著者は、この作品で語ろうとしていることは、『方丈記』の鑑賞でも解釈でもなく、「それは、私の、経験なのだ」とはじめに断っている。
『方丈記』は1212年に成った鴨長明の述作とされている。堀田さんは1945年に、700年以上もの昔に書かれた文章に、生きづらく感じていた当時の身の処し方について何か得るところがあるのではないかと期待して、何度も読み返すようになったそうだ。
「私記」の記述を通じて、まず読み取れた趣旨は、天皇制に関する疑問と鴨長明が人生の終わりに感得した生きがい観である。そうして、それらについての説明のうちに日本の中世で乱世とよばれる時代の様相について語られる。
読者の私は中世についての知識が少ないうえに著者が引用する古典類にも不案内だ。堀田さんの文体はともかく、使われる用語なども目新しい。わからないところはあるにしても、全体としては知識の宝庫として大変にありがたい著作である。近頃の本ではあまり機会のない文章解読の訓練にもなったことは、細胞の減りつつある脳に有益であった。
著者として堀田さんは、「『方丈記』一巻が自分の経験となり、かつは自分の魂に刻みつけて行ったものを記そう」とした。使用するテキストを読者がもっとも入手しやすい岩波文庫をと予定していたのが、「展望」誌連載の印刷の際に急遽、別のテキストに変更された。事情はいくつかあるが読者の読みやすさが考慮されたわけであった。このために大いに閉口したことが明かされている。
安元3年大火の火元、富小路の仮屋が「病人ヲヤドセルカリヤ」(病人はヤマウドと読む)から「舞人ヲヤドセルカリヤ」になってしまった。堀田さんはこの舞人をダンサーと想定して、病人とは対称的に足腰の頑丈な人間と考える。青白い顔の病人が足腰も自由でなく、何かの拍子に火の不始末をしでかした結果バラックに火がついて大火となったという具体的なイメージが、テキストが変更されるまでの長い間に、「確たるものとして、またなみなみならず親しいものとして心に定着してしまっていた。」スペイン在住の間に自宅と資料を火事で焼いてしまった経験といっしょに、顔つきさえ思い浮かべられるこの病人が心のバラックに棲息していたのだそうである。そういう病人だから、ダンサーが来たからといって簡単には出て行ってくれなくて閉口したというのである。
通読して感じられることの一つは、この著者が『方丈記』の作者に相当親しみをもっていることである。上述の病人のイメージについての文につづいて、「長明に対する親近感は、私の場合、ほとんどがそういう具体的なところから出て来ていて、実はあまり無常イデオロギーには関係がないらしいのである」と明言されてもいる。この親近感は両者がもつ気質が似ているからでもあると思う。どこにでも出かけて現場で考えたことを伝える遊軍記者風であり、社会的事象に関心を持つジャーナリストでもあるのは共通している。
鴨長明はなんにしろ何かが起こると、その現場へ出かけて行って自分で確かめたいという実証精神の持ち主だと著者は見ている。他の文献には火元が樋口富小路だとあっても、舞人の仮屋と特定したものはないそうで、これは長明が足で確かめたものと著者は考えている。「近き辺はひたすら焔を地に吹きつけたり…」と、火焔の凄まじさを伝える文にしても、燃え上がるのでなく上から焔が吹き付けるのは東京都の戦災記録に言う「合流火災」に特有の現象だから現場を見た人でなければ書けないだろうと考える。大風、遷都、地震、飢饉、どの記述にも文献や伝聞ではなく現場観察の記録がなされている。
堀田善衛氏は大正7年(1918)生まれ、慶応大学仏文科時代から詩の同人にも参加し、詩人としての出発を志されていたようだ。昭和17年(1942)、戦時の勅令で9月に繰り上げ卒業させられる。卒論には大急ぎでボォドレェルを書いたそうだ。国際文化振興会という団体に就職したが、19年2月に召集された。内地での訓練期間中に病気になり、三カ月の陸軍病院生活の後に招集を解除され、田舎で療養をし、19年半ば頃にふたたび上京をした。彼のいた部隊は、米軍の攻撃直前に、サイパン島補強のために送られ、到着前に輸送船の大半を沈められて全滅をしてしまったと書いてある。
昭和20年(1945)3月10日未明の東京大空襲の折は、洗足池近くの寄宿先であった友人宅から燃え上がる空を遠望した。ときに堀田さんは27歳。この世代の人はみな兵役が課せられていたが、末期症状にあった戦時の日本では、召集は死に直結していた。「聖戦」が叫ばれていた時代、どの人も天皇と天皇制に関しては特別な思いを抱いている。当時の堀田さんの認識では、特に昭和天皇は中学生の頃の満州事変以来のすべての戦争運営についての最高責任者であり、神とされていた。
「私記」には3月18日、東京大空襲の焼け跡に出かけた際に、富岡大神宮の境内で偶然その昭和天皇に遭遇したことが衝撃として語られている。昭和天皇がこの日視察に出たことは写真とともに報道されているが、しめった灰のなかに土下座した人々がすすり泣きをしながら申し訳ないと呟いていた内容の記録はあるのだろうか。堀田さんはそれを書いている。
「涙を流しながら、陛下、私たちの努力が足りませんでしたので、むざむざと焼いてしまいました。まことに申訳ない次第でございます、生命をささげまして、といったことを、口々に小声で呟いていたのだ。(p60)」
この人たちの口から出たことばについて、帰る道に歩きながら考えたが、理屈の筋が立たずに混乱した。
こんなに焼き尽くされるまでに焼かれるようになった責任を、原因を作った方にはなくて、結果を、つまりは焼かれてしまい、身内の多くを殺されてしまった者の方にあると考える。こういう奇怪な逆転がどうして起こるのか。
堀田さんは、戦争を始めた責任者が謝るなり、処罰されるなりするべき、との考えであったろう。しかし、世の中には天皇陛下があって、国民がある、何がおかしいのかというふうに、何も考えないまま何ら疑問を持たない人もある。
著者としての堀田さんは優情という語をもちだした。やさしさである。土下座した人たちには優情がある。政治はそれに乗っかるのだと。そうでなければ焼け跡視察になど出てこられる筈がない。日本の政治はこういう心情を利用するのだ。無常観の政治化だという。これがあるために結果責任は有耶無耶になってしまう。政治がもたらした災殃に対しては、支配者にも人民の側にも極めて便利に用いられてきたものがこれである。こういう無常観は俗論であろうけれども、思想的形成の真最中である日本中世から、すでに使われ、今や日本人の骨絡みまで行っていると述べる。
土下座した人たちが生命を捧げまして、というのは何だろうか。その頃喧伝されていた「大義に死ぬ」ということばを爽やかに感じることもあった。この国には長い思想的な蓄積のなかに、生ではなくて死が人間の中軸に居座るような具合にさせるものがあるはずだともいう。読者の私は「海行かば」の曲や歌詞を思い出した。堀田さんのことばに、あれだ、と思った。音楽好きの堀田さんでも、きっとこの曲が嫌いだったろうと思う。毎日のようにラジオから聞こえてきたものだった。開戦当初は「軍艦マーチ」が多かったけれど、戦局が不利になるにつれて、「海行かば」が多くなっていった。
「私は大空襲の期間中に、とくに1945年3月10日の東京大空襲のあとに、ああいう大災殃についての自分の考え、うけとり方のようなものが、感性の上のこととしてはついに長明流のそれを出ないことを口惜しく思ったものであったが、そのことと、そういう人災、大災殃を招いた責任者を人民が処刑をする、あるいはリコールをする政治的自由、思想的自由のない長い長い歴史とは並び立つものであろうと思う。(p166-7)」
“羽なければ、空をも飛ぶべからず。龍ならばや、雲にも乗らむ。”(この世から逃れるすべはないのだ。)
“世にしたがえば、身くるし。したがはねば、狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなるわざをしてか、
しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき。”
(世の中に合わせれば自分一個の立つ瀬がない。さりとて世に楯突けば変人扱いにされる。どこかで自分なり に、なんとか落ち着いて心を休ませることはできないものか。)
(上の( )内は筆者の注記。)
「こういうことばを何度か念仏のようにとなえていると、いつか、なーるほど、そういうものか、というところから、そうでもあるだろう、その通りだ、というところまで運ばれていってしまい、身を起ててデモに行こう、あるいは戦わねばならぬという意志をそらしてしまう作用をもたらす。(p67-8)」
「戦時中に、私がはじめたわけでもない戦争によって殺されるかも知れぬことを思うとき、[…]歴史を捨象する以外に、私に法がなかったのだ。あの戦争をおっぱじめたものは、天皇とそのとりまきであることほどに明らかなことはないであろう。それを人民一般が支持したか否かは別の問題である。そうして、歴史を捨象するとは、自己自らを運命と見做すことであり、おのれ自体を、ニーチェの言う、AMOR FATI 運命愛として愛する他ないということであろう。それが、このAMOR FATI が戦時中においての自己救済の方法であった。おそらく、現在の若者たちからは、そういう自己救済は、汚らしい、と難ぜられるものであろう。しかしそういう若者たちもまた、われわれの『日本』の業*の深さを知りはしない者である。p232」( *「業」は後述参照。)
筆者はニーチェとの付き合いはないので、AMOR FATIが何であるか知らない。要は、現実を見失わず、個として自立して自由を守ろう、ということだと解釈する。ついでだが、ここに使われた「汚らしい」はどういう意味だろうか。ちょっと古い使い方のようだが、自己中心的の意味かもしれない。
戦時下の著者がとったこの解決法は、おのれ一人が胸のうちに収め、かつ自立心を失わないで自分を大切にする。著者がいう長明流とは、この運命愛とほぼ同じ意味であろうと思う。しかし、1970年の著者は、自らが災殃から逃れるだけでは納得できないので、次のように書いた。
「私は長明氏の心事を理解し、彼の身のそばに添ってみようとしてこれを書いているのだが、同時に私は長明の否定者でもありたいと思っているのである。けれども、この現代においてすら、彼の死後750年以上もへた現代においてすら、長明の否定者であるためには、われわれの全歴史の否定者でもあらねばならぬという至難の条件がともなっているのである。そういう万貫の盤石を持ち上げて歴史の根石もろともに投げ捨てるにひとしい強力な否定者というものも、『主上臣下、法にそむき義に違し、いかりをなしうらみをむすぶ。』と、叩きつけるように言った親鸞以外には、なかなかに見出しがたいのである。p166-7」
親鸞のこのことばは、浄土仏教の流行に対抗する旧仏教側の画策によって35歳で越後へ流罪になったときの気持ちを、50歳の時に記したもの(『教行信証』)だそうだが、古来天皇に怒りをぶつけた人物は他にいないということだ。堀田さんは口惜しい気持ちをいだきながらも、自身はその後も作家、表現者にとどまっていたということであろう。
堀田さんは、天皇制の根源は和歌の本歌取り思想にありとみた。唱導した藤原定家は次のように書き残している。
ことばはふるきをしたひ、心はあたらしきを求め、をよばぬたかきすがたをねがひて、寛平以往の哥にならはゞ、をのづからよろしきこともなどか侍らざらん。ふるきをこひねがふにとりて、昔のうたのことばをあらためず、よみすへたるをすなはち本哥とすと申す也。これは古詩新情といわれる歌論、寛平以往というのは定家の頃より300年余前を指している。つまり300年前のことばで詠めという論である。詞は昔のものを改めず、それを土台に詠めとなれば、どうなるか。当代の日本語を拒否し、現実を拒否しなくてはならない。すべては虚構になる。これは芸術至上主義ではなく、伝統憧憬にすぎない。
伝統憧憬によって現実を拒否する思考は七百年の昔のことだけではないと著者は経験を語る。
1945年のあの空襲と飢餓にみちて、死体がそこらに転がっていた頃にも、神州不滅だとか、皇国ナントヤラという真剣であると同時に馬鹿馬鹿しい話ばかりが印刷されていた時期は他になかった。生者の現実が無視され日本文化のみやびやかな伝統ばかりが本歌取り式に憧憬された時期はなかった。天皇制というものの存続の根源は、おそらく本歌取り思想、生者の現実を無視し、政治のもたらした災殃を人民は無理矢理に呑み下さされ、しかもなお伝統憧憬に吸い込まれたいという、われわれの文化の根本にあるものに根付いているのである(p221)。この本歌取り文化は、連綿としてわれわれの文化と思想の歴史のなかに生きつづけた。創造よりも伝承を尊重する自衛本能にもとづく閉鎖文化集団になってしまった。そこでは創造は拒否され、伝統とされるものが尊重されて権威になる。鎌倉幕府によって地頭職がおかれ、貴族の荘園経済が崩壊しようとしていたとき、貴族たちが抵抗手段としたものは有職故実という先例主義であり、それを伝える日記、古典の収集と完成をめざした。すなわち集団の外側では何の意味もない先例を規範とした、生活自体が本歌取り化した閉鎖集団が出来上がった。これを地下(じげ)の生活と比べたならば、まったく無関係の虚構の世界である。
朝廷という閉鎖集団を構成する公卿という人種は昭和の政権にも総理大臣として現れた。著者は近衛文麿が書いた「上奏文」(1944年2月14日)の内容をやや詳しく紹介しているが、ここには一般国民は完全に無視され、資本家と貴族のほかはすべて共産主義者と分類して排斥無視する。兼実が頼朝の要請で地頭職設置が荘園に認められた折に『玉葉』に書きつけた「言語ノ及ブ所ニアラズ、日本国ノ有無タダ今明春ニアルカ。」とのことばにおいて「日本国」が貴族たちだけの領域に限られている心持ちと同じである。
「歴史と伝統に本歌取りをすることのみを機能とし、伝統的権威として、存在するから存在し、存続だけが自己目的と化したものをどう処理するか。存在し、存続だけが自己目的と化したものに、他に対する想像力はありえない。人民の側としても、災殃にあえぎ、いやたとえ災殃にあえがなくても、彼らもまたその日その日を食いつなぐだけの、ここでも存続、生存だけが自己目的と化している。存続、生存だけが自己目的と化したものに、ここでも他に対する想像力はありえない。p228」
「私たち自身もまた、かの戦時に、特にその末期に於いて、まったく同じ状況におかれていたのであった。明治維新のときはどうであったか。/権力は敵と妥協し、敵に通じても自己保存をはかることを自己目的とする。/「日本」の業は深いのだ。/深く、根強く、業の如くに、業と化して、歴史と伝統に根づいているのだ。(p229、/は改行を示す)」
「本歌取り宮廷美学と相対して、私は、彼らの宮廷の美を認める者だ、認めざるをえない、そうして、しかもなお私は、認めた上で長明とともにかかる「世」を出て行く。無常の方へ行く。それが逃避であると見える人は、この国の業の深さを知らない人なのだ。p229」
嘘っぱちの虚構の夢を追う世間に用のない実際家の二人は「世」を出て行くわけである。ここにいう無常とは現実のことだ。
“予(われ)、ものの心を知れりしより、四十(よそぢ)あまりの春秋をおくれるあひだに、世の不思議を見る事、やゝ度々になりぬ。”
“身を知り、世を知れれば、願はず、走らず。たゞしづかなるを望とし、憂へ無きをたのしみとす。”
朝廷一家が各自の自己を捨てて「芸」の世界に籠もるとき、長明は「私」に帰ったのである。彼の無常感の実体は社会的、政治的関心なのである。散文によって政治への関心と時世の変転のさまを『方丈記』に表したのであった。庵の生活は単純な隠栖ではなく、誰にも邪魔されず安らかな気分で居て、世の中の移り変わりに目を凝らす。
ここの「私」は自由な自己、自由人としての個人を意味するのであろうと思う。
ところで、堀田善衞氏は「私記」を1970年頃に25年前を回想することからはじめている。戦時下で西行論を書きはじめたが、中世の文学を書くにはどうしても天皇制にぶつからざるを得ないことがわかって中断したという。おっかなくて書けなかったのだとあった。天皇が神とされていて、日常生活に思想統制の網が張り巡らされ、言舌に制約があったからだと思う。「私記」にレーニンを英語で読んだという話があるが、官憲の眼をそらせる奇策であった。
米軍占領下に天皇は人間宣言をされたように私は記憶していた。昭和21年の元日だ。いま、念のために人間宣言のことを確認しようとしたが、ネットの各種記事によると、そんなものはなかったようだ。
連合国占領下の日本で1946年(昭和21年)1月1日に官報により発布された昭和天皇のお言葉があり、略称を「新日本建設に関する詔書」と呼ぶそうだ。お言葉には正式の表題はない。お言葉のなかにも人間宣言に当たる言い回しはなく、次の文が織り込まれている。
「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯(ちゅうたい)ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依(よ)リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非(あら)ズ。天皇ヲ以(もっ)テ現(あきつ)御神(みかみ)トシ、且(かつ)日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延(ひい)テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。」
この詔書の文言を決定するにあたっては、アメリカ側の草案に「神の子孫に非ず」とあった表現に侍従次長の木下道夫が反対し、「現御神に非ず」ならよいと判断した。天皇も神の子孫否定には反対だったと「側近日誌」に書き残してあるそうだ。神性を否定してしまうと、文字通りただの人間になってしまって、それがどうして天皇なのかという議論になるからということを危惧したらしい。
また天皇が宗教的存在であることは憲法の政教分離原則に抵触する恐れも残っている。
こうことであれば、平成、令和と時代が変わっても即位礼や、大嘗祭儀式、大嘗宮建設など、皇室の存在がフィクション性を多分に帯びていることには変わりがなさそうである。
先日の即位の礼の儀とやらで、三種の神器が納められているという箱がうやうやしく運ばれる光景を見た。『増鏡』には三種の神器は平家とともに海に沈んだ。後鳥羽さんは神器なしの即位になってしまって、後々まで気に病んでいたとあった。また、堀田さんも、打ち続く火災で伊勢神宮も焼けた、何度神器が作り替えられたことやら、と書いている。テレビを見ながら何を空々しいことを…という思いであった。納めた税金が惜しいわけではないが、大掛かりなフィクション劇に大金が費消される…秋篠さんでさえもオカシイと考えているのに。世界の眼が「日本」は金持ちだとみるのも当然だろう。いや、ただのお人好しなんですが。
読んだ本:『方丈記私記』ちくま文庫(2019第20刷)(1988)
『新訂 方丈記』岩波文庫(2000第24刷)(1989)
(2019/12)