『流離譚』は1976年3月から81年4月まで文芸誌『新潮』に連載され、同年12月に新潮社から刊行された。私がこの作品を読んでみたいと思ったのは、古文書解読の専門家、北小路健氏の『古文書の面白さ』(昭和60年刊)に、安岡氏から解読の依頼があり、この作品の執筆が進行中と紹介されていたのを読んでいたからである。
高知に安岡姓は多いそうであるが、章太郎氏の系統は香美郡山北村にあった四軒の安岡であるという。この地名は現在、香南市香我美町山北となっている。四軒の安岡は、本家、お上、お下、お西と呼び分けるそうで、分家が三つあるということである。土佐藩は身分の区分が上士と郷士に厳格に差別されていたことで有名である。安岡四家はいずれも郷士であり、郷士の婚姻は郷士同士と決められていたためと、山地に位置していて四家以外との交通が不便だったこともあって、何年もの間四軒の間だけで嫁取り、養子関係が結ばれていた。上巻付録として十世代ほどの系譜図が付いている。
北小路氏によると、流離は中国の古いことばで、流は分かれる意味だから、流離は分離と同義で、分離は一点で二股に分かれる感じが強まる。流離では時間の流れに沿っての枝分かれという思い入れが深まり、時とともに何本にも別れてゆく姿を指すことになるそうだ。系図はまさにその通りであって、誠に複雑に入り組んでいる。
安岡家の人物で歴史的事件にからんで有名なのは、章太郎の四代前の安岡嘉助、これは吉田東洋暗殺実行犯の一人で天誅組に走った。最期は打首である。その兄覚之助は戊辰戦争で官軍の軍監、会津の銃弾で戦死した。弟道之助(道太郎)は自由民権派で活動した。これら三兄弟の父親文助が天保年間から明治まで書き続けていた日記が存在する。この資料を中心にして、北小路氏の助力を得たことで章太郎氏は『流離譚』の執筆が続けられたものであろう。
この文助氏は、日記の他に「安岡系図書」という50ページほどの文書を残しているそうだ。これは系図であって、桓武天皇に始まり、しばらく平のなにがしとかいう貴人が続く。10ページ目あたりで、大和ノ国、安岡ノ庄から出てきたという平家の一族が、保元の乱を逃れて土佐の室ノ津に流れ着き安岡のなにがしと名乗る。それから12代目に安岡源左衛門行正という16世紀に生きた人物の記載があって、文助老人がその行正の実在を確認する作業をした記録があるのだそうだ。あとは省略するが、このあたりが章太郎氏のご先祖様のハシリとされているらしい。文助老人は天保9年に先祖の一人の墓探しをしたとき、その墓も土地も宝永4年の津波にさらわれて流されれてしまったと役人に聞かされたことを書き付けてあるという。こういう史実がわかることに興味を覚える私のような者もいるが、おおかたの人には退屈な話だろう。
私は新潮社刊の上下二巻で読んだが、長い、というより長く感じた。昔読んだ司馬遼太郎『関ヶ原』など全3巻であったが夢中になって読み終えたものであるが、そういうのとの違いは、物語の筋の運び方、人物の動き、作家の語り口など理由はいくつも挙げられるだろうけれども、やはりご先祖探しの話柄はどうしても地味になるということかも知れない。何しろ読み手は知らない人について聞かされるわけだから、その人たちがなにか動きを見せるまでは関心の向けようがない。
「私の親戚に一軒だけ東北弁の家がある」という一行だけの書き出しは、続く行からの「私のところは、父の家も母の家も高知県の郷士で、先祖代々土佐に住みついてきたから、親戚といえばどんな遠縁の人でも、みんな土佐言葉か、多少とも高知訛りの標準語かである。…」というような説明によって、なるほどという聞き手の反応が引き出されてくる。この一行を冒頭に持ってきたのは、作家の土佐への思い入れがそれだけ強烈なのだろうと思う。その土佐人がなぜ東北にいるのか、少年時代に東北訛りの紳士の訪問を受けたことを思い出す。「奥州の安岡」という呼び名が一族の間にあったそうだ。答えは本家の人間が福島に移ってしまった結果であって、明治維新まもなくの頃の地域経済力の差が、本家の没落と東北蚕業の盛況にあらわれているのであった。そういう事情がわかるのは全巻の最後に近いあたりだ。その少し手前に、関連してお墓探しの話がある。
冒頭に近いあたりにも四軒と墓地の説明があるが、文助氏の墓が見当たらないことが課題として残った。で、最後のお墓探しの場面は、安岡家をも含む広い山の斜面に展開している雑草に埋もれた墓地に、寛文とか元禄といった文字の刻まれた朽ちた墓石が何百となく荒れた斜面に様々な向きにうず高く転がっている情景がある。
作家は何千何万の遺体と骨がすでに溶けてしまっているであろう山地の地面の底を思いやるのであるが、「流離」のことばが表す系図の中身になんとも言いようのない虚しさをもたらす情景である。どこからとも知れぬところから、いつの時代かの人の胎内にやってきて生みおとされ、いっときこの世ですごしたのち消え去ってゆく生き物、それが自分のことでもあるという情感である。拾い集めた割れた墓石の一部を復元して何文字か読み取る、こんな作業は当今のシュレッダーにかけられた記録の屑を連想させる。
文助じいさんの日記や文書、覚之助からの陣中報告他、様々な文書から得られる情報は、まさに人々の生きた証であり、歴史そのものである。出来たてほやほやの明治朝廷軍、宮さん宮さん、と東へ下っていく兵隊とは名ばかりで、それぞれの藩からの雑兵のかたまり、どこまで行ったら国元に帰してもらえるかばかり考えている有様だ。中央政府にカネがないとか、補給ということが頭にない軍隊とか、学者先生の歴史には出ていないいろいろな状況が分かって面白い。すべて古文書のおかげだ。
高名な15代藩主山内豊信(とよしげ、のちの容堂)は先々代と先代が嗣子がないまま早世し、御家断絶の危機にあたって苦肉の策謀で養子に仕立てられて家督相続したといういわくつきの藩主だそうだ。不祥事で引退した隠居の12代豊資の子鹿次郎(当時3歳)に家督を譲る条件が付けられたうえ、公私の生活態度作法にまで誓約書を入れさせられ、豊資のロボットとして操られていたのだそうだ。大政奉還を唱えながら裏表のよくわからない態度をとってみたりした、ひねくれた酒飲み殿様の実態はこんなところの心の秘密から出ていたのかと思わせられる。
『流離譚』が先祖を探る物語であるからには、日本の家の制度の話となるのは当然である。家の制度は夫婦が子供をつくることが基本である。男が生まれなければ養子を入れて家を嗣ぐ。土佐藩山内家は短命や子なしが多かったので、12代豊資のときに、一説には20数人ともいわれる多数の側室をおいたことが成功して、目出度く11男、7女をもうけて一躍家門は大繁盛したという。ただし、あとがいけなくて、財政窮乏で領民が大量に逃亡する不祥事が起きた。
昔の安岡家は前述のように四つの家で跡継ぎが絶えないように工夫していたのであったが、極端な早婚もよくあったらしく、9歳と7歳の夫婦ができたりして、「二人して毎日、椎の木に登って椎の実を食うたり…」と語った女性はどうやら自分のことのようだったという場面もある。
話が前後するが、明治5、6年頃に覚之助長男正明(のち松静と改め)と真寿が結婚、松静17歳、真寿16歳。覚之助松静が戊辰の役で戦死、真寿の父嘉助が打首で双方とも早世したため、早く跡継ぎをもうけさせようとしての従兄姉夫婦である。明治7年に長女美名吉(みなえ)が生まれた。本家では文助の妻の生家藤田家の次男克馬(のち正凞)を婿にするつもりで学資の面倒を見た。克馬は16歳で医学修学のため上京したが、すでに開校されていた東大医学部に学んだ形跡はないそうだ。どこで学んだかわかっていないが、本家はかなりの出費をしたらしい。正凞の後日談では「養子に来たときには家の中はカラッポで金目のものは何もなかった」と言っていたそうだ。本家がなくなるほど没落するのは、地主であった当主が土地を手放したとしか考えられないというのが章太郎氏の推察である。
明治20年12月、東京にあった克馬は警視総監三島通庸の発令した保安条例に引っかかって相州に逃れた。保安条例というのは民権派を強圧的に押さえつけるための条例であって、発令と同時に戒厳令がしかれ、克馬のように民権運動に関係していない人間も土佐人と見れば東京から退去させられた。無茶苦茶な条例で福島事件で名をはせた三島の悪辣なやり口である。相州に逃れたというのは横浜に行ったことらしいが、ここでヨーロッパの異常気象が日本に幸いして蚕卵紙の輸出価格高騰という景気の良い話に出逢った。なんでも東北が養蚕で景気が良いという話を聞いて移住を考えた。試しに行ってみた仙台で、盛況を聞き込んだ梁川町に眼科医を開業した。蚕の繭とりの作業が閉め切りの部屋で湯気や煙を立てるため眼病になる女工が多いから眼医者をやれば当たるという話だったが、開業したその日から患者が詰めかけたそうである。
これが明治21年で、翌年土佐に戻り、美名吉と結婚、同時に正凞(まさひろ)と改名した。移住には一家全員が賛成したそうで、養祖母万亀59歳、養母真寿31歳、妻美名吉16歳を連れてみちのくの旅に上った。ときに正凞27歳。
この土地を章太郎氏は実際に訪れていろいろ聞き込みをした様子も綴られている。古文書の北小路氏の教えで、必ず実地を踏むことという教訓を作家は忠実に励行している。
最初の妻、美名吉は明治25年20歳で亡くなり、長男正武も数えの3歳で死ぬ。二人とも肺結核だったのでないかと作家は推定している。明治28年に迎えた後妻安猪(やすい)は2男3女をもうけて42年に40歳で死亡している。明治29年に生まれた最初の子が次男正光である。本作初めのほうに登場する東北訛りの実直そうな紳士、安岡正光氏はまさにこの子なのである。ちなみに38年に生まれた三男正郎は三月余りで死んでいる。
南国育ちの人間には軒まで積もる雪の中の生活は苦しかったであろうし、味噌も醤油も鹹いし、生魚も口にできないとなれば、それだけで精神的に参るかもしれない。眼科を開業した安岡正凞は、他に医者がいないため医療万般請負のようであった。正凞は考えをあらためたか三番目の妻、いしは宮城県から迎えた。明治22年生まれの21歳、作品中には90歳を越えてなお健在と書いている。
話は変わるが、美名吉が亡くなるとき、病人が賛美歌を口ずさんだ。付き添っていたのは母真寿であった。
「亡ぶるこの世、くちゆく我が身、何をかたのまん……」そこまで唱って声が出なくなったのを、真寿があとを引きとって、「何をかたのまん、十字架にすがる……」と、枕元で、つづけてうたってやった。
これは真寿を知っているという山北の老婆から作家が聞いた話である。この場面に来るまで作品にはクリスチャンに関することは出てこない。明治30年頃、高知ではクリスチャンが増え始めたようで、それは民権運動の普及と並行していたという。安岡家の女性たちは民権家道太郎の手びきで入信したのかも知れないと書いている。ちなみに章太郎氏は本作の6年ほど後に受洗したようだが、私はその動機や理由は知らない。
真寿は、ひとり梁川から戻ってきたのだというが、その理由は不明である。亡父嘉助の遺した書付や遺品を一切合切持ち帰ったらしい。それらは真寿の生母の実家公文家へ持っていったといわれているが確かめられていない。この作品のあと、章太郎氏がそちらを探求したかどうか、どこかほかに書かれてあるだろうか。
さきに真寿のことについて、亡父嘉助と書いた。嘉助は吉田東洋暗殺実行犯として脱藩し、1864年京都六角獄舎で処刑されるまで追われる身であった。そのため真寿は4歳から母子家庭にあって母の実家公文家で暮らした。15歳で縁付いた安岡松静には9年目に死なれて24歳で寡婦になった。42歳で婿の家から飛び出した理由は何であれ、孤独な人生だったと作家は同情している。出戻った高知は必ずしも暮らしは楽でもなさそうで、たまたま縁続きの寺田寅彦の日記、明治34年10月の記事に病人の看護などしているように想像できる話が載っているそうだ。ついでながら、このとき寅彦は24歳の大学生、妻の夏子が肺結核、自身も肺尖カタルで別居して療養中であった。
物語全体の流れには安岡家内部の事柄と維新前後の公との関係事項が織り交ぜて述べられている。上記の正凞の話は安岡の私事であるが、土佐藩の内部や坂本龍馬、天誅組の破綻、戊辰戦争の記録などもかなり書き込まれてある。目次とか章分けとかがないため、後戻りしてなにかの事柄を確かめるなどの作業がしにくい。初回の通読だけでは、記憶が定着し難い。面倒でもメモをとるとかしながら読まないといけない。図書館で借りて読むには時間に追われる。ここには、部分部分で印象に残っていることを書き留めた。個人の日記や手紙の類など、いわゆる古文書から知れる人々の暮らしの様子からは思いがけないことを知ったりして断片的にでも楽しめる。本編も文学賞受賞作品であるからには、もう一度読み直せば、かなり深く頭に入ることもあろうとは思うが、いまのところその勇気は出ない。ただ、よくも書いたものだと感心する。安岡章太郎氏は7年前に亡くなった。この26日が命日である。
読んだ本:安岡章太郎『流離譚(上)および(下)』新潮社 昭和56年
(2020/1)