安井夫人とは江戸末期に名をなした儒者安井息軒の夫人、佐代のことである。当時の読者なら読み始めてすぐに気がついたかもしれない。息軒が亡くなったのは明治9(1876)年である。作品との時の隔たりは半世紀もない。鴎外にしてみれば、時代や人物については、表題の「安井夫人」と文章の冒頭に日向国宮崎郡清武村と書いておけば十分と考えたのかもしれない。
原典には漢文体で附録がついていて「右参取若山甲蔵君息軒伝」とあり、研究者によれば若山甲蔵著「安井息軒先生」(大正2(1913)年)を読んで執筆に取り掛かったとしている。もとより鴎外は早くから学者としての息軒の存在を知っていた。若山氏はジャーナリスト、また郷土史家であり、その新著に鴎外が新たな興味を惹かれたことが考えられる。鴎外の日記にも大正3年2月に『太陽』から寄稿を求められたのを機に、息軒一族の墓に詣でたことからはじめて、執筆開始から発表までの覚えが書き留められている。
作品「安井夫人」についての論文や論考は夥しくあるが、ほとんどが文学論としての学術上の参考であるため市中の図書館では見ることはまず出来ない。まして佐代夫人についての個人的な情報は伝記もないから不明である。
筆者がいつも頼りにするweb上の情報にも当然のことに見つからないが、唯一参考にした次のサイトの情報一覧は便利であった。
www.ed.oita-u.ac.jp/kykenkyu/bulletin/kiyou/hidaka35-1.pdf
このサイトの筆者日高貢一郎氏によれば、同氏の生まれ故郷でもある宮崎県清武町では息軒だけでなく、お佐代さんの嫁入りのときのエピソードを母や祖母から聞いたことがあったと書かれている(2013年現在)。このことからもお佐代さんについての情報は鴎外にあっても地元若山氏の著書に負うところの可能性は強い。
いずれにせよ、鴎外にとって夫人について読者の興味を惹くに足る小説的材料は、まさにこの嫁入りの時の話柄に限られていたようで、息軒夫妻それぞれの人物や史実を語る文章の分量の寡多の不衡平はやむをえないところであったろう。また、歴史物の著作に鴎外は史実だけを書くのが常であったというが、お佐代さんの縁談の場面には、かなりの脚色がみられて作者の力の入れ具合があからさまにみえる。
夫人の死去を伝えた段落のあとに、お佐代さんはどういう女であったか、と作者の自問が提示される。ここにはおさよさんに対する鴎外の思い入れが述べられてあり、執筆の目的が読み取れる。
「安井夫人」と題しながらも物語は仲平の人生を語る。仲平は息軒の字名(あざな)である。
作品には年号は全く示されていない。出来事の起点は人物の年齢である。息軒の名は次のくだりに一度だけ出現する。現代の読者はここではじめて仲平が息軒であることと物語の時代を知ることができる。
浦賀に米艦が来て、天下多事の秋となったのは、仲平が四十八、お佐代さんが三十五のときである。大儒息軒先生として天下に名を知られた仲平は、ともすれば時勢の旋渦中に巻き込まれようとしてわずかに免れていた。
お佐代さんが登場するのは安井家に縁づくことになる場面でこれが唯一のハイライト、引き続いての話題は乏しく質素な暮らしを映すだけにすぎない。三十四年の人生で二男四女をもうけたが、五十一歳で亡くなった。
というわけで、この作品は仲平の物語であり、夫人佐代はその蔭にあって終生慎ましく実直に役目を全うして終わったことが併せて綴られているだけなのである。
筆者はがみるところ、まず鴎外は仲平が好きであった。その生き方、強固な意志、考証的な学風、それぞれが作者鴎外の好みに合っていた。夫人となったお佐代さんは縁談の中心に突如として自らの意志で飛び込んできた。当時としては型破りである。鴎外には新鮮であり、仲平の伴侶として質素倹約に徹しながら学問の伸展に貢献した一途な生き方に大きな価値を認めたのであろう。
さらに父子ともに不運にも片目で、背も低く色黒で猿と揶揄されていた仲平に対するに新婦は若者の間で評判の美人であったこと。誰が見ても不吊り合いな組み合わせは「岡の小町が猿のところへ往く」と口々に噂された。それが天晴地歩を占めた夫人になりおおせたのである。この一事は通俗的にも格好の題材であった。
「仲平さんはえらくなりなさるだろう。」という評判と同時に「忠平さんは不男(ぶおとこ)だ」という蔭言(かげこと)が清武一郷に伝えられている。
作品の劈頭に掲げられている文章がこれである。仲平が学問に向ける意志強く首尾よく江戸の昌平黌で修業をし、藩主の供をして戻って来た年、藩では学問所を建てる工事の最中である。それが落成すると、二十九になる仲平が父滄洲とともに講壇に立つはずである。そのとき滄洲翁が息子に嫁を取ろうと言い出した。難題である。
六年前に病気で亡くなった兄文治と仲平は幼少の頃同時に疱瘡にかかった。兄の方は軽くすんだが、仲平は重症で大痘痕が残り、そのうえ右目が潰れた。背が低く色黒であった仲平は猿とあだ名され、猿が本を読むとからかわれながら育ったのであった。嫁取りを言い出した父もまた同様に疱瘡で片眼になっていた。その半生には異性に対する苦い経験もあり、見合いをして縁談を取り決めようなどということは自分自身が不可能であったことから、同じ欠陥を持つ息子にも無理なことはよく承知している。
苦衷のうちに選び出した候補は気心のわかる親戚、夫人の里方、川添家の二十歳と十六歳の姉妹であった。三十になる婿との吊り合いを考えて姉娘に話を持ちかけた。快活で心に思うままを口に出して言うところが滄洲の気に入っていた。それが「わたし仲平さんはえらい方だと思っていますが、ご亭主にするのはいやでございます」と冷然と言い放った。諦めてかけたところへ、十六になる妹娘が行きたがっているという思いがけない話が追いかけてきた。これは、ところの字をとって「岡の小町」と若者たちの間で評判の美人である。それだけにかえって仲平には不吊り合いと考えられていたのが、もろうてさえ下さるなら自分は往きたい、ときっぱり言ったという。
皆が意外だと思った。婿殿の仲平が一番意外だと思った。鴎外は皆怪訝(かいが)する、と書いている。怪訝するとともに喜ぶ人たち、怪訝するととも嫉(そね)む近所の若者たち。口々に「岡の小町が猿のところへ往く」と噂し、清武一郷に噂が伝播して誰一人怪訝せぬものはなかった。
婚礼は長倉夫婦の媒酌で、まだ桃の花の散らぬうちにすんだ。そしてこれまでただ美しいとばかり言われて、人形同様に思われていたお佐代さんは、繭を破って出た蛾のように、その控え目な、内気な態度を脱却して、多勢の若い書生たちの出入りする家で、天晴地歩を占めた夫人になりおおせた。
十月に学問所の明教堂が落成して、安井家の祝筵に親戚故旧が寄り集まったときには、美しくて、しかもきっぱりした若夫人の前に、客の頭が自然に下がった。人にからかわれる世間のよめさんとは全く趣をことにしていたのである。
翌年、佐代夫人十七で長女須磨子が生まれる。仲平は四度目の江戸住まいにお佐代さんを呼び迎える。二十八のお佐代さんが十一になる須磨子と五つになる登梅子とを連れてやってきた。住まいは大勢の書生が出入りする私塾の三計塾を兼ねる。
暮らしぶりは質素で女中を使わず、お佐代さんが飯炊き(ままたき)、須磨子が買い物に出る。須磨子の日向訛りが商人に通じなくて用が足りずにすごすご帰ることが多いと記されている。
この三計塾は息軒の私塾として明治時代まで続くのであるが、谷干城、陸奥宗光など時代を背負った多くの人物を輩出している。住まいは後世息軒が転宅魔と皮肉られるほど何度も引っ越した。したがって鴎外の記述もいちいち何処での出来事かが書きくわえられている。
お佐代さんは形(なり)ふり構わず働いている。それでも「岡の小町」と言われた昔の俤はどこやらにある。漁師あがりで徒士に取り立てられた黒木孫右衛門が仲平に会いに来る。
お佐代さんが茶を出しておいて勝手へさがったのを見て狡獪なような、滑稽なような顔をして、孫右衛門が仲平に尋ねた。
「先生。只今のはご新造さまでござりまするか」「さよう。妻で」恬然として仲平は答えた。「はあ。ご新造さまは学問をなさりましたか」「いいや。学問というほどのことはしておりませぬ」「してみますと、ご新造さまの方が先生の学問以上のご見識でござりまするな」「なぜ」「でもあれほどの美人でおいでになって、先生の夫人におなりなされたところをみますと」
仲平は覚えず失笑した。そして孫右衛門の無遠慮なような世辞を面白がって、得意の笊碁(ざるご)の相手をさせて帰した。
このやりとりに鴎外は仲平の得意をみたのだろう。そして自身も嬉しかったかもしれない。雛祭りの支度に忙しい川添家に縁談を持ち込む場面と、この対話は典拠にヒントを得て、鴎外が多少脚色したと考えられる。
お佐代さんは四十五のときにやや重い病気をして直ったが、五十の歳暮からまた床について、五十一になった年の正月四日に亡くなった。仲平が六十四になった年である。あとには男子に短い運命を持った棟蔵と謙助との二人、女子に須磨子と四女歌子が残った。
現実の息軒は、二年後に身の回りを世話してくれる後添えを得たから、「安井夫人」は一人だけではない。しかし、後妻についてこの作品は触れていない。佐代が亡くなって以後に仲平は格段の出世をして学者の頂点を極める。七十八歳の没年まで再び事実の経過を述べる文章が続く。仲平と佐代は六人の子をなしながら、すべて早逝し仲平の跡取がいなくなったことが哀しくも特徴的な人生であった。
小説的な彩りから言えば、仲平の質素な暮らしぶりについての挿話、大阪時代の食費倹約策の「仲平豆」創案、昌平黌の同窓のからかいに和歌で反発して才能の奥行きをみせたこと、博渉家であっても蔵書家ではなかったことなどが紹介される。
しかしお佐代さんを語る圧巻はおとなしくて美貌の十六娘がきっぱりと不男の嫁になることを望んで、繭を破って出た蛾のように天晴地歩を占めた夫人になりおおせたという場面である。
そしてどういう女性であったかについて鴎外は自分の感懐をまとめている。世間的な欲望にとらわれなかった人柄などを述べたあとには次のようにある。
お佐代さんは必ずや未来に何物かを望んでいただろう。そして瞑目するまで、美しい目の視線は遠い、遠い所に注がれていて、あるいは自分の死を不幸だと感ずる余裕をも有せなかったのではあるまいか。その望みの対象をば、あるいは何物ともしかと弁識していなかったのではあるまいか。
鴎外流のそっけない叙述のなかにあって、佐代についての描写は文章の形を改め、常に優しく温かい作者の眼差しが感じられるのは、外見や社会的な地位などでなく、素の人物その人の価値を尊ぶ姿勢の表れと感じられる。自身の遺言に「あらゆる外形的取り扱いを辞して森林太郎として」死ぬことを望み、「墓は森林太郎の外一字もほるべからず」としたことが思い合わせられる。
一体に鴎外の歴史物は殉死や切腹、処刑など暗い話の多い中で、「安井夫人」は短編ながら心地よい佳品である。
(筆者が読んだ「安井夫人」はKindle版の森鴎外全集に入っている青空文庫。底本「日本の文学3 森鴎外(二)」中央公論社1972(昭和47)年10月20日発行、)(2015/6)