2017年6月20日火曜日

『1491』を読んで(3)トウモロコシの話

さて前回はティスクヮンタムのことでトウモロコシが登場したが、トウモロコシはコロンブスが「新世界を発見」したときにスペインに持ち帰り、ヨーロッパに伝えたことになっている。この植物は世界三大穀物と呼ばれて小麦・コメと並んで食糧としてだけでなく重要農産物でありながら、素性が知れない不思議な植物である。原産地も起源もわからないので、宇宙から来たとさえ言われている。

メソアメリカという用語がある。メキシコと中央アメリカ中西部のあたりの地域を指し、この前書いたオルメカ文明やマヤ文明などを産んだ古代歴史の宝庫である。定住農耕文明と神殿文明が栄えた地方でトウモロコシはこの文明から出てきた気配がある。何しろ神殿に祀る神にトウモロコシの神が出てくる。メキシコの主食でさえあるのだから神として祀られるのも当たり前かも知れない。(右図)

最近の旅行記には食べ物の話が多いが、この本『1491』にはメキシコはオアハカ市のトルティーヤの店「イタノニ」と、店主の先住民にして農学起業家ラミレス・レイパ氏が紹介されている。このオアハカあたりがトウモロコシの原産地と目されている地域で、狭いテワンテペック地峡に山、海岸、熱帯雨林、乾燥したサバンナなどのさまざまな環境が集中し、多様な生態系の混在する地域になっている。100メートルほどのあいだに標高が海抜0メートルから2,700メートルまで変化し、住民の構成と農耕形態の発展に貢献しているという学者の言もある。トルティーヤ店「イタノニ」は世界でもっとも重要な文化的・生物学的遺産を守るための画期的な試みの一環として2001年に開店したのだそうだ。その遺産とは言うまでもなくたくさんの品種のトウモロコシ(学名Zea mays)だ。イタトニはトウモロコシの花のこと。この店では加入農家から8品種の乾燥トウモロコシを仕入れ、その粒を丁寧に挽いて粉にし、手でこねてトルティーヤの種をつくってその場で焼いて客に出す。地場産のトウモロコシしか使わないのはここだけだろう。


1万年ほど前に気温の上昇などで動物がいなくなった頃、原住民は食糧を採集と農耕に頼ることになった。サボテン、リュウゼツラン、野生のカボチャ、トウガラシなどなんでも食べられるようにする方法を見つけて食料に変えた。その後にトウモロコシが登場したが、自力では繁殖できない植物、つまり増やすためには種を植えるしかない。野生が発見できないから祖先植物がわからない。原種がわからないから品種改良も難しい。テオシントというよく似た種類の野生植物があるが、外見が全く違うだけでなく食用にならない。1960年代、考古学者が50もの洞窟を探査して、5つの洞窟からタバコの吸いさしぐらいの大きさのトウモロコシ穂軸を見つけた。23607本!これが発端で二人の学者による起源論争が始まった。植物学者と遺伝学者。どのように交配すればいまのような穂になるか、分かれば品種改良も出来て増産もできる。しかし、未だに決着がつかない。

歴史家の観点からすれば、どちらの説も、6千年以上も前にメキシコ南部で――おそらく高地で――インディオがはじめてトウモロコシの祖先種を栽培したと言っているのだ。そして双方とも、現代のトウモロコシが生まれたのは、意図的に生物学的操作をするという大胆な試みがみごとに成功した結果だとしている。「まちがいなく人類初の、そしてもっとも高度な遺伝子操作がおこなわれたのである」2003年、ペンシルヴェニア州立大学の遺伝学者、ニナ・V・フェデロフはそう記した。

普通われわれがよく食べているトウモロコシは穂軸にふっくらとした黄色い粒が並んでいる。メキシコのはそうでなく、赤、青、黄、乳白色、黒などバラエティに富んでいる。これは祖先種の多様性を示しているのだそうだ。色だけでなく形や大きさも異なる。通常、栽培化された植物は、不要な遺伝形質が除かれるため、遺伝子的には野生種ほど多様ではない。メキシコでは遺伝子的に異なるトウモロコシの在来品種が50種以上確認されている。それぞれの在来品種には、栽培によって生まれた「栽培変種」が数多くある。メソアメリカ全体では5千種近い栽培変種が存在すると考えられている。ついでだが筆者がネットで見ている中に「グラスジェムコーン」という七色トウモロコシがあった。食用で、遺伝子操作ではなく、品種改良したものだそうだ。これがそういう栽培変種に当るものだろうか。
メキシコ産のトウモロコシ

トウモロコシは他家受粉作物だそうだ。花粉が広い範囲に飛び交雑する。耕作者が次期に蒔く種を丁寧に選抜して、雑種を取り除くから全部が均質になる可能性は少ないという。それでも在来種のあいだでは常に遺伝子のやり取りがあるわけだろう。グアテマラとの国境近くの村では、トウモロコシ農家のほとんどは親と同じ在来種を栽培しているそうだ。先祖代々の受け継いだ品種だ。そうであれば勝手な交雑はおきないわけだ。
              
インディオの農民は「ミルパ」と呼ばれる畑でトウモロコシを作る。たいていは新たに土地を開墾して、一度にたくさんの種類の野菜を作付けする。トウモロコシ、数種類のカボチャ、アボガド、マメ、メロン、トマト、トウガラシ、甘藷、クズイモなどを一緒に栽培する。これは自然の状態で多種が混じり合った状態の再現を図る方法だ。ここでとれる作物は栄養的にも環境的にも補い合える関係になる。どれかに不足する成分は他のどれかが補うのだそうだ。「人類史上もっとも大きな成功をおさめた発明のひとつ」とマサチューセッツ大学のウイルクス氏が言っている。一般に、連作すると土地が痩せる場合、休耕するか肥料を補給するかという問題が生じる。それをメソアメリカでは4千年の昔から繰り返し耕作されてきて、いまだに土地の生産力が衰えないといえるシステムを作り出した。
メソアメリカの原住民は穀物のみのる作物の新種を作り出し、それを育てる環境も創造したわけだ。考古学の研究結果はトウモロコシが大量に成育した場所に高度な文明が栄えたことを立証できている。ミルパを作るために大規模な開墾がおこなわれた証拠が現れる紀元前2千年から1500年ころ、メソアメリカ最古の文明、オルメカが登場した。低い山脈をはさんでオアハカの反対側に栄えたオルメカの人々はトウモロコシによってもたらされた文明を享受していた。トウモロコシに対する賛美を芸術で表現し、それを教化に用いようとした。石碑や彫刻にトウモロコシのシンボルが盛んに使われている。 

ピルグリムが北米にやってきたころには、様々な種類のトウモロコシやマメ、カボチャの畑がニューイングランドの海岸地方を彩り、ところによっては内陸部に向かって何キロメートルも広がっていた。いっぽうで南米に伝わったトウモロコシは、ペルーやチリにまで達した。アンデスでは、ジャガイモを中心とする独自の農耕システムが発達したが、そこでもトウモロコシは食糧として高い地位を得た。

トウモロコシはコロンブスによってヨーロッパに紹介され、それ以後は世界各地に影響を与えることになった。とりわけ深く関わるようになたのは中央ヨーロパで、19世紀頃には、セルビア、ルーマニア、モルダヴィアの家庭で毎日のようにトウモロコシが食卓に上ったのだそうだ。アフリカへの影響はことのほか大きく、歴史学者アルフレッド・クロスビーによれば、アメリカからトウモロコシとピーナッツやキャッサバなどの穀物が伝播したことによって、アフリカの人口が大幅に増加したようだ。余剰人口が奴隷貿易を可能にしたのだという。つまりトウモロコシがアフリカ大陸を席巻しつつあったころ、アメリカ大陸では、疫病が先住民社会を壊滅に追い込もうとしていた。ヨーロッパ人は労働者不足に直面し、アフリカに目を転じた。アフリカでは部族間抗争が絶えず、これが何百万もの人々の流出を助長する一因となった。互いに敵対する部族の人々を捕えては、ヨーロッパの商人に売ったためだ。トウモロコシによって人口増加が続いていたので、商品が品切れになる気遣いはなかった。だからこの忌まわしい貿易が途切れることなく続いたのだと、クロスビーは考えている。
ところで、メキシコの主食はいま危機に見舞われているようだ。トランプ攻勢にまつまでもなく、はやくからアメリカのトウモロコシ進出に脅かされている。メキシコの在来種のトウモロコシは全市場を賄えるほど多くはない。アメリカ企業は量産できるハイブリッド種を安く売り込んでくる。そのうえに遺伝子組換えの問題がある。メキシコでは遺伝子組み換えトウモロコシの栽培は禁止されている。ところが、農民が食用にするために買った米国産トウモロコシを遺伝子組み換え作物と知らずに植えるという不祥事が出来している。アメリカ産には遺伝子組み換えという表示がない。この問題は2001年に報告されたが現状はどうなっているだろうか。世の中にはいいことと悪いことがいつも裏表になって訪れるようだ。
『1491』チャールズ・C・マン著 布施由紀子訳、2007 日本放送出版協会。トウモロコシは第6章で扱われている。
参考:インターネットでは次のサイトが役に立つ
http://www.biodiversidad.gob.mx/usos/maices/maiz_cartel.html
メキシコの生物多様性保護機関の公式サイト。日本語翻訳に難があるが、「レース」をクリックすると、種類別の画像が見られる。「トウモロコシ」で動画がみられる。
公式サイトにあるメキシコ産の画像

(2017/6)

2017年6月19日月曜日

『1491』を読んで(2)先住民とピルグリム

前回オルメカ人頭像の表題で書いたときに参照した
のは『1491』という書物だ。日本語の本文だけで600頁あまり、それに訳注と文献目録が90ページほどある。分量をこなすだけでも大ごとだが、内容がもりたくさんなので次々に読み進むだけでは記憶に残らない。少しずつでも何かの形で残しておきたいと考えて、また書き始めた。
著者はチャールズ・C・マン、アメリカの有力雑誌に拠るジャーナリストだ。副題に「先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見」とあるように、考古学、人類学、地理学などの分野で新発見が相次ぎ、歴史の見直しが進められているアメリカの研究成果が紹介されている。見直しは当然新旧の学説の論争がつきまとうから、新しい歴史の教科書は研究のスピードに追いつかない。著者の子息が歴史を教わる学齢に達しても、著者が習ったとおりのことが繰り返されているのを見るにしのびず本書を書くことにしたのだとまえがきにある。
1章から11章まであるのを3部に分けてある。章ごとの見出しをみても内容は汲み取れないが、まえがきに重要と考える新発見を3つに絞ったとある。第1部はどれほどの人間が住んでいたかという問題で、アメリカ大陸には何千年も前から多様な人で溢れかえっていたという説が有力になっていること。第2部には発見された古い骨の研究で1万5千年前ごろに起源をもとめられること。そして第3部はアマゾンの原生林などというのは間違いで、人が生態系を壊しているだけでなく、埋もれていた巨大な古代遺跡がハイウエイ建設で破壊されているという話になる。南北合わせてアメリカ大陸にはコロンブス以前にはどれほど多くの人間が生活していたことか、それがどうして誰もいなかったかのように考えられたのか。知るということが、知らないことがどれほど多かったかを知ることになるという立証の記録をサイエンス・ライターの著者が綴ってくれている。

それにしても材料が多すぎるし、何もかもを一度に話してしまおうと勢い込んだのか、どうしてこんなに急いだのか。早く話してしまわないと次の発見物語に進めないとでも言いたげである。筆者のように回転の遅い理解力の持ち主には向かない書物だ。通読しても上滑りに終わりそうだから、一つずつ興味が持てる事柄について、ほかの資料をも参照しながら読み進むのがよさそうに思った。
たとえば、第2章にあるティスクヮンタムについてのエピソードが面白かった。イギリスを体験してきたアメリカ先住民のことだ。
メイフラワー号でアメリカに渡ったピルグリムの一行102人のうち半数は飢えと寒さと病気のため最初の冬を越えられずに死亡した。この団体はもともと生活力があったのかしらと思いたくなるほど開拓地に向かう準備をしていないようにみえる。船にはたいてい冷蔵庫代わりに生き物を載せていくはずが、牛も羊も連れていない。始め2隻の計画が狂って全員が1隻で航海することになったために狭かったという理由があるにしてもだ。で、最初に行き着いた場所に上陸して食料を探す。たまたまそこは原住民の村だったが無人だったから、家の中やら墓までもあばいて、貯蔵してあったトウモロコシなどをいただいて船に持ち帰った。これは泥棒だ。のちに総督になったウイリアム・ブラッドフォードが書き残した手記「Of Plymouth Plantation」には略奪したと明記してある。もっとも、のちに土地問題でもめた際にこの時の代価を支払うと申し出たそうだが。この時の村はコッド岬の海岸でノーセット族の土地、おそらく彼らの習慣で冬場は少し内陸の住まいに移っていたために無人だったのだろう。
入植地と決めた土地、のちのプリマス、に落ち着いてからピルグリムは先住民に農耕を教わった。彼らは農耕を知らず、トウモロコシも知らなかったので、先住民に植え方や肥料をやることを教わった。教えたのは植民地に住み込んだティスクァンタムという名の男。友好的な先住民としてスクヮンタムとして教科書に載っているという。著者も教室でそのことを教わったひとりだ。ティスクァンタムは肥料として種のそばに魚を埋めることを教えた。これは収穫を増やすためのインディアンの方法で、その後2百年にわたってヨーロッパ人入植者に受け継がれていった。しかし著者に言わせれば教科書の書き方は誤解を招くかもしれないという。インディアンが魚を肥料に使った証拠はないようだし、彼らの野焼き農法ではその必要もないはずだ。実は、ティスクァンタムは拉致されてヨーロッパに連れていかれた過去がある。逃亡する旅の途中ヨーロッパの農民に学んだとの説もある。魚を肥料にするのはヨーロッパでは中世からやっていることだったと著者は書いている。教科書には簡単に触れているだけだが、著者はこの友好的な先住民についてかなり詳しく紹介している。それはヨーロッパ人が来る前の先住民の暮らしと文化が後世に伝わったイメージとおおきく違っていて、自然豊かな土地で農耕しながらの定住民だったことがわかるからだ。著者の記述から大略を書いてみる。
ニューイングランド地方
ティスクァンタムは現在のプリマス付近にあった集落群のひとつパタクセットに生まれた。ワンパノアグ部族だ。このあたり、マサチューセット語ではニューイングランド海岸地方を「日の出の国」と表現し、そこの住人は「暁の人々」と呼ばれた。厚さ1500メートルもの氷床に覆われていたこの地方に人が住み始めるのは1万1千年ほど前、コッド岬がいまの形状になったのが紀元前千年ごろという。「日の出の国」は色とりどりの布を継ぎ合わせたキルトのように種々の生態系が展開していたのだそうだ。十世紀末
には農耕が広まり、多くの共同体が生まれ海岸沿いには定住型の集落が増えていったらしい。16世紀の終わり頃に生まれたティスクァンタムが幼年時代を過ごした家(ウェトゥとよばれる)は、ドーム型に組んだ骨組みにイグサのマットやクリの樹皮のシートを重ねた構造で、家の真ん中にはいつも火が焚かれ、煙は屋根に開けた穴から出ていった。イギリスでもようやく煙突が使われるようになった頃であったので、イギリス人もウェトゥは自分たちの家より暖かく、激しい雨にも耐えると賞賛している。食文化もかなり高度で食材も多様で、一日の熱量は2500キロカロリーもあったことがわかっている。子どもたちは野山で過ごして自然への耐久力を鍛えられ、人格教育を施され、勇敢で忍耐強く、正直で不平を言わないことを求められた。ティスクァンタムは首長たちの相談役兼ボディーガードをつとめるプニースという役目の候補に選ばれたので、特別頑健な体躯と精神づくりを強要されて育った。
1523年にフランス人に命じられて探検に来たイタリア人水夫ジョヴァンニ・ダ・ヴェラツァーノが残した「暁の人々」についての最古の記録には、「長身でたくましく、言葉で言い表せないほどに美しかった」とナラガンセット族の首長の姿が記されているそうだ。逆に先住民からみれば、ヨーロッパ人は不潔だけでなく臭かったそうだ。

1614年夏、パタクセットの沖にヨーロッパ人が2隻の船で現れた。捕鯨の目的で来たものの、獲物がなかったので代替品として干し魚と毛皮を手に入れるためだった。船長は先住民女性ポカホンタスにいのちを救われたことで有名なジョン・スミスだった。この航海を終えてイギリスに戻ったスミスはチャールズ王子に地図を示してインディアン集落全てにイギリス名をつけるように進言して王子の機嫌を取り結んだ。スミスは経験をもとに本を書き、地図を載せた。このとき、パタクセットはプリマスと名づけられたのだそうだ。
スミスは帰国にあたって一隻をトマス・ハントに預けて干魚の積み込みを任せて現地に残してきた。ハントはスミスに相談もなくパタクセットを訪れて、夏の一日インディアンたちを船に招待した。数十人がカヌーで船に近づいたとき何の警告もなく乗組員たちはインディアンたちを捕らえようとした。抵抗するものには小火器で掃射し「大量虐殺」におよんだ。生き残った者に銃口を突きつけ船底に追い込んだ。ティスクヮンタムもこうして捕まってほかの20人以上と共にヨーロッパに連れていかれた。
この事件にパタクセットのコミュニティは激怒し、ほかの部族も全てが外国人と戦争状態になった。ハントの蛮行の2年後、フランス船がコッド岬先端で難破した。乗組員は粗末な小屋を建て防護柵をめぐらしたが、ノーセット族が、ひとり、またひとりと密かに乗組員をさらっては殺した。ボストンに着いた別のフランス船は乗組員を皆殺しにされ、船を焼かれた。
ハントの船はイギリスに戻る途中でスペインのマラガに立ち寄り、積み荷を売りさばこうとした。積み荷にはインディアンも含まれていた。1537年教皇パウロ三世は「インディアンはほんものの人間である」と宣言し、ローマ・カトリック教会とスペインの教会はインディアン虐待に強く反対していた。修道士たちはまだ売れていないインディアンを保護した。どのようにしたのか、説明はないのでわからないが、ティスクヮンタムはなんとかロンドンにたどり着き、造船業者ジョン・スレイニーの家に住み込んだ。こういうことは原注に紹介してあるニューファンドランド投資家の研究という書物でわかるようだ。当時のロンドンはアメリカ大陸をめぐる投機マニアの中心地だったらしい。スレイニーは骨董品代わりにティスクヮンタムを家に置いて英語を教え込んだ。やがてスレイニーを説得して漁船で北アメリカに帰れるように取り計らってもらって、ようやくのことにニューファンドランド南端の小さな漁業基地までたどりついた。その先パタクセットまでは1500キロメートルも続く岩だらけの海岸と敵対勢力の支配地域が続いていた。スミスの部下のダーマーという男に出逢ったことで、ここには詳細は省くが、ともかく1619年、ようやくティスクヮンタムは故郷に戻れた。ダーマーの報告にはメイン南部からナラガンセットまでの海岸地域は空っぽで「まったく何もなかった」とあるそうだ。かつて活気にあふれたコミュニティが連なっていた土地には、廃屋が並び、畑は荒れ放題で、野ざらしにされて白くなった骸骨が散らばっていた。沿岸は長さ300キロメートル、奥行き50キロメートルに及ぶ墓場になってしまっていた。5年ぶりに見るパタクセットは何か尋常でない力に打ちのめされて、ティスクヮンタムにとってすべてであった世界そのものが消滅してしまっていた。
いたるところに死体が転がっている間を通って、ティスクヮンタムはようやく数家族に会えた。彼らは大首長のマサソイトを呼んできた。大首長はティスクヮンタムの留守の間に起きた一部始終を語ってくれた。その次第は、のちにメイン州歴史保存委員会が記録から医学的に研究してウイルス性伝染病の蔓延にあったことがわかった。はじまりは病気を持ったフランス人船員を捕虜にしたことだった。記録に残された症状から、汚染された食物を介して感染するA型のウイルス性肝炎らしかった。家の中でインディアンたちが折り重なって死んでいたとの記録もあった。1616年から3年以上たって流行は自然に終息したが、ニューイングランド海岸地方に住む人々のおよそ90パーセントが死んでしまった。当時の人々はヨーロッパ人もインディアンも伝染病を知らず、すべては精霊のせいだった。マサソイトは数千人を擁するコミュニティを直接統括し、2万人からなる部族同盟を支配していたが、部族民が60人に減り、同盟全体も千人を下まわった。ワンパノアグ族は「白人の神々が同盟を結んで自分たちに災いをもたらした」という合理的な結論に達したのだった。ピルグリムも同じような考えかたによって、ブラッドフォード総督は「神のご加護が多くの先住民を排除して土地を明け渡させて、自分たちの最初の一歩を踏み出させる手だすけをしてくださった」と感謝した。
マサソイトにいきさつを聞いたティスクヮンタムは伝染病を知って動揺し、ダーマーと共にメイン南部に行こうとした。途中ダーマーはイギリス人に敵対するインディアンに殺され、ティスクヮンタムはマサソイトのもとに送られた。マサソイトに敵対していたナガランセット族はワンパノアグ族と絶縁状態だったがために伝染病の災厄を免れていた。その攻勢を怖れていたマサソイトに、ティスクヮンタムは渡航先のイギリスで知ったことどもを巧みに語ってイギリス人と同盟させようと計画した。マサソイトは別の考えでこれまでの方針を変え、イギリス人たちと協同しようと考えて交渉を始めた。後年総督になるウイリアム・ウインズローの決断により同盟が結ばれ、以後の入植が急速に進んでイギリスからの移民が大挙して押し寄せることになった。1621年のことだ。
ティスクヮンタムはピルグリムにとっての通訳だけでなく、パタクセットの生き残りを集めて故郷を再建しようという考えも持っていた。するどいマサソイトがこういうことに気が付かないわけはなく、ついにはティスクヮンタムを反逆者扱いする。ティスクヮンタムは一生プリマス植民地で過ごすようになった。住み込んで農業を教えたのはこういうことからであった。しかし彼はあるとき、コッド岬での条約締結交渉にブラッドフォードに同行した帰途に体の具合が悪くなって数日後に死亡した。1622年11月30日マサチューセッツ州チャタムにて、とWikipediaにあった。
条約は50年以上効力を持ち続けたが、1675年にマサソイトの息子の一人メタコムが入植者に反逆しようとして戦争になり、イギリス人の完勝に終わった。ちなみにワンパノアグ族と敵対していたナラガンセット族は、1616年のウイルス伝染病を免れたものの、1633年に天然痘が大流行して壊滅状態になった。結局、ニューイングランドに残った先住民の数は半分ほどに減ってしまった。マサソイトが結んだ同盟はナラガンセット族から自分たちを守ることには有効に働いたが、先住民社会をヨーロッパ人から守るには大失敗であった。

以上はティスクヮンタムの存在と、先住民と入植者の関係について著書の記述から大幅に省略して述べた。1675年の戦争については、Wikipedia「ワンパノアグ族」の説明では若干違う様子が述べられている。ヨーロッパ人は銃と大砲で先住民を虐殺したように説明している。チャールズ・アン氏の筆はすこし遠慮したのだろうか。
読んだ本:『1491』チャールズ・C・アン著 布施由紀子訳 日本放送出版協会 2007年
(2017/6)


2017年6月11日日曜日

『1491』を読んで(1)オルメカ人頭像、あるいはコロンブス以前のこと

ここのところひと月かふた月か、大きな石頭に悩まされている。イシアタマではない。セキトウ、つまり石でできた頭のこと。巨石美術です。堀田善衛さんの「『ねんげん』」のこと」という短編小説を読んだときに出逢った。「ねんげん」は中国か朝鮮半島の人が日本語で人間と言うときにでる訛がそのように聞こえるのだという。物語のはじめに中米美術館の展示会場で大きな石の周りをウロウロする場面がある。巨大な石でできた頭にタガがはめられていることから作者は人間の思考が統制される状態を連想する。タガは箍であるが、いまはこんな漢字を書いても誰も読んでくれない。桶を見ることもめったにない時代だ。桶にはまっている竹の輪がタガだ。タガがはずれると桶はばらばらになる。思想を締め付けているタガが外れると、国家がばらばらになるという妄想が古い政治屋にはあったらしい。いまさかんに言われている共謀罪にも関係する。こんな話を書くはずではなかった。巨石美術だ。中米文明だ。

文章で見ただけでは具体像が浮かびにくい。インターネットだ。ありましたぁ。たくさんの画像の石頭の細部はいろいろあるので堀田さんの見たらしいようなのをここに出しておく。「オルメカ」というwikipediaにある画像だ。メキシコの東海岸にたくさん発掘されている。高さが2,3メートルほどもあるというから大きなものだ。1939年発掘当時の写真が当時の驚きを想像しやすい。スミソニアン協会の考古学者、マシュー・W・スターリングがメキシコ、ベラクルス州のトレス・サポーテスという村に頭頂部分だけ土からのぞいていたが大きすぎて80年もの間放置されていた石頭を発掘した。
この写真はその時の様子を写したもので、その後も探検と発掘が続けられた。いずれもいくつもの大きなマウンド(丘)に囲まれた遺跡だった。石像の目的も輸送方法も不明だが、とりあえず遺跡の人々をオルメカと名づけた。オルメカ人の存在が確認できる最古の年代は、紀元前1800年ごろだそうだ。現在では湾岸地方に17基ほど見つかっているという(図参照)。
いずれも湿地帯の森のなかにあって探検も容易でないらしいが、一般的に中南米の森は単純に原生林と決めつけては誤りであることが多いそうだ。いったんは拓けた土地が森に埋もれてしまったらしい。原因はおそらく気候変動によって大規模の都市が崩壊したことにあるらしく、今後の研究によって発見が相次いでどんどん歴史が変貌すると考えられる。
ところで、このcolossal head(英語ではこう言えばオルメカの巨石人頭像を意味する)に表現された顔つきが問題である。人類学者Ivan van Sertimaはオルメカ人頭像をアフリカ人かアジア人だという。そしてコロンブス以前にはアメリカ大陸にはアフロ・フェニキア人がおおぜい先住していたとの説を強調する。この学者はアフリカ主義の人なのだ。しかしその提唱する学説はアメリカの人類学の主流派には賛同されていない。それでも、ブラジル・カピバラ遺跡ではアフリカ系の人類頭蓋骨が見つかった例も出ているというからまだまだわからない。
アフロ・フェニキア人とは筆者には聞き慣れない用語であるが、フェニキア人をカルタゴ系の人と解釈しておく。ならば、北アフリカ・地中海の交易民族だ。オルメカ人頭像の話を追ってゆくと、人種論争を聞かされることになろうし、差別問題も絡む。あるいは中南米一帯の歴史の書き換えに付き合わされるかもしれない。どちらにしても石頭は文字通りイシアタマになってしまって当方の脳が働かなる。何を考えればいいかわからなくなる。だから、きょうのところは巨石人頭像というものの珍しさだけを話題にして、あとはゆっくり歴史なり人類学なりの成り行きを眺めることにしよう。
実はここまで書くまでに、私は随分と多くの断片的な知識を持つことができた。北米先住民がモンゴロイドであることについても、どのような経路で来たか。そりゃあベーリング海峡を渡って来たんだろ、といっても、そのあと南下するに大氷原があったそうなのだ。零下何十度という氷原には植生も動物も見られないから人間は食い物がない。後に偶然氷のない回廊ができた数百年ほどの間に人も動物も北米の端っこまで来たのだそうだ。1万数千年前の話。
黄色い塗りつぶしはベーリング陸橋、Lはローレンタイド氷床、Cはコルディエラ氷床。1万3000年前ごろには上図のように2つに分かれ、「無氷回廊」と呼ばれる氷に覆われない領域が出現したことから、通行可能になったと推測されています(赤い矢印)。
青い矢印のように、氷床を回避した北太平洋岸ルートを提案する研究者もいます。
https://ecolumn.net/beringia.htm
これが南米のことになると氷の代わりに森がある。幾つもの都市が出来ては埋もれることが繰り返されているので、先住民もその前の住民が一度は拓いた場所に知らずに住んだりする。綿やトウモロコシの開発などの先進技術もあった。いっせいに人がいなくなるのは伝染病だ。95%以上もがいなくなるから怖ろしい。あまりにも知識が少なかったところへ、新しいことが一度に出てこられると、メモリーが不足する。仕方がないから眠る。というわけで、このところ読書はさっぱり進まなかった。
それにしても、世界的に見ても学問や技術の進展は急であり、歴史も評価もどんどん変わる。歴史だけでなくすべての科学は同じことだ。これでは新知識を得るとは一時しのぎにすぎないのかな。それでも知ることは楽しいから、ま、いいか。
開いてみた本:『1491』チャールズ・マン著 布施由紀子訳、2007、日本放送出版協会、ほか。
インターネットではメキシコ国立人類学博物館がおもしろい。参観者が写真をたくさん撮ってくれている。
(2017/6)