2017年12月30日土曜日

スピーチバナナ——「聞こえ」について・難聴と認知症

スピーチバナナは知らなかった。聞こえの話だ。人が話すときの音声を聴力検査の図に当てはめるとバナナに似た形に表現される。次の図が一つのモデルだ。
シニア安心相談室のサイトから
図の黄色の部分が人の音声の範囲を示す、つまりスピーチバナナだ。縦軸は音の強弱をデシベル(db)で表し、上に行くほど弱くなる。横軸は音の高低を周波数ヘルツ(Hz)で表す。右のほうが高い。日本語の場合はアイウエオ(母音)が低音、サ行音や若い女性の声が高音になる。

図のピンクの部分が難聴者一般の傾向を表しているが、高い音が聞こえにくいことが示されている。

この図では黄色部分に含まれない音に対する聞こえ具合も示されている。犬が吠える音や大きな歌声の絵がある。比較的に低くて強い音だ。鳥の声などは高くて弱い、つまり耳の遠い人には聞こえにくい。人の声以外は自然音、あるいは話の邪魔になるのは雑音と呼ばれる。
先日補聴器センターで聴力を測ってもらったが、左右ほとんど同じで見事に黄色部分から外れる結果であった。補聴器は聞こえない音を補強してくれる装置だ。人間の耳は実をいうと体外の音を脳に伝える役目をするだけで、音を認識するのは脳であって耳ではない。聞こえにくい現象は耳の細胞が不調になるために起こる。鼓膜の奥にある有毛細胞の毛がなくなると音が受け入れられなくなる。年齢とともに高音部を受け持つ毛から消えてゆき、再生はしない。補聴器は耳が受け止めない音を拾うための集音と拡声の役目をする。つまり小さな声と高い声を大きく聞こえるようにする機能がある。人間の脳は雑音の中での会話であっても必要な話声を認識する機能があるが、補聴器はあらゆる音を拾って拡大するだけだ。そのため聞こえない声を聴く目的の補聴器であっても、不要な音も同時に大きくなって耳に入る。本人にとってはうるさいだけで役に立たない。向かい合っている人との会話も周りの人がしゃべっている声も、全部一緒に耳に入ってくる。何が何だかどの人の声も雑音に変わって苛立つばかりになってしまう。この点はまだ技術ができていない。相当改善できた補聴器もあるようだがまだ値段が一般的でない。両耳で百万円と聞いている。それでいてまだ十分ではないはずだ。今のところ難聴者はまめに補聴器を整備してもらうことと、話しかける健聴者の協力に頼るしかない。
そうはいっても補聴器なしで聞こえないのを我慢しながら日常を過ごすのは、ストレスにもなるし、人と話をしなくなることから脳のコミュニケーション機能が衰えてくる。つまりこれは認知症の始まりである。脳の活性を保つことが認知症の予防になる。体全体の血流をよくすれば脳の血流もよくなるから、運動が認知症予防に推奨される。そのことと脳のコミュニケーション能力を維持することとは別物だろうと考える。ただ黙々と筋トレや体操をするだけでは足りないと思われる。人との交流と会話がいちばん、文字を書いたり料理をしたりするのもよい。孤独死に高齢男性の一人暮らしが非常に多いのは当然の結果を示しているのであろうし、その手前に認知症がある。聞こえが悪くなるのは、その程度と年齢が人さまざまであるから一概に言えない。はやいうちから聞こえの問題に敏感になることと、耳を大切に使う心掛けが必要だ。ヘッドフォンは快適ではあるが大音量は絶対にいけないし、長時間の使用も細胞の損耗につながる。耳が悪くなって、はじめていかに世間の人たちが聞こえに関する知識がないか痛切に感じている。(2017/12)

2017年12月28日木曜日

ギュンター・グラスは古~いジャズがお好き

『玉ねぎの皮をむきながら』を読んでいる。前半生の自伝、2015年に88歳で亡くなっている作家が2006年に上梓した。訳者の依岡氏によれば、1959年までの自分について書いてあるそうだ。であれば、それは『ブリキの太鼓』刊行がその年にあたる。作家と書いたがこの人の人物像は一様でない。たとえば、wikipediaにはドイツの戦車兵、小説家、劇作家、版画家、彫刻家、と並べてあって1999年にノーベル文学賞受賞とある。小説を書く以前、早くから詩を書いていた。身過ぎ世過ぎの手段としていろいろな仕事を経験している。いつも貧乏暮らしで社会の低層にあった。
著者自筆4ページ見開きより

途中まで読んだ限りでは、決して自分の自由にならない暮らしにありながら自由に生きた人という感じがする。つまり自分に正直な人だ。
相変わらず、というのは先に『蟹の横歩き』を読んでその作文法の奔放な緻密さに、普通なら辟易という言葉が出るところが、そうではなく面白く読めた。半生の間に出逢った様々な人間が後々の作品の中に姿を変えて出ているらしいことを知れば、この自伝を先に読むのは惜しむべき失敗だったかもしれない。読みさしであるが、ここにこの文章を書いておこうと思ったのはわたしにとってうれしい場面に出くわしたからだ。

「ラグタイムとブルースへの飽くなき喜びゆえに」友人とジャズバンドのトリオを結成した。いろいろな楽器を鳴らすフルート吹きのホルスト・ゲルトマッハー、ギタリストでバンジョー奏者のギュンター・ショル。そして、「私には打楽器として、初期のジャズ時代(ニュー・オーリンズ!)以来使用されてきてお馴染みのウォッシュボードが割り当てられた。その波打つブリキの楽器から、指貫をした八本指でリズムを叩き出した」

この個所を書いているときグラスは楽しくて仕方なかったと想像できる、それがニュー・オーリンズ!とビックリマークが付いた理由だろう。このとき彼らはデュッセルドルフの国立美術アカデミーの学生だった。頃はたぶん1947年。ほかの二人は絵描きだが、グラスは彫刻の修行中だった。ハンガリー風を気取った雰囲気の「チコス」というレストラン、二階家でウナギの寝床のように細長い旧市街、そこの階段下がステージだ。週に3回、夜中まで成金の聴衆相手に演奏してヘトヘト、食事はただで、給料はまあまあ、終わってから腹いっぱい食べたというグーラシュ…と書いているがうまそうだなぁ、あれはうまい。それはともかく、彼らは遅い時間帯になるころ、有名人の訪問を受けたのだ。


 数週間前から売り切れだった、大観衆を前にしてのジャム・セッションの後、我々の往年のアイドルが、お供を連れて、「チコス」にやってきた。テーブル四つ、五つ分くらいへだてた後ろの方で彼は私たちのジャズのレパートリーを聞いていたが、ゲルトマッハーのフルートの甲高く噴火する音が気に入ったらしい。たしかにそのサウンドは並外れていた。
 その著名なゲストは、後で聞いたのだが、タクシーで自分のトランペットをホテルから取ってこさせて、突然、まごうことなく我々のいる階段下を見て、(今や私も彼の姿が見える)唇に楽器をあて、酒場でキーキーという雑音のなかで安い報酬で演奏している私たちのところに、トランペットをまるでシグナルを鳴らすように明るく吹きながら上がってきて、フルートちゃんの荒々しいフルートの切れ切れの音を捉え、目をぐるぐる回してソロ演奏した。それに我らがソリストであるゲルトマッハーが今度はアルトフルートで応え、管楽器と木管楽器の二重奏をやったが、それはまさしく、我々が熱狂的に買い求めたレコードで、ラジオで、光沢付き白黒写真で知っているあのサッチモ(訳注:ルイ・アームストロングの愛称)だったのだ。今や彼はトランペットの音を弱音機で弱めて引き下がり、自分のサウンドを、永遠にも感じられる短時間に、ふたたび私たちの合奏に結びつけ、私と私の指貫に別のリズムを演奏させてくれたかと思うと、ショルのバンジョーを励まし、観客の歓声を煽り我々の「マネーメーカー」(訳注;ゲルトマッハーの英訳)がその綱渡りを、今度はピッコロフルートでやり終えるや、お馴染みのトランペットの叫びを響かせながら私たちから離れていき、ひとりひとりに優しく、いくらかおじさんぽくうなずいて去っていった。

フルートちゃんと呼ばれていたゲルトマッハーは音楽家でもあって、かなりの編曲の技を持っていたらしい。ドイツ人が古くから歌っている民謡をアレンジして演奏するのが常だったようで、この時も「あっさりと、短いメロディーを響かせてからドイツの民謡を、遠い地を目指していく移民のように、アラバマへ移住させることに成功した」見事にサッチモの耳を捉えたわけだ。「大胆に、しかし、夢見るような確かさで、このカルテットは息を合わせた。たしかに、私たちは五分ないし七分のごく短いあいだだけ、四人で演奏したのだが(幸福がそれ以上続くことがあるのだろうか?)、フラッシュ写真一枚残っていないこのハプニングのことはいまだに耳に残り、目に浮かぶようである」グラスはこの場面を回想しながら自分たちのこれ以上ない最高の名誉として綴っている。奥泉光はこれはほんとうだろうかという。回想には嘘が入るという考えを披瀝しながら、虚構でないかと書くが。

残念ながらこの書物の翻訳はあまり上等ではないように思える。ドイツ語は分からないけれどもグラスという書き手は豊かな語彙とひねりのきいた言い回しで原文を綴っているのだろうと想像する。ま、文章のことは措くとして、飛び入りで演奏してくれたサッチモの演奏を、グラスは「トランペット・ゴールド」と評しているようであるけれども、そのことがうまく読者に伝わらない。おそらく彼自身はいま思い出してもウキウキしてくるのではないだろうか、もう彼はいないけれど。

代わりに私がウキウキした。この場面を読んでしばらく想いにふけっているとイントロがひとつ頭に浮かんだ。West End Blues 、1928年の曲だ。音源を全部処分してしまったからyoutubeで聴いた。いまのわたしにはホントの音は聞こえない、半分は脳の記憶で聴いている。でも感激した。ギュンター・グラスを読んでこんな音楽を聴くことになろうとは予想していなかった。


彼らのハプニングのあったレストラン、彼らの演奏がない日には「コントラバスも持っているシンバル奏者のロマが息子連れで出演していた」そうであるが、どんな音楽を聞かせたのだろう。東欧を旅行すると、いまでもロマの演奏に出逢うし、休日のプラハのカレル橋では町内の中年四人組が「ハロー・ドーリー」をやっていた。これはわたしの勝手な思い出だが、グラスの世界は時代が違っても庶民がいるという実感がする。

最終章にまたもや懐かしいモノがでてきた。タイプライター、オリヴェッティのレッテラ。シンガポールで駐在員をしていた時、街を歩いていて見つけて買った。ブルーグレイのボディ、そうだ、グラスが書いているのと同じだ。もっともこちらは文学作品ではなく、面白くもない仕事の通信文。まだテレックスがホテルにしかなくて、原稿をたたいては持っていった。90年代の終わり、リボンが販売されなくなったころ、グラスは知人が新品を一パック送ってくれた。こっちは買い置きもなく、時代はワープロからコンピュータへ移りつつあったから、わがレッテラはむなしく押し入れで眠っていた。グラスは最後まで高机で『はてしなき荒野』とか『私の一世紀』をたたき出したろう。彼は塑像制作の延長でいつも高机で立って仕事をした。


負傷してアメリカ軍の捕虜収容所に入れられ、命は助かったが飢餓に襲われた。生きてゆくだけは食わせてくれるが、一日850キロカロリー、体重は50キロに減ったそうだ。これはモーゲンソー・プランの実践にふさわしいとあった。はて、なんだこのプランは。
アメリカのユダヤ人政治家発案の懲罰的ドイツ占領政策だそうだが、これはネットで得た知識。知らなかったなぁ。結局はこのモーゲンソー政策は全ヨーロッパを共産主義に渡しかねないとの反省から47年に修正された。グラスのこの体験は、のちに難民政策議論に活かされたそうだ。

17歳のナチ戦車兵、戦後60年経ってのこの自伝で、初めてそういう経歴が明かされて非難ごうごうだったというが、少年時代に国を思う至誠の情熱は、軍艦やらなにやらのカッコよさに惹かれて燃え上がるのが万国共通かもしれない。
グラスが収容所で聴いた「最新の流行歌、リリー・マルレーン」の元歌をはじめに歌ったドイツの歌手、ララ・アンデルセンは、ナチスが14歳まで徴兵年齢を引き下げようとしたとき、まさに14歳のわが子をはるか北海の島に逃がしたと読んだことがある。かくいうわたしとても昭和20年は12歳、翌年には中学2年生で鉄砲磨きでもさせられたはずだ。原子爆弾は悪だが、他方で救われた命のあるのも事実だ。ひとごとではない。
グラスは人生の一コマでそういう巡りあわせになったが、幸い生きのびた。戦後、アメリカや東西ドイツの政治のすることを黙ってみていたわけではない。すべて人はその一生の丸ごとを見るべきだろう。大江健三郎の、グラスの文学丸ごとを信じるとの意見に賛成だ。それはそれとして、この自伝には事実が述べられている。事実の経過は面白い物語になるし、歴史が語られる。訳者は解説でゆっくり読もうと提唱している。ぜひもう一度読み直そう、知らないことがいっぱいあるから、ゆっくり読もう。
ギュンター・グラス『玉ねぎの皮をむきながら(2006年)』依岡隆児 訳 集英社2008年 (2017/12)


 

2017年12月14日木曜日

ギュンター・グラス『蟹の横歩き』池内 紀訳 集英社(2003)

本書には「ヴィルヘルム・グストロフ号事件」という副題がついている。訳者解説によれば、原書には副題はないそうだ。ドイツ語の表題は『蟹の横歩きで』と「で」がついているという。このノーベル賞作家は寛大で、訳書に「で」は省いてもよいし、それで読者がつかなそうなら、然るべき添え書きをつけたらいいだろうと助言してくれたという。はて、それではドイツでは副題がなくても読者がつくのだろうか。これがわからない。なにか諺でもあるのだろうか。
ヴィルヘルム・グストロフ号はドイツの客船の名である。1938年竣工、2万5千トンほどで周遊クルーズを目的に作られた。ナチス党員の拡大を目的に乗客定員1500名足らずに広い娯楽設備用の空間が大きいつくりだ。1945年、東部戦線が崩壊してソ連軍の猛追に押し出されるようにして西へ向かうドイツ人避難民がゴーテン・ハーフェン港(いまのポーランド、グディニヤ)に殺到した。ドイツ政府はありとあらゆる船舶を動員して軍民の輸送に追われていた。1月30日、本船には1万人以上が乗船したと伝えられているが確かなことはわからない。乗船名簿を書き入れる用紙が6千6百名でなくなったからだ。悪天候をついてキールに向けて出港した夜、ソ連潜水艦の魚雷3本に沈められた。気温マイナス18度のバルト海でおよそ9千人が死亡した。女子供が7千人ほどを占めた。男たちは戦闘要員として乗船を拒否されていたのだ。奇跡的に降ろされた救命ボートに臨月の妊婦が混じっていた。3発めの魚雷で陣痛が起こり、駆逐艦に移乗されたあと暗闇の手探り状態で無事出産した。これは実話であって、生まれた男の子がこの物語の語り手になっている。その母が主人公でさらに孫が登場してくる。

遭難者の多いことでは海難史上まれに見る事件であったが報道はされなかったようだ。戦後になっても伏せられていた。東西に分割されたドイツのいずれの側でも人は口をつぐんでいた。西ではナチスの悪行が断罪され、東ではソ連は友好国だった。ドイツ人が自分たちの悲劇を被害者面して訴えられる空気ではなかったということだろうか。ギュンター・グラスは本書の見返しに「忘レヌタメニ」と掲げている。


乗組員の生き残りにハインツ・シェーンという人がいる。小説にしばしば登場する。1926年生まれ、18歳で会計係助手として乗り組んだ。その後の人生をあげて事件の究明にかけてきたと訳者は書く。この人のお陰で悲劇の真相がわかりはじめ、ほぼ事実と思われる姿がとどめられることになった。上記の出産に立ち会った船医リヒターの証言も収録されている著書があるそうだが、日本語訳がないためだろうか本書には紹介されていない。Wikipediaに記載のハインツ・シェーン(著)、 Die Gustloff Katastrophe, Motorbuch Verlag, Stuttgart, 2002 がそれと思われる。

船の名になった人物、ヴィルヘルム・グストロフ氏がいた。スイスはダヴォスでナチ指導員として活動していた。1850年北ドイツはシュヴェリーン生まれ。中学を卒業して保険会社の勤勉な社員だった。喉頭炎と肺を病んでいたため1917年、会社はダヴォスに送った。高地ダヴォスは世に名高い療養地、やがて首尾よく癒えて後も彼はシュヴェリーンに戻らず天文台の事務員として働く。副業に家財保険のセールスをしてスイスを隅々まで知ることができた。持って生まれた組織能力が芽を出しはじめた。ナチ党に入って1936年までにドイツ人、オーストリア人より5千人の党員を獲得した。組織担当のナチス幹部グレーゴール・シュトレッサーが指導者に任命した。

1936年2月4日、グストロフ氏は若者の訪問を受けた。氏が廊下で電話中だったので夫人が書斎に通した。若者は外套を着たまま椅子にすわり、帽子を膝にのせ書き物机を眺めていた。やがて主人が入ってきた。がっしりとして健康そうだった。数年来かつての結核の気配もない。私服だった。客に向かって進んだ。客は腰を上げず、外套のポケットからピストルを取り出すやいなや、座ったまま撃った。胸と首と頭。狙ったとおり4発を命中させた。相手は額入りの総統の肖像の前で声も上げずに崩れた。
若者は帽子をかぶり犯行現場を離れた。電話ボックスから電話をして、犯人だと名乗り出た。近くに駐在所を見つけ自首して出た。

若者の名はダヴィト・フランクフルター、1909年セルビアの町ダルヴァルに生まれた。父はユダヤ教のラビ(教父)、家ではヘブライ語とドイツ語を話し、学校でセルビア語を身につけた。毎日のようにユダヤ憎悪にさらされていた。生まれも虚弱、骨髄を病んで五度の手術でもよくならない。医学を志してドイツで勉強を始めたが、病身のためか成績が上がらない。生計は父親の財布、自身は洒落者気取りでヘビースモーカーだった。フランクフルトでユダヤ人作家の書物が焼かれ、実験室の机にユダヤの星が描かれる。アーリア人種を誇る学生から罵られる。スイスへ逃れ、ベルンで勉学を続けたが母が死んで勉学は中断する。親戚に手づるを求めたベルリンでも迫害された。こういったことはユダヤ人作家エミール・ルートヴィヒ『ダヴォスの殺人』に語られている。1935年の終わりごろ自殺を考えるようになった。のちの裁判に提出された弁護側の鑑定書がある。「被告はその本性にともなう精神的理由から情緒不安定な状態に陥り、ついには自らを解放せんとした。うつ状態が自殺願望を誘導。しかるに各人に内在する自己保存本能が働いて、銃弾をわが身より他の犠牲者へそらしたものと考えられる」。法定はスイス東部の町クールで開かれた。最終的な言い渡しは18年の刑と、そののち国外退去。戦後に彼は恩赦を申請し容れられてパレスチナに向かい、イスラエルの国防省に勤務した。慢性とされていた骨の病気は獄中にいる間に完全に治っていた。結婚し、やがて二人の子供ができたという。

ナチ指導員がユダヤ人に殺された。ナチスは大々的なキャンペーンを行った。ダヴォスではプロテスタントの教会で簡素な葬儀が催された。スイス各州から200名ほどの党員が参列した。第三帝国の全ての放送局が中継した。しかし、ダヴィト・フランクフルターの名は一言も言及されなかった。つねに「ユダヤ人暗殺者」だった。棺のための特別列車が用意され、第三帝国内の各駅に臨時に停車し、各管区指導者と党の名誉評議員らが礼を捧げた。シュヴェリーンでは雲の上からの司令で遺骸が運ばれてくると同時に華やかな行事が繰り広げられて人々の記憶に刻みつけられた。ヴィルヘルム・グストロフはメクレンブルクでは殆ど知られていなかった党員だったが、死とともに得難い人物に祭り上げられた。シュヴェリーン湖の南岸に御影石に楔形文字で名前が刻まれた記念碑が建てられた。

折しもハンブルグのブローム&ヴォス造船ではドイツ労働戦線とその下部組織「歓喜力行団(KdF)」より発注された豪華客船が建造中であった。新しい客船は進水にあたり総統の名をいただくはずであった。その総統はスイスで暗殺された党員の追悼式に夫をなくした夫人と並んで列席した際、一つの決断をした。計画中のKdF船を殉教者にちなんで命名する。ひきつづき火葬のあとには、全ドイツの広場や通りや学校に同じ名がつけられた。
KdF歓喜力行団については、すべての労働組合を単一の労働戦線に組織し直した実力者ローベルト・ライが進水式の演説でその理念と発案者総統が命じたことを伝えた。「ドイツの労働者が健やかにいられるように面倒をみてくれ給え。労働休暇に配慮してもらいたい。自分は好むところのことをなせるし、させることができる。しかし、ドイツの労働者が健やかでなければ、何の意味もない。ドイツの民衆、ドイツの労働者は、わが思想を理解するために、十分に強靭でなければならぬ」
1937年5月5日、進水台の上でヒトラーは寡婦と対面した。1923年のミュンヘン一揆が失敗したころ、寡婦ヘトヴィヒ・グストロフはヒトラーの秘書をしていた。ヒトラーが監獄に収容されているあいだに、彼女はスイスで職探しをして夫を見つけた。
寡婦グストロフが船に呼びかけて式典を締めくくった。「ここにおまえをヴィルヘルム・グストロフと命名します」

物語の作者はトリオを形成するもう一人の人物を呼び出す。アレキサンドル・マリネスコ。1913年、オデッサの生まれ。進水式のシャンパンの瓶が打ち割られているころ、マリネスコはレニングラードもしくは主要都市で司令官訓練を受けている最中だった。命令を受け、黒海からバルト海東部に配置換えになった。その夏バルチック艦隊の幕僚部にもスターリンによる粛清の嵐が吹きすさぶなか、潜水艦司令官に任じられた。M96号。やや古い船体、沿岸警備と攻撃用。250トン、長さ45メートル、乗務員18名の小型潜水艦。長らくフィンランド湾に投入され、2隻の水雷艇をそなえた船団の司令官だった。繰り返し沿岸海域で浮上攻撃と急速潜水の訓練に明け暮れていたはずだ。酒好きで陸にあるときは酔っ払っていた。43年ごろか、新しい潜水艦S13号の艦長になった。水雷を10発搭載していた。
1944年12月末までS13号はドックに入っていた。修復が終りすべての準備がととのって出港して戦闘につくはずのところ司令官がいなかった。酒と女のせいで任務に復帰するのが遅れた。1月3日シラフに戻って出頭したがスパイ嫌疑をかけられた。ソ連における粛清の大義名分である。救いの道は大手柄しかない。一等船長の努力で戦時法定開催は引きのばされ、乗組員の恩赦請願もきいたのか、なんとか海に送り出された。海に出ると勤勉だった艦長は2週間獲物と出会わなかった。手ぶらで帰還することを想像して背筋が寒かったはずだ。近隣の港口を監視していたS13号は30日早朝にポンメルン海岸にコースを変えた。やがて艦は遠くの標識灯に気付いた。マリネスコは直ちに見張りの塔に入った。追尾した。大物だ。4発の水雷が発射台に据えられた。ドイツ時間で21時4分、命令がくだされ3発が発射された。マリネスコにしてみれば名の知れぬ船だった。次々に命中した。
ドイツ側では救助に当たった駆逐艦「獅子号」が31日早朝コルベルク港に着いた。避難者で混雑している港では生存者がどこから来たか誰も知らなかった。かつて人気の的だった船の沈没は秘密にされた。士気に差し支える。噂だけが広まっていた。

アレクサンドル・マリネスコ艦長はグストロフ号のあと蒸気船シュトベイン提督号1万5千トンを沈めた。避難民千人と負傷兵2千人、上部デッキに並べられた寝台から重傷者が、船が傾いた途端、次々に海に落ちていった。生存者は約3百人。二隻目の手柄だ。
ソ連軍司令部には、潜水艦S13号と艦長の大手柄を赤旗艦隊の報告に公表しない理由があった。基地に帰ってきた艦長と乗組員は恒例の祝賀の宴を虚しく待ち続けた。上司は差し止めになっている裁判を危惧しながらも部下の叙勲を申請した。S13号には赤旗艦隊旗が授けられ、乗組員全員に祖国防衛勲章、星とハンマーと鎌をあしらった赤旗勲章が授与された。しかし、マリネスコ艦長は「ソ連邦英雄」の称号を拒まれた。バルチック艦隊の公式記録にはヴィルヘルム・グストロフ号もシュトベイン提督号も撃沈されたことが記載されていない。計1万2千にも及ぶ死者たちは数に入っていない。幻になってしまった。
マリネスコは誰はばからず自分の大手柄を公言して執拗に訴え続けた。しだいに海軍の厄介者になっていった。1945年9月、司令部はマリネスコを潜水艦勤務から解き、大佐に降格、翌月ソ連海軍から罷免した。勤務に誠実を欠き、極めて投げやりで云々。職を失った彼はやがて誰かにはめられたかのようにして告発され3年の重労働でシベリアに送られた。強制収容所での日常記録が残っているそうだ。スターリンの死後2年してようやく帰還した。1960年代に名誉回復、再び第三等艦長の位階に定められて、軍人恩給付きの年金生活者になった。

ここまで事件の名にかかわる三人の物語を述べてきた。数奇な運命はそのまま歴史になる。多くのことを省略したほんの概略でしかないのだが、作者はもっと詳しく細部を語りながら、それらを全体の中に細かく散りばめている。わたしはそれをここにまとめ直すまで随分時間がかかったが、結末に向けてはまるで映画作りのような気分でもあった。だが物語はこれからなのだ。小説の主人公は沈没した船から助け出されて、子供を産んだ女性ウルズラ・ポクリーフケ、愛称トゥラである。奇跡のように災厄の夜に生まれた赤ん坊パウルが語り手として母を語ろうとするのだけれども、うまく言葉が出ない。職業は大きくいえばジャーナリストだが実は文才の乏しい三文記者。母の周囲のどの男性が父親だかわからないまま、母子家庭のようにして東ドイツに育った。この母たる人物は一本気にして頑なといえばかっこよく聞こえるが、ちゃらんぽらんでもある。スターリン時世下にあって指物師の産業戦士で幅を利かす。結構長生きして東ドイツで年金暮らし、余裕のある生活をするようになる。パウルと離婚した妻との間にできた息子コニーことコンラートがおばあちゃんに可愛がられて運命の夜の出来事に詳しくなってゆく。

息子の時代は、もはやインターネットが世論形成に力を持つ。ソ連とドイツ、スターリンとヒトラー、共産主義とファシズム。ダヴォスの殺人事件はナチ党評議員のヴォルフガング・ディーヴェルゲによれば「卑劣きわまる殺害」であるが、ユダヤ人作家エミール・ルートヴィヒでは旧約聖書の「巨人ゴリアテに対する少年ダヴィデの闘い」と評された。このまるきり対蹠的な評価がデジタル化の進んだ現代にも続いている。パウルが母から聞かされて育ったヴィルヘルム・グストロフ事件がいつの間にやらインターネットでネオナチとユダヤ主義の間で大議論になっている。あるときそれが、わが子が一方の発信者ではないかと気がついてから、事は複雑になる。ことの推移が二重になって沈没事件とは別のとんでもない事件に発展する。ここに作者は、ネット社会で根無し草のようなあやふやな論争を重ねる現代への批判を込めている。こういう傾向はネットの技術が進んで、いまの日本にもそのまま当てはまる。

わたしはギュンター・グラスの有名な『ブリキの太鼓』の映画も小説も知らないし、その他の小説も何一つ読んだことはない。池内紀さんの旅行記『消えた国、追われた人々』に教えられて本作に近づいた。うえに書いたように細かなことがアチラコチラに分かれて書かれていて、一体どんなことになるのやらと思わせられた。読み進むにしたがってだんだんに面白みが増してくる、実に巧みな仕掛けであった。
1930~40年代のハナシのつもりで読み始めると、いきなりインターネットだ、コンピュータだ、ときたので一体何をいうのだろうと奇妙な気分ではあった。どんな小説でもそうだろうが2度めには新しい発見がある。本作のように入り組んだ仕組みの物語はなおさらである。いつまでも去りがたい思いのする作品だ。

奇妙な表題の「蟹の横歩き」は、出たりひっこんだりする蟹の動きに似せて、ハナシを分かりにくくする目眩ましの役目らしい。まともに書くとネオナチどもにたかられるのを避けたとかいうことらしいが、解説にあったように、そこに「で」がつくとどういう効果があったのか知りたいものだ。
池内さんは旅行記にも書いていたがパソコンには縁のない作家だと自己申告されている。それがネットでのやり取りで事が進む筋書きを訳すことになった。文中にチャートでどうこうというのがしばしば出ている。どうやらネットでのおしゃべりのチャットであるようだ。ドイツ語でもほぼ同じだと思うが、日本語に訳せばどうしてもチャットになるはずだろう。ここは池内さんよりも編集の方に責任があると考える。ちょっと残念なことであった。(2017/12)