2017年12月28日木曜日

ギュンター・グラスは古~いジャズがお好き

『玉ねぎの皮をむきながら』を読んでいる。前半生の自伝、2015年に88歳で亡くなっている作家が2006年に上梓した。訳者の依岡氏によれば、1959年までの自分について書いてあるそうだ。であれば、それは『ブリキの太鼓』刊行がその年にあたる。作家と書いたがこの人の人物像は一様でない。たとえば、wikipediaにはドイツの戦車兵、小説家、劇作家、版画家、彫刻家、と並べてあって1999年にノーベル文学賞受賞とある。小説を書く以前、早くから詩を書いていた。身過ぎ世過ぎの手段としていろいろな仕事を経験している。いつも貧乏暮らしで社会の低層にあった。
著者自筆4ページ見開きより

途中まで読んだ限りでは、決して自分の自由にならない暮らしにありながら自由に生きた人という感じがする。つまり自分に正直な人だ。
相変わらず、というのは先に『蟹の横歩き』を読んでその作文法の奔放な緻密さに、普通なら辟易という言葉が出るところが、そうではなく面白く読めた。半生の間に出逢った様々な人間が後々の作品の中に姿を変えて出ているらしいことを知れば、この自伝を先に読むのは惜しむべき失敗だったかもしれない。読みさしであるが、ここにこの文章を書いておこうと思ったのはわたしにとってうれしい場面に出くわしたからだ。

「ラグタイムとブルースへの飽くなき喜びゆえに」友人とジャズバンドのトリオを結成した。いろいろな楽器を鳴らすフルート吹きのホルスト・ゲルトマッハー、ギタリストでバンジョー奏者のギュンター・ショル。そして、「私には打楽器として、初期のジャズ時代(ニュー・オーリンズ!)以来使用されてきてお馴染みのウォッシュボードが割り当てられた。その波打つブリキの楽器から、指貫をした八本指でリズムを叩き出した」

この個所を書いているときグラスは楽しくて仕方なかったと想像できる、それがニュー・オーリンズ!とビックリマークが付いた理由だろう。このとき彼らはデュッセルドルフの国立美術アカデミーの学生だった。頃はたぶん1947年。ほかの二人は絵描きだが、グラスは彫刻の修行中だった。ハンガリー風を気取った雰囲気の「チコス」というレストラン、二階家でウナギの寝床のように細長い旧市街、そこの階段下がステージだ。週に3回、夜中まで成金の聴衆相手に演奏してヘトヘト、食事はただで、給料はまあまあ、終わってから腹いっぱい食べたというグーラシュ…と書いているがうまそうだなぁ、あれはうまい。それはともかく、彼らは遅い時間帯になるころ、有名人の訪問を受けたのだ。


 数週間前から売り切れだった、大観衆を前にしてのジャム・セッションの後、我々の往年のアイドルが、お供を連れて、「チコス」にやってきた。テーブル四つ、五つ分くらいへだてた後ろの方で彼は私たちのジャズのレパートリーを聞いていたが、ゲルトマッハーのフルートの甲高く噴火する音が気に入ったらしい。たしかにそのサウンドは並外れていた。
 その著名なゲストは、後で聞いたのだが、タクシーで自分のトランペットをホテルから取ってこさせて、突然、まごうことなく我々のいる階段下を見て、(今や私も彼の姿が見える)唇に楽器をあて、酒場でキーキーという雑音のなかで安い報酬で演奏している私たちのところに、トランペットをまるでシグナルを鳴らすように明るく吹きながら上がってきて、フルートちゃんの荒々しいフルートの切れ切れの音を捉え、目をぐるぐる回してソロ演奏した。それに我らがソリストであるゲルトマッハーが今度はアルトフルートで応え、管楽器と木管楽器の二重奏をやったが、それはまさしく、我々が熱狂的に買い求めたレコードで、ラジオで、光沢付き白黒写真で知っているあのサッチモ(訳注:ルイ・アームストロングの愛称)だったのだ。今や彼はトランペットの音を弱音機で弱めて引き下がり、自分のサウンドを、永遠にも感じられる短時間に、ふたたび私たちの合奏に結びつけ、私と私の指貫に別のリズムを演奏させてくれたかと思うと、ショルのバンジョーを励まし、観客の歓声を煽り我々の「マネーメーカー」(訳注;ゲルトマッハーの英訳)がその綱渡りを、今度はピッコロフルートでやり終えるや、お馴染みのトランペットの叫びを響かせながら私たちから離れていき、ひとりひとりに優しく、いくらかおじさんぽくうなずいて去っていった。

フルートちゃんと呼ばれていたゲルトマッハーは音楽家でもあって、かなりの編曲の技を持っていたらしい。ドイツ人が古くから歌っている民謡をアレンジして演奏するのが常だったようで、この時も「あっさりと、短いメロディーを響かせてからドイツの民謡を、遠い地を目指していく移民のように、アラバマへ移住させることに成功した」見事にサッチモの耳を捉えたわけだ。「大胆に、しかし、夢見るような確かさで、このカルテットは息を合わせた。たしかに、私たちは五分ないし七分のごく短いあいだだけ、四人で演奏したのだが(幸福がそれ以上続くことがあるのだろうか?)、フラッシュ写真一枚残っていないこのハプニングのことはいまだに耳に残り、目に浮かぶようである」グラスはこの場面を回想しながら自分たちのこれ以上ない最高の名誉として綴っている。奥泉光はこれはほんとうだろうかという。回想には嘘が入るという考えを披瀝しながら、虚構でないかと書くが。

残念ながらこの書物の翻訳はあまり上等ではないように思える。ドイツ語は分からないけれどもグラスという書き手は豊かな語彙とひねりのきいた言い回しで原文を綴っているのだろうと想像する。ま、文章のことは措くとして、飛び入りで演奏してくれたサッチモの演奏を、グラスは「トランペット・ゴールド」と評しているようであるけれども、そのことがうまく読者に伝わらない。おそらく彼自身はいま思い出してもウキウキしてくるのではないだろうか、もう彼はいないけれど。

代わりに私がウキウキした。この場面を読んでしばらく想いにふけっているとイントロがひとつ頭に浮かんだ。West End Blues 、1928年の曲だ。音源を全部処分してしまったからyoutubeで聴いた。いまのわたしにはホントの音は聞こえない、半分は脳の記憶で聴いている。でも感激した。ギュンター・グラスを読んでこんな音楽を聴くことになろうとは予想していなかった。


彼らのハプニングのあったレストラン、彼らの演奏がない日には「コントラバスも持っているシンバル奏者のロマが息子連れで出演していた」そうであるが、どんな音楽を聞かせたのだろう。東欧を旅行すると、いまでもロマの演奏に出逢うし、休日のプラハのカレル橋では町内の中年四人組が「ハロー・ドーリー」をやっていた。これはわたしの勝手な思い出だが、グラスの世界は時代が違っても庶民がいるという実感がする。

最終章にまたもや懐かしいモノがでてきた。タイプライター、オリヴェッティのレッテラ。シンガポールで駐在員をしていた時、街を歩いていて見つけて買った。ブルーグレイのボディ、そうだ、グラスが書いているのと同じだ。もっともこちらは文学作品ではなく、面白くもない仕事の通信文。まだテレックスがホテルにしかなくて、原稿をたたいては持っていった。90年代の終わり、リボンが販売されなくなったころ、グラスは知人が新品を一パック送ってくれた。こっちは買い置きもなく、時代はワープロからコンピュータへ移りつつあったから、わがレッテラはむなしく押し入れで眠っていた。グラスは最後まで高机で『はてしなき荒野』とか『私の一世紀』をたたき出したろう。彼は塑像制作の延長でいつも高机で立って仕事をした。


負傷してアメリカ軍の捕虜収容所に入れられ、命は助かったが飢餓に襲われた。生きてゆくだけは食わせてくれるが、一日850キロカロリー、体重は50キロに減ったそうだ。これはモーゲンソー・プランの実践にふさわしいとあった。はて、なんだこのプランは。
アメリカのユダヤ人政治家発案の懲罰的ドイツ占領政策だそうだが、これはネットで得た知識。知らなかったなぁ。結局はこのモーゲンソー政策は全ヨーロッパを共産主義に渡しかねないとの反省から47年に修正された。グラスのこの体験は、のちに難民政策議論に活かされたそうだ。

17歳のナチ戦車兵、戦後60年経ってのこの自伝で、初めてそういう経歴が明かされて非難ごうごうだったというが、少年時代に国を思う至誠の情熱は、軍艦やらなにやらのカッコよさに惹かれて燃え上がるのが万国共通かもしれない。
グラスが収容所で聴いた「最新の流行歌、リリー・マルレーン」の元歌をはじめに歌ったドイツの歌手、ララ・アンデルセンは、ナチスが14歳まで徴兵年齢を引き下げようとしたとき、まさに14歳のわが子をはるか北海の島に逃がしたと読んだことがある。かくいうわたしとても昭和20年は12歳、翌年には中学2年生で鉄砲磨きでもさせられたはずだ。原子爆弾は悪だが、他方で救われた命のあるのも事実だ。ひとごとではない。
グラスは人生の一コマでそういう巡りあわせになったが、幸い生きのびた。戦後、アメリカや東西ドイツの政治のすることを黙ってみていたわけではない。すべて人はその一生の丸ごとを見るべきだろう。大江健三郎の、グラスの文学丸ごとを信じるとの意見に賛成だ。それはそれとして、この自伝には事実が述べられている。事実の経過は面白い物語になるし、歴史が語られる。訳者は解説でゆっくり読もうと提唱している。ぜひもう一度読み直そう、知らないことがいっぱいあるから、ゆっくり読もう。
ギュンター・グラス『玉ねぎの皮をむきながら(2006年)』依岡隆児 訳 集英社2008年 (2017/12)