本書は、昭和十五年に政府が発売禁止にした『古事記及び日本書紀の研究』(津田左右吉著・岩波書店)並びに月刊誌『世界』第四号(昭和二十一年・岩波書店発行)に掲載された「建国の事情と万世一系の思想」(津田左右吉著)を底本とし、編集に際し『津田左右吉全集』第一巻(昭和六十二年・岩波書店)をも参考にしました。 「建国の事情と万世一系の思想」は全文を掲載、『古事記及び日本書紀の研究』については編集部において割愛したところがあります。また難解な表現を一部現代風に改め、ルビも施しました。とある。
元東大総長の南原 繁氏が「津田左右吉博士のこと」という前書きを寄せている。ここに発禁当時の事情が簡潔に述べられている。
昭和十四年東大法学部に東洋政治思想史の講座が新設され、早稲田大学から津田博士が出講したことが事件の引き金になった。翌十五年二月、博士の主著『神代史の研究』ほか三冊(編集部注:『古事記及び日本書紀の研究』『日本上代史研究』『上代日本の社会及び思想』)が発禁となった。起訴、予審を経て皇室の尊厳を冒涜するという罪名の下に公判になり昭和十六年十一月から翌年一月まで続く。五月に下った判決は『古事記及び日本書紀の研究』のみが有罪で、禁固三カ月(執行猶予)であった。これに対して検事控訴があったが、裁判所が受理する以前に時効となり、この事件そのものが免訴となってしまった。これは戦争末期の混乱によるものと思われると記されている。続いて南原氏の見解が述べられているのでそのまま引用する。
博士の研究は、そもそも出版法などに触れるものではない。その研究方法は古典の本文批判である。文献を分析批判し、合理的解釈を与えるという立場である。そして、研究の関心は日本の国民思想史にあった。裁判になった博士の古典研究にしても、『古事記』『日本書紀』は歴史的事実としては曖昧であり、物語、神話にすぎないという主張であった。その結果、天皇の神聖性も否定せざるを得ないし、仲哀天皇以前の記述も不確かであるという結論がなされたのである。右翼や検察側は片言隻句をとらえて攻撃したが、全体を読めば、国を思い、皇室を敬愛する情に満ちているのである。また南原氏は津田博士の姿勢について、「戦後の学界、思想界にはあるイデオロギーからする極端な解釈が流行したことがあるが、博士はわれわれから見て保守的にすぎると思われるくらいに皇室の尊厳を説き、日本の伝統を高く評価された。まことに終始一貫した態度をとられた学者であった」と付言している。
昨年、本書出版の新聞広告を目にしたときから一度内容に触れてみたいという気持ちがあった。理由は「発禁」という刺激的な事件の源だということである。戦前のことだから、不敬罪のようなことであろうとは考えていた。本書の265頁に「津田博士起訴」という見出しの新聞記事の部分が小さく載せられている。普通にはとても読める大きさの文字ではないのを拡大鏡で見ると、出版法26条に該当するものとして起訴…四冊は内容中に不穏のものがあると発禁処分に附されたので司法権の発動となった…などと見える。出版法は新憲法下では有名無実となったので廃止されたが、ちなみに第26条は「皇室ノ尊厳ヲ冒瀆シ、政体ヲ變壊シマタハ国権ヲ紊乱セムトスル文書図画ヲ出版シタルトキハ著作者、発行者、印刷者ヲ二月以上二年以下ノ「軽禁錮」ニ処シ「二十円以上二百円以下ノ罰金ヲ付加ス」とある。
「建国の事情と万世一系の思想」(以下では<万世一系>と略す)の執筆が上記発禁に関連していることを筆者は何かで見たことがある。上記発禁書物の4冊すべてが岩波書店発行であって、社主岩波茂雄もともに起訴され有罪にされた。このことと、『古事記及び日本書紀の研究』(以下では<研究>と略す)および<万世一系>が一書として、岩波ではなく毎日ワンズから出版されていることとが、なにか関連があるらしく想像している。このことは一旦棚上げにしておくが、<万世一系>が岩波書店『世界』編集長の吉野源三郎氏の依頼に基づいて執筆されたことはわかっている。
インターネットに「津田左右吉氏の大逆思想」という物々しい見出しの記事がある。これは蓑田胸喜というこの事件の引き金を引いた人物が出版した文書の国会図書館デジタルコレクションであるので、蓑田が津田博士の著作のどの部分を問題としているか、一々の文章が参照できる。これでみると、津田博士の著作からの引用文が多数あり、傍点やら記号やらで蓑田が攻撃している箇所が示されている。文献指摘という言葉でたくさんの引用がなされているが、主張の内容は全く脈絡の不明な文ばかりであって中身がない。有罪と判定された実質が一切不明なので裁判官の考えもわからないままに時効・免訴に終わった事件であるからには問題にすることは無用と考える。
津田左右吉は<研究>の結論部分にいう。「『古事記』と『日本書紀』をその語るがままに解釈すると、その説き示そうとすることは、わが皇室及び国家の起源である。上代の部分の根拠となっている最初の『帝紀』『旧辞』は六世紀の中頃のわが国の政治形態に基づき、当時の朝廷の思想をもって、皇室の由来とその権威の発展の状態とを語ろうとしたものである。それは少なくとも一世紀以上の長い間に、幾様の考えをもって幾度も潤色せられ、あるいは変改せられて記載されることになった。だから、種々の物語なども歴史的事実の記録として認めることはできない。しかし、それに見えている思想や風俗が物語の形成せられた時代の厳然たる歴史的事実である。全体の結構の上にも、それを貫通している精神の上にも、当時の朝廷及び朝廷において有力なる地位をもっていた諸氏族の政治観、国家観が明瞭にあらわれているのであるから、そういう人々の思想に存在している国家形態の精神を表現したものとして、それが無上の価値を有する一大宝典であることはいうまでもない。物語が実際に起った事件の経過を記したものでないことは、それでもって記紀の価値を減ずるものではない。『古事記』及びそれに応ずる部分の『日本書紀』の記載は、歴史ではなくて物語である。そして物語は歴史よりもかえってよく国民の思想を語るものである。」津田の記紀についての考えはここに言い尽くされている。
併載された<万世一系>はそういう津田の思考のいわばダイジェスト版である。簡単に記録しておこう。
一 上代における国家統一の情勢
皇室の御祖先を君主として戴いていたヤマトの国家が日本民族を統一した情勢が述べられている。日本の国家は「日本民族」と称し得られる一つの民族によって形づくられた、とあって、この民族は近いところにその親縁のある民族を持たない。異民族が過去にいたとしても、時とともに同化され融合されただろうとの見方である。それより前の、この民族の先史時代は全くわからぬ長い長い年月であったろうと述べる。
先史時代の末期に想像される主たる生業は農業で、親子、夫婦の少数の結合による家族形態が整い、安定した村落が形づくられる。これら村落を包含する小国家が多く成り立ち、政治的には日本民族は多くの小国家に分かれていた。小国家の君主は政治的な権力とともに宗教的権威をもち、神の祭祀など行って、それを配下の民衆のために行うことも政治のうちであった。
前一世紀の末頃、九州西北部地方の小国家のいくつかが朝鮮半島西南の海路に沿って進み、その地方に広がっていたシナ人と接触することで、日本民族の世界的存在意義が始まる。津田は二つのヤマトを東と西とに想定している。西のヤマトは九州西北の邪馬台で、ある時期にヒミコが君臨し、東のヤマトは近畿地方の大和である。いずれも朝鮮半島及びその先にいたシナとの接触で勢力を伸ばしていたが、四世紀に大陸東北部の遊牧民族の活動によリシナ勢力が覆され半島にも力がなくなると邪馬台は勢いを失う。この機に東の大和が九州でも力を得て、半島から瀬戸内航路、近畿まで支配領域を広めることができた。この間、三世紀には強力であった出雲地方をも得て、五世紀に入ってからは九州南部の熊襲もほぼ完全に服属させることができたようである。東北方の諸小国が大和の国家に服属した情勢は少しもわからぬが、西南方において九州の南半が帰服した時代には、日本民族の住地のすべては大和の国家の範囲に入っていたことが推測せられる。それはほぼ今の関東から信濃を経て越後の中部地方に至るまでである。
「皇室の御先祖を君主として戴いていたヤマトの国家が日本民族を統一した情勢が、ほぼこういうものであったとすれば、普通に考えられているような日本の建国という際立った事件が、ある時期、ある年月に起こったのでないことは、おのずから知られよう。日本の建国の時期を皇室によって定め、皇室の御祖先がヤマトにあった小国の君主にはじめてなられたとき、とすることができるかもしれぬが、その時期はもとよりわからず、また日本の建国をこういう意義に解することも妥当とは思われぬ。もし日本民族の全体が一つの国家に統一せられたときを建国とすれば、そのおおよその時期はよし推測し得られるにしても、確かなことはやはりわからず、またそれを建国とすることもふさわしくない。日本の国家は長い歴史的過程を経て漸次に形づくられてきたものであるから、とくに建国というべきときはないとするのが、当たっていよう。要するに、皇室のはじめと建国とは別のことである。日本民族の由来がこの二つのどれともまったくかけ離れたものであることは、なおさらいうまでもない。」
「昔は、神代の説話に基づいて皇室ははじめから日本全土を領有していたように考え、皇室のはじめと日本全土領有という意義での建国を同じと思い、またこの島における日本民族のはじめをも混雑して考えてきたようなところがあるが、それは上代の歴史的事実を明らかにしないからであった。上に述べたヤマト国家による統一の過程には一々の根拠があるが、これが事実に近いものとするなら、ジンム天皇東征物語は決して歴史的事実ではないことがわかる。それはヤマトの皇都の起源説話である。」
皇室の権威が次第に固まってきた時代が六世紀はじめと津田は考える。権威を一層固めるために朝廷において皇室の由来を語る神代の物語がつくられた。それには皇祖が太陽としての日の神とされて天上にあるものとしたために、皇孫がこの国に降ることを語らねばならず、降られた土地がヒムカとされたために、現に皇都のあるヤマトを結びつける必要が生じて東征物語がつくられたのである。ヤマトに皇都がある理由もいつからかもまったく不明であったから、この物語はおのずから皇都の起源説話になったのである。「東征は日の神の加護によって遂げられたことになっているが、これは天上における皇祖としての日の神の皇都が「天つ日嗣」(編集部注:アマテラスの系統の継承)を受けられた皇孫によって地上のヒムカに遷され、それがまたジンム天皇によってヤマトに遷されたことを語ったものであり、皇祖を日の神とする思想によってつくられたものである。だからそれを建国の歴史的事実としてみることはできない。」
それから後の政治的経営として『古事記』や『日本書記』に記されていることも、チュウアイ天皇の頃までのは、すべて歴史的事実の記録とは考えられぬ。ただ、スシン(崇神)天皇からあとは、歴史的存在として見られよう。それより前のについては、系譜上の存在がどうあろうとも、ヤマト国家の発展の形成を考えるについては、それは問題の外に置かれるべきである。創業の主ともいうべき君主のあったことは何らかの形でのちに言い伝えられたかと想像せられるが、その創業の事跡は皇室についての何事かがはじめて文字に記録せられたと考えられる四世紀の末において、既に知られなくなっていたので、記紀にはまったくあらわれていない。
記紀についての以上の説明は非常に明快で合理的だと思う。「真の上代史はまだできあがっていない。すなわち『何人にも承認せられているような歴史が構成せられていない』ということである。史料批判が歴史家によって一様でなく、したがって歴史の資料が一定していないことがその一つの理由である。」と付言されていて、ここに述べるところは私案であると断っているが、学界並びに一般世間に提供するだけの自信は持っていると書く。
二 万世一系の皇室という観念の生じまた発達した歴史的事情
津田はこれまで万世一系の皇室が続いてきた事情を各時期について、それぞれ要因を語ったのちに現代の問題に移っているが、記紀の内容が繰り返される部分もあり煩雑になるので時間的な推移は省略して、筆者が読んだ限りでの結論部分について記すことにする。
この万世一系という言葉、子供の時から聞き慣れているせいで、意味を考えたことがない。あらためて確認すると、一つの血統が永久に続くことを意味し、血統は皇室の血統のことであるので皇統という用語が使われる。本書で津田左右吉が表題に用いているが、議論するに当たってあらためて意味を確認することはしていない。したがって文章の中では長く続く、続ける、続いた、ことに論点を絞り、その対象は近世までは存在としての皇室であり、近現代では制度としての皇室すなわち天皇制の問題となっている。
章立ての表題は「万世一系の皇室という観念の生じまた発達した歴史的事情」として歴史的事情を述べるようにはなっているが、内容としては歴史的事情に重ねて発表時における著者の思想を説いている。この論文は昭和21年(1946)発行の雑誌『世界』第四号に記載された著作で、発売は3月半ばであったろうと推測するが、この年は1月から4月にかけては占領軍当局と政府の間で新憲法の内容に関する議論が重ねられていた最中であった。戦時中の神がかり的な軍部の暴走が破滅的な敗戦を招いたことで、神と祀り上げられた天皇にも社会的批判がおよび、民主主義と天皇制との共存可否などがかしましく論議されていた。こういう中にあって論文で津田は民主主義と皇室は共存できることを強調した。
すなわち、「現代に於ては、国家の政治は国民みずからの責任をもってみずからすべきものとされているので、いわゆる民主主義の政治思想がそれである。この思想と国家の統治者としての皇室の地位とは、皇室が国民と対立して外部から国民に臨まれるのではなく、国民の内部にあって国民の意思を体現せられることにより、統治をかくの如き意義において行われることによって、調和せられる。国民の側からいうと、民主主義を徹底させることによってそれができる。」と説き、さらに、「具体的にいうと、国民的結合の中心であり国民的精神の生きた象徴であられるところに、皇室の存在の意義があることになる。そして国民の内部にあられるが故に、皇室は国民とともに永久であり、国民が父祖子孫相承けて無窮に継続すると同じく、その国民とともに万世一系なのである」と付言する。
こうして津田は新憲法に先んじて皇室を国民結合の象徴とうたい万世一系と結論した。そうして締めくくりに次の文章を掲げる。
「国民自ら国家のすべてを主宰すべき現代においては、皇室は国民の皇室であり、天皇は「われらの天皇」であられる。「われらの天皇」は我らが愛さねばならぬ。国民の皇室は国民がその懐(こころ)にそれを抱くべきである。二千年の歴史を国民とともにせられた皇室を、現代の国家、現代の国民生活に適応する地位に置き、それを美しく、それを安泰にし、そうしてその永久性を確実にするのは、国民自らの愛の力である。国民は皇室を愛する。愛するところにこそ民主主義の徹底した姿がある。国民はいかなることをもなし得る能力を具え、またそれを成し遂げるところに、民主政治の本質があるからである。そうしてまたかくの如く皇室を愛することは、おのずから世界に通ずる人道的精神の大いなる発露でもある。」
これはこれで立派な文章ではあるが何か書きすぎの感がしないでもない。本書の中に「われらの摂政殿下」の声が沸き起こったことが国民が皇室を敬愛することの一例に挙げられている。1921年、昭和天皇が皇太子時代に洋行して戻ったのち11月に摂政となったのであった。上にいう「われらの天皇」の津田の内部での具体像は「われらの摂政殿下」の延長ではなかったか。昭和になって天皇が国民から引き離された事態を痛恨の思いで見ていたのでなかったろうか。津田は皇室ファンなのだ。もとよりこれは筆者の直感にすぎない。
筆者の個人的な感触として津田は昭和天皇を敬愛していたと察している。上に述べた皇室を愛する云々の言葉も対象は昭和天皇に思えてならない、と同時にあるいは津田はもともと皇室ファンではなかったのかという疑問に似た感情をもつように至った。それは前半の皇室が長らく存在し得た諸事情についての説明も、国民の心情に拠るところが多く感じられるからである。根底に皇室愛をもって論じたのでないかという疑念である。それは悪いことではないが説明が論理ではなく感情的だという意味である。
論文が発表された頃の日本社会の人口構成は戦争によって異常に歪まされていた。数年後に出生数が動き出す。「国民が父祖子孫相承けて継続する」という観念は、当時静かな平泉にあった津田がまだ昔ながらに持続していたものかも知れない。いまこれを読む現代の読者は、少子高齢化、人口減少という事態を迎えていて、天皇の生前退位も経験した。先例に従っての即位の礼やら大嘗祭やらも予定されている。万世一系は国民が皇室を敬愛する限りは安泰であろうとは思うものの、この論文にはすこし考えさせられた。
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(2019/8)