2016年12月26日月曜日

鷗外の漢語

先に岡田英弘氏の著書にしたがって7世紀にいろいろな人々の雑居状態の列島が統一された当時の歴史を勉強した。そしてそこから日本語の歴史を考えてみた。雑居状態であったいろいろな人々の内容は、大陸その他諸方面から流入して住み着いていた人々と、それ以前から地元に住み着いていた人々からなる。けれども時の流れということを考えてみれば「それ以前」にもやはり同じように流入派と地元派がいたわけであるから、二千年、三千年という時間のなかの特定の時期を想定した静的な状態を描くことは難しい。

ただ大まかに言えることは、数の上では常におそらく大陸、それもシナからの人々が多かっただろうと思われる。こういう仮定に立って日本語の成立の歴史を考えると、母胎となった当時の列島で行われていたてんでバラバラの方言から自生的に共通の「ことば」ができてきたのではないか。
このように考えると、かつて日本語系統論がさかんに議論されて結果的に何も分からずじまいに終わって今に至っているが、全く無用の議論であったように思われる。こう言っては学者さんたちに失礼になるかもしれないけれども、日本語は他の言語と関係なく、ぽんと生まれてはいけないのであろうか。親戚筋がなくたって別に困ることはなかろうと思う。

さて、せっかく生まれた日本語も、耳で聞いてわかる「ことば」でしかないというのでは、統一した列島を一定の意思で支配する層には不自由だったであろう。たまたま漢字を持ってシナから来ていた人たちがたくさんいたのが幸いだった。そういうわけで『日本書紀』も『万葉集』もすべて漢字で書かれていた。

ところで、小島憲之氏(1913―1998)という国文学者がおられた。上代の日本語、特に漢語の研究が専門である。生涯に著された数々の著書から想像すると、刻苦精励された作業の膨大さに驚く。氏の学問は、日本上代文学と中国文学との関わりについて、その一語一語の「語性」(語の性格)を見定めることを基礎とされている。その小島氏によれば、「『日本書紀』はその語句その文章などを、初唐の欧陽詢(おうようじゅん)の『(げい)(もん)類聚(るいじゅう)』という文学百科大辞典に負うているところがきわめて多く、帝王の言葉の表現など、そっくりそのままいただいている場面が目につく」そうである。文字どおり、目に一丁字のない大多数の民の中に生まれた「ことば」を文字化した人たちはいわゆる渡来人であったわけだ。日本人の漢語との付き合いはそこからはじまった。

いま読んでいる本に小島憲之著『ことばの重み 鷗外の謎を解く漢語』(講談社学術文庫2011年、原本は1984年)がある。
わたくしは、文字化された「ことば」、特に「漢語」を愛好する。一概に漢語といっても、それぞれのもつ性格、つまり「語性」の複雑さは、日々わたくしを悩ますとともに、他方では楽しませてもくれる。わが国の文学に出現する漢語のひとつひとつが、本来の中国の「書きことば」、すなわち漢語をそのまま受容したものであるかどうか、逆にそれがわが国びとの案出したいわゆる「和製の漢語」ではなかろうか、こうしたことをまずわたくしは考える。しかも和製漢語の場合、どのようにしてその和製が生まれたのか、また見掛けは和製語に見えながら、実は「辞書崇信」を必ずしも肯定しないわたくしにとって、それはあるいは漢語であるかもしれぬ、などと最後まで疑いは拭いきれない。おしなべていえば、和製漢語は、明治期までは漢語にくらべてその数は劣る。やはり漢語自体の追求にもっと重点を置くべきであろう。

あとがきに著者はこのように述べてその学問を紹介している。
このような煩わしい仕事の合間に、それでも数年を費やしたそうであるが、一般読者向けに編んだ本書は鷗外を知るうえで、また言葉を知るうえで楽しくも貴重な作品である。前述した『日本書紀』の生い立ちについてのように、知らないことを教わる楽しみがたくさんある。

語性を見定める手順は、まず辞書にあたり、次に出典を遡って最古の用例を知るのであるが、参照する辞書にもすでに誤りがあり得るし、古い書物には写本の誤りもあるわけで、正誤を見極めるだけにも大変な手間がかかる。氏が使用される辞書は諸橋轍次編『大漢和辞典』と、その「大漢和」が語例の多くを負うている清朝の語彙辞典『(はい)(ぶん)(いん)()』が一例である。これらに載っていることにも誤りがあるそうであるから厄介だ。
本書には、十一の章立てをして、それぞれの章に一つずつ漢語を当てている。第一は「(せき)()」である。鷗外がドイツに留学した際の旅行記『(こう)西(せい)日記』に材料を採っている。「赤野」について鷗外は、何もない野というほどの意味で使ったらしいことが文脈から読み取れる。明治17年9月26日、船がアデンに到着し、風景の描写がある。なかに「満目赤野にして、寸緑を見ず」と「童山赤野 青草なし」とがあり、前者は文の、後者は詩の部分である。原文は漢文。

漢字「赤」には色彩名と何もないことを表す二通りの意味がある。鷗外もそのことを承知でほかにも赤をかぶせた語を使っていること勿論であるが、小島氏は「赤野」にこだわる。その理由は、二、三年来探していても、鷗外が使ったほかに語例がなかったのである。これは漢語なのか、和語なのか、あるいは鷗外の造語かと疑いながら唐代以来の漢詩や明治の書生がよむ小説など博捜しても見つからない。「大漢和」に「赤野」はあるにはあるが、(ぎょく)の産地として中国古代から伝えられている地名であって、鷗外が使う不毛の地の意味ではない。『佩文韻府』には語例がない。六朝時代の漢詩に例があったと喜んだが、それは漢詩特有の「対句」のかたわれで「玄州望むに(きはみ)なく、赤野眺むるに(かぎり)なし」と「玄」(くろ)にたいする「赤」でしかなかったりした。

探索の方向を変えて幕末明治の作品に当たることにして、鷗外が愛読した成島柳北、殊に手本にした『航西日乗』、福沢諭吉『西航記』、渋沢栄一『航西日記』など、いずれも航路は鷗外の時代と変わらずアデンに寄港している。柳北はスエズ運河沿いの風景に「両岸赤地渺茫トシテ寸草を見ズ」などとあり、漢語の「赤地」を使っている。いずれにしろその他多くの文章にあたっても「赤野」は見当たらない。鷗外の二年前にアデンを通過した板垣退助の日記には「岸上皆ナ(たん)ナリ」として「赤野」ではなかった。遂に探し当てたのはやはり鷗外の参照した文献の中にあった。久米邦武の『米欧回覧実記』明治十一年刊行がそれである。この岩倉使節団の世界一周旅行はアメリカを振り出しにしたためスエズ通過は鷗外の船とは逆方向からスエズに入る。アデンの項には「極目ミナ赭山赤野ニテ」とあり、ほかにも「赤野黄挨」とか「東岸ハ赤野ニテ」など多くの例が見られた。
こうして鷗外の「赤野」は『米欧回覧実記』の文章から借りて使ったものとしれた。しかし、この発見以後もほかに用例が見当たらないことから、小島氏は「赤野」について久米邦武の造語と見てよかろうとしている。

副産物がある。鷗外の『航西日記』は漢文体で書かれているが、これを読み下し文にしたとき、その各寄港地の風景描写がなんと『米欧回覧実記』に似ていることか。鴎外がこれを下敷きにして書いたことがありありとわかる。すでに名作の評判高い名士の名作が剽窃であったとあれば、いかにも不穏な事態になるが、小島氏によればそういう心配はいらないという。

『航西日記』は大きな部分で『米欧回覧実記』によっていることは明白である。ほかに成島柳北の『航西日乗』の表現の文体を参考にしている点、清国の人、()(しん)(ぽう)の撰になる広東地方の地誌(れい)(なん)雑記』からの引用が随所に見られる。それぞれ引用箇所に断りをつけるのが現代の仕様であるが、こういう創作上の態度は典古、つまり伝統を重んじる中国は勿論のこと、それを承けたわが国でも明治の頃まではまず許された文学上の作法であった。古来、歌の場合には「本歌取り」は表現技巧として鮮やかであれば褒められるべき対象であったし、散文も例外ではない。したがって鷗外のこの場合も目くじら立てるようなことではないだろうというわけである。

とはいうものの、鷗外自身は自分の創作態度における独創性をどのように考えていたのだろうと疑念を呈するあたりがこの著者の面白いところだ。そして小説『舞姫』のはじめのあたりに鷗外の投影である主人公の太田青年が、かつて書いた紀行文を「心ある人はいかにか見けむ」と独白するくだりに注目する。

明治17年の紀行をものした『航西日記』が世間にでたのは数年後の明治22年4月、雑誌『衛生新誌』に分載された。この間にもとの日記に手を加え表現を手直しして練り上げる時間は十分にあったと考えられる。そして発表後は非常に高い評判を得たのである。それだけに『米欧回覧実記』から多くを採り入れ、柳北の『航西日乗』に範を求めた結果の評判が高まるにつれ少しは気に病んだかもしれない。そして、その忸怩たる心情を大田青年の口をかりて、そっと埋め込んだのではないか。『航西日記』の著者名は鷗外ではなく森林太郎だったこと、掲載誌が特殊な医学雑誌であったことを考えれば、特定の範囲内の読者へのサインだったのかもしれない、と著者は勘ぐるのである。

「赤野」というたった一語の追及が『航西日記』全体の表現を見直す糸口となり、さらには『舞姫』を書いた鷗外の心情をも推し量ることに至った。そのまったくの思いがけなさに著者は驚くのであるが、同時に、一語の荷なうものの重みをしみじみと感じることになったと述懐している。
「赤野」の章はこのように単に一つの漢語について語るだけでなく、広く明治の文章について教わることの多い読み物に仕立てられている。

私は漢文で書かれているという『航西日記』の原文に触れてみたくなって、岩波書店の『海外見聞集 新日本古典文学大系 明治編 5』(2009年)というのを借り出してきた。わが渇望の漢文体の原文は、見てみたいというだけの願いであって、もとより読めるわけはないが、この書物には漢字かな交じりの読み下し文がまずあって、頁の下部に細かい脚注が細字で載せてあるのはまことに親切でうれしい。それにしても30ページを費やした読み下し文が漢字だけの原文になると三分の一の分量になることにも改めて感心した。英語を日本文にすると長くなるというのは常識だが、漢字の威力にも今更ながら驚いた。やたらと漢字を開いた文は読む人にやさしいとは思うが、適切に漢字を交える文のほうが引き締まってよろしいと思う。
この「海外見聞集」には、栗本鋤雲「暁窓追録」、久米邦武編「米欧回覧実記(抄)」、成島柳北「航西日乗」、中井桜洲「漫遊記程 下(抄)」、森鷗外「航西日記」 「航西日記 原文」、森田思軒「訪事日録」が収録されている。今回に関連する紀行文が並んでいて便利である。
本書の残りの章の題は、「望断」「繁華」「青一髪」「易北(エルベ)」「妃嬪」「涙門」「葫蘆(ころ)」「(うすつ)」「暗愁」今夕こんせき」とある。それぞれに興味深い逸話が含まれている。

最後の今夕いまではコンユウ読まれることが圧倒的である。たとえ新聞紙上に今夕と文字があっても記者たちはコンユウと読んでいる。著者も新聞用語辞典類から「こんせき」に痕跡しかなく、NHK用字用語辞典』にはコンユウと読みを与えていると述べている。コンセキは今夕の漢語的表現と手許の「新明解」にあったから死語一歩手前といったところか。著者は明治の人の詩嚢の偉大さを懐かしんでいる。

(2016/12)

2016年12月10日土曜日

『第三の男』とアントン・カラス

どこやらの観覧車のゴンドラが燃えたというニュースがあった。幸いそのゴンドラには客がいなかったから、電気配線の不具合が事故の原因だったらしいというだけで終わった。起こるべき事故が起きたとまでは言わないが、観覧車は乗る気になれない。ただ怖いのだ。あんなに高いところまで連れて行かれて、何かあったらどうするのだと思うから怖いのだ。皆さんは高いところは眺めが良くて気持ちが良いと思うのだろうが、そういう気にはなれない。

ウイキペディアから拝借した

ウィーンに行ったのは、たしか2006年。もう10年も経ってしまった。引っ越しのゴタゴタが済んでホッと一息ついたとき、発作的に手近にあった旅行社の広告「魅惑の東欧四カ国周遊」を見て参加を申し込んだ。生まれてはじめてのあなた任せの海外旅行なので、下調べも何もなしだった。いま、ウェブでウィーン市当局のサイトを見ると、プラーターには市のシンボルの大観覧車があって、これに乗って初めて「ウィーンに来たと言えるのです」とか、映画史上の名作『第三の男』の主役だ、とか書いてある。しかし、そんな宣伝も見ることもせずに出かけた。で、ツァーについてウィーンへも行ったが観覧車はコースに含まれていなかったし、グループの誰一人話題にもしなかった。考えてみれば、その時のメンバーは歳でいえば一周り下ぐらいらしかった。映画『第三の男』(1948)が日本で封切られたのは1952(昭和27)年だ。旅行した10年前の時点からしても古すぎる話だったということか。
とにかく、そんなことでウィーンまで行っていながら観覧車のことは思い出せなかった。大好きな映画のことなのに、あたらチャンスを逸してしまって、とうとう実物は見ずじまいだ。

あの映画には名場面といえるシーンがいくつもあるが、観覧車の場面がハイライトだ。映画が始まって1時間あまりも経ってから、ようやく姿を現したお尋ね者のハリー・ライム(オーソン・ウェルズ)が昔の親友ホリー・マーティン(ジョセフ・コットン)と観覧車のなかで話し合う。ペニシリンの横流しという人命に関わる闇商売から足を洗う気などないハリーはホリーに対して一瞬殺意を抱く。下を見ろと言いながらハリーはゴンドラの扉を開ける。ホリーも身の危険を察して簡単には落とされまいと身構える。ハリーは銃があると明かす。墜落死では傷を調べたりしないと。秘密はもうバレてるとの話でハリーは真顔になる。殺意が消える。観客はホッとする。表情の演技だ。観覧車の怖さに物語のスリルが重なる。
  

やがて何事もなく地上に戻り、笑顔に戻ったハリーはあの有名なセリフを吐く。「~民主主義の500年でスイスは何をした。ハト時計さ!」。


このハト時計の話はオーソン・ウェルズが考えたセリフだそうだが、ちがいますとスイス政府からクレームが付いたという。ご丁寧にスイス政府からウェルズ宛に手紙が来て、ハト時計の生産地はドイツですとあったそうな。川本三郎氏が何処かに書いてあったように思う。


72年初めにハンブルグへ行ったとき、空港でおもちゃのようなハト時計がたくさん売られていたので一つ買ってみた。ついでに後学のため免税手続きをして還付証明のようなものを貰った。後日、日本の銀行に提出したら銀行側の手数料などのほうが嵩むため支払えないと言われておじゃんになった。税額が小さすぎたというお笑い。いま思い出そうとしても、なぜドイツの空港で現金をもらわなかったのかわからない。

映画の話に戻ろう。「第三の男」が名作と言われたのには音楽の支えが大きい。映画に音楽はつきものだけれども、あの映画にはチターが奏でる音楽がついたために人々の心を揺さぶったのは間違いない。

撮影の準備にウィーンに滞在していた映画監督キャロル・リードはホイリゲで初めてチターに出逢い、その不思議な音色にとらえられた。爆撃で破壊され荒廃した街の闇市の背後から聞こえるウィーン人の心の声のようなものをその音色に感じて、この映画の音楽にはこれしかないと決めたらしい。だからこの映画の音楽は、その時ホイリゲで弾いていたアントン・カラスただ一人に任されることになった。

映画のはじめクレジットのあと、画面はウィーンの街の紹介に移る。「ハリー・ライムのテーマ」をバックに爆撃の瓦礫の向こうにすがたを現す大観覧車は、1897年から動いていたが、戦時中の1944年火災に遇ったそうだ。復活したのが1947年だったというからこの映画のロケーションで画面に登場することが出来たのだ。よかったなぁー。映画でのゴンドラは殺風景なただの箱という感じだが、いまでは豪華な飾り付けで結婚式やディナー会食もできるそうナ。

ところで、この映画に見るウィーンの街は瓦礫の山、道路だけは通行できるようにしたという感じの、これでも都市である。そんな空間にうごめく人々は闇市の商人たちであったりして、往年の帝都のかけらもない。物語に必要な風景だけが提示されるだけである。だから何もウィーンでなくてもよかっただろうが、プロデューサーのひとり、アレクサンダー・コルダが舞台をウィーンに選んだという。彼はハンガリー人だ、若き日に革命の動乱からウイーンに逃れていたことがある。

『滅びのチター師 「第三の男」とアントン・カラス』という本がある。著者、軍司貞則氏は1948年生まれのノンフィクション作家である。ウィーン大学在学中の1977年頃、地元の人々にアントン・カラスの話題を振ってみると反応が悪い。映画『第三の男』は一応知られていてもカラスは知らないというより無関心なのだ。何かありそうだと感じて調べて書き上げたのがこの本、つまり、リポートだ。単行本出版は1982年。

この本の特色はアントン・カラスの評伝ではあるが、調査の間に副産物のようにして著者の知識が増えてゆく中に、民族や民俗と音楽、人種と差別と職業、多民族国家、社会構成などが記述されている。カラスという人間にこれらの問題が集約されているとも言える。栄光と悲哀という言葉がよく当てはまる感じだ。

公開前の第3回カンヌ映画祭でグランプリをとって西側諸国で大ヒットした映画もウィーンではけなされた。あそこに描かれたのは自分たちのウィーンではないと。182館あった映画館のうち上映したのは一館だけだったそうだし、その観客たちは助演した彼らの名優たち、クルツ男爵やアパートの管理人に扮した彼らを懐かしむために見に出かけたのだそうだ。オーソン・ウエルズやチターが目的ではない。

600万枚ものレコードを売り上げ、ローマ法王ピウス12世の前で演奏し、英国やオランダの王室に呼ばれ賞賛されたアントン・カラスについては、ただのホイリゲのチター弾きが…という感覚で、本人の意図しない成り上がりが、周囲の妬みや嫉みを生み、除け者にした。それにしても、ウィーンで出版された音楽関係の名簿、年鑑などに名前も出ていないという著者の報告には驚き入る。これほどにまで名前が抹殺された理由は何なのか。

寄宿している大家との雑談がヒントになった。「彼はホイリゲの芸人にすぎない、酒に酔った客を相手にチターを弾く。『第三の男』の音楽もそこから生まれたものだ」。

ロンドンの「ブリティッシュ・フィルム・インスチチュート」で『第三の男』を繰り返し見ながら音楽を聴いた。あるシーンのメロディが気になった。ハリーをおびき出す場面の風船売りが出てくるところ。ゆるやかなワルツに変調する直前の短いメロディ。

軍司氏はいい勘をしていた。ここに秘密が潜んでいたのだ。専門家に聴いてもらうとチゴイネルだといった。チゴイネルはドイツ語でジプシー(ロマ)を指す言葉だ。内田百閒『サラサーテの盤』の楽曲「チゴイネルワイゼン」の意味は「ジプシーの旋律」だ。

チャルダッシュだとも言われた。こちらはブラームスほかのハンガリアン舞曲などで知られている。西洋音楽にはない音階が使われる。こんな音楽の理屈を並べなくても、あの部分のメロディには感じるものがある。

チターは東方に起源のある民族楽器である。近世にはウィーン、チロル地方で盛んに用いられた。オーストリアではフランツ・ヨーゼフ皇帝の頃は宮廷でも演奏されていた。ピアノやオルガンが普及してくると、この複雑な、演奏技術の難しい楽器は敬遠され、上流階級から次第に東欧諸国の下層社会の楽器となっていった。

カラスは貧しい家庭に育ちながらも音楽学院に通いピアノの腕を磨き教会音楽長を目指した。学費は私的に学んだチターを弾いて稼いでいた。正規に学科として音楽を学んだ職業的チター弾きはいなかったから、カラスは演奏に工夫してありきたりのチター弾きでは出来ない芸で人気を得た。家庭をもつときに、音楽の道は上流社会のものと割り切って諦め、チターを弾いて地道に暮らすことにした。あらゆる客のリクエストに応えられるようにレパートリーもクラシックから民謡まで幅広くこなせるよう努力した。
彼は生真面目な人なのだ。この技術と知識がのちに生かされてキャロル・リードと協同で作曲できた基盤になった。

伝承されてきた曲には様々な地方の音が混じり合っている。カラスは『第三の男』の映画音楽を作るにあたって、何百とある持ち歌をウチに秘めて、リードがシーンごとに出す指示に従ってふさわしい楽曲を作曲した。そこにチゴイネルの楽音が混じっていることはカラスの出自が関係している可能性が高いと軍司氏は考えた。

カラスという姓はハンガリー人のもの、しかしハンガリー系にはチェコ系も混じるという。オーストリア人はゲルマンだ。ウィーン人にはゲルマン系と非ゲルマン系がある。
知的職業や社会的地位を得ていない非ゲルマン系は暗黙のうちに貶められている。
家系を調べた。父親と兄は自動車工場にいる。金属細工師と呼ばれる範疇に入る職業である。これは典型的なジプシーの職業だ。

これだけわかれば、問題を起こせばつまはじきされ、社会常識的には無視される理由がわかる。どんなに高い地位についても、どんな富豪になろうとも、どこかでだれかが、あれはユダヤ人だとヒソヒソいうのと同じである。

軍司氏がいろいろ知ったあと直接的に出自には触れなくても、カラスはいつも、私はウィーンで生まれた。ウィーンが好きなのだ、と強調した。
そのウィーンでは誰もが冷たかったのに、キャロル・リードだけはいつも親切だった。ブームが終わったあとのカラスの生計の道を案じて著作権を取ってくれたりもした。リードは1976年に70歳で亡くなった。カラスも同い年だ。ペンペツィーネ夫人の要請で、5月3日の葬儀でカラスは弾いた、「ハリー・ライムのテーマ」を。

軍司氏が調べたようなことは私の関心事でもあるので、ついつい、ネタバレ式に書いてしまった。一般的な資料としても役に立つ本だ。あんなに名作だ、と騒がれた映画も、その音楽も、騒いでいたのはいわゆる西側の国々だけだったらしいと知って、目が覚めたような気になった。
戦後間もない時期の東京を思い出そう。浮浪者と闇市、大森海岸の米軍慰安所から生まれたキャバレー、米軍物資を扱うブローカーの成金など、外資が来てこんな題材から映画がつくられたらどうだったろうか。荒廃した光景だけが切り取られて世界に売り出される。舞台に使われた街の住民は面白くないだろう。『第三の男』はこんな映画だったのだ。
ウィーン観光ガイドのサイトより

アントン・カラスは、1985年に亡くなっている。ウィキペディアには軍司氏の著書が世に出た翌年、西村晃主演でラジオドラマ化されたとある。1983年のことになるが、そのころラジオは聞かないから知らなかった。
ウィーン観光の公認ガイドのサイトには古楽器博物館にカラスのチターが展示されているとあった。音楽「第三の男」はいまでもホイリゲでよく演奏されているとあったが、軍司氏の調べた当時と事情が変わったのであろうか。記事には2014914日とあった。カラスのチターの写真をサイトから借りた。ガラスケースに入れられているようだ。


参照図書:『滅びのチター師 「第三の男」とアントン・カラス』軍司貞則著 文春文庫1995(2016/12)
















2016年11月15日火曜日

北白川宮のこと  台湾征伐

瘴癘の地という言葉がある。熱帯地など伝染性熱病や風土病がある土地の意味で、近くは外務省の在外公館勤務者に関わる規定に使われていた。現在は不健康地という表現に変わっているかとも思うが、要するに、そういう地域に勤める人には健康維持の目的で有給の長期休暇を与える制度だ。勤務期間ひと月に対し、ひと月の割合でもらえるというから、程度問題もあろうがアリガタイ制度である。

私が訪れた1975年のシンガポールも外務省ではそういう土地にランクされていた。まだ同地が日本人一般にはよく知られていなかったこともあるが、中心部は冷房の行き届いたビルが並ぶ風景で、住宅地もゴミや蚊はリー・クァンユー首相の名だたる罰金制度で清潔に保たれ、緑の多い庭園都市を誇っていた。それでも日本大使館の人たちは「瘴癘の地」の言葉に護られて優雅な勤務であったようだ。思うに外務省規定は明治時代の想定の名残であって、役人たちは自分たちに有利な制度で、しかも外部からは見えにくい事柄だから長らく今日まで持ち越していたのだろうと思う。

岡田英弘氏の本で教わったが、今の大阪の難波(なにわ)という土地は、幕末の頃でも低湿地帯で、マラリア患者がいたという。マラリアを媒介するアノフェレス蚊は標高がある程度以下になると非常に多くなると書いてある。アノフェレス蚊って何だ?と調べたらハマダラカの学名だそうである。そういえば仁徳天皇が大規模な灌漑工事で大和川の水を抑制したり、今日でも掘割がたくさんあって八百八橋とかいわれたりするのは、大変な低湿地であったためなのかと今にして改めて思ったりする。マラリアは熱帯で罹る病気と思っていたが、日本にいても罹ることがあるというわけか。古代の日本は今より暖かかったのか。去年、今年と駆除に大騒ぎしていたのは、デング熱とジカウィルスを予防するためだった。蚊は恐ろしいと考えて用心するに越したことはない。

台湾が清國の領土であった頃、清国政府は「化外の地」と称して統治を放擲していた、まさに瘴癘の地であった。日清戦争の勝利で清國から割譲された台湾では、新たな事態に承服しない勢力が蜂起して日本政府に従わないため「台湾征伐」の軍が起こされた。1895(明治28)年のことである。台湾ではその年の干支から(いつ)()戦争と呼ばれるらしい。
北白川宮(よし)(ひさ)親王という宮様は、台湾征伐に向かってマラリヤに罹って亡くなった。台湾征討近衛師団長だった。「明治」と「宮様」から「宮さん宮さんお馬の前でひらひらするのはナンじゃいな、とことんやれトンヤレナ」という歌を思い出す。鼓笛隊を戦闘に「しゃぐま」と呼ぶ赤い毛の付いた帽子(?)の大将以下が行進する絵をよく見たものだ。
台湾征討隊は日清戦争の後のことだから、もちろんあんなものではない。しかし総大将、まして宮様なら普通は最後尾の安全な位置に留まって全体を俯瞰しながら指揮をするというのが古来兵法の建前のはずだが、この宮様は違った。わらじ履きで脚絆を巻いて、双眼鏡と弁当を腰につけ、竹の杖をついて歩き、夜は野営して兵とともに進んだという。5月末に北西部に敵前上陸して台北を経て島の西側を南下する。
9月に入るとマラリア性の熱病「(おこり)」が師団を襲った。10月下旬に宮様も高熱に倒れた。すでに亡くなった将官もある。途中から轎(きょう)という駕籠で運ばれ、最後は竹で編んだ寝台に横臥して終焉の地、台南に着いた。階級の上下を問わずコレラ、赤痢などの風土病に脚気が加わって健康者は全兵力の五分の一になったとある。ちなみに陸軍の将兵が五万人、軍属と軍夫二万六千人、軍馬九千五百頭という陣容であった。軍馬の数には驚くしかないが、いまのジープ、トラックの陸揚げを考えれば当然かもしれない。
森鷗外も乃木希典も従軍していた。鷗外は台北で作戦部隊と別れ、軍医監として衛生業務の指揮などにあたった。宮様とはかけ離れた暢気な駐屯だったらしい。鷗外自身の記録は「徂征日記」に残されている。

戦い終わって10年の後、鷗外は請われて、宮内庁ほかからの資料によって「能久親王事蹟」を編んだ。おかげで今、私たちは陣中の様子を知ることが出来る。
政府は宮の喪を伏せたまま柩を日本に輸送し、東京に着いてから死が発表されて国葬が営まれた。一方現地では宮は台湾開拓の神とされ、台湾神社、台南神社ほか順次地方に神社が創建され66社にも及んだが、大東亜戦争の日本の敗戦により台湾統治が終わると一切が破却された。

神となった能久親王自身は靖国神社に合祀されたという。
ここでちょっと首をかしげる向きも多いと思う。能久親王の経歴を振り返れば幕末には上野寛永寺貫主、輪王寺門跡を継いだ。成り行きとはいえ、戊辰戦争では上野に立て籠もった彰義隊に担がれ、しゃぐまの官軍に攻め立てられて東北まで落ちていった挙句に降参、自身は謹慎の身となった。のちに許されて宮家に復帰するが、一旦は賊徒に加担したわけである。招魂社として設立された靖国はこれら賊徒を明確に排除したはずである。なのに、なぜ。
ここに書いた宮様の話は、主として、黒川創氏『鷗外と漱石のあいだで』という著作に拠っている。著者は侵攻作戦における宮様の奮闘ぶりに、かつて彰義隊に担がれて多くの配下を失ったことへの後ろめたさに執念の源をみる。とすれば、靖国に祀られたことは宮様を苦しめるものだったかもしれない。
それにしても、靖国神社の曖昧さとは別のことだろう。

話のついでに悲劇の宮家と呼ばれた北白川宮家の係累に触れておこう。
能久親王が48歳の生涯を台湾で閉じたあと、この宮家には子息と孫の不幸が重なって襲う。

能久親王の没時、遺児成久王は8歳であったが、成人して明治天皇の第七皇女房子内親王と結婚、1910年、第一王子の永久王が生まれた。1921年に妃同伴でフランスに留学、やがて自動車運転を覚え自家用車を買う。運転に慣れてきたころ、ノルマンディまでのドライブを思いつき、同時期滞在の東久邇宮稔彦王や朝香宮鳩彦王を誘った。東久邇は運転未熟ぶりをみて計画を危ぶみ、やめておくように諭したが聞き入れず、房子妃、朝香宮ほかフランス人2名と出発して、案の定、事故を起こして即死した。192341日だったそうだ。朝香宮は重傷、房子妃は車の下から助け出されたが下肢に障碍が残った。

194094日。30歳になった永久王は参謀の陸軍砲兵大尉として内蒙古の張家口に赴任していた。この日、演習中に不時着してきた戦闘機の翼の先端に接触して重症を負い、その日のうちに絶命した。

能久親王妃富子は旧宇和島藩主伊達宗徳の次女、一旦、島津久光の養女となった後、能久親王に嫁いだ。先に土佐藩山内容堂の長女光子という妃があったが、子はなく、光子は病気を理由に宿下がりしていた。他に5人の側室との間に10人の子女がいたが、富子はその教育にも熱心であったという。成久王は第3王子にあたるが、事故で亡くしたあとは葉山の別邸でひっそりと暮らし、1926年に台湾神社に参拝したほかは表立った行動はしていない。1936年、74歳で死去している。成久親王妃房子は戦後女性初の伊勢神宮祭主となり、また皇籍を離脱し北白川房子となった。197484歳で死没。

永久王妃祥子は男爵徳川義恕の次女、1935年に嫁いだ。3歳の長男が北白川家を継ぎ、47年皇籍離脱となったあと、北白川房子と共に北白川家を支えた。1969年女官長に就任、香淳皇后に長く仕えた。2015年急性肺炎で死去、98歳。

台湾征伐の現地の様子なども含めて、こういう細々した人々の暮らしは歴史の表面には出てこない。宮家の不運続きへの同情もあって、余計なことかもしれないが記録しておく。

ついでにもう一つ。台湾征討軍は二つの船団に分かれて出発した。一つは輸送船「横浜丸」の船団、宇品から出帆した。台湾総督樺山資紀、森鷗外らが乗っている。他は満州旅順からの輸送船「薩摩丸」の船団。宮様らが乗る。両船団は527日に途中の沖縄中城湾で落ち合って総督の命令を伝達した。次いで台湾現地情勢を見極めた上で上陸地点を定めることを予定して、二日後の29日午前10時に台湾基隆の東北方向にある「尖閣島の南5哩」すなわち「北緯2520分、東経122度」に再集合が命令された(ここでの哩は海里の意味)。この「尖閣島」は現在中国との間で対立している島々ではない。別の尖閣島が存在したのだ。もちろん緯度経度も違う。それでも当時から二つの同名の島々があったことを著者は明らかにしている。
当時の英国海軍の海図・水路誌での呼称が同じPinnackle(尖塔)を用いた呼称が使われていた。船団はこの水路誌を使用いたようだと著者は突き止めた。さらにもう一つ別の島に同様の名がつけられて(Japanese)としてあるのを見つけたという。これはトカラ列島の島である。三つも同じような名前がつけられていたということは、つまり、ある程度距離が離れてさえいれば、同じ名がつけられていても別に航海に不自由はなかったということであり、それらがどこの國に属するかは気にかける者もいなかったわけである。

思えば今の尖閣問題、議論すれば喧嘩になるから棚上げにしておこうという知恵がどうしてわからなかったのか。中国人、特に商売人は信頼すれば、書面も何もなしで約束は守る人たちなのだと私は思っている。棚上げしたことを蒸し返したりはしないものだ。

以上の話題は黒川創『鷗外と漱石のあいだでーー日本語の文学が生まれる場所』(河出書房新社2015年)から借りた。本の主題は副題にあるように別のところにある。主に鷗外や漱石の時代に台湾、清国、朝鮮などの人々がどういう言葉を用いていたのか、そこで日本語がどのような作用を及ぼしたのか、などが語られる。

その間に関連して鷗外と漱石の私的生活に文献を通じて立ち入ってもいる。留学生たちの日本における活動や作品に疎い私には厄介な資料であるので、知識を増やしてから改めて読んでみよう。(2016/11)

2016年11月8日火曜日

古代史拾い読み(その5)万世一系という嘘

最近の政治家の発言のなかに、神武天皇の偉業を偲び、というくだりがあった。続いて万世一系と言ったような気もするが、これは当方の思い過ごしかもしれない。神武天皇は神話の中の存在であることをこの政治家は知らないのだろうか。

113日は文化の日であるが、これを明治の日にしようという気運が出ている。113日が文化の日になる前は明治節だった。明治天皇の誕生を記念する日である。当時は祝日といわずに祭日といった。小学校では全員登校してお祝いの式があり、明治節の歌を歌って、戦争がひどくなる前は紅白の饅頭をもらって帰ってきた。「今日の良き日は大君の 生まれたまひし良き日なり」で始まる歌詞のはじめだけ覚えている。良き日がふたつ重なるのは変だと今では思っているが、これで正しいらしい。

ある時期までは「文化の日」という言葉には「菊薫る」という言葉が枕詞のようについていた。多分新聞が使っていたのが一般化したように思える。
季節としては菊が咲き誇る時期であるからこういう物言いが生じたのだろう。最近のテレビでもこの日の街の風景や話題には、あちこちで開かれる菊の展示会や優秀作品表彰の様子が映される。菊と文化が結びつくのは季節が一致するからか、考えてみるとその必然性はない。あるとすれば「菊」に原因がある。菊は天皇家の紋章である。花びらが十六枚の、いわゆる「十六菊」である。だから「文化の日」に「菊薫る」と飾りことばをつけた、その心は、元は明治節だったのだとの思いであったに違いない。

現人神(あらひとがみ)というおかしな言葉を作り出したのは明治であるように考えていたがそうではないらしい。天皇を神と考えるのは万葉の昔からであるらしい。明治は、神聖にして侵すべからずと憲法にうたっているのを利用して、神であるとまでしてしまう空気を作り出したとでもいえばいいか。
いずれにしても、その天皇家の菊の御紋の効き目は強く、いい目をした人も多いだろうが、このためたくさんの兵隊がひどい目にあった。何が菊薫るだと言いたいところではあるが、世の中はおしなべて菊薫るで平穏だった。
そんなこんなもどこへやら、ただ明治を取り戻そうとかいうオカシナ合言葉で明治の日を作ろうという。何の事はない明治節に戻せというに等しい。つまり今の世の過去を知らない人が言うことだ。歴史を知らないとまでもいえない、近い過去を知らないのだから、そんな浅い知識で政治に携わってくれては困るのだ。

万世一系というのも相変わらず使われている表現である。日本最古の歴史書である『日本書紀』は編纂当時の天皇が正統であることを示すことを目的として、累代の天皇紀を記述している書物ときくが、万世一系の語はないようである。
明治22(1889)年公布の大日本帝国憲法第一条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定められたのが、「万世一系」という言葉が普及した根源であろう。
一系とは何を指すかということでは戦前も戦後も議論の定まらない課題ではある。おおかたの頭のなかでは天皇家の血筋の問題として考え、男系という考えが優勢であるらしい。現皇室でも男系がいなくなることが一時的に問題になったが、幸いにして問題が自然消滅したので、喫緊の問題として議論する姿勢は消えてしまった。

昭和の小学生だったころ、第124代の今上天皇ということが刷り込まれて未だに消えない。それが最近では民主党政権の官房長官殿でさえ、いまの天皇さんは何代目かも知らないと答えて話題になった。以前はジンムスイゼイアンネイイトク…と暗記させられた向きも多かったはずだ。

ところが頼りにされた最古の歴史書『日本書紀』に載る神武天皇に始まる皇統は作り話だったということがわかって来た。民の竈が賑わっているなと謡った仁徳天皇より前はただのお話で真っ赤な嘘だというのが定説である。
そこに述べられていたのは671年の天智天皇の死によって生じた後継争い「壬申の乱」で天武天皇が勝って即位する673年までの出来事をなぞって創作された物語にすぎない。なぜこのような創作が必要であったかといえば、日本がシナとも韓半島とも関係なく、全く独自に列島を領土として紀元前7世紀から天皇によって統治されてきた国柄であることを内外に示すためであった。
まさに歴史書『日本書紀』編纂の目的である。そのために600年以上時代を遡らさなくてはならなかった。

仁徳天皇は実在した。『宋書』「夷蛮列伝」に記述されている倭王・武が宋の皇帝に送った手紙(478年)に事績が書かれていた事で証明される。倭王・武というのは雄略天皇にあたることが稲荷山古墳出土の鉄剣銘により比定された(1978年)。
仁徳天皇は369年の日付と銘文のある「七枝刀」(天理市石上神宮に現存)によって倭王の地位を外国から承認されたことが明らかになっている。それまでの倭王がシナ皇帝の認定を得たのとは異なり、韓半島に成立していた百済王国が認定している。仁徳朝の倭国は高句麗王国に対抗していた百済王国と同盟した。

岡田英弘氏は、この369年をもって河内王朝の建国の年とみなし、畿内倭国の起源としている。これより古い邪馬台国などの倭国は300年ごろシナの晋が崩壊したために韓半島の楽浪郡、帯方郡が消滅すると援護がなくなって消えてしまったのである。したがって邪馬台国は日本の皇室とは全く関係がない。

河内王朝は、仁徳、履中、反正、允恭、安康、雄略の諸天皇と清寧天皇の七代が続いた後、血統が断絶した。あとは清寧天皇の皇后・飯豊女王が即位して、兄の顕宗天皇に皇位が継がれるが(播磨王朝)、その兄・仁賢天皇、その息子・武烈天皇と続いて506年に血統が断絶する。すると、『日本書紀』では越前の三国から継体天皇を持ってくる。継体は仁賢の娘と結婚して倭王となった(越前王朝)。

ところが『日本書紀』は女系の相続を認めない。河内王朝から播磨王朝への継承には伝説の「押磐尊(おしはのみこと)」を河内王朝第二代の履中天皇の息子とし、さらに、もともと押磐尊の遠い子孫だった顕宗天皇をこの押磐尊の息子と書き換えて男系でつながることにした。

播磨王朝から越前王朝へは、気比神社の祭神を応神天皇という人間に仕立ててその5世の孫が継体天皇だったことにした。「万世一系」という言葉は使っていないが、とにかく男系でつなげるというのが『日本書紀』の主張だったらしい。

仁徳天皇以前については倭國の王たちの系譜は伝わっていないため伝承もない。
『日本書紀』で仁徳天皇の父親としてある応神天皇は上述のように敦賀の気比神社祭神であって、人間ではない。だから、御陵もなく事績も殆どない。応神天皇の両親としてある仲哀天皇と神功皇后も海神であって人ではない。こちらは斉明天皇と中大兄が唐・新羅連合と戦った折の博多の香椎宮の祭神から創作された。

天智天皇と天武天皇は兄弟である。父親が天智天皇の先代舒明天皇だ。その前は推古天皇で在位が592628年とされている。ところがシナの記録『隋書』「東夷列伝」には600年に多利思比孤(たらしひこ)という倭王が使いをよこしたが、その妻は()()、太子を利歌(りか)()()(ふつ)()といったとある。明らかに男王であり、推古天皇でも聖徳太子でもない。608年にも同じ倭王から使いが来たので、翌609年随の煬帝は(はい)(せい)(せい)を倭国に遣わした。裴世清が面会した倭王は男であったという。

岡田博士は推理する。
『日本書紀』が、この時期の王位は推古天皇であったとするのは何か重大な事実を隠すための故意の嘘としか考えられない。推古天皇の後継者が敏達天皇の孫で、しかも推古天皇の血筋ではない舒明天皇であること、舒明天皇の死後間もなく、聖徳太子の息子・山背大兄が殺されることを考え合わせると、推古天皇と聖徳太子についての『日本書紀』の記述は、おそらく舒明天皇が倭国の王位を奪った事情にまつわる後ろ暗さの反映であろう。『日本書紀』の編纂を命じたのが、舒明天皇の息子の天武天皇だから、そう考えるのが自然である。
私としては『日本書紀』を読み解く能力もないから岡田説を信ずるほかはないが、王位の継承に再々切れ目があったり、架空の物語が歴史にされたりしていたのでは「万世一系の天皇が統治される國」などとはとても言えないように思える。自分の國の物語としては、神話があってもいいし、他国の歴史に負うところがあっても良しとする姿勢が欲しいと思う。生い立ちが古いことには違いはないから、それで十分ではないか。

今回も参照したのは『岡田英弘著作集Ⅲ 日本とは何か』藤原書店2014年である。
(2016/11)




2016年10月23日日曜日

古代史拾い読み(その4)日本語の誕生

『岡田英弘著作集Ⅲ 日本とは何か』藤原書店2014年から

「日本人」とは倭人、新羅人、百済人、高句麗人、任那人、漢人など日本列島に雑居していた諸種族の総称である。これらの諸種族を全部カバーするアイデンティティーとして「日本」という概念が生み出された。では、日本の建国はいつかというに668年に天智天皇が大津宮で即位したときとする。この即位という行為はその前に制定された近江律令の規定によって定められた国号「日本」と王号の「天皇」に基づいている。この建国は何を意味するかといえば、唐・新羅連合軍の日本列島への侵攻に備えて、それまでたくさんの集団に分かれていた列島内を統一して唐・新羅に対抗する勢力をつくることであった。663年に皇太子中大兄皇子が指揮する倭国艦隊が白村江の海戦に敗れたことが契機で、中大兄が統一のための建国事業に着手し、飛鳥宮から大津宮に遷都し、自ら即位して天智天皇となった。

さて、雑居民からなるこの時代の日本で行われていた言語の状況はどんな風であったか考えると、新羅人、百済人、高句麗人、任那人、漢人それぞれ漢語の方言を使っていたと思われる。倭人はもともとの原住民であればいわゆる土語であり、韓半島にいたことがある倭人はそこで使っていた漢語の方言だったろう。列島原住の倭人は文字を持たず、政治や経済の語彙もない。倭語共通の方言もない。倭人は商業種族ではなかったから共通語を普及させられなかった。結局どのグループもお互いの間に共通する言葉はなかった。シナの漢字方言では文語に近い言語でなければ漢字で書けないということがあるそうで、現代の広東語は漢字で書けるが福建語ではできないという。
岡田氏の考えでは、七世紀までの日本列島で、共通語の役割を果たしたのは、南朝のシナ文化の影響が強い百済方言だった。百済語も、ほかの華人の話す口語よりも、漢字で綴った文語に近い言語だったからである。
漢語を国語とすることは危険であった。新羅の公用語が漢語だったから、新羅と対抗して独立を維持するには、別の途を選ばねばならなかった。それは漢字で綴った漢語の文語を下敷きにして、その一語一語に、意味が対応する倭語を探し出してきておきかえる、対応する倭語がなければ、倭語らしい言葉を考案して、それに漢語と同じ意味をむりやり持たせる、というやり方である。これが日本語の誕生であった。 
日本語の誕生直後の姿は、『万葉集』のなかに見ることができる。以下すべて岡田氏の受け売りである。
『万葉集』巻七に載る「柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ」とことわった歌は倭語の書き表し方から見てもっとも古風であるという。たとえば、
「天海丹 雲之波立 月船 星之林丹 榜隠所見」は「あめのうみに くものなみたち つきのふね ほしのはやしに こぎかくるみゆ」と読む。表し方の基本は倭語の単語を意訳した漢字を、倭語の語順に従って並べる。意訳には当て字を使う。「丹」は「赤色の土」の意味だが、倭語では「に」といったことを利用した。倭語の動詞には語尾変化があるが、漢字には語尾変化はない。「たち」は「立」と書くが語尾の「ち」を送らない。「榜」も「隠」も意訳漢字で書き表すだけで語尾は送らない(「榜ぐ」こぐ)、「隠る」かくる)。助詞は漢字の助字で意訳することもあり(「之」)、しないこともある(「天の」の「の」を省く)。こういう書き方は漢文の一種ともいえる段階の文体であろう。
日本語の成長の第二段階は、『万葉集』巻一の天武天皇の歌に見られる。
「紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾恋目八方」は、「むらさきの にほへるいもを にくくあらば ひとづまゆゑに われこひめやも」と読む。ここでは、どの一句にもかならず意味を表す漢字が入る。そして、それぞれに倭語の音訳漢字を添える。音訳漢字を平仮名で置き換えると、次のようになる。
「紫草の にほへる妹を にくく有者 人嬬故に 吾恋めやも」。また「め」を「目」、「やも」を「八方」のように、発音は同じでも意味が違う倭語を表す漢字、つまり当て字を使っている。岡田氏はこれを、原形では音訳漢字を連ねる「柿本人麻呂歌集」の歌のようなものだったのを、『万葉集』の編者が書き直して読みやすくした結果、このような書き方になったのであろうとしている。
第三の段階は八世紀初めの山上憶良に見ることができる。『万葉集』巻五の「貧窮問答歌」の反歌は、次のように書かれている。
「世間乎 宇之等夜佐之等 於母倍杼母 飛立可祢都 鳥尓之安良祢婆」 
これは、「よのなかを うしとやさしと おもへども とびたちかねつ とりにしあらねば」と読む。名詞の「よのなか」を「世間」、「とり」を「鳥」、動詞の「とびたち」を「飛立」と書いているのだけが意訳漢字で、それ以外の倭語は、動詞、形容詞、助詞すべて一音節に漢字一字を当てて音訳してある。このようになるまで半世紀かかっているが、あとは漢字意訳をなくすれば、漢語から完全に独立した国語になれる。
『万葉集』巻十四「東歌」の書き方が次に来る。
「可豆思加乃 麻万能宇良未乎 許具布祢能 布奈妣等佐和久 奈美多都良思母」は、「かづしかの ままのうらみを こぐふねの ふなびとさわく なみたつらしも」と読む。この書き方になると、もはや名詞その他の品詞の区別なく、倭語の一音節ごとに漢字一字が音訳して当てられている。完全音訳のこのやり方で、日本語は、漢字を使いながらも、漢字から絶縁して、独立の国語の姿がとれるようになった。
『日本書紀』は天武天皇が681年に編纂を命じたが完成まで39年を要して元正天皇の720年に完成した。この間に倭語の歌謡の表記について、編集方針に変更があったらしいことがわかる。最初は歌謡はすべて漢字意訳でなされていたが、のちに完全音訳が実現して、現行本では一音節一漢字の音訳になっている。
岡田博士は『万葉集』を日本語発明の記録であるという。上のような説明の後に「こうして、新たに生まれた日本語は、ようやく漢字を離れて、耳で聞いても多くの人にわかるようになり、国語の資格をそなえるところまで来た」と述べているが、この「漢字を離れて、耳で聞いてもわかる」というのはどういうことだろうか。漢字で書かれていても、それは漢語を書いた文字ではない、漢字のような文字だが日本語音を持っている文字、つまり日本文字だということと解してよいかと思う。このあとに続く説明には「次の段階では、何かほかに一音節一字の文字体系を考案して、音訳にも漢字を使わないことにすればいい。そうすれば、表意文字である漢字との最後のつながりも切れて、日本語は完全に音声だけの、漢語から独立した国語になれる」と書く。ということで、平安時代には音訳漢字を草書体にした平仮名と、筆画の一部だけをとった片仮名が出現するにいたる。
古代史の書物でありながら、日本語論の一部をこれだけ面白く説明してくれたものは、ほかにはあまりなさそうである。岡田氏はまだこのうえに仮名文、散文など続けて述べられているが、日本語の誕生として題するのはこの辺で終わろう。
これまでの説明にある一音節一漢字は、いわゆる万葉仮名として私たちに親しい文字である。万葉仮名は上に述べられたような漢字を崩した草書体で書いた文字で仮名とはいいながら実は漢字だったわけだ。変体仮名とも呼ばれる。江戸から明治への時代に活版印刷が始まると次第に衰退したのだから、考えればずいぶん寿命の長い文字であった。江戸時代の公文書は草書体であったということを何かで見たが、平安時代も同じだったことになる。話は飛ぶが、いまの人間のほとんどが読めない草書体の変体仮名をコンピュータで扱うことがずっと研究されているそうだ。文字コードは大体できたが、フォントの開発に時間がかかっているとも聞いた。楽しそうな話だが筆者の目には入らずに終わりそうだ。(2016/10)






2016年10月12日水曜日

読書随想 足立巻一『虹滅記』朝日文芸文庫1994年、朝日新聞社


著者は九歳で孤児になった。ただ一人の肉親の祖父が目前で浴槽に沈んで頓死した。大正十年、享年六十五歳。
生後3ヶ月で父親の急死に遭う。母は遺児に思いを遺しながらも去り、生活の手立てを持たない祖父母と暮らすが、やがて祖母も死ぬ。富商の後家に貰われて育った祖父は漢詩文を得意とする漢学者ではあるがすでに時代に合わない。他に仕事を持つどころか銭勘定も、ひとりで電車に乗ることも出来ない生活無能者である。この頃すでに資産を食いつぶしたあとは孫の手を引いて縁者を頼る乞食同様の暮らしであった。祖母の香典の残りで孫と二人長崎に戻ってはみたが、頼りにした菩提寺にも入れてもらえず、気立ての良い質屋の妾宅に間借りしていたころ銭湯での急死である。

残された孫は縁者を転々と移りながら養われて成人した。中学二年の頃、母と再会して神戸の伯父の家で共に暮らす。神宮皇学館を卒業して国漢の教師となる。招集されて大陸で軍隊を経験し、やがて再び招集されようかという昭和十八年、小さな本を出版する。新聞で広告を見たかつての祖父の門人から、もしや足立敬亭先生の孫さんではないかと問い合わせが来た。

実は、ここからこの本の物語が始まる。ここまでのことは物語のなかで、あちらこちらにそのときどきの出来事やら回想やらを綴りながら読者に知らされる。文庫本のカバーには評伝文学の名作とある。1994年に日本エッセイストクラブ賞を受けている。やはり小説というよりエッセイに近い作品であろうと思うが、半ばドキュメンタリーでもある。

カバーの題字「虹滅記」の「虹」の漢字の偏には「ノ」がついている。文字の出典は不明だが、「虹滅」という熟語も祖父の創造らしい。照り映えていた美しい虹が俄に消えてしまった。哀惜の想いがこもっている。慈しんだ長男の急死を録した漢文に見出される。長男の足立菰川の遺稿「鎖国時代の長崎」を浄書していた祖父が凡例に遺した。「著者俄に虹滅し去る」と。

著者が顔を知らない父親は苦学して五高に進み、京都帝大法科大学を卒業して「二六新報」に入社、論説記者として活躍するが、大正二年腹膜炎で急死してしまう。享年三十三歳。

変わり者の漢学者敬亭はひどい吃音であったが、漢籍の講義では極めて流暢になった。暮らしには無能だが好色であり、女義太夫に入れあげて家庭争議を起こしたりした。
物語冒頭に登場する門弟から著者は遺稿の漢詩文集のうち「秘著の部」二十四冊を返還される。題簽に見える文字から明らかに春本の漢訳集とわかった。その他大部分の遺稿は敬亭死後神戸の親戚に送られていたが、転送されて預かった菩提寺から行李いっぱいの荷物となって著者の手許に戻ってきた。
このとき中学生の著者はその中に大事な書物が含まれていないことを直感的に知る。それが実は父菰川の作品「鎖国時代の長崎」なのであったが、昭和十二年夏、長崎を訪れた際に旧友に誘われて郷土史家古賀小十郎を訪ねた際、同氏が偶然にも紙くず屋から買い戻して所有していることを知った。

著者が実際にその原稿を見ることが出来たのは遥か後の昭和四十年、長崎県立図書館であった。古賀氏は物故していたが同氏宅は原爆被害を免れ、蔵書はすべて古賀文庫として図書館に収められていたのだった。
そこにつけられている「凡例」にこの稿の生い立ちが述べられ、著者菰川が京大在学中に作述を志し五年の歳月を費やして書き上げたものを、菰川没後敬亭が浄書した、父子双方の思いがこもった作品であることが理解できる。
浄書完成の大正四年、著者巻一氏は二歳三ヶ月であり、記憶にあるはずもないが、
この『凡例』を讀み終わったとき、くらいランプの下で、息子の遺稿をたんねんに毛筆で書きついでいる敬亭の顔が見えた。眉が濃く太く、目がギョロリとして鼻梁は高い。いつも白髪まじりのかたい無精ひげがさかだっている。その顔に深い影をきざみこみ、目を充血させたようにして、関節のふとい指で、一字一字彫りきざむようにして書いたのであろう
と述べている。
肉親、育ての親など著者の周囲にあった人たちで最も著者が親しんだのは祖父敬亭であろう。第一章を敬亭と題してその変わった人物像の一端の紹介に費やす。そもそも祖父がもらい子だったことに読者は軽い驚きを覚えるだろう。
生後すぐ、海老屋という長崎屈指の富商の後家にもらわれて育てられたというが、実家はどうしてもわからず、ただもらわれてきたときに上等の大小刀が添えられ、海老屋がもらうぐらいだから相当由緒ある武家の子であろうとうわさされただけである。
海老屋についても著者はルーツ探しのようにして徳山湾の大津島に渡って調べる。すでに過疎化の様相がみられる島では一向に要領が得ず、炎天下を百五十二基の墓をしらみつぶしに当たる場面では読んでいるこちらも汗になる思いがした。
辛うじて見つけた古い墓には本家で見た戒名があった。菩提寺に嫁入った祖父の義妹から伝えられるのは先祖は代々通詞であったこと、墓碑銘に蘭谷院とあることから阿蘭陀通詞だったらしい。回天記念館長は公民館長の兼任、その人は島の歴史を調べても全くわからないと言いながらも、島の沿岸はエビ・アワビの宝庫で徳山藩の隠し財源だったから誰が宰領していたのか記録がない、と教えてくれた。本家に伝わる文書には「俵物」交易のことが出ている。総合すれば初代は徳山藩と繋がりが出来て俵物の出荷を取扱い、柳河藩とも繋がって御用商人、両替商として蓄財する。エビを扱っていたから海老屋なのだ。大筋が理解できるようになる。
このあたりはさながら近世日本経済史であるが著者の探索にあたる執念に驚かされる。一基だけ発見した墓石から目の前がひらける。まるでご先祖様の手引ではないか。しかし、明治維新で銀目が停止されると両替商は倒産し、廃藩置県による藩が消滅すると藩に用立てした大金が焦げ付く。これらが原因で海老屋本家の家産が傾き、一方分家には被害少なく生き残る結果をもたらして両家仲違いという不幸なことにもなった。著者の祖父は分家の筋だったが墓参しても墓の位置に疑念が残っていたりする。

この作品にはやたらと養子縁組が出てくる。親戚付き合いのほとんどなくなった筆者などには不思議で仕方ないが、これも時代であろう。養子をもらって、協議離縁となり、再養子、再々養子まで出てくる。また、戦時中疎開のやむなきに至ったまま親戚付き合いが絶えたと嘆く遠い親戚にめぐりあい、これで心強い、どうか今後は親戚付き合いをよろしくと頼まれたりする。人々の血縁に対するこういう思いはとうに薄らいでいると考えていたが違った。東北の被災地の老人たちが知らない人ばかりの土地には行かないと根の生えたように動こうとしないのもこれだろう。互いを思いやる心根は日本人の古い文化の根っこかもしれない。

日々の暮らしの多忙さの合間を縫って著者は度々長崎を訪れる。その都度何かしら新しい発見があるが、それだけでなく父親の遺稿に関連して土地の風物や伝統行事を伝えてくれる。年々薄らぐ昔ながらの濃厚な雰囲気が記録に残される。長崎くんち、紙鳶あげ、精霊流し、唐寺の盆祭など。

父子二代続いた依田学海との縁、ほか明治の漢学者のこと。急激に消えてゆく漢学文化の消滅は異常とも思える。著者は祖父、父、自分とつながる血筋にまつわる縁を語りながら、日本近世をも伝えるという重厚な作品にしあげた。暗い話の連続で地味ではあるが名品といえるだろう。

長らく本棚に収まったまま読んでいなかった一冊。実は幾度か開いてみては閉じる繰り返しを重ねた。とっつきが悪いのだ。この度入院するにあたってこの一冊を選んだ。ほかにすることのない病室でようやく讀み終えた。終わってから思い返すと何やら懐かしい半面よくわかっていない部分がいくつもある。養子で入り組んだ系譜もそうだ。相関図のようなものを描いたりして考えた。人の世のめぐり合わせと人間のいじらしさみたいなものが後味として残った。

個人的に興味をひいたのが大津島での調査でわかった過去の記録の実態である。各家に仏壇があり、その引き出しには過去帳がある。けれども他人には見せられないという共通の掟のようなものがあるらしい。寺の住職でさえ過去帳の中身は「本山からきつい達しが来ている」から見せられないと断られた。墓の在り処は寺では関知しないという。
過去帳を見せられないのはなぜだろう、疑問である。現在なら個人情報とか言って管理にうるさいが、昔ながらにどうしてそうなのか。滅亡した大内家家臣の隠れた島ということで暗黙のうちに秘密が守られるというようなことだろうか。
また、海老屋の文書で見た忠四郎という名が代々襲名されて現存すると聞き込んだので訪ねたが徳山で仕事をしているため留守であった。表札を見ると足立ではなく安達となっていて落胆する。置き手紙をして帰郷したが、間もなく届いた返信にはお尋ねの戒名は我が家の先祖だとあり、姓がもとは足立であったとわかる。これが本命だったのだ。過去帳はお見せ出来るからお出でを待つとあった。お互い親戚だと判明したから見せることが出来るという意味にも取れる。
島の古老がいうには墓石は百年経ったら新しくするそうで、表面を削って新たな文字を彫ると教わった。これでは古い墓は探りようがない。このような閉鎖社会がつくられているのでは、生きている人に古い話を訊いて回るほか歴史は探りようがない。地方史や郷土史の研究の難しさを改めて教わった思いがする。
それにしても著者足立巻一氏の先祖探しへの執念は血縁の薄い生い立ちのため格別なのだろうか、それが立派な作品に成就したことにお祝いを申し述べたい気持ちである。
(2016/10)

2016年9月20日火曜日

古代史拾い読み(その3) 日本以前のこと

この稿には日本が自らを国として認知する以前の状況についてあらましを書く。前回に続いて用語として、土地についてはシナ及び韓半島、人については漢人、華人を使う。
紀元668年に日本が国号を日本と定めるまでは、列島にいる人達は自分たちが何者であるかを考えたことはなかったのではないか。文献に見る限りシナの歴史書では、人は倭人、地域は倭国と呼ばれていた。
『漢書』「地理志」(82年頃成立)に「楽浪海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ」とあり、これが倭人が記事になった最初らしい。楽浪郡は、前漢紀元前202年-8年)の武帝紀元前108年に朝鮮王国を征服して韓半島に設置した郡の一つ、王朝の出先機関であり 交易と軍を管轄する。その楽浪の海の先に倭人がいて百余りも國があるというのであるが、ここでいう国は人の集まって 住んでいる所、つまり集落、かっこよく言って都市である。
江戸時代に北九州の志賀島で出土した「漢委奴国王(かんわなこくおう)」の金印については『後漢書』「倭伝」に該当する記録がある。後漢の光武帝の治世、紀元57年に倭奴国が使節をもって朝貢してきたので、これに印と綬を賜ったとある。この記録はシナ王朝が倭人の王を認定したはじめてのものである。この場合の王は交易の窓口の役目でしかない。
古くからシナが黄河中流の洛陽付近から発達し、東北に向けて進出し、韓半島、さらに日本列島へと関心を向けていたのは、一つには漢民族が商業文明の民であること、もうひとつに水路を使って交通ができたことが理由と考えられる。前108年には半島東南端まで進出していたのである。それは日本列島という地域を有望な商圏として見込んだからであるらしい。
シナは韓半島に流出した漢人たちの交易を大目に見ていたのが、王朝が統一を果たして力がつくと直接乗り出してくるように変わる。韓半島に設けた楽浪郡や帯方郡は交易を管轄する軍管区で、取引収益を確保する皇帝直轄の組織だ。九州の博多は倭の出入り口として次第に都市を形成する。内陸に向けての交通路にそっても次々に都市ができる。百余国というのもそれらの都市を指している。金印に彫られた倭奴国は倭人の國の一つである奴国を意味する。つまり奴国とは今の博多あたりのことだった。金印で王と認められた奴国の酋長はその他の国々がシナとの交易に必要とするビザを発行する領事の様な特権的な存在になる。ただし、王は自分の統治能力で地位を得たわけではないからシナの王朝が没落すれば倭王の権威はひとたまりもない。
紀元57年の「漢倭奴国王」が誰であったか記録されていないが、岡田英弘氏は107年に160人の奴隷を献じて朝貢した師升(すいしょう)がそうだという。この年、不安定な立場に陥った魏の安政権がテコ入れのため、友好国の君主のなかで序列の高い金印を所有する倭王に働きかけて演出したのだと説明されている。手みやげの奴隷が160人もの数であったことは、宮廷まで参上したのが奴国だけでなくほかの国々の使節も同道していたと考えられる。「魏志倭人伝」にはこの奴国の倭王は2世紀末に没落したと書かれている。
「その國はもと、また男子をもって王となした。住すること七、八十年、倭国は乱れ、あい攻伐して年を歴た。すなわち共に一女子を立てて王となした。名は卑弥呼という」とある。
男の王、師升のあと77年後のシナでは184年に黄巾の乱が起きて国内が混乱する。続いて三国時代になった。シナ王朝に依拠している倭国王はたちまち権威を失う。そのため倭国内も乱れて互いに争う事態が続いた。共同して女王、卑弥呼を立てることでようやく決着した。これが上の倭人伝の内容である。
倭国内が乱れたというのは、金印を所有する奴國の後裔がいただろうし、邪馬台国に同調しない句奴国もあって、少なくとも三人の酋長がそれぞれ組んでいた諸国を率いて争っていた状況があったらしい。男の王同士の争いが決着がつかないから共同して女王を立てたという。そこにも何か訳がありそうで岡田氏はそれを華僑内部の宗教結社と解している。
「魏志倭人伝」に卑弥呼について「鬼道に仕えてよく衆を惑わし」とある。「鬼道」は190-215年の間、陝西の南部から四川の東部にかけて宗教共和国を建設した五斗米道教団の神々をいう当時の用語だった。卑弥呼は単なる女シャーマンではなく、漢人商人が日本列島に持ち込んだ秘密結社組織の祭司だった。それが倭人諸国の市場を横に連ねる華人のネットワークに乗っていたから秩序を保てたと説明する。倭人の酋長たちの間では他を圧倒する実力者が誰もいなかっただけだ。卑弥呼を担ぎ出せばまとまりがつきやすかったということで、卑弥呼に格別の実力があったわけではない。
やがてシナでは後漢が滅亡して魏に政権が移り、卑弥呼は即応するようにして魏に使節を送って朝貢した。これが239年、倭の使節は「親魏倭王」の印と綬を賜った。卑弥呼は247年に死亡するが、しばらく国同士がもめたあとに卑弥呼の一族の娘、十三歳の台与が後継女王となって、魏に続く晉にも266年に入貢している。これを最後にシナの史書から倭国の名は消えてしまう。
300年になるとシナ各地で各種軍隊が騒乱を起こし、五胡十六國の乱世に入る。韓半島でも倭国でもシナの勢力はなくなってしまい、原住民たちはそれぞれ自立の道を選ぶしかなくなる。
この後の時代については、文献では5世紀に完成した『宋書』の「倭国伝」に倭国が再登場するが、日本側の資料は7世紀の『日本書紀』まで何もない。
ここでここまでの倭国の内情を少し探ってみたい。といっても筆者は浅学であり、特に日本の歴史については神武天皇に始まる国史のほかは学校で教わったことがない。基本は岡田英弘氏のお説に従うが、氏は東洋史学者であるから日本の歴史もシナの文献に現れた記述を追って考察されている。一方私たちは敗戦後盛んになった考古学者の研究で縄文だの弥生だのという言葉を知るようになった。ところがそれらの時代は文献にいうどの時代かということはあまり結びつけて知らされていない気がしている。手元の乏しい資料の年表で見ると紀元57年の金印の頃は弥生時代となっている。ヘェっと感じるだけでそれ以上の実感は湧いてこないが、稲作の技術がすでにもたらされていただろうとは思う。人々の生活ぶりなどさっぱりわからないが、人間の種類はナントカ大雑把に分かりそうだ。土着の原住民と渡来人だ。さきごろ「日本人はどこから来たか」というテーマで台湾から草船で沖縄に渡る実験がなされて成功しなかった。これは言うまでもなく、もともとの原住民の祖先を探ろうとした実験だろう。推定では南から、西から、北からの各方面から来たらしい。
ともかく、どこからともなく到来して住みついた人々がいた。最近、外国の学者の話に、人間がまったく気がおけない間柄として出来る集団の規模は150人程度までだそうだ。言い換えれば同じ言葉を話す間柄の人だ。ここで考えるレベルでは、少し訛りが違えば、おそらく別の仲間になるだろう。こういう人たちのかたまりが、あちらこちらにできて集落ができてゆく。生計を立てる手段に応じて、ひとつところで日を過ごす人や別の集落の間を巡る人などがでてくる。そのうち親分格も出来るだろうし、その手下として暮らす人もできるだろう。争いも起これば治める役の人もでる。集落の親分格のことを岡田氏は酋長と書いている。韓半島に常駐するシナの太守は常日頃倭国内の事情をよく知っていて、これと見込んだ酋長を宮廷に推薦したうえで、上表文を作成して使節を仕立て朝貢させる。宮廷は詔書を発布して王位を認知する。印と綬を授ける。印材は幾通りかあって金印は最高位だったそうだ。博多の酋長はこんな具合に「漢委奴国王」に 叙されたのであろう。倭人の暮らしに立ち交じる渡来人たちがいたことは当然だ。主として商人だろう。これは倭国の市場を当てにして韓半島から渡って来た華人である。韓半島にだって土着の人と、ほかから流れこんだ人、多くは漢人だったろうが、新たに土着した人たちもいたはずだ。これはすでに華人である。シナの王朝の使用人もいたろうし、下々の商人や船乗りもいただろう。王朝の役人は漢語の読み書きができたはずだ。そのほかの渡来人や土着の人は文字を知らない話し言葉だけの人たちだ。渡来人たちの話す漢語は倭国に来る前にいた土地で話されていた方言だ。長く住み込んで土語に通じる人もいる。土着の人の中にも漢語を話す人も出てくる。通訳が活躍しピジン語が飛び交ったことだろう。ピジンは片言の外国語をいう。片言の各種土語と片言の各種漢語でお互い話を通じさせていたと想像できる。漢字はほぼ華人役人の占有物だっただろう。こういう状態を全体的に見れば、当時の日本列島はまさに雑居状態であって、お互いがナニ人とも言えない、そんなことも考えない人たちがいたわけだ。そのうえ、華人は男が単身で来るのが常態だから、土着の女性との間に子どもが生まれて、次の世代になれば出自もあやふやになるわけである。だから、古来日本民族は単一民族にして云々などとはとても言えない
状態であったのだ。日本民族が誕生するのは、671年に律令制度が施行され、日本国号が制定されたあとの話である。それでも日本人は雑種であることには変わりがない。
次にシナの文献に倭人が登場するのは『宋書』の「倭国伝」(488年)である。讃、珍、済、興、武の五人の倭王のことが記されている。この人たちは720年完成の『日本書紀』記載の系譜に合致するところから、それぞれ、履中、反正、允恭、安康、雄略の諸天皇と認めるのが通説である。『宋書』「倭国伝」中の「倭王武の上奏文」には、「むかしより祖禰(そでい)は、躬(み)に甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、寧(やす)らかに処(お)るに遑(いとま)あらず。東は毛人の五十五國を征し、西は衆夷の六十六國を服し、渡りて海北の九十五國を平らぐ」と記されている。
祖禰は祖父である禰という意味で、禰は仁徳天皇の名前である。つまりこの文で雄略天皇は祖父仁徳天皇の事績をつたえている。東の毛人の五十五國は上毛野國(群馬県)、下毛野國(栃木県)に代表される関東諸国、西の衆夷の六十六國は九州諸国、中間の中部、近畿、中国、四国の諸国はかつて邪馬台国の女王と狗奴国の男王を支持した諸国が、今度は連合して、仁徳天皇を共通の倭王として戴いたのである。海北九十五國は韓半島の諸国のことを指す。高句麗が南下して百済を征服しようとしたが、百済王の太子・貴須(きしゅ)は難波の仁徳と同盟して、仁徳を倭王として承認、証拠として七支刀をつくって贈った。369年の日付と銘文が 刻してある。奈良の石上神宮に現存する。かくして369年は河内王朝の建国の年であり、畿内の倭国の起源となった。
現在の中国吉林省に「広開土王碑」(414年建立)があって、碑文に「倭は辛卯(しんぼう)の年(391年)をもって来たりて海を渡り、百殘・新羅を破り、もって臣民となす」とある。倭王武の祖父禰が九十五國を平らげたという事件のことだ。広開土王は、ときの高句麗王である。岡田氏によれば、この後、倭と百済の連合軍は407年まで戦いを続けるが、その後の戦闘は伝えられていないという。倭王禰、すなわち仁徳天皇はこの頃死んだようだ。
412年に広開土王が死んで高句麗と倭の間に和解が成立した。翌413年には、高句麗の長寿王の使者と、仁徳天皇の息子の倭王・讃(履中天皇)の使者が連れ立って今の南京にあった東晋の朝廷を訪問した。この時すでに実権を握っていた将軍・劉裕は、自ら皇帝となって宋朝を建てた。武帝である。この宋朝と河内王朝の倭国は、倭王・讃の弟の倭王・珍(反正天皇)、倭王・済(允恭天皇)、その息子の倭王・興(安康天皇)、倭王・武(雄略天皇)の二世代、五王にわたって友好関係を保った。すべて『宋書』などに記されている。
『随書』および『北史』に600年「倭王、姓は阿毎(あま)、名は多利思比孤(たらしひこ)、阿輩鶏弥(おほきみ)と号す」という者が、隋の都、大興に使いを遣わしてきた、とある。その記録には「王の妻は鶏弥(きみ)と号す。太子は利歌弥多弗利(りかみたふつり)となづく」とあった。よってこの時の倭王は男であったことは間違いない。しかし『日本書紀』では女性の推古天皇が在位したとなっている。倭王・多利思比孤は二度目の使いを608年に送っている。例の国書『日出づる処の天子・・・・・・」を持たせて。随の皇帝・煬帝は翌年裴世清(はいせいせい)を倭国に遣わした。難波津経由で邪靡堆(やまと)に着いて、男王に会っている。王は非常に喜んで問答をしたという。この王は誰だったのか、太子も聖徳太子ではないし、小野妹子の名も出てこない。
随はまもなく唐に変わり、唐は韓半島の利権を取り戻すべく高句麗を攻めるが失敗する。それでまず百済を滅ぼしにかかる。百済と同盟していた倭国はともに敗北(660年)、次いで高句麗が滅ぼされた(668年)。
この間、倭国は撤退して守りを固め、大津に遷都して天智天皇が即位して668年の建国に至る。近江律令の施行によって日本國が誕生する運びとなる。高句麗をも滅ぼした唐は半島から撤退して670年代には遼河の西の方に撤退してしまう。この理由は華北の生態系が破壊されてしまって、人口の中心が江南に移ったためと岡田氏は説く。韓半島を経由するより、日本を差配するには海上交通のほうが有利となり、さらに大船建造ができはじめたのである。おかげで新羅は半島統一することが出来た。
ここで再び住民のことを考えてみよう。『随書』「東夷伝」(636年)には、おおよそ6世紀末から7世紀初めの見聞が書かれているが、百済の住民は百済人だけではなく、高句麗人と新羅人と倭人と漢人とで成り立っていると書かれているそうだ。新羅については、新羅人だけでなく、高句麗人と百済人と漢人である。同時代の裴世清の倭国遣使の記録には日本列島には秦王国というのがあり,それは漢人の國だという。『新撰姓氏録』(814年)によると、日本には高句麗系もいれば、漢人系の秦氏も漢(あや)氏もいるし、任那系、新羅系、百済系もいる。要するに住民の種族構成は、韓半島も日本列島もだいたいおなじで、あらゆる種族が混ざっていた。
白村江敗戦の後、倭人は半島から駆逐されてしまい、新羅は残りの種族をすべて吸収して統一新羅王国をつくった。つまり民族国家誕生への第一歩だ。このあたりはすべて岡田英弘氏の受け売りであるが、このあと、いよいよ同氏の独擅場になる。
白村江の戦いの後、新羅にしてみれば対馬海峡でとどまらず、来ようと思えば難波津まで水路の一本道であった。当時の情勢からはそこまで統合できたはずなのに、なぜそうならなかったのか。それは天智天皇をとりまく華人のアドバイザーたちが身の危険を感じたからだった。
それまで倭国は列島全体ではなく、近畿の一部を占めるに過ぎなかった。経済的基盤は百済を通じての南朝との商売だった。輸入商品を売りさばく市場としての難波を中心としての倭国だった。倭国王の宮廷の経営はそれで成り立っていたわけである。その根底がなくなってしまった。
立て直すために打つ手としては先ず人の統合である。無能無力の原住民と共同して統合するしかない。次に言葉を転換しようと考えた。韓半島の公用語は漢語であるが、それを使うことはやめよう。倭人の言葉を採用して共通日本語を作ろうと考えた。(岡田氏はマレーシアのマレー語標準語作りを念頭にバハサ・ニッポンと書いている。)それで大変な無理をして、漢語で考えた文章を倭人の言葉で一語一語置き換え、日本語を創りだした。『万葉集』は日本語を無理やり発明した記録だという。なるほどそういう見方があったかと意表を突かれた思いがする。柿本人麻呂という天才がいた。当然に渡来人で漢人系だ。そうでなければ和歌が詠めるはずがない。だいたい五七調そのものが、シナ南北朝の楽府(がふ)の長短句のまねなのだそうだ。ともかく、それまでの倭人と百済人と高句麗人と任那人と漢人を総称して全部包括する新しいアイデンティティとしての日本人ができた。絆が日本語だということであろう。多種族の統一国家の象徴が新しい国号、日本だった。
東洋史、ことに中国の歴史と朝鮮半島の歴史は墨で消された国史教科書しか知らない世代の筆者は、これまでまじめに読んだことがなかった。それだけに岡田氏の著作集一冊をほじくり回すばかりで、どうにもまとめがつかない。いつも以上に稚拙な文章しか書けなくて疲労困憊した。それでもいい書物に巡りあったという気持ちは続いている。
今回は雑種日本がテーマだったつもりである。
まだ書いておきたいこととして『日本書紀』と 『万葉集』があるが、いつのことになるやら。しばらくは読むことに集中しよう。
今回も『岡田英弘著作集Ⅲ 日本とは何か』(藤原書店 2014)のお世話になった。(2016/9)