2020年10月15日木曜日

感想 古くても面白い「ブラウン神父もの」

G・K・チェスタトン(1874-1936)の短編推理小説、ブラウン神父ものは広くわが国でも親しまれている。ビクトリア朝(1837-1901)の名残の色濃い時代だから当然作品もその風物を映している。ブラウン神父シリーズの原書は短篇集である。戦前の日本では一編ごとの訳文を雑誌に掲載して紹介するのが常であり、そののち、いくつかまとめて傑作集を編んだりした。原書に合わせた短篇集で発刊されたのは戦後のハヤカワ・ミステリ(1955)からであるらしい。

最近の筆者はたまに気晴らし的にブラウン神父に会いに行くが、ここではシリーズの第一集の "The Innocence of Father Brown" (1911) について感想を書いてみよう。

ここに邦題を使わずに原題を出したのにはわけがある。この原題を日本ではどのように訳しているか、これがちょっと面白いのだ。堀田善衛さんが邦訳の題に『ブラウン神父の無知』としたのがあるのは、ひどすぎるじゃないかとどこかに書いていたが、いずれも表題にうまい訳語を見つけられなくて "Innocence" を持て余している様子なのである。後述の青空文庫の作業中のものだけを見ても、童心、無知、純智、無垢なる事件簿、無心などとある。この表題のもとに12篇の物語が集められている。いずれも何らかの事件が起きて最後に神父が謎解きをするという運びであるが、たしかに無知な人では解決がおぼつかないこと間違いなし。さて、それでは神父の頭脳に何がひらめいたのか、それを日本語で表わせと言われても、じつは当方にもうまい表現が思いつかない。私が考えるに、無心がいちばん英語の心を言い得ているかと思うが、それはおそらく先入主を持たない状態のことであろう。日本語の無心には金を無心するような場合にも使うから、ここでは必ずしも適切と言えない。では先入主を持たない状態をなんというか、その語が思いつかない。純真とか天真爛漫でいいのかもしれない。

筆者はこの有名なブラウン神父ものという作品を最近まで全く読んだことがなかった。一度は手にとってみようとお金のかからない方法、つまりインターネットで読もうと考えた。となれば、日本では青空文庫、海外ではGutenberg projectである。どちらもすぐ見つかった。第一短編集の "The innocence of Father Brown" が1911年、それにおさめられた第一作、 "The Blue Cross"は1910年である。

Wikipediaには、"The Blue Cross"が最初1910年7月23日に  "Valentin Follows a Curious Trail" の題で the Saturday Evening Post, Philadelphiaで発表され、同年9月に現行の表題に改題されてロンドンの雑誌 "The Story-Teller"に掲載されたと記されている。このことはあまり知られていないのでないか。しかし、いまのところはどうでもよいことだ。

電子図書館の青空文庫には、チェスタトン作品の公開中が6点、作業中の作品27点があげられている。青空文庫は、作者の死後50年を経て著作権の消滅した作品と、著作権者が「インターネットを通じて読んでもらってかまわない」と判断したもの、の二種類がおさめられている。ほとんどが古い時代の作品になってしまうが、たまに片岡義男など現在活躍中の著者の作品もある。

青空文庫では『The Innnocence of ~』に編纂されたそれぞれの物語はばらばらに採録されてるので、"Innocence" の訳語はない。ブラウン神父がデビューするのは『青玉の十字架』(原題:The Blue Cross)、訳者は直木三十五。底本は「世界探偵小説全集 第九卷 ブラウン奇譚」平凡社 1930(昭和5)年3月10日発行とある。

さて、現在ではもっぱら『青い十字架』の表題が使われる第一作は『青玉の十字架』だ。「青玉」にサファイアとルビがついている。青空文庫では、現代表記に改めるという作業指針があるから、見慣れない漢字やその読み方などは出てこない。あわせて原文を読めば、日本語の語彙用法の新旧も確認できる。たとえば、直木版では神父でなく師父であり、一般語としては僧侶が使われたりしているのはご愛嬌だ。原作にはブラウン氏が Roman Cathoric priestとして登場するから、キリスト教の会派については明確である。作者のチェスタトンは結婚後に国教会からカトリックに改宗しているが、初期のブラウン神父執筆の頃はまだ改宗前のカトリック心情派ということになる。

このイラストは「青い十字架」に登場する3人の
特徴をうまく描いているので、ネットから拝借した

物語はパリ警察の腕利き刑事ヴァランタンが大泥棒のフランボウを追いかけてベルギーからオランダ経由でイギリスに渡って、ロンドンまで来る間に起きた奇妙な出来事と間抜けな田舎司祭にしか見えない風采のブラウン神父の活躍が語られる。

筆者はついに機会がなくて行けなかったが、ベルギーからイギリスというコースは憧れの一つであるので、欧州航路の船が早朝にHarwichに着く冒頭の描写から引き込まれてしまった。直木訳には、「三ヶ国(仏、白、英)の官憲」との表記があるが、このうち「白」がベルギーの旧式な漢字表記「白耳義」によることを知る読者はいまでは少ないだろうが、高齢の読者には郷愁に似た思いを誘う。名にし負う大泥棒のフランボウが当て込んだのではと作者が推量する聖晩餐大会(Eucharistic Congress)、 いまは聖体大会と訳されていて、4年毎に行われる国際的なカトリック教会の催しだ。初出が1910年の『青い十字架』に記されているのは、1908年9月5-11日のロンドン大会を擬しいるのであろう。ウエストミンスター寺院で盛大に行われた。ちなみに今年2020年は該当する年であったが、コロナ対策のため2021年9月ブダペストで催されることに変更された。

Harwichはハリッジと読むようだ。旅人にとっては港町というよりフェリーの発着港であり連絡鉄道の駅の所在地だが、英国民にとっては2つの大戦に栄えある海軍基地であり、造船の街であり、北海漁業の中心地でもある。

このように物語に登場するあれこれ、作品の背景時代の風物や人々の暮らしの痕跡をインターネットで探る楽しみ、これは物語以上に筆者が惹かれるところであるので、このことに随分時間を使った、ということはそれを楽しんだのであるが、なお資料を探しあぐねている部分も多い。原著の英語にboatとあってもいまのフェリーとは大違いであり、世紀の替わり目にはまだ外輪船が就航していたりする。ハリッジの停車場にしても街の歴史を読めば鉄道馬車の馭者が馬の調教に苦労した話をしていたりするから、蒸気機関車になったのはつい先ごろというほど近い昔なのだ。ヴァランタンがほぼ一日を費やしてたどり着くロンドンまでの距離が135キロで、現在の自動車専用道路A12なら1時間半あまりの行程であることなどがすぐに知れるとか雑学趣味にはきりがない。しかし、こんなに便利であったなら、途中の停車駅から田舎司祭風の神父が列車に乗ってくることもないわけだし、神父が宝物の十字架を茶色の紙に包んで大事に抱えているという物語の鍵もあり得なかったことになる。すべては第一次戦争以前のゆったりした時代の物語である。

ブラウン神父物はミステリーの傑作だと大御所江戸川乱歩なども称賛したそうだが、本作は果たしてこれがミステリー小説なのだろうかという疑問めいた気持ちも湧いてくる。全作品を読んだこともなくては発言する資格はないけれども、すくなくとも『青い十字架』で発生するのは、フランボウが狙いをつけた宝物を奪いそこなう結末に至る過程での小さな事件、それも殺伐な殺人や傷害事件ではない。カフェで砂糖と塩の容れ物の中身が入れ替わっていたり、果物屋でオレンジとクリの名札が付け違っていたり、レストランでガラスに大穴があけられたりしたのは、すべて黒い服の神父の二人連れが立ち寄った場所で起きたことだった。これらを辿ったヴァランタンがついにハムステッド・ヒースの林で二人に追いついて大団円をむかえる。つづめて言えばこれだけのこと、どこにミステリアスな出来事があるだろうか。追っかけっこだけ見ていれば、古き良き時代、弁士が語る活動大写真みたいだ、という感想にもなる。それでも読んでいれば楽しくなるものだ。上に記した旅程や土地の事情や歴史などとあわせて筆者は楽しんだ。

ここまで書いてみて、いろいろ思い返しては反省した。もとの英文にはなかなか凝った言い回しが多い。古いイギリス流かもしれないし、作者の知能の産物だからだ。英語そのものに親しんでいれば、味わい深いものなのだろうが、筆者ごときいい加減な読み方では言葉に含まれた味まではわからないと自覚している。直木氏の訳文は日本語には違いないが、すんなりとこちらの肚におちないところがある。はっきりいえば明確でない。たぶん原文の意図とずれているだろう箇所もかなりありそうだ。書き手がチェスタトンであることを考えれば、筋書きがわかればよいというのでは淋しいことだし失礼でもあろう。

思い直して、外出しないでも手に入るキンドル版で翻訳を読むことにした。『ブラウン神父の童心』中村保男訳、創元推理文庫(2017)。びっくりした。初版は1982年だから直木版より50年も新しい。訳者は2008年に亡くなっているから2017年の新版といっても中身は同じと考えられる。まったく別の物語を読むような感じがする。原作の皮肉っぽい言い回しの箇所はそれなりの日本語になっている。これならただの追いかけっこ物語ではない。何も知らなそうな神父が悪事の手口を悪者よりも熟知している話を書いたら面白いかも、との作者の発想が活かされた作品にちがいない。ヴァランタンに、犯人は創造的な芸術家だが刑事は批評家に過ぎない、と自虐的に嘆かせておいての、この書きぶりである。死体も殺人もでてこない推理小説でこれだけ楽しく読ませるとは、それこそ面白い。本編はブラウン神父、刑事ヴァランタン、大泥棒フランボウの三人を紹介する物語という位置づけなのだろう。この神父は53篇もの作品に登場するらしい。このうちいくつ読めるだろうか、楽しみでもあるし心許ないことでもある。

日本ではチェスタトンの作品は、ブラウン神父シリーズから紹介され始めたようだが、この作者には詩もあれば評論もあり哲学もあるというふうに、何をする人という枠がはめられない人物であるらしい。安楽椅子探偵という言葉があるけれども、写真でみるチェスタトンは安楽椅子にはおさまるまいと思えるほどの巨漢である。

G.K.Chesterton

じつは筆者の買いおきの書物の中に『正統とは何か(Orthodoxy)』という、これは思想書に分類されるのだろうが、一冊がある。原著は1908年、奇しくもブラウン神父が最初の事件に遭遇した年だ。邦訳は1995年の刊行だが、訳者は安西徹雄氏だから安心できても、序文を書いたのが、あの自死騒ぎの西部邁氏なので何やら怖気づいたままうっちゃってある。難しそうで手が出ない。ブラウン神父の生みの親はこんな文章をも書いた人なんだと、付箋みたいに付け加えてこの文を終わることにする。そうして後でゆっくり物語のあちらこちらに散りばめられた人間についての哲学を読み返すことにしよう。(2020/10) 

2020年10月1日木曜日

妄言 アイドルと仏像

朝刊下部の広告欄に「NHKテキスト アイドルと巡る 仏像の世界」というのがあった。なかなかうまいタイトルだと思った。仏像も英語のアイドルのうちに入るだろうと考えたからだ。

Eテレの番組「趣味どき!」のひとつ、「アイドルと巡る 仏像の世界」は大学教授を講師に、案内役が元アイドルの女性、ゲストが現役アイドル女性の三人が組んであちこちの仏像を見て回る番組だ。初回は奈良の新薬師寺。番組紹介のNHKサイトには、「十二神将がぐるりと薬師如来を取り囲むさまはまるで、アイドルのフォーメーション」とある。日頃アイドルのステージに縁のない私はちょっと考えて、ステージの舞台構成をさしているのだと気がついた。例えばアイドルが出演するときに背景でダンサーたちを踊らせる演出の位置取りなどのことだろう。初回のゲスト・アイドルは小林歌穂20歳、存じ上げないから調べたら、私立恵比寿中学のメンバーと出てきた。なんだい、この、中学のメンバーってのは?20歳だろ?私がバアサンなら知ってたかもしれないけれど、あいにくジイサンでアイドルの歌や踊りは見ていない。わかったことは、中学というのがアイドルグループの名前だそうで、略称「エビ中」、中学生は一人もいなくて、2009年からやってると。はは~んてなところで、ちょっと時代に追いついた。

NHKプラスの動画で30分を楽しませてもらった。後半に興福寺の宝物館をおとずれて阿修羅像を見る。仏像界のスーパー・アイドルと紹介される。両側に居並ぶ八部衆はインド神話の像が仏教にとりいれられたと説明される。仏教に神が一緒にいるのは日本独特なのか、神社がお寺を守っているのは日本のあちらこちらで見かけられる。何しろ八百万の神がいるのだから、いろいろあっても当たり前だ。神宮寺という姓もあるが、これは寺と神社の関係が逆に感じられる。それはどうでもよろしい。

興福寺の仏頭の前で小林は、「圧がすごい」「顔だけなのにこんなに圧が来るものなんだ」と驚く。「圧が…」という言葉遣いは今の若者のものなのだろうか、私には珍しかった。「~に圧倒される」という言い回しを分析すれば、モノ・ヒトなどから何かを受けて気持ちなどに強く感じる現象を言うのだろうが、その原因はモノ・ヒトから発せられる何かにある。つまりこれが圧なのだ。ふ~む、なかなか科学的、論理的な言葉遣いではあるな。むかしの人は、圧倒されっぱなしで、その原因まで考えなかった、つまり情緒的だったってことかな。分析力がついた日本人は進歩しているぞ。

それにしても仏像巡りに若い女性を組み合わせるとは。たぶん刀剣女子や歴史女子のように仏像女子の存在があるのかも。近頃のNHKは視聴者の標的を広げて若者に迎合しようとしているかに見える。本質がおっさんだからなかなかうまく行かないみたいだね。何をやっても軽やかさがない。

さて、英語のアイドル、"idol" は、たとえば大島かおり訳『モモ』では神々の像と訳されている。そうなんだ、英語の"idol" には「神としてあがめられる像」という意味のほかに、"someone or something admired or loved too much"との意味もある(ロングマン、現代英英辞典 1988)。だから日本語にいう、歌ったり踊ったりしている女の子を指すアイドルは英語そのままの意味に使われているわけだ。

この日本語のアイドルは、かなり以前からあり、たとえば1970年代にもたくさんいた。天地真理、河合奈保子、渡辺真知子、太田裕美…。でも荒井由実はアイドルとは呼ばれなかったな。この時代は流行歌ではなくニューミュージックといったかな。そのあとJポップがあって、いまどうなってるかは知らない。

アイドルと言っても若い女性とは限らない。毒蝮三太夫はすでに84歳だそうであるが、お年寄りのアイドルと呼ばれている。毒蝮がお年寄りだからなのではなくて、この人の贔屓筋がお年寄りなのである。だからアイドルには年齢性別などの区別はないのだ。ふと考えるのだが、犬や猫のペットはどうしてアイドルにはならないのかな。

ところでステージで跳んだりはねたり(ここも漢字を使うと「跳」になって変だねぇ)しながら歌うアイドル・グループ、ときに握手会などやっていた。コロナの時代には厳禁だろうな。どんな野郎が来るかもわからないのに、握手してあげよう、というのは勇気があるなぁ。興行としてこんなことで稼げるのは日本ぐらいではないのかな。いや隣の国でもありそうだな。欧米にはないだろう。タレントという商売やアイドルとして売る歌手、こういうのは芸に厳しい文化圏にはない。そうですよ、これは文化の問題です。いやまてまて、政治家の水準と同じで選ぶ方の問題です。ならば文化とは言わずに民度と言おうか。日本の寄席ではつまらない噺だと、寝そべったお客は起きてくれなかった。何でもかんでも笑う客が増えて噺家の芸が粗末になった。

どうも話が嘆き節になって来たからこのあたりでやめよう。というわけで、耳が壊れてから遠ざかっていた社会の最近の一端を知ることができた。

(2020/10)