2020年1月3日金曜日

大佛次郎の『源実朝』を読む

鶴岡八幡宮のイメージの象徴は例の大銀杏であったが、
戦前の絵葉書から

2010年3月に強風で倒れてしまったから、参道正面から見えていた風景は思い出になってしまった。社殿に向かって左手にあった大木が印象に残っているのは、実朝が暗殺された話をずっと昔に読んだか聞いたかしてからのことだと思う。それもお公家さんみたいな人という印象で三代将軍などとその名を知ったのはもっとあとのことだ。倒れた大木は1955年に天然記念物に指定されて推定樹齢千年とされていたが、暗殺下手人の公暁が隠れたのは、建保7年1月27日(1219年)だそうだから、700年以上も古い話である。樹齢はたかだか400年という声もあって、倒れた木は二代目という説もあったから、何がホントだか不明のままである。
こんな話を書き出したのはほかでもない、大佛次郎著『源実朝』を読んだので、忘れないうちに少し印象を書き留めておこうと考えた次第だ。実朝を表題とした文芸作品は少なくないが、久しぶりで私の好きな大佛さんで読んでみようと思った。
最近まで堀田善衞さんの『方丈記私記』を読んでいたので実朝についても芋づる式に出てきたのであったが、堀田さんが中野孝次氏の『実朝考』を引き合いに出していたので、それもあらかた読んでみた。このお二人ともが戦争末期に、国に殺されるかという思いを強く体験されたために、そういう発想からの思索を文章にされていた。そうなると自然にその書かれる内容は、いわゆる硬質のことばで表現される論考となって、歯の弱りはじめた当方は咀嚼に苦労させられた。そこへゆくと大佛氏は遺作となった『天皇の世紀』でさえも非常にわかり易いことばで歴史を語ってくれた。
『源実朝』は『婦人公論』と『新女苑』に分けて執筆されたのであるが、平易なことばで綴られている。前者は「新樹」と題されて昭和17年9月号から翌18年11月にかけて、後者は「からふね物語」として、昭和20年6月号から翌年3月号まで連載された。著者が昭和18年末に海軍南方報道班員として南方に向かうことになったのが中断した理由である。
さて、「新樹」は一から七まで番号だけの章に分けられ、「一」には閏7月19日(元久2年1205)の出来事として、名越にある執権北条時政の館に尼御台政子からの使者が遣わされて12歳の将軍実朝が義時の館に引き取られたことが綴られている。この事の推移を運ぶ筆は、父と子の間に合戦があるとの噂に騒然とする日暮れの町の様子を伝えながら、ここ数年来繰り返された事変のあれこれに触れて、将軍家と北条家および両家に連なる一族の人間関係の確執と陰謀、殺戮のいくつかを挙げる。そのうえで時政館に使者が到着して俄然緊迫する中での時政の心の動きを記す。
複雑な人物間の相関関係がしっかりと頭に入っていないと、せっかくの機微細かい文章から大事の様子を汲み取るのはむずかしい。ちょうど歌舞伎の忠臣蔵において、長い物語の一部分が何段目とかと称されて部分的に上演される場合のように、観客が予め事の中身を知っていないと、舞台で演じる役者の所作と科白を十分に楽しめないのと同じような具合なのである。
「頼家将軍の子一幡を擁して比企一族が小御所に亡びた」とか、「頼家が修善寺に送られて押し込められる時」、とあるのはどういうことか、別途に調べて知っておいたほうが、あとの事柄が理解しやすい。
「一」の主題である時政と義時親子の間が決定的に険悪な関係になる、その因になった畠山事件については道案内的に書いてくれてはいる。それでも「時政義時のあいだが今日のように突然に、血で血を洗う戦も辞さぬ迄に険悪な状態になろうとは側近の者も恐らく夢にも予期しなかった事であろう」と書くわりには、緊迫した空気が私にはあまり感じられなかった。私の場合は、多分に鈍感であるか、史実を知らなすぎるのか、作品の内外における人間関係の経過推移がわかったうえでないと、どうにも文の内容が読み取りにくいことであった。昔にあっては普通のことであったろうが、血族・縁組・地縁関係が入り組みすぎているのである。
政権交代が決定的になった発端の畠山事件、これは女のほむらがなせる業であった。
68歳になる時政の後妻、牧の方は30歳ほども年が離れていて、先妻の娘政子とほぼ同年である。どちらも勝気で思ったことを貫こうとするタチである。政子はすでに子の前将軍頼家を父に殺されていて、残されたもうひとりのわが子実朝を護りぬこうと警戒心を解かない。牧の方は都の貴族の家に育ってそのまま執権の後添えだから怖いもの知らず。尼御台と呼ばれている政子は、後添えの牧の方のほうから言えば、当然の義理として自分の娘分と考えているのが顔や言外に出る。牧の方は自分の娘婿平賀朝雅を将軍につけようと時政に吹き込んでいる。その平賀朝雅が時政の先妻の娘婿の畠山重忠の子重保と酒席で口論になった。牧の方はケンカ相手の父親が先妻の娘婿であることが気に食わない。謀反の疑いをでっちあげ、稲毛重成も肩入れして時政に訴えた。時政は義時を討手として差し向け重忠を誅戮し、子の重保は三浦の計略にはまって由比ヶ浜で殺される。義時はこれを冤罪と見破って時政の非を知る。あるとき、実朝の乳母で政子の妹阿波局が牧の方に害意があると訴えてきたので実朝を引き取ったことがある。時政は誓書を入れて実朝を名越に連れ戻した。実朝も子供心に牧の方の冷たい心を感じて警戒心をもつようになっている。今回は、政子・義時と牧の方・時政が将軍をわが手にとの対立である。政子・義時が先手を打って実朝を引き取りにでる。不意を打たれた時政は屋敷が義時の手の者で囲まれたのを知って諦める。伊豆に籠もってじっとしていれば、自分たちも平賀朝雅も無事だろうと考えた。
こういう内容が「一」にまとめられてある。
「孫といわず、子といわず、父上も、したたかに、おやりなさいましたなあ、最早、後世のことをお考え遊ばしたところで、齢に釣り合わぬこととはもうされぬ」と政子に言う義時の声はそれまでの時政のやり口をよく表している。

巻末に編集者の村上光彦氏は、大佛氏にとって推敲とは削ることであったと書いているが、頷けることである。
「一」は北条家の代替わりによる時代の転換をしめす序章なので、それなりに作者は苦心されたのであろう。「二」に入ると、「牧の方のことがあってから、若い将軍に新しい日が始まった。郷国の伊豆にひき籠った時政の老後に、野望の種と成ったと見られていた平賀朝雅は鎌倉を離れて都にいたが、義時の計画どおり、同じ月の二十六日に不意に追手に襲われて落命した」とある。
ここで「牧の方のこと」と言われて読者は、はて、と戸惑う。それまでにこの表現は見当たらないのである。牧の方の讒言によって畠山父子と稲毛氏が殺戮されたこと、そして牧の方の野望の種であった平賀朝雅の殺戮まで含む一連の事件をひっくるめて指したものと考るほかない。大佛流の括り方なのだろう。ちょっと気になる表現であった。
ともかく、「一」は読解に苦労した。自分なりに相関図めいたメモを取って繰り返し読み直した。カッチリとまとまった記述のうちに実に恐ろしい人の心の動きが語られているのであった。あわせて自分の認識能力が弱いことに落胆した。次の「二」からは、世の中から血腥い争いが消え、実朝の物語となる。あとはすべてが読みやすくわかりやすい。
読後の感想として、実朝は実に素直な性質で、理非を本能的にわきまえた人物として描かれている。ただし生い立ちが植え付けた精神の真底には実に頑固な「自分」があった。浜辺に虚しく朽ちた「から船」がその象徴である。筆者は繰り返し読んだ「一」だけで一幕物の舞台になりそうだと考えたが、すでにあるのかもしれない。
ちなみに作品中には鴨長明の訪問が出ているが、実朝は長明の人柄にも歌にも深いものを感じることができなかったとされ、長明も滞在しながら次第に落ち着かなくなったと書かれている。長明が実朝に好意を覚えてはいても、容れられないものを感じたようだ。法華堂の柱に挟んだ歌にも実朝は、良い歌だろうかと首を傾げたという。評価はされなかった。この作品での長明は『吾妻鏡』に実朝訪問の記事が載せられているからお義理で登場させてもらった感じなのである。
さきの戦争末期から敗戦後にかけての作品であるが、編集者村上光彦氏は、この作品に戦争の影響はまったくないと作家を評価している。大佛氏は戦中もずっと鎌倉に住まいし、誰よりも鎌倉を愛するという気概を持たれていた。
読んだ本:大佛次郎『源実朝』六興出版 昭和53年(2020/1)