2018年4月30日月曜日

『動物農場』でジョージ・オーウェルを読んだ

ジョージ・オーウェル『動物農場――おとぎばなし』川端康雄訳 岩波文庫(2009)
ジョージ・オーウェル『動物農場』〔新訳版〕山形浩生訳 ハヤカワepi文庫(2017)
原著 "Animal Farm: A Fairy Story" (1945)
初版のカバー


ジョージ・オーウェル、ジャーナリスト・作家、は1903年旧英領インドに生まれた。本名エリック・アーサー・ブレア。インド植民地の官吏だった父親の退職後、英国に戻っての生活は裕福ではなかったが、奨学金を得てイートン校を卒業した。ビルマの警察に職を得たが帝国主義になじまず中途退職した。作家を目指しながら低階層の暮らしに関心をもった。1936年結婚とほぼ同時にスペイン内戦が勃発、夫婦で人民戦線に参加して、戦線で喉を撃ち抜かれる重傷を負って後送された。外国人が普通参加する国際旅団ではなく偶然の事情からPOUM義勇軍に加わったのだったが、共産党がトロッキストの弾圧をはじめた。ロシアではスターリンの大粛清が始まっていたのだ。POUMはトロッキスト側だったのでオーウェルたちはたちまち追われる身になり、逮捕されれば銃殺という危険の中をなんとか脱出できた。
帰国してみるとロンドンではソヴィエト・ロシアの評判が、それまでに聞き知った実情と全く違って政府も市民もほぼ賛美一色であることに驚いた。ロシアは社会主義どころか悲惨な階層社会に変貌しつつあったのに、そういうことが英国では全く理解されずにもっぱら社会主義礼賛だった。このことに危機感を抱いたオーウェルはどうにかしてロシアの実情を伝えたいと考え、その方法として、誰にでも簡単に理解できて他国語にも簡単に翻訳できる物語を書くことを思いついた。こうして書き上げられたのが『動物農場』のおとぎばなしである。
続いて全体主義批判の1949年『1984』が出版され、この二作が冷戦後の世界でもてはやされた。ほかにエッセイや評論が多数あり、徹底して平等な人間愛を追求するのが執筆の狙いにある。このことで社会主義者だとされることもあるが、言葉の定義と意味を大事にする本人は納得しないかもしれない。1950年に永眠した。享年46歳。

荘園農場の経営者ジョーンズさんは不運も重なってすっかりやる気を失い飲んだくれている。わずかな従業員の規律も乱れて日々の作業はいい加減にすまされ、動物たちの世話も行き届かない。こういう状況の中で死期を間近に控えたブタの老メイジャーが自分たちのおかれた境遇についてあるべき姿を動物たちに説く。やがてメイジャーは亡くなるが動物たちの間には聞かされた思想が定着し、ある日偶然のことから一斉に蜂起して人間が追放される。賢いブタの一群によって農場が経営されるように変わる。
荘園農場は動物農場と名を変え、経営理念は動物主義である。強いオスブタ二匹がやがて主導権を争い、敗れたスノーボールが追放され、ナポレオンが君臨してブタの一群が支配階層になる体制に移る。ほかの動物達は、よく理解できないままに従う側になってゆく。時とともに権力側に奢りがでてきたり、追放や見せしめの処刑などがくりかえされる。そういう様子がおとぎばなしの言葉で語られる。

この物語はここを読めとばかりに著者が用意してくれたのは経営理念を標榜する七つの戒律だ。1.二本足で立つ者は全て敵 2.四本足で立つか、翼のある者は友、にはじまり、酒を飲んではいけない、他の動物を殺してはいけないなどと続く。この七戒が壁に大きく張り出されるのであるが、時がすぎてある時気がつくと、なにか違う感じがする。罪を犯したとされて殺されるものがでたり、ブタがビールを飲むようになる。ヘンじゃないかと疑問を出すとブタの宣伝係が言葉巧みに説明する。「理由なしに」殺してはいけない、「過剰に」飲んではいけない、とそれぞれつじつまが合うではないか。いつの間にやらところどころ書き換えられるのだ。そんなはずはないがと思い返してみても、字が読めなかったり記憶力が弱かったりして反論ができず宣伝係にうまく言いくるめられる。そういうことだったのだと自分の記憶に自信がなくなって思い直したり、自分を納得させたりですませる。
こんな風にして老メイジャーが言い遺した理想の社会はいつのまにやら格差社会へと変わってしまう。あの壁に書かれた七戒は最後にどうなっていたか。

  いまや戒律はたった一つしかありませんでした。それはこう書かれていたのです。
   すべての動物は平等である。
   しかしある動物はほかの動物よリも もっと平等である。
 (岩波文庫 川端康雄訳)

二行目が書き足されている(筆者注:「もっと平等」の英語は"more equal")。はて、平等に比較級はないはずだ。平等か平等でないかのどちらかしかない。二行目を付け加えることでブタたちは平等という言葉の意味をなくしてしまった。著者の意図は明らかだ。戒律の中身は空っぽであり、社会正義などは実現しないのだ。

このくだりを読んでいると、わが国の教育基本法改正やら、目下の憲法改正論議、さらには改竄隠蔽問題などを連想する。条文に何らかの語句を付け加えてもっともらしい論議を誘う姿勢には本能的に警戒したくなる。教育基本法を改正した結果が上から目線の「道徳」科目の導入に進んだのではなかったか。憲法では「個人」が「人」に置き換えられたらどうなるか、「人」は一般を指す言葉、個々別々の主体は消えてしまう。「公共の福祉」が「公益と公の秩序」に変われば何が違うか。字句の置き換えで何かがごまかされようとしている。
動物農場では七戒の改竄は、字が読めない、覚えられないなど動物らしい理由のためにごまかしが通用するように書かれているが、人間世界では多数決の強弁、強行採決など無法がまかり通る。反対の言挙げをしなければ負けるのだ。

作家の柳広司氏が『図書』4月号に書いている。「デストピア小説の普遍性――ジョージ・オーウェル『動物農場』」。デストピアという言葉に私は馴染みがなかったが、ユートピアの逆を意味する。(筆者注:デストピアは英語のdystopiaの日本語表記であるが、ディストピアを使う人もいて表記が一定しない。ほかに死を意味する英語deathと懸けてデストピアを使った漫画やロック音楽がウィキペディアに出ている。)
デストピア小説には『ガリヴァー旅行記』やカフカ『審判』ほかたくさんある、不安な未来社会や進んだ思考がもたらす非人間的な社会を描くような作をいうが、きわめつきのオーウェル『1984』は最近特に引き合いに出される。トランプ大統領登場のときには馬鹿売れしたとかいう話もあった。
柳氏は「優れたデストピア小説は時代を超え、地域や社会の特殊性を超えた普遍性をもつ――」とは古来言い古されてきた格言だと書いている。『動物農場』を読みながら昨今の日本の状況を思い浮かべるのもその普遍性の故だ。

柳氏はオーウェルが掲げる命題として「政治の堕落と言語の堕落は不可分に結びついている」を挙げる。言葉でメシを食っている小説家として、いまの政治に一言呈するとして「フクシマ後の原発を『重要なベースロード電源』と意味不明な言葉で定義づけ、『アベノミクスの成果』を『トリクルダウン』と言って恥じない政治言語」は腐っていると切り捨てる。この柳氏の文章が原稿の段階を過ぎて掲載された『図書』が発売されたころには腐った政治が改竄や記録廃棄の問題で記憶と格闘している。「個人の記憶はいともたやすく書き換えられる。記録が隠蔽・破棄され、権力者が強弁し続ければ、集団の記憶もまた容易に書き換えられるということだ。」
この論考は、『動物農場』はまさに自分たちの物語として読み返すべき時機に来ていると主張する。

今回参照した『動物農場』は岩波文庫と早川epi文庫の二冊であるが、どちらにも原著初版に採用されなかった「序文」と、「ウクライナ語版のための序文」の二編が併せておさめられている。
前者の「序文」には”The Freedom of the Press"との表題があり、岩波版では「出版の自由」、早川版には「報道の自由」と訳されている。この序文の表題が意味するところは、本文の出版が困難であった経緯の背景にある英国社会の世論とメディアの姿勢について批判をして自由を擁護しようとするものである。
冒頭に四つの出版社に断られた事実を述べ、うち一社は一旦は応諾しておきながら情報省の高官に相談した結果非協力だったことを明らかにしている。引用された出版社の社長が寄越した手紙には、おとぎばなしの標的がどこかの独裁国を描いたものでなく、ロシア・ソヴィエトとその二人の独裁者が歩んだ道筋と寸分たがわぬものであることから、ロシアにしか当てはまらないこと、支配階層にブタが選ばれたことは血の気の多いロシア人を怒らせるであろうことが、出版の軽率さのそしりを免れないだろうから協力できない旨が述べられている。
このことを取り上げて、オーウェルは英国社会の世論動向をうかがう姿勢の出版業界の非をとなえる。一国の存亡を懸けて第二次大戦を戦った英国は独ソ戦に勝利した同盟国ソ連に負うところが大きかっただけに、国民あげてソ連礼賛の声が高かったし、官民ともにロシアの宣伝を鵜呑みにする傾向があった。対するにオーウエルはスペイン内戦に参加した体験からも全体主義の怖さが身にしみてわかっている。自分たちの生活環境からは決してソ連の内情を想像すらできない英国民には自由を守るための警告を強く発しなくてはいけないとの思いだったろう。

1945年8月17日にロンドンで刊行された『動物農場』初版4500部はたちまちのうちに売り切れた。折からの紙不足で増刷は遅れたが11月に2刷1万部が出された。以後今日に至るまで版が途切れたことはないとのことだ(岩波版解説)。世論に押された出版拒否にあって著者が大いに憤慨したロンドンでの大ヒット、潮目が変わっていたのだ。発売日は、日本がポツダム宣言を受諾した8月15日の二日後であって、もはや戦後である。大戦終盤からの冷戦の余波が反ソ連の風潮を引き出した形であるが、世の中の動向というものの力は恐ろしい。ちなみに「冷戦」はオーウェルが考案した用語だとある(早川版山形氏)。
この序文が初版の印刷から除外された理由は定かでないが、タイプ原稿が1972年に発見された。原稿末尾にインクで1943年11月――1944年2月と執筆の時期が加筆されてあった。このことはオーウェルにとって重要だ。執筆がこの期間であることを明示することで、決して東西陣営の対立が始まった戦後になってからのことでないと示したかったのだ(岩波版解説)。

「ウクライナ語版のための序文」には著者オーウェル自身のかなり詳しい生い立ちと執筆意図が述べられている。スペインから逃れてイギリスに戻ってみると、分別もあって情報通でもあるはずの知識層がモスクワ筋の報道を頭から信じ込んでいることに驚く。このときの体験で全体主義のプロパガンダが、民主主義の国々の進歩的な人々の考え方をいかにやすやすと支配してしまえるかを思い知ったと書いている。また、ソ連が階層社会に変貌しつつある兆候に衝撃を受けて、英国の社会主義運動がソ連に抱いている幻想を打ち壊す必要を感じる。その方法として誰にでも簡単に理解できて、多国語に簡単に翻訳できるような物語のかたちでソヴィエト神話を暴露することを思いついた。作品を読み終えたとき、ブタと人間がすっかり和解して終わるという読後感を持つ人が多くいるかもしれない。それは著者の説明不足のためであって本意ではない。それどころか大きな不協和音で終えたつもりなのである。おおむねこうしたことが述べられている。

ウクライナ語版というのはソ連圏のウクライナではなく、米軍による占領下ドイツのミュンヘンにあった難民キャンプで1947年11月に刊行・頒布されたものと解説にある。ハーヴァード大学文学教授のアイハー・シェフチェンコが翻訳して序文を求めてきたという。この難民というのは10月革命で一時は体制を支持したものの、のちにスターリン主義とロシア人による搾取に異を唱えた集団だそうである。川端氏の注釈には、オーウェルがケストラーにあてた手紙に、米軍が1500部没収してソ連に引き渡したそうだと述べ、それでも2千部ほどは難民に渡ったらしいと書いてきたとある。このあたりの事情は資料がないので全くわからない。
余談になるが、以下早川版訳者あとがきによる。『動物農場』の出版計画は、はじめアメリカでも芳しくなかったが、冷戦と戦後の社会主義運動の盛り上がりが欧米諸国に危機感を呼んで、『動物農場』と『1984』が反共メッセージとして利用された。アメリカは『動物農場』の翻訳と出版に資金援助を行った。初の日本語訳は1949年大阪教育図書刊行の永島啓輔氏による版で、GHQによる外国文献翻訳禁止の解禁第1号だったという。スターリンが死んだのは昭和28年。このころのことは全部「昭和」で覚えているのはなぜだろう。学生だったがオーウェルなんて知らなかった。(2018/4)


2018年4月19日木曜日

「みえる電話」(つづき)――コミュニケーション支援機器

前回は「みえる電話」と聴覚障害者があまり補聴器などを使わない実情などを書いた。その時少し触れた翻訳の機器についてすこし敷衍したい。

最近東京オリンピックのおもてなし準備に通訳機として小型の機器がテレビのニュースなどで紹介されている。日本語を吹き込むと外国語の音声が出る、あるいはその逆。テキスト表記も出来るように機能説明があるが英文字だけだろうか。
NHKテレビで私が見たのは多分ボイストラ(VoiceTra)というスマホ用のアプリだろう。NICTと略称される国立研究機構が開発したAI技術を使っている27言語対応のプログラムだ。このアプリは無料でダウンロードして利用できる。
http://voicetra.nict.go.jp/

民間ではソースネクスト社が通訳機「ポケトーク(POCKETALK)」を発売している。63言語対応で、アプリではなく小型機器のセットである。音声と表記の両方の機能がある。
http://www.sourcenext.com/product/pocketalk/

パソコンではグーグルの自動翻訳が古いが、かなりの精度まで向上してきた。グーグルのは検索機能を発展させた技術だと思うが、要するに大量データの利用だ。翻訳の精度が良くなってきたのは、探索する範囲と量が増えたために使われる目的に沿った言葉が見つけやすくなったということだろう。だからこれからもますます良くなると期待される。ボイストラも無料で開放されるアプリで沢山の人が利用すればそれだけ精度も上がるというわけだ。
そのNITCのサイトに私にとって見逃せない成果が紹介されている。
上に紹介したURL記事の末尾に関連アプリが3点記載されている。
うち2点が聴覚障害者支援アプリなのだ。SpeechCanvas®と「こえとら」、特に前者は早速使ってみようと思う。これは電話ではないが会話の現場で私が困惑する事態を救ってくれるだろうと期待する。3つ目は自動翻訳の実験である。これも英語の勉強に使えると考えると楽しくなる。
http://speechcanvas.jp/
http://www.koetra.jp/
(3つ目の自動翻訳はTexTraで検索できる。この記事を書いているときはたまたまメンテナンスで参照できなかったので省略する。VoiceTraサポートページ末尾アイコンから起動されたい)

こうしていろいろ知ってみると、「みえる電話」アプリが広く使えるようになるのはそれほど遠くないように感じられる。ドコモだけが独占できる技術ではないかもしれない。オリンピックだとか、観光だとか華やかなイベントにはパラリンピックとかバリアフリーだとか身体的な障害に気を配らなくてはならない事柄がたくさんある。コミュニケーション障害を乗り越えるために使われる技術もいよいよ広く深くなることだろう。翻訳は考えようによっては一種の言語障害への対応策だ。リハビリのように訓練によって改善できるかもしれないし、支援器具も使える。コミュニケーション支援技術はおおいに発展してもらいたいものだ。

つぎにちょっと気になったことから考えたことを述べる。
上例とは別のサイトのポケトークの広告に次のような文があった。長い文章も翻訳できるという課題例である。

  「残念ながら予約をキャンセルしないとならないのですが、キャンセル料がいくらになるか教えてもらえますか?」

この例文に対する翻訳文は表示されていない。例文の前節の意味は日本人ならわからなくはないが、なにかヘンだと感じる人が多いのではなかろうか。これを間違いだとあげつらうつもりはない。これが普通だと思って使う人もいるのだろうし、この文を作った人は日本人でないかもしれない。ここにもし課題に答える翻訳文が示されて対話が成立するならば、例文は普通に通用する日本文だと認められることになる。例文が規準からはみ出した文なら翻訳機能が働かないはずだ。文法規準や統語機能が一定の標準枠内に収まることで翻訳機能が働くように設計されるのが通常だと思う。
人間なら話し手が多少言い間違いをしても、聞くほうが人間であれば話し手の意図を察することで文の構造上の欠陥を補って理解しようとする。もし、その理解が話し手の意図と違うなら、そこに気がついた話し手は前の発言を訂正することで聞き手の理解を正すことが出来る。けれども翻訳機の構造は人間とは異なる。ここに課題とされた例文は人間がつくって人間に読ませるための画面に表示された像であって、その実際は日本語の文を細かく分解して電子的に組み上げられた電気信号の羅列にすぎない。普通に通用しない日本語文はこの段階ですでに拒否される信号なのかもしれないし、あるいはその信号を受け入れる側の仕組みにしたがって拒否されるだろう。このように考えると、なにかヘンだと感じられる課題文は拒否されるような翻訳機がのぞましい(?)ことになろう(規制のゆるい翻訳機が意図的に作られる可能性もある)。

言葉は時代とともに少しずつ使われ方が変わってくるにしても、ある時期には一定の枠のような社会的な規範があると考えられる。世代を通じて自然な言い方が伝えられるのだと思う。たまたま目についたのが上に示した翻訳例文であるが、これが一般的な言い方ではないなら翻訳を拒否する翻訳機があってよいと私は考える。翻訳機を利用して言葉のうわついた変化を防げるだろう。ひととき盛んに論議された「ラ抜きことば」もなんとはなしのうちにある方向に収斂していっているように思える。専門家のうちには口の構造、発音構造から見てラ抜きに進むのは合理的という意見もあったらしい。そうであるなら自然のままにおいてよいということだろう。
実は上に紹介したボイストラ(VoiceTra)で日本式の発音で吹き込み実験した方がブログに報告されているのを読んだが、英語話者に近い発音でない場合婉曲に通訳拒否される例が出ていた。http://gengo21.com/archives/3326

この筆者はこのことから翻訳機は言語教育に使えるとされていたが、私も外国人の日本語教育に使えばどうかなと考えている。それどころか作業現場での実地に使えば教科書の代わりになる。むかし、様々な現場に対応できる日本語教育をどうするか頭を悩ましたことを思い出して時代は変わってきたなとの思いが深い。(2018/4)

2018年4月14日土曜日

「みえる電話」のことなど

ある時パソコン上のネットで偶然「みえる電話」という記事を見かけた。NTTドコモが開発したアプリで電話の会話が文字化されて交信できるのだという。難聴のため声は聞こえても言葉の聞き取りがむずかしい私にとって文字通り耳よりの話だ。動画によるサービス紹介とデモンスト―レーションがある。双方の声をほぼリアルタイムで文字化してスマホ画面で見られることと、発声に問題ある人は文字入力してシステムが音声化して相手に伝えることも出来る。
私は知らなかったが2016年からモニターを募集してのトライアルサービスが続いている。「みえる電話」アプリをインストールして使うが、モニターに認定されるとアプリが無料で使える。市中のドコモ店では扱っていない。
 https://www.nttdocomo.co.jp/service/mieru_denwa/index.html

すぐにでも利用したい思いであったが、モニターになるにはドコモと契約があってアンケートに答えるという条件がある。あいにく当方はドコモのスマホは使っていないので契約を切り換えなくてはならない。となると、機器代金の他に2年縛りや番号持ち越しなどでそれなりにお金がかかる。出費は覚悟するとしてそれに見合う利得はどうか。
近頃の私は聞こえが悪いためにおのずから電話を避けている。固定電話にかかってくる用件は妻に一切任せているし、自分の格安スマホで電話をかける機会はめったにない。かつて電話でよくやり取りした相手はもう彼岸に渡ったり、私と話すことを諦めたりして掛けては来ない。よくよくの場合にやむなく電話で話すことはないことはないだろうが、いつのことやら・・・。結局、得失を考えれば、契約の切り換え条件の良い時期を待ってもよかろう。
というわけで、メールでの問い合わせに間を置かず親切に応対説明してくれた運営事務局には感謝するが、ここはひとまず時機待ちとすることにした。

ところで、最近東京オリンピックのおもてなし準備に通訳機としてスマホ(のような機器)がテレビのニュースで紹介されている。日本語を吹き込むと画面に外国語が出る、あるいはその逆。また、ネットでは各国語用の通訳機が宣伝されている。これら商品も交信に音声だけでなく文字化機能がついているようである。ネット上ではかなり前からの機械翻訳が年々機能を向上しているようだ。
稼ぐ仕事、儲ける目的、集客の目標などにはこの種の機器は利益が共有されるから自然に発達する。「みえる電話」もドコモの専売ではなくなる日も遠くなさそうに思えるが、こちらの需要は難聴者や聾者に限られるなら普及は遅いだろう。というのは日本に特徴的な現象として、補聴器でさえ利用者は必要とする人に比べて使用率が低い。補聴器工業会による例示では自分が難聴と考える人は人口の13%程度と欧米と大差はないが、そのうち補聴器を使っている人の割合は11%ほどで欧米の三分の一から四分の一だそうである。理由は、自分の耳に合うように徹底的に調整を繰り返す必要があることを使用者が理解していないこと、それに対して販売側が売りっぱなしに終わっていることが一番の問題だろう。これは使用者の満足度を示す数値でも欧米の80%前後に対して日本では30%程度に留まっていることからでも分かる。機器の値段にしても2、3万円から4、50万円と精度に応じて開きがあるが、公的支援制度も利用価値が感じられないほど低額のうえ固定的で技術の進歩に見合っていない。したがって利用されないから知られていないことにつながっている。だから結論的には補聴器は役に立たないというイメージが一般化している。
このような地盤の上に最近急激に増えている高齢化現象では、75歳以上で急激に難聴者が増えている。難聴になると人は自然に周囲から孤立する傾向が目立ち、極端に言えば補聴器はいらない、一人住まいには耳が聞こえなくても構わないなどと考える状態になる。これも補聴器が普及しない大きな要因になっているだろう。人々はもっと自分の聴力に敏感になってほしいものだ。
値段が高いから普及しないという説もあるけれど、メガネを誂えるよりも抵抗が大きいのはなぜだろうか。20歳すぎれば人の聴力は落ち始めるといわれる。老眼に気が付かないでいて眼鏡屋さんにちょっとこれかけてみてと云われて、見え方の違いにびっくりするのが普通であるが、耳の場合も補聴器を試してみてやはり驚くのである。会話に不自由なくらい聞こえが悪くなれば補聴器の助けを借りるほうが身体のためにも合理的である。背後や左右に対する感覚を保つことは身の安全に通じる。健常者は耳の存在を普段意識しないのだろうと聞こえが悪くなった今ごろになって気がついた。
「みえる電話」の需要が大きくなるよう願っている。(2018/4)

2018年4月2日月曜日

読書ノート ハヴェル元チェコ大統領の演説

堀田善衛に「チェコスロヴァキア大統領ヴァツラフ・ハーヴェル氏のアメリカ議会における演説」と題するエッセイがある。1990年2月22日号のワシントン・ポスト紙からの引用で演説の一部を紹介している。ハヴェル(以下多数例にしたがってハヴェルと書く)氏は連邦制チェコスロヴァキア最後の大統領であり、スロヴァキア分離後最初のチェコ大統領である。かなり長い演説であったらしいが、その中で教えられることの多い表現が目に止まったので孫引きになるが書き留めておくことにした。

主として民主主義について、「民衆が民衆である限りにおいて、民主主義は、その言葉の全的な意味では、つねに理念以外の何物でもない。良かれ悪しかれ、人は地平線に近づいていくのと同じで、決して全的にその理念に到達することはありえない。この意味において、あなた方もまた、単に民主主義に近づきつつあるのである。他の諸国と同じように、幾千の難題をもっている。けれども、あなた方は、一つの大いなる利点を持っている。あなた方は、二百年以上もの間、途絶えることなく民主主義に近づきつつあるのであり、その地平線に対する旅は、全体主義的制度によって中断されたことは、決してなかった。」
カッコ内がハヴェル氏の発言である。民主主義の国と言われるアメリカに向かってのこの発言、堀田さんは大胆不敵な言い方と書く。

そして、アメリカにあっても、日本にあっても、政治家というものが、何かしら鈍重かつ鈍感なものになって来ていて、民主主義を既成のもの、と見做している傾きがある。かつて産軍協同体という言い方があったが、それが今日では、とくに日本では、政産協同体とも言うべき、金権体質がとりわけて目立ち、彼らの精神が摩耗しているのではないかと思われてきているとき、かくのごとく劇作家・大統領のハヴェル氏に言われなければならないとは情けない話だと感想を述べている。日本の事情は18年後の今日でも変わりないし、政治家だけでなく国民一般に同じ傾向が広まりつつあるようにみえる。

この演説は、彼らが私を最後に逮捕したのは昨年10月27日のことで、…という言い方で始まっている。その2ヶ月後に大統領になり、さらに2ヶ月後にはもうアメリカでこの演説をしているのである。この時代、筆者は私事にかまけてあの激動のヨーロッパを横目に眺めるだけであったために、チェコスロヴァキア大統領の運命の数奇な転変については、当時のソ連及び東欧圏の情勢とともに無知である。この人は逮捕された経験に「最後に」と付け加えるほど反体制運動のために幾度となく逮捕投獄されて体を壊した。
劇作家であって本来の政治家ではない。大統領学校に行ったことはないとユーモラスにいうけれど、そのシロウト大統領の民主主義についての発言である。どこまで追いかけていっても民主主義というものは形として存在しない、それは理念にすぎないのだから、というのは非常にわかりやすい。なにか事にかまけて、それは民主主義の破壊だとかよくいわれるが、どれだけの理解の上での発言だろうか。政党名に民主とつくことが内外ともに多いけれど、民主は政治の言葉であるよりは哲学の言葉であるだろう。

ハヴェル氏は当時の環境の急速な変化について、それは政治的側面よりも私に親近な哲学的側面であると付け加えた上で、この民主主義についての発言をしている。堀田さんが政治の体質が金権優先になっていることを非難するのも哲学的側面を忘れ去っていると指摘しているのだとみた。「民衆が民衆である限り」という前置きは、民衆は動物ではなく人間であることを指しているのだろう。人間は考えるのだ。
同じ演説の他の部分で、「意識は存在に先んずる」という命題を圧政体験から学んだことして次のようにいう。人々に「私の家族、私の国家、私の会社、私の成功如何」を超える責任感がない限り、環境、人口、文明の破壊を避けられない、かつ「かの膨大な核兵器の愚劣な山積み」がある限り、われわれは勝利したとは言えない、「事実、われわれは最後の勝利からは、はるかに遠いところにいるのである。」「別の言葉でいえば、われわれは道徳性を、政治、科学、経済に先行するものとするすべを、未だに知らないのである。」とハヴェル氏は言っている。これを私は公共性と道徳の問題と理解するが、こんにち日本の政治で学校教科として声高に云われている道徳とは次元が違うだろう。学校で言うのは社会秩序を乱さないように教え込む内容を指し統治者の意思の反映だろうが、ハヴェル氏の言う「道徳性」の内容は西洋の理念に基づく「何か」であるはずだ。

ワシントン・ポスト紙記載のハヴェル氏の表現をせっかく堀田善衛氏が翻訳してくれたのではあるけれど、どうも日本語になってみると漢字やら儒教思想が邪魔して本来西洋語で言われるところと意味が変わっている様子が感じられてならない。言葉だけではなく現実も戦後期から現在までの間に日本が民主主義のお手本とさせられてきたアメリカが見せてくれた様相はハヴェル氏が言うよりさらに遠いところに行った気がするし、世界全体も混沌に逆戻りの様相を見せている。不穏な時代が来ていることは間違いない。日本は技術大国を目指すとかいっても頼りにしようとするAIには理念や倫理的な思考は関係ない。いずれにしろ「意識は存在に先んずる」のであるから、思考し正確に認識する人間の中にしか希望はない。ハヴェル氏も堀田さんも表現はむずかしいが説得力がある。
堀田善衞氏の上記エッセイ執筆は1990年5月。『時空の端ッコ』ちくま文庫 1998年所収。       (2018/4)