堀田善衛に「チェコスロヴァキア大統領ヴァツラフ・ハーヴェル氏のアメリカ議会における演説」と題するエッセイがある。1990年2月22日号のワシントン・ポスト紙からの引用で演説の一部を紹介している。ハヴェル(以下多数例にしたがってハヴェルと書く)氏は連邦制チェコスロヴァキア最後の大統領であり、スロヴァキア分離後最初のチェコ大統領である。かなり長い演説であったらしいが、その中で教えられることの多い表現が目に止まったので孫引きになるが書き留めておくことにした。
主として民主主義について、「民衆が民衆である限りにおいて、民主主義は、その言葉の全的な意味では、つねに理念以外の何物でもない。良かれ悪しかれ、人は地平線に近づいていくのと同じで、決して全的にその理念に到達することはありえない。この意味において、あなた方もまた、単に民主主義に近づきつつあるのである。他の諸国と同じように、幾千の難題をもっている。けれども、あなた方は、一つの大いなる利点を持っている。あなた方は、二百年以上もの間、途絶えることなく民主主義に近づきつつあるのであり、その地平線に対する旅は、全体主義的制度によって中断されたことは、決してなかった。」
カッコ内がハヴェル氏の発言である。民主主義の国と言われるアメリカに向かってのこの発言、堀田さんは大胆不敵な言い方と書く。
そして、アメリカにあっても、日本にあっても、政治家というものが、何かしら鈍重かつ鈍感なものになって来ていて、民主主義を既成のもの、と見做している傾きがある。かつて産軍協同体という言い方があったが、それが今日では、とくに日本では、政産協同体とも言うべき、金権体質がとりわけて目立ち、彼らの精神が摩耗しているのではないかと思われてきているとき、かくのごとく劇作家・大統領のハヴェル氏に言われなければならないとは情けない話だと感想を述べている。日本の事情は18年後の今日でも変わりないし、政治家だけでなく国民一般に同じ傾向が広まりつつあるようにみえる。
この演説は、彼らが私を最後に逮捕したのは昨年10月27日のことで、…という言い方で始まっている。その2ヶ月後に大統領になり、さらに2ヶ月後にはもうアメリカでこの演説をしているのである。この時代、筆者は私事にかまけてあの激動のヨーロッパを横目に眺めるだけであったために、チェコスロヴァキア大統領の運命の数奇な転変については、当時のソ連及び東欧圏の情勢とともに無知である。この人は逮捕された経験に「最後に」と付け加えるほど反体制運動のために幾度となく逮捕投獄されて体を壊した。
劇作家であって本来の政治家ではない。大統領学校に行ったことはないとユーモラスにいうけれど、そのシロウト大統領の民主主義についての発言である。どこまで追いかけていっても民主主義というものは形として存在しない、それは理念にすぎないのだから、というのは非常にわかりやすい。なにか事にかまけて、それは民主主義の破壊だとかよくいわれるが、どれだけの理解の上での発言だろうか。政党名に民主とつくことが内外ともに多いけれど、民主は政治の言葉であるよりは哲学の言葉であるだろう。
ハヴェル氏は当時の環境の急速な変化について、それは政治的側面よりも私に親近な哲学的側面であると付け加えた上で、この民主主義についての発言をしている。堀田さんが政治の体質が金権優先になっていることを非難するのも哲学的側面を忘れ去っていると指摘しているのだとみた。「民衆が民衆である限り」という前置きは、民衆は動物ではなく人間であることを指しているのだろう。人間は考えるのだ。
同じ演説の他の部分で、「意識は存在に先んずる」という命題を圧政体験から学んだことして次のようにいう。人々に「私の家族、私の国家、私の会社、私の成功如何」を超える責任感がない限り、環境、人口、文明の破壊を避けられない、かつ「かの膨大な核兵器の愚劣な山積み」がある限り、われわれは勝利したとは言えない、「事実、われわれは最後の勝利からは、はるかに遠いところにいるのである。」「別の言葉でいえば、われわれは道徳性を、政治、科学、経済に先行するものとするすべを、未だに知らないのである。」とハヴェル氏は言っている。これを私は公共性と道徳の問題と理解するが、こんにち日本の政治で学校教科として声高に云われている道徳とは次元が違うだろう。学校で言うのは社会秩序を乱さないように教え込む内容を指し統治者の意思の反映だろうが、ハヴェル氏の言う「道徳性」の内容は西洋の理念に基づく「何か」であるはずだ。
ワシントン・ポスト紙記載のハヴェル氏の表現をせっかく堀田善衛氏が翻訳してくれたのではあるけれど、どうも日本語になってみると漢字やら儒教思想が邪魔して本来西洋語で言われるところと意味が変わっている様子が感じられてならない。言葉だけではなく現実も戦後期から現在までの間に日本が民主主義のお手本とさせられてきたアメリカが見せてくれた様相はハヴェル氏が言うよりさらに遠いところに行った気がするし、世界全体も混沌に逆戻りの様相を見せている。不穏な時代が来ていることは間違いない。日本は技術大国を目指すとかいっても頼りにしようとするAIには理念や倫理的な思考は関係ない。いずれにしろ「意識は存在に先んずる」のであるから、思考し正確に認識する人間の中にしか希望はない。ハヴェル氏も堀田さんも表現はむずかしいが説得力がある。
堀田善衞氏の上記エッセイ執筆は1990年5月。『時空の端ッコ』ちくま文庫 1998年所収。 (2018/4)