2014年10月17日金曜日

読書随想 『ドリナの橋』 イヴォ・アンドリッチ 1945年 松谷健二 訳、恒文社1997 第4版(1966)

『ドリナの橋』

著者イヴォ・アンドリッチ(1892/10/9-1975/3/13)、ユーゴスラビア、作家、詩人、外交官、1961年ノーベル文学賞を受賞した。



ドリナはボスニアとセルビアの間を流れる川の名前。サライェボから東に向かう街道にできた川沿いの街ヴィシェグラードはコンスタンチノープルに通じる交通路の要衝であった。1577年に急流のドリナ川に見事な石造りの橋が完成した。その美しい姿は現代にまで面影を保ち、2007年に世界文化遺産に登録された。正式の名をメフメド・パシャ・ソコロヴィッチ橋という。オスマン帝国の大宰相の名だ。これが表題の「ドリナの橋」である。
橋の中ほどには、両わきにそっくり同じ形のテラスが張り出し、橋幅は倍にもなっている。この部分はカピヤと呼ばれる。門という意味である。テラスは泡立つ緑の激流をはるか下に見下ろす空間へ橋から突き出している。町から見て右手のテラスはソファーと呼ばれ、歩道より二段高く手すりにそって同じ石で腰掛けをとりつけてある。ソファーに向かい合った左手のテラスには腰掛けがなく、人の背丈をこす壁が立ち、上の方に白大理石の板がはめ込まれて、年代銘を入れた堂々たるトルコ語の碑文が刻んである。13行の韻文で、橋の構築者の名、構築の年などが記されている。壁の下の方には石造りの龍があって、その口からちょろちょろと水が流れ出ている。
ある時代までは、このテラスにはコーヒー屋が、深鍋、茶碗、火が絶えたことのないコンロご持参で店を張り、雇いの小僧が向かいのソファーに陣取ったお客にコーヒーを運ぶ風景が見られた。


こんなのんびりしたことだけではない。カピヤは慶弔の儀式の場所でもあり、処刑場でもある。何度も首がさらされた。トルコやオーストリアの布告文もここに掲示される。文字の読めない者は誰かが読んでくれたり通訳したりするのをじっと聞き入る。聞いてもはじめはピンと来ないことが多い。そのうち何かが変わってくるのだ。喜ばしいことはめったにない。

橋の工事が始まってから人々の上には大変な災難が降りかかった。総監督が傲岸無慈悲のアビダガだったからだ。工事を妨害しようとした農夫は生きたまま木の杭で串刺しにされた。犯人を捕まえられなければ同じように串刺しだと脅された警吏は、犯人が捕まって刑罰を逃れた嬉しさのあまり発狂してしまった。狩り出された人々は賦役だ、賃金をもらえない。農事ができない。
橋が完成したとき、総監督のアリフ・ベイが大祝宴を開いた。失脚したアビダガに代わって3年目から指揮を執った。
たぐいまれな正直さをもち、まかせられた金子のすべてをきめられたことに注ぎ込み、自分のふところには一文も入れなかったこの男は、民衆にとりこの祝宴の大立者であった。宰相よりも彼についての話のほうが多かった。だから彼を中心とする祝宴も見事で豊かなものとなった。
監督と人夫達には金と着物が贈られ、貧乏人には肉や甘いものが分配された。暖かいハルヴァ(プディングのような菓子)が配られた。日本の昔の餅まきを思い出させる。読んでいても嬉しくなる。 


トルコ人、セルビア人、ユダヤ人ほか、それぞれイスラム教、セルビア正教、ユダヤ教を信仰する人びとが行き交い、住みつき、それぞれの言葉で語り合いながら暮らしていたこの町でこんなに嬉しかったことはこのほかには物語には出てこない。
著者のアンドリッチは幼少時を、ここヴィシェグラードで橋と共に過ごしてきた。ボスニアの言葉で「橋」は「モスト」だが、表題の「ドリナの橋」では住民の言葉で「チュプリア」と書いている。トルコ語がスラブ語的になまった方言らしい。

24の章に分かたれた物語はすべてヴィシェグラードの人々の暮らしにかかわっている。雑多な人々の物語だ。橋が何をするわけでもないけれども、何があってもいつも橋がそこにある。人々が気づかないうちに世は移り時代が変わってゆく。三百年余りにわたってのこんな感じを淡々と語る物語文学である。これがすなわち歴史だと思う。

橋は人びとの繋がりと諸民族の共存を願う著者の哲学だ。著者が生きた当時のユーゴスラビアは、今はもうない。1961年にスウェーデン・アカデミーは「自国の歴史の主題と運命を叙述しえた彼の叙事詩的力量に対して」著者にノーベル文学賞を贈った。その後のこの国の変容はすさまじい。恐怖でさえある。現在アンドリッチの生国ではその人物的評価は様々であり、必ずしも称揚されてはいないようだ。しかし、著者が語ってくれたおかげで、私たちはその作品から多言語、多民族、他宗教の人たちの集まりとはどういうものか、その生活実態、風習、考え方などを知ることができる。私には知らないことだらけだから、それなりに楽しむことができた。


橋に名前が残っているオスマン帝国の大宰相の伝記や偉業の数々はよく知られている。
16世紀のはじめ、武装兵を従えたイェニチェリ軍団の隊長に率いられた長い馬の列が急流の川に臨んだ渡し場に到着した光景から物語は始まる。非常に印象的で牧歌的、映画のはじまりみたいだ。テオ・アンゲロプロス監督の『ユリシーズの瞳』が古いフィルムで糸をつむぐ場面から始まるのに似ている。
イェニチェリというのは、オスマン帝国の軍隊制度で意味は「新兵」。デヴシルメという徴兵制度によって8歳から15歳程度のキリスト教徒の少年を強制的に連れ出して改宗させて兵隊や軍人政治家に育てる。
馬の背に振り分けられた籠には少年が一人ずつ肉まんじゅうを持って小さな包みといっしょにはいっている。隣村のソコロヴィッチからさらわれてきた、のちの大宰相もこの中にいた。
古ぼけた黒い渡し船、片目、片手、片足の気難し屋の渡し守に命を預ける。馬の隊列をどうやって川を渡したのか、想像をたくましくするが、1516年としか著者は書いていない。

いずれにしろ、橋がない頃には町もなかったのだ。60年たって1577年に橋は完成した。何もない田舎の岸辺に橋が架かり往来が激しくなって町ができて広がってゆく。

ボスニアは現在のボスニア・ヘルツェゴビナの北半分の地域。二つの帝国の領土の奪い合いに数世紀さらされてきた。トルコのやり方は共同体の自治を重視していたように見える。だから人心も穏やかだ。トルコが退いて、セルビアが反抗的になるとウィーンは軍隊を送ってきた。町の人々は何がどうなったかよくわからないままに、気持ちが荒んでくる。言葉が違い、宗教が違う人びとの間ではお互いなにも気にならなければ平穏そのもの。些細なことでも何かが心のどこかに触ると、とげのようなものが飛び出してくる。人の心は不思議だが怖い。

1900年になると橋が修理された。自然との闘いで石橋もくたびれるのだ。続いて橋を利用して対岸の高い山から水道が引かれた。こういう工事の間はカピアが使えないから住民の日常の過ごし方は何やら落ち着かない。さらに1903年には鉄道が敷設された。右岸の街はずれに駅ができた。サライェボへ行く線路は橋を通らなかった。この辺の事情は物語の範囲を超えたからであろうか著者は触れていないが、線路ははるかに遠回りして上流で川を渡った。鉄道が通ってみると、サライェボに行くにも橋はいらないし、2日が4時間になった。情報も人の往来も速度が上がった。人間の質も変わる。考える事柄も変わる。全体が何やら落ち着かない。不安を抱えて人々は訳も分からずに生き急いでいるかのようだ。

話が前後するが、オーストリア軍が占領した後には役人たちが続き、次いで各地から商人たちが入り込んで住みついた。ドリナに橋が架かったころに移住して来てからこの方、数世紀ここに住み着いているスペイン系のユダヤ人セファルドのほかに、アシュケナジというガリツィア系のユダヤ人もあらわれた。後述する旅人宿がさびれた跡地にホテルができた。経営者ツァーラの義妹で美人の未亡人が采配を振るった。「橋ホテル」の名前は自然に女支配人の名をとって「ロッティカ・ホテル」と呼ばれた。うわべは華やかで客から金を巻き上げるしたたかさの陰で彼女は貧しい人々や乞食には食物や金を恵む慈善のような振る舞いもしていた。クラカウの近くにのこる一家の兄弟やいとこたちなど、1ダースほどの東ガリツィアのユダヤ人一族に手紙と為替を送って心の張りを保っていた。しかし30年ほどのちにはホテルも立ち行かなくなり、援助していた親戚縁者も不幸に襲われるなど社会情勢は一切彼女に味方しなかった。最後はオーストリアとセルビアの砲弾が飛び交う下で壊れたホテルを立ち退き、対岸のトルコ人の家に避難するが老齢と精神の異常に痛めつけられ横たわることしかできない。一生懸命に生きた挙句がこうだ。

メフムド・パシャは橋のたもとにキャラバン・サライも建設した。無料の旅人宿である。経費は攻略したハンガリーからのあがりで賄った。百年経過した頃トルコがハンガリーを失って維持ができなくなった。それでも管理人の家系という精神を頑固に守ってきたのが老人のトルコ人アリホジャだ。いつの時でも、町の空気が変わろうとするとき、新しい事態にはまず疑問を抱き、自分の頭で考えて生きてきたが、だんだん時代に取り残される。だが信念は揺るがない。橋は神がなしたもうた善だ。その橋を壊してよいはずがない。撤退するオーストリア軍によって橋が爆破された時、狭心症に苦しみながらアリホジャも息絶えた。このトルコ人はいろいろな場面で自説を説く。どこか東洋的な心が感じられる。一番印象に残る人物だった。

モンテネグロから来たグスラ弾きが二度ほど登場する。グスラは小さな一弦琴のような楽器らしい。最初は橋の建設飯場で賦役農夫に囲まれて、次は橋の上、カピアでホテルに入れない貧しい人々の中で。歌うのは英雄叙事詩、
比喩のヴェールをかかげながら、彼は露と王者の草の姿をまとったセルビアやトルコのほんとうの願いと運命を語り出す。すると聞き手たちの感情はすぐに分かれ、各人が心に抱き、願い、信じているものに応じてそれぞれの道に散っていく。だが彼らはある不文律に従って歌の終わりまで耳をかたむけ、辛抱強く控え目な態度をとって、自分の感情は絶対に外には出さない。ただ目の前のグラスをじっと見つめている。そこのラキア酒のきらきらする表面に、どこにもありはしない勝利とか戦闘、英雄、名声、光栄などを見ているのだ。
著者が語る物語をいちいち取り上げているときりがない。橋が一本の筋となって通ってはいるが、終始抑圧されてきた人々の姿だ。こういう人たちの気持ちというのは日本人にはわかりようがないと思う。可哀想などというのは全く違うだろう。何世紀もの間、頭を押さえつけられることに慣れるのだろうか、生き続けてきた彼らはつよいと思う。

サッカー日本代表チームの元コーチ、イビチャ・オシム氏が、今年のブラジルW杯にボスニア・ヘルツェゴビナのチームを送り出すことに成功した。三つに割れていた協会をまとめ上げたのだ。
反対勢力も多い中で、これにはまさに命がかかっていたことだと想像する。
http://www.nhk.or.jp/special/detail/2014/0622/ 


元日本代表のプレーヤー宮本恒靖氏もボスニアで子どもサッカー教室を開いているそうだ。その教室の名前を「マリ・モスト(小さな橋)」という。かつて戦火を交えた民族の子供の間に「心の橋」をかけるとの願いが込められているのだそうだ。ご健闘を祈る。

『ドリナの橋』は長い物語だ。時々取り出して読み返すという読み方もいいだろう。読むたびに、知人に再会した気分にもなると思う。いつまでも図書館においてほしいな。


2014/10
http://www.visegradturizam.com/english

2014年10月4日土曜日

読書随想 『私の日本語雑記』(中井久夫著、岩波書店、2010年)

表紙のカットも著者
著者の「あとがき」によれば、『私の日本語雑記』は雑誌『図書』(岩波書店)に2006年7月から2009年5月までひと月おきに載せたものを一年近くかかって手を加えたとある。『図書』はずっと購読していたが、気になりながら読まずに過ごしてしまっていた。今回、図書館の書棚で見かけたので読んでみる気になった。高級な内容であった。高級というのは自分の知識の程度との比較である。

著者はご自分を「ただの言語使用者」と卑下されているが、どうしてどうして、エッセイスト、翻訳家であり、本職は精神病理学のお医者様である。本業の論文や著作集はもちろん、翻訳も余技どころではないヴァレリーやらギリシャの詩人などの訳詩におよんで、著書多数である。だから語学も達者。それでいて1934年生まれだという。私より学年で2年下になるが、どういうわけだろう。

文章の中に「高校生のドイツ語の時間」とでてくる。「9 私の人格形成期の言語体験」という章には、旧制中学最後の入学者であるが、その学校は中高一貫校であったと書いている。これは神戸の甲南中学だろう。すべて旧制高校の教師が教えていたそうだ。米語を無視してキングズイングリッシュを教え続けた名物教師がいた。高校では第一外国語がドイツ語のクラスに入って、文法を1学期であげて、あとは原著の訳読。11人のクラスだから毎回当たる。語彙と文法、訳語の適切さには厳しかった。国語の授業はずっと情緒的だったから、外国語の授業をとおして日本語を習ったといえると書く。ナチスを嫌って帰国しないままだったドイツ人老教師は音声学の専門家、発音に厳しく、また、ゲーテ、ニーチェなど暗唱させられた。国語の教師は一人はリルケを、もう一人はヴァレリーを読み込んでいて、特に後者は新古今集とヴァレリ-などの西欧象徴詩とを対比させた絢爛たる講義をしたという。ヴァレリーの原語による朗誦はいまだに中井氏の耳に残っているそうだが、これらの原書は図書館に寄贈されていた九鬼周造の全蔵書に限定本で揃っていて、借り出しては筆写して持ち歩いたという。中井氏が高校と書くのは新制高校であるから、なんとうらやましい環境だったことかと驚く。甲南中学・高校が私立であったからできたことかとも思う。

不肖私は兵庫県の旧制県立中学三年生に転入したが図書館どころか校舎は空襲で焼失、摂津本山の小学校に仮住まいしていた。先生も生徒も戦後3年目の空気だけは明るい世の中にいたが、中井氏の伝えるような別天地は望むべくもなかった。かりに私が甲南中学への転入を志望したとしても、とても合格はしなかったろうし、僥倖で合格したとしても毎年落第していただろうと想像する。
それにしても中井久夫氏は素晴らしい環境に恵まれ、優秀な頭脳で京都大学医学部に進まれ、医学にフランス語にと研鑽をつまれたわけである。こういう方の存在と作品群を知らなかった不明を私は大いに恥じなければならない。

先に述べたとおり、本書の文章は高級である。著者は私と同年配ではあるが頭の構造は大いに違う。例によっていろいろ脇道に入って知識を補充しながら読み進めた。
高校生のドイツ語の時間、昔のことだから訳読が中心の授業であったが、真面目な初老の先生が、「「犬」と訳しても、日本の犬とは違う。ほんとうは「洋犬」と訳さなければならないのです」と言った。当時は各種の「洋犬」が跋扈する今と違って、だいたいは柴犬のようなのが「犬」だった。「洋犬」はテリアぐらいか。
先生のこのコメントは中井氏の頭に後々まで残って、
『失われた時を求めて』の中の訳語などは「プルーストの指しているものと違うのがずいぶんあるだろうな」などと考えた。そんなに違っても、なぜ私たちは外国の小説が読めるのだろうか。あるいは源氏物語を。私は現に読んでいるのだが、不思議である。訳語の少しの違いよりも、厳格主義者にはこちらのほうが問題ではなかろうか。
ある勉強会で中井氏は尋ねた。イメージとそれに対応する名がある。イメージが先だと書いてある本があるけれども、ほんとにイメージなりモノが先ですか、それとも言葉が先ですか。答えは、最初に子どもが言葉を覚えるときには、モノなりイメージが先でしょうね、だった。
単純にイメージが優先するとすると、われわれは外国の小説をどうして読めるのだろうか?この質問に対する答えは「それは私たちがいい加減だからです」だった。この「いい加減さ」には深い意味があるぞと私は思った。
私たちの錯覚は、帝国主義者が世界を分割してしまったように、言語が世界を分割していると思い込んでいることかもしれない。実際はそうではない。さまざまな椅子を「椅子」と名付けることによって、私たちは利益も得たが、粗雑にもなった。犬に比べて嗅覚は1万分の1にも鈍くなったそうである。他の感覚もそうだろう。
他の感覚に考えが及んでいるのは著者が精神医学者だからかもしれない。別の個所でこういう文もある。「3.日本語文を組み立てる」、テンプル・グランディンという自身が自閉症である動物学者の著書『動物感覚』(中尾ゆかり訳、日本放送出版協会、2006年)を紹介しながら、
言語を学ぶことは世界をカテゴリーでくくり、因果関係という粗い網をかぶせることである。言語によって世界は簡略化され、枠付けられ、その結果、自閉症でない人間は自閉症の人からみて一万倍も鈍感になっているという。ということは、このようにして単純化され薄まった世界において優位に立てるということだ。
この文章の手前には最相葉月『絶対音感』(小学館、1998年)をひいて、自閉症の世界は絶対音感の世界でもあって絶対音感の人の苦しみは、それが音だけでなく、すべての感覚にわたってそうらしいとも書いている。 
言語の支配する世界はすべてにわたっていわば相対音感の世界ということになる。相対性、文脈依存症は成人の記憶において明らかである。誰しも、生きてゆくにつれて、過去の事件の比重、意義、さらには内容、ストーリーさえ(たいていは自分に都合よく)変わる。しかし、人間はどこか生の現実(「即事」「物自体」「現実界」など)から原理的に隔てられている虚妄感を持つようになる。(ここでリルケの詩で例をひているが省略する)晩年のリルケはキリスト教から距離を置くようになったらしい。一神教とは神の教えが一つというだけではない。言語による経典が絶対の世界である。そこが多神教やアニミズムと違う。一般に絶対的な言語支配で地球を覆おうというのがグローバリゼーションである。
ここは何度もかみしめたい箇所だ。このあと私たちがどのようにして世界を言語化する作用に巻き込まれてゆくかを検証している。

イメージと言葉の話に戻ろう。著者は、色彩のエスノ言語学によって、いかに人が色を言語化することの不十分さを知った。普通の市民は高度に概念的に色を見ている。樹は緑に、海は青くと、「固有色」に塗るのが多数派である。小学校あるいはそれ以前からの教育の結果である、と中井氏は書くが、最近のテレビなどで見る保育園児のお絵描きの色づかいは全く自由気ままである。少しは時代が変わって「固有色」にこだわらない教育がされているのかもしれないが、「概念化」がなければ色付けに当惑することには変りないだろう。 

月を最初に周回した1968年の宇宙飛行士は、月の表面の色について意見が大幅に分かれたことを中井氏は回想している。何とも言いようのない色であったそうだ。
私たちは、見たことのない色は、既知のどれかの色に片寄せて認知する。私の場合は淡い灰色であった。この片寄せは言語という粗い網の目で世界を分割しようとする場合には避けられない。物体の色にしてこうであるから。抽象概念はなおさら、具体物も同じくであろう。 
色は、精神医学者サリヴァンのいう「合意による妥当性確認」(Consensual validation)によってしか伝達できない。「これが赤だよ」「うん、ぼくにもこれが赤だ」。これが合意である。つまり、純粋の「質」は意見の一致によってしか確認できないのである。形ならば、いろいろ説明することができる。しかし、色については意見が一致しなければそれ以上の正否は問えない。
エスノ言語学者、バーリーンとケイの仕事(Brent Berlin & Paul Kay:"Basic Color Terms"(1969),CSLI Publications,1991)が紹介されている。
バーリーンとケイはいろいろな民族と言語における色名とその色名が妥当する色の範囲を知ろうとして、質問用紙を用意した。
可視スペクトルを左右に、明暗を上下に展開する。「虹の七色」(赤橙黄緑青藍紫)に欠けているピンク、桃色、茶褐色、黒褐色系を加え、灰色のモノクローム系を縦に付け加える。これを縦横に細い線で切り分け、合計330個のプレートを作る。これが質問用紙だ。
中井氏はこれを一見して、
まず驚いたのは「虹の七色」などどこにもないということである。
それはそうだ。全部がひとつながりになって色合いは段階的に境界なしに変化しているのであるから、そこから色を七つ取り出せといわれても困惑するだけだ。 
私たちの脳は連続して変化するものを、どこかで仕切って「質」の枠組み(カテゴリー)に分けようとするらしい。可視光線の色は純粋の「質」といってよいだろう。これを虹の七色に分けるのは、坂道を階段に変えるのと同じである。
 著者は精神医学の医学博士である。精神障害の分類に関心があって、このエスノ言語学者の実験に興味を持ったのだそうだ。
精神病も精神/脳という一つのシステムの状態であるから、分類表を作って研究した結論に、はっきりした境界線などないというのは当然である。
ここまでのことの中で私がまだよくわからないのは「純粋の「質」」という言葉である。著者による説明はない。形質とか形容という言葉から類推して「目に見えるが形のない、言葉で言い表せないもの」と考えればよいだろうか。

ところで、虹は七色というが、どうして七なのか。中井先生は「ミラーの法則」という心理学的法則を紹介する。ミラーは人名であって、ジョージ・ミラー(George Armitage Miller、 1920年2月3日 - 2012年7月22日)アメリカ合衆国の心理学者である。 
それによれば、一度に操作できる「もの」(チャンク(chunk)―― 一つの名で呼ばれるものといおうか)は七プラスマイナス二だというもので、七つ道具をはじめ、多くのものがこれに当てはまる。これは人間の心理というより生理的な法則だろう。虹の場合には、連続スペクトルであるはずのものがどうしても六ー七色に見えてしまう。これは世界を認識する際のかなり基本的な制約であろう。特に「質」的な認識の場合がそうである。
純粋の質である「色」はミラーの法則のもっとも見事な例ということができるだろう。
一方で、ヒトは千万単位の色を区別することができるという。ミラーの法則を超えて色の名を増やす方法は比喩であると著者は教えてくれる。

翻ってわが日常に経験していることでは、コンピューターで色を表現するとき、カラーコードを使って色合いを指示する。例えばこのブログの文字の色は「RGB (153,0,0)」、または「#990000」である。このコードはセーフカラー216色コード表によっている。バーリーンとケイの質問表の構成の説明からこのカラーチャートを連想したが、カラーチャートはやはり区割りされている。
カラーチャートの例にはWindows付属のソフトでの「その他の色」とか「色の編集」がある。チャートの全面を見れば連続した色だ。使いたい部分(色)をクリックするとRGBの数値が表示されて、その色合いが特定できる。特定できたからといってもこれも区割りされたものでしかない。その部分の色だけが世界に存在しているわけではない。「群盲象をなでるの図」をちょっと思い出した。

『私の日本語雑記』の中で、色に関する問題は「14 われわれはどうして小説を読めるのか」という章に述べられている。上に抜書きで抄出したように、主題は言語で示すものと示されるものの差異であり、どうして小説を読めるか、という問いに対す答えは、「概念化」と「いい加減さ」である。この話題に精神医学の視点が入るのがこれまで読んだ日本語論などにはなかったので大いに啓蒙された。
前後するが、この章の文章は次に示すように、胎児の言葉の認識に始まり、老化および認知症の観察にいたる。人生の終点に近くなったわが身に照らして考えて面白かったのでこの章を取り上げた。 
言葉の意味は名付けから始まる。子どもはまず、母語の音調、リズム、音素を覚える。この準備は胎内から始まっているようだが、子どもが言語は意味を持つという事実を体験し身につけてゆくという作業は、出生以後である。言葉を口にするよりも先にかなり多くの言葉(音素の組み合わせ)が何を指すかはわかっているらしい。外国語を話すよりも聞き覚えるほうが一般に先なのと、これは同じことだろう。
対照的に、老人は名から忘れる。文法構造のほうはかなり後まで残って、名のあるところは「あれ」「それ」でつぎはぎされる。文法構造あるいは文脈的ネットワークはずいぶん後まで保存されるようである。たとえば「てにをは」である。これは生きてゆく日々によって形成され再形成されたしたたかな網目構造である。
認知症の人が格助詞の間違いに的確に異議を唱えるのを耳にしたことがある。まさに「格助詞の違い」を咎める時の、警笛のような鋭さを持っていた。(「に」じゃなくて)「を !!」というふうに。
 翻訳論もいくつかの章に分かれて述べられているが、英、独、仏、ギリシャ語などにわたっている。詩についても話題が多く、音声の拍やらモーラ、五音、七音、拍子、頭韻、脚韻など、内容は非常に高度なもので私ごとき知識ではとても一度に咀嚼しきれない。悔しいからこれからも何度も読み返したいと思う。

心覚えのためにスペクトルの図を掲げておこう。実はこういうこともすっかり忘れていた。


可視光線は、太陽やそのほか様々な照明から発せられる。通常は、様々な波長の可視光線が混ざった状態であり、この場合、光は白に近い色に見える。プリズムなどを用いて、可視光線をその波長によって分離してみると、それぞれの波長の可視光線が、ヒトの目には異なった色を持った光として認識されることがわかる。各波長の可視光線の色は、日本語では波長の短い側から順に、紫、青紫、青、青緑、緑、黄緑、黄、黄赤(橙)、赤で、俗に七色といわれるが、これは連続的な移り変わりであり、文化によって分類の仕方は異なる(虹の色数を参照のこと)。波長ごとに色が順に移り変わること、あるいはその色の並ぶ様を、スペクトルと呼ぶ。
出典:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%AF%E8%A6%96%E5%85%89%E7%B7%9A

ミラーの法則は次のサイトが参考になる。
matome.naver.jp/odai/2140790955485153101

(2014/10)