2017年6月19日月曜日

『1491』を読んで(2)先住民とピルグリム

前回オルメカ人頭像の表題で書いたときに参照した
のは『1491』という書物だ。日本語の本文だけで600頁あまり、それに訳注と文献目録が90ページほどある。分量をこなすだけでも大ごとだが、内容がもりたくさんなので次々に読み進むだけでは記憶に残らない。少しずつでも何かの形で残しておきたいと考えて、また書き始めた。
著者はチャールズ・C・マン、アメリカの有力雑誌に拠るジャーナリストだ。副題に「先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見」とあるように、考古学、人類学、地理学などの分野で新発見が相次ぎ、歴史の見直しが進められているアメリカの研究成果が紹介されている。見直しは当然新旧の学説の論争がつきまとうから、新しい歴史の教科書は研究のスピードに追いつかない。著者の子息が歴史を教わる学齢に達しても、著者が習ったとおりのことが繰り返されているのを見るにしのびず本書を書くことにしたのだとまえがきにある。
1章から11章まであるのを3部に分けてある。章ごとの見出しをみても内容は汲み取れないが、まえがきに重要と考える新発見を3つに絞ったとある。第1部はどれほどの人間が住んでいたかという問題で、アメリカ大陸には何千年も前から多様な人で溢れかえっていたという説が有力になっていること。第2部には発見された古い骨の研究で1万5千年前ごろに起源をもとめられること。そして第3部はアマゾンの原生林などというのは間違いで、人が生態系を壊しているだけでなく、埋もれていた巨大な古代遺跡がハイウエイ建設で破壊されているという話になる。南北合わせてアメリカ大陸にはコロンブス以前にはどれほど多くの人間が生活していたことか、それがどうして誰もいなかったかのように考えられたのか。知るということが、知らないことがどれほど多かったかを知ることになるという立証の記録をサイエンス・ライターの著者が綴ってくれている。

それにしても材料が多すぎるし、何もかもを一度に話してしまおうと勢い込んだのか、どうしてこんなに急いだのか。早く話してしまわないと次の発見物語に進めないとでも言いたげである。筆者のように回転の遅い理解力の持ち主には向かない書物だ。通読しても上滑りに終わりそうだから、一つずつ興味が持てる事柄について、ほかの資料をも参照しながら読み進むのがよさそうに思った。
たとえば、第2章にあるティスクヮンタムについてのエピソードが面白かった。イギリスを体験してきたアメリカ先住民のことだ。
メイフラワー号でアメリカに渡ったピルグリムの一行102人のうち半数は飢えと寒さと病気のため最初の冬を越えられずに死亡した。この団体はもともと生活力があったのかしらと思いたくなるほど開拓地に向かう準備をしていないようにみえる。船にはたいてい冷蔵庫代わりに生き物を載せていくはずが、牛も羊も連れていない。始め2隻の計画が狂って全員が1隻で航海することになったために狭かったという理由があるにしてもだ。で、最初に行き着いた場所に上陸して食料を探す。たまたまそこは原住民の村だったが無人だったから、家の中やら墓までもあばいて、貯蔵してあったトウモロコシなどをいただいて船に持ち帰った。これは泥棒だ。のちに総督になったウイリアム・ブラッドフォードが書き残した手記「Of Plymouth Plantation」には略奪したと明記してある。もっとも、のちに土地問題でもめた際にこの時の代価を支払うと申し出たそうだが。この時の村はコッド岬の海岸でノーセット族の土地、おそらく彼らの習慣で冬場は少し内陸の住まいに移っていたために無人だったのだろう。
入植地と決めた土地、のちのプリマス、に落ち着いてからピルグリムは先住民に農耕を教わった。彼らは農耕を知らず、トウモロコシも知らなかったので、先住民に植え方や肥料をやることを教わった。教えたのは植民地に住み込んだティスクァンタムという名の男。友好的な先住民としてスクヮンタムとして教科書に載っているという。著者も教室でそのことを教わったひとりだ。ティスクァンタムは肥料として種のそばに魚を埋めることを教えた。これは収穫を増やすためのインディアンの方法で、その後2百年にわたってヨーロッパ人入植者に受け継がれていった。しかし著者に言わせれば教科書の書き方は誤解を招くかもしれないという。インディアンが魚を肥料に使った証拠はないようだし、彼らの野焼き農法ではその必要もないはずだ。実は、ティスクァンタムは拉致されてヨーロッパに連れていかれた過去がある。逃亡する旅の途中ヨーロッパの農民に学んだとの説もある。魚を肥料にするのはヨーロッパでは中世からやっていることだったと著者は書いている。教科書には簡単に触れているだけだが、著者はこの友好的な先住民についてかなり詳しく紹介している。それはヨーロッパ人が来る前の先住民の暮らしと文化が後世に伝わったイメージとおおきく違っていて、自然豊かな土地で農耕しながらの定住民だったことがわかるからだ。著者の記述から大略を書いてみる。
ニューイングランド地方
ティスクァンタムは現在のプリマス付近にあった集落群のひとつパタクセットに生まれた。ワンパノアグ部族だ。このあたり、マサチューセット語ではニューイングランド海岸地方を「日の出の国」と表現し、そこの住人は「暁の人々」と呼ばれた。厚さ1500メートルもの氷床に覆われていたこの地方に人が住み始めるのは1万1千年ほど前、コッド岬がいまの形状になったのが紀元前千年ごろという。「日の出の国」は色とりどりの布を継ぎ合わせたキルトのように種々の生態系が展開していたのだそうだ。十世紀末
には農耕が広まり、多くの共同体が生まれ海岸沿いには定住型の集落が増えていったらしい。16世紀の終わり頃に生まれたティスクァンタムが幼年時代を過ごした家(ウェトゥとよばれる)は、ドーム型に組んだ骨組みにイグサのマットやクリの樹皮のシートを重ねた構造で、家の真ん中にはいつも火が焚かれ、煙は屋根に開けた穴から出ていった。イギリスでもようやく煙突が使われるようになった頃であったので、イギリス人もウェトゥは自分たちの家より暖かく、激しい雨にも耐えると賞賛している。食文化もかなり高度で食材も多様で、一日の熱量は2500キロカロリーもあったことがわかっている。子どもたちは野山で過ごして自然への耐久力を鍛えられ、人格教育を施され、勇敢で忍耐強く、正直で不平を言わないことを求められた。ティスクァンタムは首長たちの相談役兼ボディーガードをつとめるプニースという役目の候補に選ばれたので、特別頑健な体躯と精神づくりを強要されて育った。
1523年にフランス人に命じられて探検に来たイタリア人水夫ジョヴァンニ・ダ・ヴェラツァーノが残した「暁の人々」についての最古の記録には、「長身でたくましく、言葉で言い表せないほどに美しかった」とナラガンセット族の首長の姿が記されているそうだ。逆に先住民からみれば、ヨーロッパ人は不潔だけでなく臭かったそうだ。

1614年夏、パタクセットの沖にヨーロッパ人が2隻の船で現れた。捕鯨の目的で来たものの、獲物がなかったので代替品として干し魚と毛皮を手に入れるためだった。船長は先住民女性ポカホンタスにいのちを救われたことで有名なジョン・スミスだった。この航海を終えてイギリスに戻ったスミスはチャールズ王子に地図を示してインディアン集落全てにイギリス名をつけるように進言して王子の機嫌を取り結んだ。スミスは経験をもとに本を書き、地図を載せた。このとき、パタクセットはプリマスと名づけられたのだそうだ。
スミスは帰国にあたって一隻をトマス・ハントに預けて干魚の積み込みを任せて現地に残してきた。ハントはスミスに相談もなくパタクセットを訪れて、夏の一日インディアンたちを船に招待した。数十人がカヌーで船に近づいたとき何の警告もなく乗組員たちはインディアンたちを捕らえようとした。抵抗するものには小火器で掃射し「大量虐殺」におよんだ。生き残った者に銃口を突きつけ船底に追い込んだ。ティスクヮンタムもこうして捕まってほかの20人以上と共にヨーロッパに連れていかれた。
この事件にパタクセットのコミュニティは激怒し、ほかの部族も全てが外国人と戦争状態になった。ハントの蛮行の2年後、フランス船がコッド岬先端で難破した。乗組員は粗末な小屋を建て防護柵をめぐらしたが、ノーセット族が、ひとり、またひとりと密かに乗組員をさらっては殺した。ボストンに着いた別のフランス船は乗組員を皆殺しにされ、船を焼かれた。
ハントの船はイギリスに戻る途中でスペインのマラガに立ち寄り、積み荷を売りさばこうとした。積み荷にはインディアンも含まれていた。1537年教皇パウロ三世は「インディアンはほんものの人間である」と宣言し、ローマ・カトリック教会とスペインの教会はインディアン虐待に強く反対していた。修道士たちはまだ売れていないインディアンを保護した。どのようにしたのか、説明はないのでわからないが、ティスクヮンタムはなんとかロンドンにたどり着き、造船業者ジョン・スレイニーの家に住み込んだ。こういうことは原注に紹介してあるニューファンドランド投資家の研究という書物でわかるようだ。当時のロンドンはアメリカ大陸をめぐる投機マニアの中心地だったらしい。スレイニーは骨董品代わりにティスクヮンタムを家に置いて英語を教え込んだ。やがてスレイニーを説得して漁船で北アメリカに帰れるように取り計らってもらって、ようやくのことにニューファンドランド南端の小さな漁業基地までたどりついた。その先パタクセットまでは1500キロメートルも続く岩だらけの海岸と敵対勢力の支配地域が続いていた。スミスの部下のダーマーという男に出逢ったことで、ここには詳細は省くが、ともかく1619年、ようやくティスクヮンタムは故郷に戻れた。ダーマーの報告にはメイン南部からナラガンセットまでの海岸地域は空っぽで「まったく何もなかった」とあるそうだ。かつて活気にあふれたコミュニティが連なっていた土地には、廃屋が並び、畑は荒れ放題で、野ざらしにされて白くなった骸骨が散らばっていた。沿岸は長さ300キロメートル、奥行き50キロメートルに及ぶ墓場になってしまっていた。5年ぶりに見るパタクセットは何か尋常でない力に打ちのめされて、ティスクヮンタムにとってすべてであった世界そのものが消滅してしまっていた。
いたるところに死体が転がっている間を通って、ティスクヮンタムはようやく数家族に会えた。彼らは大首長のマサソイトを呼んできた。大首長はティスクヮンタムの留守の間に起きた一部始終を語ってくれた。その次第は、のちにメイン州歴史保存委員会が記録から医学的に研究してウイルス性伝染病の蔓延にあったことがわかった。はじまりは病気を持ったフランス人船員を捕虜にしたことだった。記録に残された症状から、汚染された食物を介して感染するA型のウイルス性肝炎らしかった。家の中でインディアンたちが折り重なって死んでいたとの記録もあった。1616年から3年以上たって流行は自然に終息したが、ニューイングランド海岸地方に住む人々のおよそ90パーセントが死んでしまった。当時の人々はヨーロッパ人もインディアンも伝染病を知らず、すべては精霊のせいだった。マサソイトは数千人を擁するコミュニティを直接統括し、2万人からなる部族同盟を支配していたが、部族民が60人に減り、同盟全体も千人を下まわった。ワンパノアグ族は「白人の神々が同盟を結んで自分たちに災いをもたらした」という合理的な結論に達したのだった。ピルグリムも同じような考えかたによって、ブラッドフォード総督は「神のご加護が多くの先住民を排除して土地を明け渡させて、自分たちの最初の一歩を踏み出させる手だすけをしてくださった」と感謝した。
マサソイトにいきさつを聞いたティスクヮンタムは伝染病を知って動揺し、ダーマーと共にメイン南部に行こうとした。途中ダーマーはイギリス人に敵対するインディアンに殺され、ティスクヮンタムはマサソイトのもとに送られた。マサソイトに敵対していたナガランセット族はワンパノアグ族と絶縁状態だったがために伝染病の災厄を免れていた。その攻勢を怖れていたマサソイトに、ティスクヮンタムは渡航先のイギリスで知ったことどもを巧みに語ってイギリス人と同盟させようと計画した。マサソイトは別の考えでこれまでの方針を変え、イギリス人たちと協同しようと考えて交渉を始めた。後年総督になるウイリアム・ウインズローの決断により同盟が結ばれ、以後の入植が急速に進んでイギリスからの移民が大挙して押し寄せることになった。1621年のことだ。
ティスクヮンタムはピルグリムにとっての通訳だけでなく、パタクセットの生き残りを集めて故郷を再建しようという考えも持っていた。するどいマサソイトがこういうことに気が付かないわけはなく、ついにはティスクヮンタムを反逆者扱いする。ティスクヮンタムは一生プリマス植民地で過ごすようになった。住み込んで農業を教えたのはこういうことからであった。しかし彼はあるとき、コッド岬での条約締結交渉にブラッドフォードに同行した帰途に体の具合が悪くなって数日後に死亡した。1622年11月30日マサチューセッツ州チャタムにて、とWikipediaにあった。
条約は50年以上効力を持ち続けたが、1675年にマサソイトの息子の一人メタコムが入植者に反逆しようとして戦争になり、イギリス人の完勝に終わった。ちなみにワンパノアグ族と敵対していたナラガンセット族は、1616年のウイルス伝染病を免れたものの、1633年に天然痘が大流行して壊滅状態になった。結局、ニューイングランドに残った先住民の数は半分ほどに減ってしまった。マサソイトが結んだ同盟はナラガンセット族から自分たちを守ることには有効に働いたが、先住民社会をヨーロッパ人から守るには大失敗であった。

以上はティスクヮンタムの存在と、先住民と入植者の関係について著書の記述から大幅に省略して述べた。1675年の戦争については、Wikipedia「ワンパノアグ族」の説明では若干違う様子が述べられている。ヨーロッパ人は銃と大砲で先住民を虐殺したように説明している。チャールズ・アン氏の筆はすこし遠慮したのだろうか。
読んだ本:『1491』チャールズ・C・アン著 布施由紀子訳 日本放送出版協会 2007年
(2017/6)