2019年8月23日金曜日

津田左右吉ーー記紀と皇室

津田左右吉著『古事記及び日本書紀の研究』新書版 毎日ワンズ(2018)が図書館にあったので借りてきた。表紙には「建国の事情と万世一系の思想」の文字がやや小さく添えられている。これは独立した一文であり、本書の第9ページから46ページまでを占める。編集部の説明に、

 本書は、昭和十五年に政府が発売禁止にした『古事記及び日本書紀の研究』(津田左右吉著・岩波書店)並びに月刊誌『世界』第四号(昭和二十一年・岩波書店発行)に掲載された「建国の事情と万世一系の思想」(津田左右吉著)を底本とし、編集に際し『津田左右吉全集』第一巻(昭和六十二年・岩波書店)をも参考にしました。 「建国の事情と万世一系の思想」は全文を掲載、『古事記及び日本書紀の研究』については編集部において割愛したところがあります。また難解な表現を一部現代風に改め、ルビも施しました。
とある。
元東大総長の南原 繁氏が「津田左右吉博士のこと」という前書きを寄せている。ここに発禁当時の事情が簡潔に述べられている。
昭和十四年東大法学部に東洋政治思想史の講座が新設され、早稲田大学から津田博士が出講したことが事件の引き金になった。翌十五年二月、博士の主著『神代史の研究』ほか三冊(編集部注:『古事記及び日本書紀の研究』『日本上代史研究』『上代日本の社会及び思想』)が発禁となった。起訴、予審を経て皇室の尊厳を冒涜するという罪名の下に公判になり昭和十六年十一月から翌年一月まで続く。五月に下った判決は『古事記及び日本書紀の研究』のみが有罪で、禁固三カ月(執行猶予)であった。これに対して検事控訴があったが、裁判所が受理する以前に時効となり、この事件そのものが免訴となってしまった。これは戦争末期の混乱によるものと思われると記されている。
続いて南原氏の見解が述べられているのでそのまま引用する。
 博士の研究は、そもそも出版法などに触れるものではない。その研究方法は古典の本文批判である。文献を分析批判し、合理的解釈を与えるという立場である。そして、研究の関心は日本の国民思想史にあった。裁判になった博士の古典研究にしても、『古事記』『日本書紀』は歴史的事実としては曖昧であり、物語、神話にすぎないという主張であった。その結果、天皇の神聖性も否定せざるを得ないし、仲哀天皇以前の記述も不確かであるという結論がなされたのである。右翼や検察側は片言隻句をとらえて攻撃したが、全体を読めば、国を思い、皇室を敬愛する情に満ちているのである。
また南原氏は津田博士の姿勢について、「戦後の学界、思想界にはあるイデオロギーからする極端な解釈が流行したことがあるが、博士はわれわれから見て保守的にすぎると思われるくらいに皇室の尊厳を説き、日本の伝統を高く評価された。まことに終始一貫した態度をとられた学者であった」と付言している。

昨年、本書出版の新聞広告を目にしたときから一度内容に触れてみたいという気持ちがあった。理由は「発禁」という刺激的な事件の源だということである。戦前のことだから、不敬罪のようなことであろうとは考えていた。本書の265頁に「津田博士起訴」という見出しの新聞記事の部分が小さく載せられている。普通にはとても読める大きさの文字ではないのを拡大鏡で見ると、出版法26条に該当するものとして起訴…四冊は内容中に不穏のものがあると発禁処分に附されたので司法権の発動となった…などと見える。出版法は新憲法下では有名無実となったので廃止されたが、ちなみに第26条は「皇室ノ尊厳ヲ冒瀆シ、政体ヲ變壊シマタハ国権ヲ紊乱セムトスル文書図画ヲ出版シタルトキハ著作者、発行者、印刷者ヲ二月以上二年以下ノ「軽禁錮」ニ処シ「二十円以上二百円以下ノ罰金ヲ付加ス」とある。

「建国の事情と万世一系の思想」(以下では<万世一系>と略す)の執筆が上記発禁に関連していることを筆者は何かで見たことがある。上記発禁書物の4冊すべてが岩波書店発行であって、社主岩波茂雄もともに起訴され有罪にされた。このことと、『古事記及び日本書紀の研究』(以下では<研究>と略す)および<万世一系>が一書として、岩波ではなく毎日ワンズから出版されていることとが、なにか関連があるらしく想像している。このことは一旦棚上げにしておくが、<万世一系>が岩波書店『世界』編集長の吉野源三郎氏の依頼に基づいて執筆されたことはわかっている。
インターネットに「津田左右吉氏の大逆思想」という物々しい見出しの記事がある。これは蓑田胸喜というこの事件の引き金を引いた人物が出版した文書の国会図書館デジタルコレクションであるので、蓑田が津田博士の著作のどの部分を問題としているか、一々の文章が参照できる。これでみると、津田博士の著作からの引用文が多数あり、傍点やら記号やらで蓑田が攻撃している箇所が示されている。文献指摘という言葉でたくさんの引用がなされているが、主張の内容は全く脈絡の不明な文ばかりであって中身がない。有罪と判定された実質が一切不明なので裁判官の考えもわからないままに時効・免訴に終わった事件であるからには問題にすることは無用と考える。

津田左右吉は<研究>の結論部分にいう。「『古事記』と『日本書紀』をその語るがままに解釈すると、その説き示そうとすることは、わが皇室及び国家の起源である。上代の部分の根拠となっている最初の『帝紀』『旧辞』は六世紀の中頃のわが国の政治形態に基づき、当時の朝廷の思想をもって、皇室の由来とその権威の発展の状態とを語ろうとしたものである。それは少なくとも一世紀以上の長い間に、幾様の考えをもって幾度も潤色せられ、あるいは変改せられて記載されることになった。だから、種々の物語なども歴史的事実の記録として認めることはできない。しかし、それに見えている思想や風俗が物語の形成せられた時代の厳然たる歴史的事実である。全体の結構の上にも、それを貫通している精神の上にも、当時の朝廷及び朝廷において有力なる地位をもっていた諸氏族の政治観、国家観が明瞭にあらわれているのであるから、そういう人々の思想に存在している国家形態の精神を表現したものとして、それが無上の価値を有する一大宝典であることはいうまでもない。物語が実際に起った事件の経過を記したものでないことは、それでもって記紀の価値を減ずるものではない。『古事記』及びそれに応ずる部分の『日本書紀』の記載は、歴史ではなくて物語である。そして物語は歴史よりもかえってよく国民の思想を語るものである。」津田の記紀についての考えはここに言い尽くされている。

併載された<万世一系>はそういう津田の思考のいわばダイジェスト版である。簡単に記録しておこう。

一 上代における国家統一の情勢
皇室の御祖先を君主として戴いていたヤマトの国家が日本民族を統一した情勢が述べられている。日本の国家は「日本民族」と称し得られる一つの民族によって形づくられた、とあって、この民族は近いところにその親縁のある民族を持たない。異民族が過去にいたとしても、時とともに同化され融合されただろうとの見方である。それより前の、この民族の先史時代は全くわからぬ長い長い年月であったろうと述べる。
先史時代の末期に想像される主たる生業は農業で、親子、夫婦の少数の結合による家族形態が整い、安定した村落が形づくられる。これら村落を包含する小国家が多く成り立ち、政治的には日本民族は多くの小国家に分かれていた。小国家の君主は政治的な権力とともに宗教的権威をもち、神の祭祀など行って、それを配下の民衆のために行うことも政治のうちであった。
前一世紀の末頃、九州西北部地方の小国家のいくつかが朝鮮半島西南の海路に沿って進み、その地方に広がっていたシナ人と接触することで、日本民族の世界的存在意義が始まる。津田は二つのヤマトを東と西とに想定している。西のヤマトは九州西北の邪馬台で、ある時期にヒミコが君臨し、東のヤマトは近畿地方の大和である。いずれも朝鮮半島及びその先にいたシナとの接触で勢力を伸ばしていたが、四世紀に大陸東北部の遊牧民族の活動によリシナ勢力が覆され半島にも力がなくなると邪馬台は勢いを失う。この機に東の大和が九州でも力を得て、半島から瀬戸内航路、近畿まで支配領域を広めることができた。この間、三世紀には強力であった出雲地方をも得て、五世紀に入ってからは九州南部の熊襲もほぼ完全に服属させることができたようである。東北方の諸小国が大和の国家に服属した情勢は少しもわからぬが、西南方において九州の南半が帰服した時代には、日本民族の住地のすべては大和の国家の範囲に入っていたことが推測せられる。それはほぼ今の関東から信濃を経て越後の中部地方に至るまでである。
「皇室の御先祖を君主として戴いていたヤマトの国家が日本民族を統一した情勢が、ほぼこういうものであったとすれば、普通に考えられているような日本の建国という際立った事件が、ある時期、ある年月に起こったのでないことは、おのずから知られよう。日本の建国の時期を皇室によって定め、皇室の御祖先がヤマトにあった小国の君主にはじめてなられたとき、とすることができるかもしれぬが、その時期はもとよりわからず、また日本の建国をこういう意義に解することも妥当とは思われぬ。もし日本民族の全体が一つの国家に統一せられたときを建国とすれば、そのおおよその時期はよし推測し得られるにしても、確かなことはやはりわからず、またそれを建国とすることもふさわしくない。日本の国家は長い歴史的過程を経て漸次に形づくられてきたものであるから、とくに建国というべきときはないとするのが、当たっていよう。要するに、皇室のはじめと建国とは別のことである。日本民族の由来がこの二つのどれともまったくかけ離れたものであることは、なおさらいうまでもない。」
「昔は、神代の説話に基づいて皇室ははじめから日本全土を領有していたように考え、皇室のはじめと日本全土領有という意義での建国を同じと思い、またこの島における日本民族のはじめをも混雑して考えてきたようなところがあるが、それは上代の歴史的事実を明らかにしないからであった。上に述べたヤマト国家による統一の過程には一々の根拠があるが、これが事実に近いものとするなら、ジンム天皇東征物語は決して歴史的事実ではないことがわかる。それはヤマトの皇都の起源説話である。」
皇室の権威が次第に固まってきた時代が六世紀はじめと津田は考える。権威を一層固めるために朝廷において皇室の由来を語る神代の物語がつくられた。それには皇祖が太陽としての日の神とされて天上にあるものとしたために、皇孫がこの国に降ることを語らねばならず、降られた土地がヒムカとされたために、現に皇都のあるヤマトを結びつける必要が生じて東征物語がつくられたのである。ヤマトに皇都がある理由もいつからかもまったく不明であったから、この物語はおのずから皇都の起源説話になったのである。「東征は日の神の加護によって遂げられたことになっているが、これは天上における皇祖としての日の神の皇都が「天つ日嗣」(編集部注:アマテラスの系統の継承)を受けられた皇孫によって地上のヒムカに遷され、それがまたジンム天皇によってヤマトに遷されたことを語ったものであり、皇祖を日の神とする思想によってつくられたものである。だからそれを建国の歴史的事実としてみることはできない。」
それから後の政治的経営として『古事記』や『日本書記』に記されていることも、チュウアイ天皇の頃までのは、すべて歴史的事実の記録とは考えられぬ。ただ、スシン(崇神)天皇からあとは、歴史的存在として見られよう。それより前のについては、系譜上の存在がどうあろうとも、ヤマト国家の発展の形成を考えるについては、それは問題の外に置かれるべきである。創業の主ともいうべき君主のあったことは何らかの形でのちに言い伝えられたかと想像せられるが、その創業の事跡は皇室についての何事かがはじめて文字に記録せられたと考えられる四世紀の末において、既に知られなくなっていたので、記紀にはまったくあらわれていない。
記紀についての以上の説明は非常に明快で合理的だと思う。「真の上代史はまだできあがっていない。すなわち『何人にも承認せられているような歴史が構成せられていない』ということである。史料批判が歴史家によって一様でなく、したがって歴史の資料が一定していないことがその一つの理由である。」と付言されていて、ここに述べるところは私案であると断っているが、学界並びに一般世間に提供するだけの自信は持っていると書く。

二 万世一系の皇室という観念の生じまた発達した歴史的事情
津田はこれまで万世一系の皇室が続いてきた事情を各時期について、それぞれ要因を語ったのちに現代の問題に移っているが、記紀の内容が繰り返される部分もあり煩雑になるので時間的な推移は省略して、筆者が読んだ限りでの結論部分について記すことにする。
この万世一系という言葉、子供の時から聞き慣れているせいで、意味を考えたことがない。あらためて確認すると、一つの血統が永久に続くことを意味し、血統は皇室の血統のことであるので皇統という用語が使われる。本書で津田左右吉が表題に用いているが、議論するに当たってあらためて意味を確認することはしていない。したがって文章の中では長く続く、続ける、続いた、ことに論点を絞り、その対象は近世までは存在としての皇室であり、近現代では制度としての皇室すなわち天皇制の問題となっている。
章立ての表題は「万世一系の皇室という観念の生じまた発達した歴史的事情」として歴史的事情を述べるようにはなっているが、内容としては歴史的事情に重ねて発表時における著者の思想を説いている。この論文は昭和21年(1946)発行の雑誌『世界』第四号に記載された著作で、発売は3月半ばであったろうと推測するが、この年は1月から4月にかけては占領軍当局と政府の間で新憲法の内容に関する議論が重ねられていた最中であった。戦時中の神がかり的な軍部の暴走が破滅的な敗戦を招いたことで、神と祀り上げられた天皇にも社会的批判がおよび、民主主義と天皇制との共存可否などがかしましく論議されていた。こういう中にあって論文で津田は民主主義と皇室は共存できることを強調した。
すなわち、「現代に於ては、国家の政治は国民みずからの責任をもってみずからすべきものとされているので、いわゆる民主主義の政治思想がそれである。この思想と国家の統治者としての皇室の地位とは、皇室が国民と対立して外部から国民に臨まれるのではなく、国民の内部にあって国民の意思を体現せられることにより、統治をかくの如き意義において行われることによって、調和せられる。国民の側からいうと、民主主義を徹底させることによってそれができる。」と説き、さらに、「具体的にいうと、国民的結合の中心であり国民的精神の生きた象徴であられるところに、皇室の存在の意義があることになる。そして国民の内部にあられるが故に、皇室は国民とともに永久であり、国民が父祖子孫相承けて無窮に継続すると同じく、その国民とともに万世一系なのである」と付言する。
こうして津田は新憲法に先んじて皇室を国民結合の象徴とうたい万世一系と結論した。そうして締めくくりに次の文章を掲げる。
「国民自ら国家のすべてを主宰すべき現代においては、皇室は国民の皇室であり、天皇は「われらの天皇」であられる。「われらの天皇」は我らが愛さねばならぬ。国民の皇室は国民がその懐(こころ)にそれを抱くべきである。二千年の歴史を国民とともにせられた皇室を、現代の国家、現代の国民生活に適応する地位に置き、それを美しく、それを安泰にし、そうしてその永久性を確実にするのは、国民自らの愛の力である。国民は皇室を愛する。愛するところにこそ民主主義の徹底した姿がある。国民はいかなることをもなし得る能力を具え、またそれを成し遂げるところに、民主政治の本質があるからである。そうしてまたかくの如く皇室を愛することは、おのずから世界に通ずる人道的精神の大いなる発露でもある。」

これはこれで立派な文章ではあるが何か書きすぎの感がしないでもない。本書の中に「われらの摂政殿下」の声が沸き起こったことが国民が皇室を敬愛することの一例に挙げられている。1921年、昭和天皇が皇太子時代に洋行して戻ったのち11月に摂政となったのであった。上にいう「われらの天皇」の津田の内部での具体像は「われらの摂政殿下」の延長ではなかったか。昭和になって天皇が国民から引き離された事態を痛恨の思いで見ていたのでなかったろうか。津田は皇室ファンなのだ。もとよりこれは筆者の直感にすぎない。

筆者の個人的な感触として津田は昭和天皇を敬愛していたと察している。上に述べた皇室を愛する云々の言葉も対象は昭和天皇に思えてならない、と同時にあるいは津田はもともと皇室ファンではなかったのかという疑問に似た感情をもつように至った。それは前半の皇室が長らく存在し得た諸事情についての説明も、国民の心情に拠るところが多く感じられるからである。根底に皇室愛をもって論じたのでないかという疑念である。それは悪いことではないが説明が論理ではなく感情的だという意味である。
論文が発表された頃の日本社会の人口構成は戦争によって異常に歪まされていた。数年後に出生数が動き出す。「国民が父祖子孫相承けて継続する」という観念は、当時静かな平泉にあった津田がまだ昔ながらに持続していたものかも知れない。いまこれを読む現代の読者は、少子高齢化、人口減少という事態を迎えていて、天皇の生前退位も経験した。先例に従っての即位の礼やら大嘗祭やらも予定されている。万世一系は国民が皇室を敬愛する限りは安泰であろうとは思うものの、この論文にはすこし考えさせられた。
『建国の事情と万世一系の思想』は青空文庫で読める。https://www.aozora.gr.jp/cards/001535/files/53726_47829.html
(2019/8)

2019年8月4日日曜日

感想 まだ記紀の周りをうろついて…

神野志隆光『古事記と日本書記 「天皇神話」の歴史』講談社現代新書 1999年を読む。
著者の姓の珍しさに惹かれて近づいた本。駒場教養学部現役教授だった頃には、テキストの読みにたいする厳しさを、学生たちは教師への最高位評価の「大鬼」を捧げることでこたえたという。著者の姓は「こうのし」とお読みする。
出版されてはや20年、この間、学界の研究にも新しい知見が数多くあっただろうから、本書に述べられた言説はもはや古くなっているかもしれない。しかし、1700年も前の時代の文献について教わるに当たって、読者たる筆者にとってはなんであれ新しい知見であることに変わりはない。
さて読みはじめて戸惑ったのは易しい言葉遣いであるのに理解が難しいことだった。記紀二書のそれぞれの成り立ちを追う過程が説明される文章を、実に緻密に読まなくては趣旨が会得できないという、ひとえに読み手に負わされた課題に立ち向かわされた。けれども、西洋哲学を説く日本語文章の難解さなどとはまったくちがう愉しさがあったことは特記できる。

記紀、あるいは記紀神話という言い方でどちらも同じ神話をもつと思われている。『古事記』と『日本書紀』は当然に別個の書物であって、それぞれがもつ世界観によって異なる物語がつくられている。これが神野志博士の説く基本前提である。たとえば、『古事記』上ッ巻と『日本書紀』巻一・巻二の神話物語をくらべる場合の一例。『古事記』ではイザナミは死んで黄泉の国へ行ってしまう。黄泉の国から逃げ帰ったイザナキは禊(みそぎ)して穢れを祓う最終段階で、天照大御神、月讀命、建速須佐之男命の三貴神を得る。
『日本書紀』ではイザナミは死ぬことはなく、黄泉の国もない。二神が共同して、大八州に続いて山川草木を生み、さらに日の神、月の神、ヒルコ、スサノオまで生む。日の神は大日孁貴(オホヒルメノムチ)と名づけられ、その霊異を褒められて天界を統べるようにと天上に送られた。スサノオはその無道のゆえに二神は根の国に追放してしまった。

天孫降臨に例をとればアマテラスの役割はまったく別物として語られている。『日本書紀』第九段に、天照大神の子、アマノオシホミミノミコトがタカミムスヒノミコトの娘タクハタチヂヒメを娶ってニニギノミコトをうまれた、とある。アマテラスの登場はこれだけであって、以後何もしない。地上平定を意図してニニギを送り出すのはタカミムスヒである。更にタカミムスヒが発意しただけでは地上世界の君主となることは保障されない。天の世界に属するだけでは条件不足で、地上においてタカミムスヒの発意を実現するためには、降った神とその子孫による経営が必要だった。よって五代のち(*)のカムヤマトイワレビコ、つまり神武天皇の働きがヤマトにあって天下を治めることになった。『古事記』で降臨したニニギがはじめから葦原中国を支配するよう決められていたのとは違う(*タカムスヒータクハタチヂヒメーニニギーヒコホホデミーウガヤフキアエズーカムヤマトイワレビコ)。『日本書記』では降った神たちが自力で天皇への道を開いた。これを著者は「経営」と評する。

著者、神野志隆光氏は『古事記』『日本書記』をそれぞれの世界像(コスモロジー)によってつくられたと説く。『古事記』はムスヒの、『日本書紀』は陰陽のコスモロジーだという。ムスヒは「万物を生成する根源的霊力(エネルギー)を意味する」。ムスヒの神は『古事記』の核心をなす。ムスヒ二神と記述されるのは高皇産霊神(タカミムスヒノカミ)と神産巣日神(カムムスヒノカミ)だ。要所要所で他の神の仕事を助けに出現している。天地はすでに成り立ち、高天原という天の世界にムスヒをはじめとする神々が出現するところから『古事記』は始まる。『日本書記』が陰陽のコスモロジーだというのは、天地が分かれ、イザナキ・イザナミにいたる神々が出現する第一段から第十一段まで徹底して陰陽の原理すなわち男神女神の共同によって天皇の世界が成り立った物語であるからだ。ちなみに『日本書記』には高天原はない。

記紀はそれぞれ、断片的にあったかもしれない伝承を世界観にしたがって別個に構成してできている。であるのに、二つの神話を同一であるかのように考える習慣から理解に混乱が生じる。一例を、著者は『万葉集』の読み方で、柿本人麻呂の草壁皇子挽歌(巻2・167)にみる。草壁皇子が天武天皇の崩御のあと、皇太子でありながら即位することが叶わずして早世したことを歌の意味に込めている部分の解釈である。
天地の 初めの時 ひさかたの 天の河原に 八百万 千万神の 神集ひ 集ひいまして 神分かち 分かちし時に 天照らす 日女(ひるめ)の命 天をば 知らしめすと 葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合いの極み 知らしめす 神の命(みこと)と 天雲の 八重かき分けて 神下し いませまつりし高照らす 日の皇子は 飛ぶ鳥の 浄みの宮に 神ながら 太敷きまして 天皇の 敷きます国と  天の原 岩戸を開き 神上がり 上がりいましぬ (後略)
これは前半部分である。「神下」した「日の皇子」が「神上」がった、という。「日の皇子」は誰かというに、上からの続きでは天孫降臨のニニギとも、下への続きからは天武天皇とも考えそうになる。著者は、万葉集注釈家が記紀に、ニニギが降臨したとあるのを動かせない前提にして解釈しようとするとして批判する(142-8ページ)。そして、素直に読めば天武天皇が降臨したのだと断言する。
神々が集まって神の領分を分けたとき、天は日女の命、地上は神の命が統治するのだと決まって、神降ろして行かせ奉った高照らす日の皇子が飛鳥浄御原宮に神として御殿を構えられ…と読む。素直に人麻呂が歌う通りに読めという、厳しいテキスト理解を強いる。

既に書いたが、天武天皇が降臨したのだ。「すべての神々が関わった定めに根拠づけられて、世界のある限り貫かれる秩序を実現する存在として、天武天皇があらわれる」。先立つ天皇たちは存在したけれども、天武天皇こそ、正統な、永続する秩序のはじまりをになうという。「柿本人麻呂は天武天皇を始祖として神話化したというべきなのである」。

『日本書記』天武2年8月25日条に、新羅の弔喪使(前の天皇の弔いの使い)を受けず、賀騰極使(新天皇の即位の賀の使い)だけを受け入れたとある。対外的に、前王朝と断絶した新王朝であることを明らかに表明したのだ、と文献(秋間俊夫1976)を参照している。また天武が歴史上はじめて「天皇」と称したとの文献(東野治之1977)も参照している。だから天武天皇は始祖と言える。

このように著者は『古事記』『日本書記」に現れた神話にこだわることなく、人麻呂の歌を素直に読むことを教えてくれる。ただし、この歌の途中にわずかに引っかかる部分があるという。すんなりと読み下せたはずの文脈に、何かつじつまの合わない箇所があることにわれわれも気がつく。「途中に落差をつけて重なっている、二段式の滑り台を滑降するような」と卓抜な比喩で説明した研究者(粂川光樹「試論・人麻呂の時間」1973)を紹介しながら、このような遡っては辿れない文脈は、古代の歌の口承的性格として理解することができようと記している。

著者は古代の歌の口承的性格と書くが、筆者はこれを古代に限らないと考えている。口頭で長い話を伝える時に、ときとしていま口の端に乗せているのとは別のアイデアが閃くことがある。いつの間にか話が別の軌条に移っていると気がつく経験は誰もがあると思う。口から出てゆく言葉は単線に乗っているが、脳の中では複線が走っている。口頭によるコミュニケーションの特徴だろうと思う。歌には抑揚と拍子の調子が伴うから、こういう特徴が発生しやすいだろうと思う。そのために、口頭で読み下すときには抵抗を感じない箇所も、テキストではつながりが悪いということも起こり得る。この人麻呂の挽歌の前半の終わりから後半に移る箇所にはそういうことが認められる。よって筆者は著者の説明を少し広げて、ここに掲げた前半につづく「わが大君」が歌の前後半をつなぐ働きをしていると解したいが叱られるであろうか。
 …神上がり 上がりいましむ 我が大君 皇子の命の 天の下 知らしめしせば 春花の 貴からむと…

さきに記したように、著者は、人麻呂の挽歌をもニニギが降臨したかのように説明する万葉注釈があると批判する。注釈家が、記紀の成立は人麻呂歌より20年以上も後であるにかかわらず、人麻呂も記紀が基づくのと同じ神話を踏まえて歌ったと見るからだ、としている。言い換えれば、ニニギ伝説は記紀以前にも知られていたのかもしれないが、そうであるとしても論拠が何もなく単に注釈家がもつ刷り込みをもとに論じていると批判するのだ。著者の立場で言えば、『古事記』と『日本書記』は異なる世界の神話であるから、そこに「同じ神話」を見ようとすることがすでに無効であるということである。

そういうことよりも、著者がこの人麻呂の挽歌で強調するのは、上に記したように人麻呂はこの歌で、天武天皇を神にしてしまったことである。記紀を二つに分けて考えることで、この考察が可能になった。そして著者はこのことを人麻呂による新たな神話であるとしている。これも含めて多元的な神話を見るべきであろうと主張する。

長くなるのでここには触れないが、本書で著者は「祭祀と神事」「二つの神話」の一元化などが『古事記』と『日本書記』の合成などで作為的に行われてきた歴史を文献に拠って明らかにする。章立てでは、本居宣長を最初に置いて、『古事記伝』によって古典としての『古事記』の確立を果たしたと評価する。それは「古昔より世間おしなべて、只此書紀をのみ、人たふとび用」いる中世の状況を宣長は転換したと見るからである。次いで遡って古代神話を論じ、順次、天武期の中国を模倣した国家創始、平安期の六度に及ぶ「日本書記講筵」などによる書紀作り変え、中世の神道・仏教・儒教をあわせて論じる中心に置かれる書紀、明治憲法での古事記神話による記紀一元化をそれぞれ簡潔に括って、天皇神話がつくられてきた様子を論じている。『日本書記』はこのように利用されてきたのだとあらためて思い知る。新天皇即位や大嘗祭儀式などをひかえている昨今の状況から一段と興味がそそられる。気がつけば、本書の副題は「天皇神話の歴史」であった。(2019/8)