堀田善衞の『方丈記私記』には再三「増鏡に出て来る老婆」という表現があらわれる。誰のことかと『増鏡』を開いてみれば、上巻序の数行も経ないうちに登場している。「大鏡、水鏡、今鏡に倣いて、老尼の物語を筆録した有様に作ったものである」と校訂者の緒言にある。つまり『増鏡』の語り部であるが名はない。『増鏡』の著作者は不明である。
堀田さんの書く老婆の呟き、「これより日本国は衰へにけり。」とは言い回しが少し違うが、岩波文庫で言えば次の箇所に記されている。
「その年十一月九日、権大納言になされて、右近の大将をかねたり。十二月の朔日ごろ、よろこび申して、おなじき四日、やがてつかさをば返し奉る。この時ぞ、諸国の総追捕使といふ事うけたまはりて、地頭職に、我が家のつはものどもをなし集めける。この日本国の衰ふるはじめは、これよりなるべし。さて東(あづま)にかへり下るころ、上下いろいろのぬさ多かりし中に、年比も祈など行(し)給ひし吉水僧正(慈圓)、かの長歌の座主、のたまひつかはしける、
あづまぢのかたに勿來の關の名は君をみやこにすめとなりけり
御かへし、頼朝、
都には君にあふさかちかければ勿來の關はとほきとをしれ」(第二 新島もり p28-9)
「その年」は建久元年、頼朝は権大納言になって右近衛大将を兼任する。十二月一日にお礼言上したものの四日にはその官職を返上してしまった。宮廷の護衛たる近衛職は都に常駐するべきで、鎌倉には戻れないのが理由らしい。
諸国追捕使は本来、義経や行家を捜索・逮捕するべく設けられた臨時の役目だったから、その用がなくなれば停止される。それを一般的な警察権に切り替えたのが、この時の措置だった。新たに地頭職が含まれたようで、正確には翌年三月から新制度として、諸国に守護と、荘園・国衙に地頭ができる。この辺の事情が簡略化されて老婆の語りとしたのであろう。
『増鏡』は過去に華やかであった公家社会を理想とする基準でものされた歴史である。したがって老婆が今を語るとなれば、嘆き節がでるのはやむを得ない。ここにいう「日本国」は当然貴族社会を指している。「この時ぞ」という表現が生きている。地頭に勝てなくなった恨み節である。
「上下いろいろのぬさ」とある「ぬさ」は幣であり祈願に用いる御幣であるから、安全祈願の意味があるかと考えられるが、餞別、贈り物の意味もあったようである。「勿來の關」の勿來は文字通り「来るなかれ」の意味で使われている。返歌は都はちかいことをいう心らしい。
慈圓のことを「かの長歌の座主」と書いてあるのは、「第一 おどろのした」に後鳥羽院が水無瀬殿で催した清撰の歌合わせにおいて慈円が実に長い長歌を詠んだことを指しているようである。この長歌に対して院が定家に返しをせよと命じたところ、たちどころに長い返歌をつくったことが述べられていて、その両者の歌も載っている。誠に恐れ入った技の持ち主たちであったことよと驚くだけで、当方は歌の素養もないので、元歌を探るなど出来ずに唖然とするのみである。
さて、堀田さんとは関係なく、この『増鏡』という歴史物語を読んでみようと、あらためて上巻の序の文章にとりかかると、「鶴の林に薪尽きにし日なれば」と故事を引いている句が出てくるのを始めとして、調べて初めてなるほどとなる文章なのである。これは大変なことであるな、と続けて読むのをためらっている。老尼が鳩の杖に寄りかかっているというのはどんな杖かと思えば、食べものにむせないため杖に鳩の飾りをつけた、というお守りであると分かる。鳩はむせることがないからだそうで、これは古代中国で老齢の功臣に与えられたそうだ。となれば、この老婆「百歳にもこよなく余り侍る」そうなから宮中から頂いたのであろうか、そこまではわからない。こんなふうに面白いのではあるけれども、ま、時折開いてみる程度にしよう。
読んだ本:『増鏡』岩波文庫(1931)(1997第13刷) (2019/12)