もっとも大事に取扱はれたのは御真影で、これだけは危急の時、主計長が命がけで安全を守ることになっていた。
話はとぶが、大岡昇平さんは35歳にもなってから招集されてフィリッピンに送られた。山の奥深く逃げこむだけの毎日に飢えと疲労とマラリアの身体には明治38年式の三八銃が重くて仕方がない。十分な武器もない部隊で暗号手だった大岡一等兵には壊れた銃があてがわれていた。暗号手は撃つ必要がないからという理屈らしい。撃てない銃など重いだけだから捨てたいのだが、捨てるには銃身に刻まれた菊の御紋章を削り取らなくてはならない。違反すれば懲罰が待っている。

こんな話を記憶している私はあるとき南海の底深く沈んでいる旧帝国海軍の軍艦の写真をみた。なんと菊の御紋が付いたままだ。フネが沈むときに紋章を削り取れとはさすがに軍でも言えなかったのだろうな、という程度に理解していたが阿川さんの説明で疑問は氷解した。それにしても天皇とか皇室とか、自分も皇国史観と呼ばれる歴史教育を受けてきた世代であるが、なんという厄介な重石が日本人の上にのしかかっていた、いやそれどころか、いまもって始末に困っていることかと思わざるをえない。すこしずつ薄紙を剥ぐように社会の理念から剥がれてきた感じはするけれど。私人としての皇室に生まれた方々は気の毒としか思えない。
なお、ビキニ環礁に連れて行かれるときの長門の艦首から御紋章が取り去られている写真がネット上に見ることが出来た。誰がこのような配慮をしたのか、知りたいことがまた増えた。

『軍艦長門の生涯』は昭和47年8月5日から昭和50年2月26日までサンケイ新聞夕刊に連載された。単行本は昭和50年12月新潮社より刊行された。
『阿川弘之全集』第7巻に収録されているのは昭和10年頃までの記述であるため、時代はかなりきな臭くはなっているが、まだ平時の話題が多かった。
『軍艦長門の生涯』は小説とされてはいるが、記録文学である。第8巻末に大量の参照文献があげられているのは当然のことかも知れないが、著者の真摯な姿勢がうかがわれる。(2015/9)
 


2015年8月25日火曜日

阿川弘之入門

8月3日阿川弘之さんが亡くなった。94歳。志賀直哉のお弟子さんで師匠の伝記『志賀直哉』を書いている。文章は旧仮名遣いを用いて名文であるとされている。私は昔「暗夜行路」を読んだような気がするが、話が暗いうえに面白いとは思えず放り出したように思う。こちらが若かったせいもあるだろう。志賀直哉は戦後、日本の国語をフランス語にしたほうがよいと言ったそうで、なんと幼稚なことを言う方だろうと少し呆れた。このことは後に撤回されている。その方のお弟子さんというので、阿川さんは読まず嫌いだった。けれども「山本五十六」「米内光政」などの評判が高いのは気になっていた。それがお亡くなりになったと聞くと、やはり一度は目を通さなければいけないように思って少し読んでみることにした。

「自選紀行集」「春風落月」
まず軽い読み物からと思ってこの2冊を借りてきた。ここで大変な乗り物好きだったと知った。鉄道、舟、飛行機、自動車なんでも来いみたいな感じで、鉄道は百間先生の後継者を自負し、時刻表を読む趣味もプロ級だ。プロ級というのは宮脇俊三さんが頭にあるからだが、宮脇さんの本職は作家生活になる以前は中央公論社の編集長で常務取締役だったから厳密には時刻表のプロではない。阿川さんも趣味を通じて親交があったようだ。
「自選」とあるだけにどの紀行文も面白いものだった。なかでも「アガワ峡谷紅葉旅行」は、はしなくも阿川家のルーツ探しの様相も示して私には興味津々だった。

アガワ峡谷はカナダのオンタリオ州だが、景色もさることながら「AGAWA」へ行きたい一心で、特別に頼んで命がけで行ってきた話。観光列車から切り離された貨物用の車両で行き、熊に食われなければ帰り便に旗を振って合図して乗せてもらえと言われたという。電話帳にAGAWA姓を8軒発見、英語の達者なご子息に言いつけて物好きにもその一つに電話する。その地のAGAWAはすべて先住民で、はるかな昔祖先が地続きだったべーリング海を越えて来たとの伝承を聞き出した。姓の持つ意味は川の屈曲する処だとも。帰宅後、漢和大辞典で「阿」を調べると「川の屈曲するところ」と出ていたと書く。また本籍のある山口県には阿川の地に阿川神社もあることを教えられた。こうなると私の空想癖が頭をもたげて肝心の読書の妨げになって困った。ご子息尚之さんが留学初年の頃のお話だつた。そのほか「ドナウ源流をたずねて」は佐和子さんをナヴィゲーターにしての冒険ドライブ旅行、アウトバーンを170キロでとばす阿川氏を想像するのはちょっと難しいことだった。このほか豪華船でのクルージングでは、とかくエピソードの多い斉藤茂吉夫人やら狐狸庵先生、マンボウさんと組んだ3人組のお笑い道中など謹厳な大作家を想像しそうな読者にとっては愉快な文章が続いていた。(2001年、JTB刊)



いっぽうの「春風落月」はゆったりとした空気が全頁に流れる随筆集。ここでは名にし負う著者の文章が堪能出来た。私の興味から強く記憶に残ったのは日本語の使い方の問題で、「立ち上げる」を例に引いて自動詞と他動詞をごちゃ混ぜにしていると大層ご立腹の様子だった。きたない言葉であるとあったが、いまやパソコン関係の記事には氾濫している。たしかに手元の広辞苑や新明解国語には「立ち上がる」はあっても「立ち上げる」はない。文章論では佐和子さんの初期の文章修業の教師としてなかなか厳しそうな様子がうかがえた。(2002年、講談社刊)


「雲の墓標」「春の城」
阿川さんは東大国文科卒、学徒出陣の被害者だ。昭和17年9月に繰り上げ卒業で海軍に入る。所定の教育課程を経て、翌年少尉に任官して軍令部に配属され暗号解読などに従事した。興味半分で受講したことのある中国語が生きたのだそうだ。
上の2冊で当たりをつけた感触が良かったので少し追っかけファンになりかけて長い小説を読んでみた。ここにあげた作品が二つとも載っている『自選作品集 1』(新潮社 昭和52年)を選んだ。

「雲の墓標」は広島高等学校同期生から譲られた特攻要員の日記を題材にした小説。小説も日記の体裁にしてあるがフィクションが混在している。本人と親しい友人たちを中心に同期卒業の若者の身体と精神が軍隊でどのように造られてゆくか、抑えた筆致で静かに語られる。昭和18年12月の海兵団入団から始まり昭和20年7月の出撃直前の朝に書く両親と友人宛の遺書でおわる。末尾に本人の友人が復員後に本人の遺族である両親宛に書いた手紙を載せる。詩作が添えられているが、日記を譲られた同窓生の作品、著者自身には詩作の才能がないと後記している。題名「雲の墓標」は出撃直前に書かれた友人宛の遺書から取られている。               
出水市の特攻慰霊碑
雲こそ吾が墓標/落暉よ/碑銘をかざれ

後年出水を訪ねたときには元の航空隊はゴルフ場に変わっていて、はずれにこの句を彫った慰霊碑があったそうである(作品後記より)。
ついでながら同後記にあったエピソード。執筆前に出水を訪れた際に急行列車の中にこの大切な日記の一冊を置き忘れたことがあった。気を鎮めて考えた挙句にこの急行の折り返し列車を確かめて八代の駅で捕まえた。列車ボーイに聞くと、「ありましたよ、とっておきました」と返してくれた。汽車のダイヤに興味を持っていることの一得と書いてあった。

さて、「雲の墓標」はフィクションが混じるとはいえ、現実の日記を母体としていることで実録といってもよいだろう。国文科で万葉集を読んでいた学徒が無理やり学問や恩師から引き離され特別攻撃隊という戦闘要員に育てられてゆくのは悲劇である。これは死ぬための教育訓練なのだ。練習機を赤とんぼと呼んでいたのは子供の頃から知っているが、艦攻、とか艦爆とかの用語は出てきても適当に想像して読み進めた。海兵出身と差別されて予備学生は何かといじめられるということも頻りに出てくる。これでは死ぬ訓練も大変だと嫌でも思わされるが、著者の筆致は冷静そのもの。日記自体がそれだけ淡々と書かれていたということだろう。特攻機は「ワレ突入ス」の電信を最後に目標に突入してゆくが、たいていは打電直後に撃ち落とされて海に沈んだと私どもは聞いている。そういう場面は作品には出てこないけれども、そういうことが必至であると知って読んでいる気分は誠にむなしいものがある。全編を通じて若者の苦悩や覚悟など様々な形で出てくるが、読み終わっての感想はみんなマジメだったのだなぁという感嘆が入る。「本分を尽くす」とはいまどき忘れられた言葉だが、思わず脳裏にひらめいた。同時に「あはれ」という言葉も湧いてきた。登場する若者たちにはこういう言葉がピッタリだと思う。
(「新潮」昭和30年1月号~12月号、単行本 昭和31年4月、新潮社刊)


「春の城」

一般に戦後書かれた軍隊生活の様子などは、それまでの皇軍万歳一辺倒の風潮の裏返しのような作品が多く、「阿諛便乗が正義の顔をしたと同じやうに、吐け場を見出した怨念が思想のお面をかぶって通ってゐる。これは違ふと思った」(作品後記より)。ならば本当のことを書いてやろうと5年がかりで書き終えた作品だそうだ。著者最初の長編、三度に分けて雑誌に発表された。題名は杜甫の詩をかりたそうだ。という意味は調べてみて杜甫の「春望」であろうと推察する。8世紀、安禄山に敗れた唐の都、長安の廃墟の眺めである。
国破山河在 国破れて山河あり
城春草木深 城春にして草木深し
 (以下略)
著者の身代わり小畑耕二が主人公で自伝的要素が濃い。広島に両親がいる東京の大学生、小説家志望で文学部に籍がある。広島高等学校の教師の感化で国文科を選んではみたが講義には気が乗らない。郷里の年上の友人、伊吹の妹と親しいが将来を決めているわけでもない。何か茫漠とした気分の日々に戦時の社会的な予定が色々と迫ってくる。やがて徴兵検査があり、大学生の繰上げ卒業制度が発表され、文科生にも海軍士官候補生になる道が開ける。この時代、昔からの日本の風習で、年頃の子女のある家庭では家の跡取りとか嫁入りとかが大きな問題になり、親も子どもも頭を痛めるが、戦時でもそれは同じであった。しかし、やがて戦場に出てゆく身としては内心は複雑にならざるをえない。こんな背景事情を考えながら読んでゆくと、航空隊で事故死の同僚を荼毘に付すとき、生まれたばかりの乳飲み子を抱いた若い母親が故人を訪ねてきたりする。庶民の生活が平時から戦時に移り、描かれる場面も家庭や軍隊内の生活、家族、上官、下士官、空襲、戦場、沈没、闇の海上などと変転する。マリアナ沖海戦、原爆投下。それぞれの場にそれぞれの人生があった。人間の物語の積み重ねが歴史になる。こうして読んだ歴史はよく理解できて身につく。読んだ人の心のひだに潜み思想のDNAになってゆくと思う。

作品の発表順は次のようになっている。
「新潮」昭和24年11月号、「別冊文藝春秋」昭和26年7月第22号、
「新潮」昭和26年12月号、
単行本『春の城』昭和27年7月、新潮社
昭和27年4月までは連合軍による占領期間である。なんでもが自由になったはずが、郵便は検閲され、作品発表には種々制限がかかった。吉田満『戦艦大和ノ最期』は占領軍とその協力者たち(粕谷一希氏のことば)によって「軍国主義を鼓吹するもの」と断定されて掲載した雑誌「創元」は発売禁止になった。阿川さんの作品は中庸を往くその穏やかな文章のために検閲にかからなかったのかもしれない。どちらも同時代の戦争の真実を語った文学である。

第3章だったかに大陸の漢口に赴任した耕二が狂暴になるというくだりがある。内地の軍令部で暗号解読の小グループをまとめていたのが、一転230人ほどの集団を率いる立場に変わったからだ。怠けるやつ、狡く立ちまわるやつ、上から下までそれこそ阿諛便乗の輩がいっぱいいるのが軍隊だろう。著者は短気で瞬間湯沸し器のあだ名を持つ人ではあるがそれは親しみを持つ周囲が言うことで、本質は真っ直ぐな人だ、曲がったことは嫌い。下士官から兵隊からてんで勝手な連中を統率するのは、全員の命がかかるだけにときには狂暴にもなろうというものだ。軍隊の宿命のような気もする。小説ではなく生身の阿川さんは当時辛かっただろうとお察しする。
「春の城」も「雲の墓標」と並んで見事な作品だと思う。私の阿川さん追っかけは続く気配がする。(2015/8)


2015年8月11日火曜日

8月の暑い日々に想う

戦後70年という言葉が毎日のようにテレビや新聞を賑わせている。70年であろうがなかろうが毎年8月になると昭和20年の暑さを身体が思い起こすようになっている。8月15日の思いっ切り晴れた青い空、その日は静かだった。毎日のように高空を通過していく飛行機が来ない。疎開で間借りしていた和歌山県御坊市郊外、日高川堤防の上は暑かった。正午の雑音だらけの放送は聞いたが中味はわからなかった。広島や長崎のことは知っていたのだろうか。沖縄の状況も知っていたとは思えない。今思えば報道制限されていたのだろう、記憶に無い。
翌年の夏休みは寄寓先の和歌山市内にいた。西宮球場からのラジオ放送にかじりついて浪速商業と対戦する和歌山中学を応援した。ニュースが何を報じていたか、これも記憶していない。ラジオから流れる「カムカム英語」や「鐘の鳴る丘」のテーマ音楽だけは覚えている。敗戦も原爆も関係なかったかのように。進駐軍も報道制限していたのだ。
いつの頃からか、あれから何年とか、戦没者や犠牲者を忘れるなとか。ずっと後には御巣鷹山で同僚も亡くなった。お盆の季節。毎年同じ思いを繰り返すのはテレビや新聞のお節介もあるが、国全体が心のこもらない年中行事をしているかのようにも思える。
折しも今年は国会で安保法案の空疎な議論が進められている。丁寧な説明をすると繰り返す総理の言葉は毎日空回りしているようだ。国会は議論をする場所なのに。こういう日々を連ねているうちに日限が来て議案は衆議院に差し戻され、再議決の結果、法案は成立して自民党万々歳となる結末はおそらく変わらないであろう。



それはそれとしてこの夏は、日本が敗戦を受け入れたポツダム宣言について少し勉強してみた。受諾する条件として執拗に繰り返される国体護持という言葉を考えてみた。国体って一体なんだろう、国民体育大会のことだよ、なんていう茶化しは措いて、まじめに考えてもすんなりとはわからない。しかし答えは何の事はない、天皇制のことだった。5日の朝日新聞夕刊の加藤陽子さんもそう話している。ロベール・ギランは著書『日本人の戦争』で終戦の詔勅中の「朕は慈に国体を護持し得て」の「国体」に次のように注をつけている。
国体というこの日本語は、終戦まで日本ナショナリズムのさまざまな局面を包含する、極めて漠然たる形態を意味し、とりわけ日本国家の天皇制性格を示唆するものと受け取られてきた。
(ロベール・ギラン『日本人の戦争』(朝日文庫1990))
この注釈によってもなお感覚的にわかったような気がするだけで、一向に具体像を描けない用語である。いろいろの場合に用いられるのでなかなか理解しにくい。
絶望的な戦況の推移によって政府上層部に戦争終結への機運が増してきた。議論には必須の条件として「國體護持」という用語が頻出した。

7月26日にポツダム宣言が発表され、どのように反応すればよいか戸惑った内閣は宣言発表の事実を論評なしで公表したところ、「拒否だ」「無視だ」と新聞が勝手な解釈をして世間は混乱した。やむなく鈴木貫太郎首相が「黙殺」と表明したのは28日だった。続く日々には通常の空爆や艦砲射撃が続けられたのは勿論のことだが、6日に広島、9日に長崎と特殊爆弾の投下による惨劇があり、8日には中立条約を破ってソ連が対日宣戦を布告した。折しもソ連に終戦交渉の仲介を持ちかけて返答を待っていた日本政府にとってはまさに青天の霹靂であった。

ポツダム宣言による最終通告にどう対応するか。そもそも日本政府はこの宣言が連合国から日本に向けた最後通牒であることを理解していなかったのではないか。
すったもんだの議論に結論を得ず、御前会議の鶴の一声で受諾することになった。「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含しおらざることの了解の下に」との条件を付けて8月10日に連合国に通知された。これがその時終戦を画策していた一同が共通に理解していた「國體護持」の内容だ。この場合はこれでよく理解できる。天皇が統治する国家形態のこと、すなわち天皇制という制度のことになる。

この条件に対してのアメリカ政府の回答には「降伏の時より天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施のため、その必要と認むる措置をとる連合国最高司令官に従属する(原文ではsubject to)ものとす」「日本の最終的な政治形態はポツダム宣言に従い、日本の国民の自由に表明する意思により決定されるべきである」とあった。さて「國體護持」はどうなったんだ、これでは「國體護持」に確信が持てない、という意見が持ち上がり、政府上層部はまたもや紛糾した。「国家統治の権限が連合国最高司令官に従属する」といわれてしまったのでは天皇の大権が認められないことになろうと解釈されてもしかたがない。軍部はこの解釈で抵抗したが外務省は「従属する」ではなく「制限せられる」と訳して抵抗をかわそうとした。13日未明にスエーデン岡本公使よりアメリカの回答文には実質的に日本側条件を是認したものであるとの緊急電が入り、ようやくこのまま受諾することに決して天皇の聖断を仰いだ。14日の最終的な受諾決定は再びの聖断を得てスイス経由で連合国に通知されてようやく戦争は終結することになった。日本国内では15日正午、ポツダム宣言を受諾したことが裕仁天皇の肉声によるラジオ放送によって周知された。

ポツダム宣言受諾までの経緯をみると、政府上層部の和平派も徹底抗戦派も何は措いても国体が護持できないなら受諾できないとの思想である。国民の運命も国土の荒廃も一切無視して天皇制を護るのが唯一の目的だったかのようである。国民も国土もなくなって皇室だけが残ってどうするのかと思うが、誠に不思議な国民感情であったと思う。
ポツダム宣言の第十条に「吾等は日本人を民族として奴隷化せんとし、又は国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものにあらざるも・・・」("We do not intend that the Japanese shall be enslaved as a race or destroyed as a nation,"に対する外務省訳文)との文言がある。戦争に負けることは奴隷化や滅亡までをも意味するという西洋流の概念を果たして日本人は持っていたであろうか。
降伏を勧める相手はこのような概念を持つ人達であるにもかかわらず、国体護持を条件に申し出るのは世間を知らぬ尊皇攘夷思想を思い出させる。本来なら通用しないはずであり、現にソ連は反対して無条件降伏を主張した。案文作成は6月頃からアメリカの三人委員会の手で進められていた。中にはグルー元駐日大使のような日本を知悉している人たちが入っていたこと、戦後の占領計画を立てる人たちは皇室の存在が人心を収攬し統治の混乱を防げることを理解していたことなどが幸いしたのである。
国民の間には予ての戦時体制一色になってきた頃から喧伝された「天皇の大御心」に殉じる感情が広く行き渡っていたものの、この和平工作段階の頃には空爆下の日常生活の窮乏化がひどくなっていたことから反天皇感情が増えていたことも確かであった。宮中側近も情報収集に抜かりなくその辺りは十分に天皇に伝えていたことと思われる。14日の最終受諾に裁決を与えた天皇は自らの発意で受諾に至った真意を直接国民に伝えたい意向をもらしたと伝えられる。これが15日正午のいわゆる玉音放送となった。




ところでポツダム宣言はベルリン郊外のポツダムで公表されたため、この名でよばれる。同地では1945年7月17日から8月2日にわたって米英ソ連の首脳が集まって第二次世界大戦の戦後処理を合議する会談が行われていた。この期間中に「日本への降伏要求の最終宣言」として米国大統領、英国首相及び中華民国主席の名において発出されたのがいわゆるポツダム宣言である。発出された1945年7月26日当時、ソ連は対日中立条約廃棄を4月に通告済みであったが、翌年4月まで有効の当事国であったから宣言には加わっていない。ポツダム宣言はアメリカ製であるから米国の意思が明瞭に表れている。損害を少なくしながら、戦争を終結させる方策として、天皇制を維持することを事前に表明すれば日本が受諾に応じやすくなると考えられた。しかし、アメリカ国内の世論に天皇制に対して非常に厳しい思潮があったためトルーマンはこの提案を原案から削除した。この削除された内容が、日本が要求した国体護持の条件についての上述の回答に示唆されたわけだ。また、原爆保有を明示して日本の破滅が確実な予想とすれば降伏を早めると提案されたが、案文段階では実験成功の帰趨が不明であったため条文には含めなかった。原爆については宣言文第3条に「軍事力の最高度の使用」という間接的な表現になったが、これでは日本は理解できなかった。

第十条には上述の奴隷化云々の文言に続いて「一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰加えらるべし」との語句もある。当然のことに戦後、日本側では天皇の免罪が大問題になる。ただ天皇個人を有罪とすることで制度自体は存続可能となるとする考え方も生まれてきた。
宣言を受諾した直後に従来皇后宮職に属していた東宮関係の事務を分離し、新たに東宮職を設置することが宮内省から発表され、東宮大夫に穂積重遠が任命された。続いて11日付各新聞に「宮内省御貸下」の皇太子昭仁の写真が掲載されて、立派にご成長などのコメントが付けられていた。これは状況の全く見通せない段階にあって天皇の引責退位の事態を想定して「國體護持=制度維持」を考慮した手段と考えられよう。
なお、ポツダム宣言の署名者はトルーマン一人だけであった。チャーチルは一時帰国していて不在だった。だが最終に至る案文には目を通している。彼は第13条の無条件降伏に「日本軍の」と付け加えた。アメリカはおそらく国を挙げて日本国の無条件降伏と絶滅の気運が強かったろう。リメンバー・パールハーバーだ。
蒋介石はポツダム会談にも来ていなかった。

ところで、国体護持などにとらわれないでポツダム宣言を直ちに受諾していたならば、原爆は避けられたのに、などという恨みがましい話がよくある。経緯を調べればそれは間違いだ。どうやら日本に原爆を使用することは開発の進行中に決まっていたようである。
ポツダム宣言に関連して判明しているのは、7月17日にソ連が保留していた対日参戦を実行するとスターリンがトルーマンに知らせたこと、翌18日にトルーマンのもとに原爆実験が成功したとの報告が届いたことである。そして7月25日にトルーマンが原爆の投下を承認したことにより、実際の爆撃部隊への指令が発出される運びとなった。
ルーズベルトは日本に原爆を使用しないことにしていたのが、急死によってトルーマンに政権が引き継がれたことで日本に投下する具体的な計画が進展したことは事実のようである。
原爆を何処にどのように使うかについてのアメリカがどう考えたかは、十分な資料を手元に持たないので推移を記述するのはシロートには難しい。
国体護持の勉強には吉田裕『昭和天皇の終戦史』(岩波新書1992)を参考にしたが、原爆については触れていない。

日本がポツダム宣言の受け入れを逡巡している間にアメリカは二発も原爆を投下した。一般国民を含む無差別爆撃であることは東京大空襲ほかとも共通していて立派な戦争犯罪である。だが、新しい二発は核爆弾である。いったん殻を破ったら無限に近い時間の間、有害な放射能を発散し続ける核、それは二度と元には戻せないのだ。核爆発の利用は人類への挑戦である。アメリカがいかに自由と民主主義のためにといっても、その使用は人類に対する犯罪である。ポツダム宣言の勧告に従って日本は降伏したが、核の利用は許せない。その核をアメリカと同調して「平和利用」している日本は間違っていると思う。
(2015/8月)




2015年7月27日月曜日

年寄りにはパソコンがいいー聖母を描く聖ルカ像 トゥルネー大聖堂

年をとると今まで関わりのあった周りの人がだんだん少なくなる。長く生きるほど周りの人が消えてゆく。最後は一人だからこれでよいのだと思う。世の中全体が文字を書く、文章を綴る、手紙の往来をすることなどしなくなって久しい。現代の通信手段、スマホというものも中身は老人にはあまり用がない。Lineなどというもの、試したことはないが、一度相手につながったら切るのに困るのではないか。だからみんな画面から目を離せなくて道でぶつかったりしているのだろう。
年寄りには画面の大きなパソコンが一番いいおもちゃだと思う。
ここ何日か検索三昧で暑い日をやり過ごしている。年寄りのパソコン利用の効用は検索が一番だろう。知りたいこと、困ったこと、何でもお伺いすれば大抵応えてくれる。役に立つし、退屈しない。一つだけ大事な要点はこちらから働きかけないと何も始まらないということだ。手を束ねてボケーッと眺めているだけでは何にもしてくれない。最近の一例をここに記録しておこう。

私の検索エンジンはグーグルだ。常用しているブラウザはグーグル・クロームだ。グーグルを使ってきたのはキーワードが自由であること。話しかけるつもりで言葉を入れると、その言葉に応じて答えが返ってくる。単語でもいいし、質問文でもいい。文でなくても言葉を並べれば、何かが返ってくる。使い慣れると大変便利だ。


グーグル・クロームのトップ・ページ、この日は
スペシャルオリンピック2015夏季世界大会記念のアニメ

さて、数年前に「オランダ・ベルギー10都市周遊」というおまかせ観光のツアーに入って旅をした。自分で企画して知らない言葉をも物ともせずという勇ましい旅行に比べてラクちんの味を知って何度目かだ。下調べもなにもしないで、ただ列について歩くだけ。帰ってきて撮りためた写真を編集してアルバムに整理する、この段階が一番楽しいかもしれない。自分の眼は何をしていたのだろう。体は運んでいったが、これではバーチャル旅行ではないかとも思う。そんなアルバム整理のときにこれは何だという一枚があった。これがその写真だ。



省いてしまうにはちょっと惜しいきれいな彫像、何かいわれがあるにちがいないが、いったい何だろう、何処にあったのか。
旅行したのは2007年、カメラは当時ありふれたデジカメ、SDカードからパソコンに取り込んだ状態のままでフォルダに入っている。そのフォルダの中で撮影順序から問題の写真#0582とその前後を見ると、おおよその場所が特定できる。
トゥルネーの大聖堂参観の折、通りすがりに撮った写真だった。写材をさがして左右を見渡しながら列についていくうち、ふと目に入ったのでとりあえず撮っておいたものだった。それっきり忘れていた。

【地図を検索してストリートビューを使う】
キーワードを「トゥルネー大聖堂」で画像を検索してみる。出てくる写真はこの世界遺産の壮大な建物ばかりで問題の彫像は出てこない。同じキーワードで地図を検索してみる。グーグルマップが表示されて真ん中にノートルダム大聖堂の文字と気球型のマークがある。

マークを右クリックして三番目の「この場所について」をクリックすると、ストリートビューのサムネイルとCathedral of our Ladyという表題とPlace de l'Evêché 1と所在地名のポップアップが出る。サムネイルをクリックしてみると写真が出る。
地図をスクロールで拡大して大聖堂の形状図の外側をポイントして右クリックすると異なる場所の住所地とサムネイルが出る。rue de Vieux Marchéとあるサムネールからは複数の写真が表示される。最初の写真に見覚えのある建物が見えるので、アルバムの中の一つ前の写真#0581と照合してみる。なんとぴったり同じ方角を撮っている。そこでストリートビューで道順を追ってみると、左折した途端、あの像があるではないか。
実際の旅行で

rue de Vieux Marchéは通りの名だ、正式にはaux poteriesと続くから「昔の陶器市通り」といったところか。グーグルの撮影は2009年7月となっていて画面には工事のトラックが来ている。折悪しく修復が始まっていたようだ。
ストリートビューの写真は回転させられる。色々試してみると思いがけない展開もある。上のPlace de l'Evêché 1での写真は1枚だけであるが、手の形のアイコンで動かしたり右にある磁石の針を回転させたりして、やはり目的の像が見られる。
大聖堂の周りは古い町並みで、京都のような四角な曲がり角はなく、三角の連続の感じだ。バスを広い道路の何処かで降りて私達は狭い通りに入ってきたらしい。こうして求めた彫像は、記憶では通りすがりの道端に所在したという感覚であったが、実際は通路となっている広場のような場所の片側、レストランの前庭に置かれてあるのだった。アルバム整理のときには大聖堂の一部であるかのように思い込んでいたが、周囲の様子から大聖堂とは関係がなさそうである。

民間観光業者の案内には在住写真家の手になる作品が載せられているのもある。それらには簡単な説明が付いている。初めからそういう案内にぶつかればよかったが、ことはそんなに簡単ではなかった。通りの名がわかり、彫像の名称とかがわかればこそ文字をキーワードとして写真に至る検索も出来るわけだ。

http://www.lively-cities.eu/place-du-vieux-marche-aux-poteries-en-espace-10.htm

手がかりになる文字列がない場合には画像そのものを手がかりにしなくてはならない。最近グーグルでは「画像で検索」するアプリを開発した。試してみたがヒットしたのはオランダ語による旅行記一件だけで目的の像もあったが説明はなかった。現在時点ではアプリの開発直後のため探索範囲が広がっていないのだろうから、おいおい便利になると思う。
https://support.google.com/websearch/answer/1325808?hl=ja

トゥルネーの関連事項を調べるのにはフランス語によるのが収穫が多い。辞書がないからオンラインのラルース仏英辞書を使ってみた。
http://www.larousse.fr/dictionnaires/francais-anglais

ちなみにこういう場合には、できればパソコンが二台ほしい。一台きりではサイトのタブを切り替えたりかなり煩瑣な作業になる。

【彫像の正体】
彫像の呼び名は「聖母を描く聖ルカ」(St. Luc peignant la vierge)で共通している。観光用の写真に付けられた説明は皆簡単で統一性はない。それらによれば、作者はマルセル・ウォルファーズ(Marcel Walfers)、ただし家族名のWalfersだけしか書いていない説明もある。材質はブロンズにエナメルで彩色したものというから、日本の七宝みたいな技術かと思う。ウォルファーズはベルギーの有名宝石商の家柄らしく、兄弟商会を継いだマルセルは商売よりアーティストを志したようだが資料不足でよくわからない。いずれにしろ工芸品制作に関係した人らしい。制作年は1936年、制作の意図や私設か寄贈か、現所有者などは不明だ、というより説明した資料が探せない。だが、レストランの客だけでなく、大聖堂を訪れただれでもが鑑賞できるようになっている。そして彫像の台石には像の人物について説明がある。

「ロヒール・パストゥールまたの名をファン・デル・ワイデン、1399年トゥルネーに生まれ、1464年ブリュッセルに死す」
つまりこれはフランドルの超有名な画家ワイデンの顕彰碑なのだ。そして「聖母を描く聖ルカ」というのは単に絵画の表題ではなく、同じ着想で様々な構図の絵画が存在する。この彫像は作者Walfersがボストン美術館収蔵の同名のタブロー(板絵)に着想を得たとされている(典拠資料不明)。調べてみると、ボストン美術館の作品はワイデンの真作と確認されているそうだが、彫像の人物の位置が左右入れ替わっていたりするから、ウォルファーズのそれなりの創作にかかる作品といえるだろう。
聖ルカはフランドルの画家ギルドや織物ギルドの守護聖人であるということだ。彫像に見られる服装は医者を示しているという。ルカは医者であった。聖路加病院に名がある。これらのことも知りたいとは思うが、ちょっとやそっとのことでは片付きそうにない。多分永久に見合わせになるだろう。
絵画に関しては中世史家、堀越孝一氏の著作『中世の秋の画家たち』(講談社学術文庫)に詳しい。ウォルファーズに関してはブルッセルあたりで地元の伝記でも探さなくてはわかりようがなさそうだ。
こういうことで一枚の写真をめぐって、はからずも小さな紙上旅行ならぬデジタル・バーチャル旅行が楽しめた。今回の収穫は地図検索でのストリートビューの効用であった。
参考までに旅行業者のサイトからの英文説明を抜書きしておく。
(2015/7)















2015年7月2日木曜日

鷗外ところどころ

「安井夫人」のあと、吉野俊彦『鷗外百話』を読み、いまは松本清張『両像・森鷗外』を読んでいる。清張のは評論であり複雑な要素を緻密に構成しているため、時には読みづらく前進と後退の繰り返しである。これらを読みながらあらためて考森鷗外について考えついたことなどを書き留めたい。

「安井夫人」を読んでいてちょっと首を傾げた部分があった。麻布長坂裏通りに移った年、仲平は松島まで観風旅行をした、という箇所である。旅の服装を書き留めている。「浅葱織色木綿の打裂羽織に裁付袴で、腰に銀拵えの大小を挿し、菅笠をかむり草鞋をはくという支度である。」日常の仲平には見られない、いわば盛装ではないか。贅を尽くしたとかいうのではないが、仲平の生活からいえば晴れ姿のような感じがする。こういう叙述をこの箇所に挿入してあるのはなぜだろうと考える。必要な叙述だろうか。前後と脈絡はなさそうだが、どういう意味があるのだろう。
ふと思ったのは著者鷗外は仲平が好きなことである。本に埋もれて過ごしてきた慎ましい暮らしにようやく余裕が出来た。ちょっと世間並みの勇姿を見せてやろうとの著者の親心みたいな気持ちをここに表したと見るのはどうだろう。挿入箇所はほかでもよかったかもしれない。お佐代さんもこの姿に満足したのではないかな。



鷗外が執筆した著述のうち軍務に関わる論文等の約三百篇は軍医という職業上の本務である。その他の作品は余暇にものされたいわば余技となる。こちらの評判がよろしかったのが軍内部の反感を買ったようで、小倉に転任させられたことをもって左遷と考える研究者も多い。小倉時代には売文は鳴りを潜め、もっぱら「即興詩人」の飜訳に励みフランス語など勉強したという。東京に帰り咲いた後、再び文芸作品を書き始める。明治四十五年から後は歴史ものに転じる。
「安井夫人』は歴史小説として一括りに分類されるが他の歴史ものとは作風が大いに違うように思える。
松本清張は『両像・森鷗外』(1985年、文藝春秋)の中で、
鷗外は十四篇の歴史小説を書いている。「興津彌五右衛門の遺書」「阿部一族」のほかは、「佐橋甚五郎」「護持院原の敵討」「大鹽平八郎」「堺事件」「安井夫人」「山椒大夫」「津下四郎左衛門」「魚玄機」「ぢいさんばあさん」「最後の一句」「高瀬舟」「寒山拾得」。 殉死の二篇を別にすれば、あとは主題に一貫性がなく、ばらばらである。テーマ小説ではないからそれでよい。
と述べている。また「高瀬舟縁起」には、それがひどく面白いと思った話を書いたとある。「追儺」では、小説というものは何をどんな風に書いても好いものだという断案を下している。その結果を松本清張は、作品群に系統がなくばらばらであり、出来、不出来も仕方がないとする。こういう見方をすれば、「安井夫人」がなんとなく中途半端な作品に思えるのも理解できる。
そこで私流に考えてみる。「安井夫人」を書き始めるにあたって鷗外は、夫人ではなく安井息軒を書こうと思い立って材料を集め始めたのでないだろうか。息軒は儒者であり、その考証学という学風は鷗外の好むところであったし、貧しい中で刻苦精励する生き方にも共感していたと思われる。ところが、調べるうちに出てきたのが十六歳の美人で、好んで不男のもとに嫁いだというお佐代夫人のことだった。話材としては格好のものだというわけで、息軒伝から方向を変えてお佐代さんの逸話を「ちょっといい話」的に仕立てあげることにしたのかもしれない。

そしてさらに言えば顔の話がある。吉野俊彦氏の『鷗外百話』にある「第五十話 森鷗外の顔」である。
「執筆の過程でひもとく全集に載せられた鷗外の晩年の写真を見ると、日本人としてここまで立派な顔があるのかと思うほどすばらしい」とある。また、芥川龍之介「森先生」の文章を紹介している。漱石の葬式に来て受付に名刺を差し出した人、「その人の顔の立派な事、神彩ありとも云ふべきか。滅多に世の中にある顔ならず。名刺を見れば森林太郎とあり」というものだ。この年の鷗外は55歳で予備役に入れられて浪人中であった。そして吉野氏の見るところでは、若かりしころの鷗外の顔は、全集に載せられた写真を見ても、それほど立派だったようには思われないのだそうだ。鷗外の二女小堀杏奴さんの思い出にも、「人間は親から貰った顔のままではいけない。その顔を自分で作っていって立派なものにしなくてはならない」とよく言っていたそうであるが、その言葉の通り、晩年の父の顔は實に立派な美しさを感じた、とある(小堀杏奴「晩年の父」)。吉野氏は、その人の境遇は別としても、その人の教養や努力によって、生まれた時の顔は徐々ではあろうが、おのずと変化してゆくことは鷗外の実例で証拠付けられたと信じて疑わないと述べている。
ここで思い当たるのは不男で猿と呼ばれた安井仲平さんである。同じように疱瘡で片目になった父の滄洲翁が仲平の嫁探しにあたって、「顔貌には疵があっても、才人だと、交際しているうちに、その醜さが忘れられる。また年を取るにしたがって、才気が眉目をさえ美しくする。仲平なぞもただ一つの黒い瞳をきらつかせて物を言う顔を見れば、立派な男に見える。これは親の贔屓目ばかりではあるまい。どうぞあれが人物を識った女をよめにもらってやりたい」と切望するのである。

以上に述べたような要素が「安井夫人」を生んだとも考えられるなぁというのが、私の新たに得た感触である。

吉野俊彦氏は日本銀行調査局長を経て理事まで勤められたが、勤務の余暇には森鷗外の研究に余念のない生活を送られた方である。銀行の仕事を終えたあとの時間は自宅で夕食後仮眠を取り、その後は書斎で午前二時まで経済評論執筆や鷗外の研究に勤しんだとは自らも公表されている。それというのも森鷗外が公務を終えたあとは自宅で深夜まで読書と執筆に過ごした勤勉ぶりに打たれて、同じサラリーマンという共感からその生活態度を模範と仰いだのだという。ここにいう共感には生活リズムが似ているという表面的なことのほかに同僚や上司などとの軋轢、嫉視など不愉快な環境が当然含まれる。


津和野藩の藩医であった白仙は参勤交代で帰国する藩主の供をするべきところ、折悪しく持病の発症で同行が叶わなかった。逸る気持ちを抑えながら江戸で三ヶ月養生してようやく小康を得て旅立ったものの途中土山まで来て脚気衝心で急死したのであった。この時代、藩主の旅には武装警固よりは主君の不時の発病、食あたりなどの手当が最重要事になるはず、藩医として供をするその役目が務まらなかった事こそ最大の不忠だ、十二代もの間頂戴してきた禄を離れるかもしれない恐怖、白仙の心中は深刻であった。それがために病の小康を得たのももどかしく帰途についたのがあだになった。宮仕えの悲しさである。荒れた古塋域に祖父の墓を見つけ出した鷗外の像は清張氏の「両像・森鷗外」冒頭の挿話である。
森鷗外は徹頭徹尾官僚人だ。官僚人たるの資格は上昇志向、であると清張は書く。「鷗外は偉大なる文学者であると共に一面決して昇進や栄転に無頓着ではあり得ない官吏の心理に支配せられた人であった。それはその手簡や日記や作品の或る物に示されている」との小泉信三氏の言(「山県有朋と森鷗外」(文藝春秋昭和四十年五月号)が紹介されている。
三年間の小倉勤務を経て東京に戻った鷗外は二年後に日露戦争に出征する。凱旋の翌明治四十年陸軍軍医総監・陸軍省医務局長となる。この官職は軍医の最高位で、中将相当官である。四十六歳。
難解とされたクラウゼウィッツ「戦論」の原著を読みこなした鷗外は、留学先や小倉の師団内で講義して、その評判は賀古鶴所という親友を通して山県有朋にも達し、山県の歌会「常磐会」設立などに加わって親愛される身となった。

官吏の世界では高位高官ほど矩に縛られる。軍人である一方で文学者としての鷗外はだんだん作品の表現が窮屈になる。歴史物の最後に考証学者に題材を得て、鷗外はようやく煩瑣な配慮から逃れて自由な気分で著述に専念できるようになったようだ。
『渋江抽斎』『伊澤蘭軒』『北条霞亭』の考証学者の伝記三部作のうち『北条霞亭』は大正六年から九年にかけて断続的に発表された。この間に予備役に編入された。次いで帝室博物館総長と図書頭として宮内庁入りとなる。これは山県の推挙によるものだ。大正十年には宮内庁図書寮から『帝諡考』を刊行、つづく『元號考』を未完のまま亡くなった。じつはこの年辺りから鷗外の健康は急速に衰えていたらしい。

これらいわゆる史伝は難しいから私は読んでいない。当時の新聞に依頼された連載として始まったものの中身は漢字だらけ、漢文のしかも白文のまま出てきたりして到底読者の受け入れるところではなかった。それでも委細構わず書き進めたように伝えられている。私は考証という仕事を鷗外が好んだから、考証学者の伝記執筆は余生の過ごし方として喜んでいたのだろうと想像していたがどうも違うようだ。『渋江抽斎』の出来が良かったことについて清張はその成立過程を詳しく追っているが、抽斎の三男渋江保氏という著述家の寄せた資料に大きく負っていることが明かされている。また、「両像」の末尾近くには北条霞亭という人物は伝記を書くには全く魅力に乏しい人物だったのに、なぜ書いたのかを追求している。清張はこれを書いた時期の鷗外の健康と霞亭の死因を関連付けている。
北条霞亭の死は萎縮腎か脚気衝心かという問題を鷗外は考えていた。萎縮腎なら自分の死を予期する、脚気衝心なら祖父の森白仙と同じだとして、霞亭という人物への関心をこの点に見出して完結まで書き継いだように清張は述べている。


多田伊織「言葉から実践へ―森鷗外晩年における『考証』:の概念規定」という論文を読んだ。 
http://publications.nichibun.ac.jp/region/d/NSH/series/kosh/2013-11-29/s001/s034/pdf/article.pdf 
京都大学人文科学研究所の女性研究者であるが、普段から考証学に親しんでいるという。その方法はテクストを集め、関連する記述を抜き出し、時系列で比較し、異同を検討するやり方なのだそうである。この方法を援用して鷗外が考証学にとった態度を研究したのがこの論文だという。おかげで勉強させてもらった。

一般に鷗外の死因は萎縮腎とされている。それはそのように公式発表があったからでもあるが、実は早くから肺結核症であったという事実が隠されていた。当時の肺結核は不治の病であり、ドイツで衛生学を修めた軍医としての体面上秘匿すべき事実でもあったろう。大正八年には結核予防法も交付された。医者としての鷗外は自分の病気を生涯かけて隠し通さなくてはならなかった。
鷗外の肺結核について、多田氏の論文は医学的見地からも詳細に伝えている。死因が肺結核であったとの公表は長男於菟氏によるラジオ放送であった(森於菟『父親としての森鷗外』ちくま文庫、1993)。
多田氏は霞亭が萎縮腎であったこと、その病気は進行性であって鷗外も患っていたこと、いわば死を呼ぶ病であって、結核症にも関係していることから、鷗外が自分の死後、世間が『北条霞亭』に秘めた自分の思いを見出してくれることを期待したかもしれないとしている。ちなみに石川淳が昭和16年の『森鷗外』に萎縮腎という持病が『北条霞亭』に関係していることを見抜いていた慧眼を清張は賞賛している。

さきに「安井夫人」について感想を書いた最後に、「石見人森林太郎」が何を意味するかに触れた。肩書や身分にとらわれない人そのものを表す気持ちとしておいたのであったが、自由人と言い換えられるように思う。もちろん自然人としてではなく、思想、精神的に枠にはめられないで思う存分に書くことが出来る喜びを表す言葉としてである。松本清張はこれを官吏であることから抜け出し得て、文学者になったことだろうと推理している。遺言に「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ルゝ瞬間アラユル外形的取り扱ヒヲ辞ス」とあることから官吏の身分からの離脱を意味すると解したのであろう。私は同時にもっと広い解放感も意味したのでないかと思っている。(2015/7)

2015年6月18日木曜日

難聴者に希望―聴神経細胞の再生

難聴者に希望―聴神経細胞の再生実験報告
2015年6月16日夜のテレビ朝日「報道ステーション」で京都大学研究室の関谷医師がこれまで不可能とされていた聴神経の有毛細胞の再生を試みたマウス実験で思いがけない発見があったことから成功の見込みが出て来たことを報告してくれた。
いままで細胞移植によって再生を目指していてうまくいかなかったが、神経の障害箇所に細胞を移植でなく置くだけで細胞自身があるべき個所に自力で侵入していって、見事に有毛細胞に変化して聴覚が回復されたことが観察されたというのである。
報道時の再現はできないが、筆者が京都大学医学部のホームページにその詳細を見つけたのでここに紹介しておく。少々難解な説明もあるが感音性難聴者にようやく希望実現の機会が近づいてきたことには違いないので喜びを皆で分かち合いたいと思う。
補聴器の開発試作記事もあってなかなか有益である。
http://www.kuhp.kyoto-u.ac.jp/~ent/Topics/ir/regeneration.htm

【関連】ブログ「難聴についてー感音性難聴と補聴器」(2014/5/9)
http://maxowl.blogspot.jp/2014/05/blog-post_7465.html
(2015/6)

2015年6月12日金曜日

読書随想 森鷗外「安井夫人」

森鴎外「安井夫人」を読んでみた。五十二歳当時の執筆、総合雑誌『太陽』の大正3(1914)年4月号に森林太郎の名で掲載された。

安井夫人とは江戸末期に名をなした儒者安井息軒の夫人、佐代のことである。当時の読者なら読み始めてすぐに気がついたかもしれない。息軒が亡くなったのは明治9(1876)年である。作品との時の隔たりは半世紀もない。鴎外にしてみれば、時代や人物については、表題の「安井夫人」と文章の冒頭に日向国宮崎郡清武村と書いておけば十分と考えたのかもしれない。
原典には漢文体で附録がついていて「右参取若山甲蔵君息軒伝」とあり、研究者によれば若山甲蔵著「安井息軒先生」(大正2(1913)年)を読んで執筆に取り掛かったとしている。もとより鴎外は早くから学者としての息軒の存在を知っていた。若山氏はジャーナリスト、また郷土史家であり、その新著に鴎外が新たな興味を惹かれたことが考えられる。鴎外の日記にも大正3年2月に『太陽』から寄稿を求められたのを機に、息軒一族の墓に詣でたことからはじめて、執筆開始から発表までの覚えが書き留められている。

作品「安井夫人」についての論文や論考は夥しくあるが、ほとんどが文学論としての学術上の参考であるため市中の図書館では見ることはまず出来ない。まして佐代夫人についての個人的な情報は伝記もないから不明である。
筆者がいつも頼りにするweb上の情報にも当然のことに見つからないが、唯一参考にした次のサイトの情報一覧は便利であった。
www.ed.oita-u.ac.jp/kykenkyu/bulletin/kiyou/hidaka35-1.pdf

このサイトの筆者日高貢一郎氏によれば、同氏の生まれ故郷でもある宮崎県清武町では息軒だけでなく、お佐代さんの嫁入りのときのエピソードを母や祖母から聞いたことがあったと書かれている(2013年現在)。このことからもお佐代さんについての情報は鴎外にあっても地元若山氏の著書に負うところの可能性は強い。

いずれにせよ、鴎外にとって夫人について読者の興味を惹くに足る小説的材料は、まさにこの嫁入りの時の話柄に限られていたようで、息軒夫妻それぞれの人物や史実を語る文章の分量の寡多の不衡平はやむをえないところであったろう。また、歴史物の著作に鴎外は史実だけを書くのが常であったというが、お佐代さんの縁談の場面には、かなりの脚色がみられて作者の力の入れ具合があからさまにみえる。
夫人の死去を伝えた段落のあとに、お佐代さんはどういう女であったか、と作者の自問が提示される。ここにはおさよさんに対する鴎外の思い入れが述べられてあり、執筆の目的が読み取れる。

「安井夫人」と題しながらも物語は仲平の人生を語る。仲平は息軒の字名(あざな)である。
作品には年号は全く示されていない。出来事の起点は人物の年齢である。息軒の名は次のくだりに一度だけ出現する。現代の読者はここではじめて仲平が息軒であることと物語の時代を知ることができる。
浦賀に米艦が来て、天下多事の秋となったのは、仲平が四十八、お佐代さんが三十五のときである。大儒息軒先生として天下に名を知られた仲平は、ともすれば時勢の旋渦中に巻き込まれようとしてわずかに免れていた。

お佐代さんが登場するのは安井家に縁づくことになる場面でこれが唯一のハイライト、引き続いての話題は乏しく質素な暮らしを映すだけにすぎない。三十四年の人生で二男四女をもうけたが、五十一歳で亡くなった。
というわけで、この作品は仲平の物語であり、夫人佐代はその蔭にあって終生慎ましく実直に役目を全うして終わったことが併せて綴られているだけなのである。

筆者はがみるところ、まず鴎外は仲平が好きであった。その生き方、強固な意志、考証的な学風、それぞれが作者鴎外の好みに合っていた。夫人となったお佐代さんは縁談の中心に突如として自らの意志で飛び込んできた。当時としては型破りである。鴎外には新鮮であり、仲平の伴侶として質素倹約に徹しながら学問の伸展に貢献した一途な生き方に大きな価値を認めたのであろう。

さらに父子ともに不運にも片目で、背も低く色黒で猿と揶揄されていた仲平に対するに新婦は若者の間で評判の美人であったこと。誰が見ても不吊り合いな組み合わせは「岡の小町が猿のところへ往く」と口々に噂された。それが天晴地歩を占めた夫人になりおおせたのである。この一事は通俗的にも格好の題材であった。
「仲平さんはえらくなりなさるだろう。」という評判と同時に「忠平さんは不男(ぶおとこ)だ」という蔭言(かげこと)が清武一郷に伝えられている。

作品の劈頭に掲げられている文章がこれである。仲平が学問に向ける意志強く首尾よく江戸の昌平黌で修業をし、藩主の供をして戻って来た年、藩では学問所を建てる工事の最中である。それが落成すると、二十九になる仲平が父滄洲とともに講壇に立つはずである。そのとき滄洲翁が息子に嫁を取ろうと言い出した。難題である。
六年前に病気で亡くなった兄文治と仲平は幼少の頃同時に疱瘡にかかった。兄の方は軽くすんだが、仲平は重症で大痘痕が残り、そのうえ右目が潰れた。背が低く色黒であった仲平は猿とあだ名され、猿が本を読むとからかわれながら育ったのであった。嫁取りを言い出した父もまた同様に疱瘡で片眼になっていた。その半生には異性に対する苦い経験もあり、見合いをして縁談を取り決めようなどということは自分自身が不可能であったことから、同じ欠陥を持つ息子にも無理なことはよく承知している。
苦衷のうちに選び出した候補は気心のわかる親戚、夫人の里方、川添家の二十歳と十六歳の姉妹であった。三十になる婿との吊り合いを考えて姉娘に話を持ちかけた。快活で心に思うままを口に出して言うところが滄洲の気に入っていた。それが「わたし仲平さんはえらい方だと思っていますが、ご亭主にするのはいやでございます」と冷然と言い放った。諦めてかけたところへ、十六になる妹娘が行きたがっているという思いがけない話が追いかけてきた。これは、ところの字をとって「岡の小町」と若者たちの間で評判の美人である。それだけにかえって仲平には不吊り合いと考えられていたのが、もろうてさえ下さるなら自分は往きたい、ときっぱり言ったという。

皆が意外だと思った。婿殿の仲平が一番意外だと思った。鴎外は皆怪訝(かいが)する、と書いている。怪訝するとともに喜ぶ人たち、怪訝するととも嫉(そね)む近所の若者たち。口々に「岡の小町が猿のところへ往く」と噂し、清武一郷に噂が伝播して誰一人怪訝せぬものはなかった。
婚礼は長倉夫婦の媒酌で、まだ桃の花の散らぬうちにすんだ。そしてこれまでただ美しいとばかり言われて、人形同様に思われていたお佐代さんは、繭を破って出た蛾のように、その控え目な、内気な態度を脱却して、多勢の若い書生たちの出入りする家で、天晴地歩を占めた夫人になりおおせた。 
十月に学問所の明教堂が落成して、安井家の祝筵に親戚故旧が寄り集まったときには、美しくて、しかもきっぱりした若夫人の前に、客の頭が自然に下がった。人にからかわれる世間のよめさんとは全く趣をことにしていたのである。

翌年、佐代夫人十七で長女須磨子が生まれる。仲平は四度目の江戸住まいにお佐代さんを呼び迎える。二十八のお佐代さんが十一になる須磨子と五つになる登梅子とを連れてやってきた。住まいは大勢の書生が出入りする私塾の三計塾を兼ねる。
暮らしぶりは質素で女中を使わず、お佐代さんが飯炊き(ままたき)、須磨子が買い物に出る。須磨子の日向訛りが商人に通じなくて用が足りずにすごすご帰ることが多いと記されている。

この三計塾は息軒の私塾として明治時代まで続くのであるが、谷干城、陸奥宗光など時代を背負った多くの人物を輩出している。住まいは後世息軒が転宅魔と皮肉られるほど何度も引っ越した。したがって鴎外の記述もいちいち何処での出来事かが書きくわえられている。

お佐代さんは形(なり)ふり構わず働いている。それでも「岡の小町」と言われた昔の俤はどこやらにある。漁師あがりで徒士に取り立てられた黒木孫右衛門が仲平に会いに来る。
お佐代さんが茶を出しておいて勝手へさがったのを見て狡獪なような、滑稽なような顔をして、孫右衛門が仲平に尋ねた。
「先生。只今のはご新造さまでござりまするか」「さよう。妻で」恬然として仲平は答えた。「はあ。ご新造さまは学問をなさりましたか」「いいや。学問というほどのことはしておりませぬ」「してみますと、ご新造さまの方が先生の学問以上のご見識でござりまするな」「なぜ」「でもあれほどの美人でおいでになって、先生の夫人におなりなされたところをみますと」 
 仲平は覚えず失笑した。そして孫右衛門の無遠慮なような世辞を面白がって、得意の笊碁(ざるご)の相手をさせて帰した。

このやりとりに鴎外は仲平の得意をみたのだろう。そして自身も嬉しかったかもしれない。雛祭りの支度に忙しい川添家に縁談を持ち込む場面と、この対話は典拠にヒントを得て、鴎外が多少脚色したと考えられる。

お佐代さんは四十五のときにやや重い病気をして直ったが、五十の歳暮からまた床について、五十一になった年の正月四日に亡くなった。仲平が六十四になった年である。あとには男子に短い運命を持った棟蔵と謙助との二人、女子に須磨子と四女歌子が残った。

現実の息軒は、二年後に身の回りを世話してくれる後添えを得たから、「安井夫人」は一人だけではない。しかし、後妻についてこの作品は触れていない。佐代が亡くなって以後に仲平は格段の出世をして学者の頂点を極める。七十八歳の没年まで再び事実の経過を述べる文章が続く。仲平と佐代は六人の子をなしながら、すべて早逝し仲平の跡取がいなくなったことが哀しくも特徴的な人生であった。

小説的な彩りから言えば、仲平の質素な暮らしぶりについての挿話、大阪時代の食費倹約策の「仲平豆」創案、昌平黌の同窓のからかいに和歌で反発して才能の奥行きをみせたこと、博渉家であっても蔵書家ではなかったことなどが紹介される。
しかしお佐代さんを語る圧巻はおとなしくて美貌の十六娘がきっぱりと不男の嫁になることを望んで、繭を破って出た蛾のように天晴地歩を占めた夫人になりおおせたという場面である。
そしてどういう女性であったかについて鴎外は自分の感懐をまとめている。世間的な欲望にとらわれなかった人柄などを述べたあとには次のようにある。
お佐代さんは必ずや未来に何物かを望んでいただろう。そして瞑目するまで、美しい目の視線は遠い、遠い所に注がれていて、あるいは自分の死を不幸だと感ずる余裕をも有せなかったのではあるまいか。その望みの対象をば、あるいは何物ともしかと弁識していなかったのではあるまいか。

鴎外流のそっけない叙述のなかにあって、佐代についての描写は文章の形を改め、常に優しく温かい作者の眼差しが感じられるのは、外見や社会的な地位などでなく、素の人物その人の価値を尊ぶ姿勢の表れと感じられる。自身の遺言に「あらゆる外形的取り扱いを辞して森林太郎として」死ぬことを望み、「墓は森林太郎の外一字もほるべからず」としたことが思い合わせられる。
一体に鴎外の歴史物は殉死や切腹、処刑など暗い話の多い中で、「安井夫人」は短編ながら心地よい佳品である。

(筆者が読んだ「安井夫人」はKindle版の森鴎外全集に入っている青空文庫。底本「日本の文学3 森鴎外(二)」中央公論社1972(昭和47)年10月20日発行、)(2015/6)