朝刊下部の広告欄に「NHKテキスト アイドルと巡る 仏像の世界」というのがあった。なかなかうまいタイトルだと思った。仏像も英語のアイドルのうちに入るだろうと考えたからだ。
Eテレの番組「趣味どき!」のひとつ、「アイドルと巡る 仏像の世界」は大学教授を講師に、案内役が元アイドルの女性、ゲストが現役アイドル女性の三人が組んであちこちの仏像を見て回る番組だ。初回は奈良の新薬師寺。番組紹介のNHKサイトには、「十二神将がぐるりと薬師如来を取り囲むさまはまるで、アイドルのフォーメーション」とある。日頃アイドルのステージに縁のない私はちょっと考えて、ステージの舞台構成をさしているのだと気がついた。例えばアイドルが出演するときに背景でダンサーたちを踊らせる演出の位置取りなどのことだろう。初回のゲスト・アイドルは小林歌穂20歳、存じ上げないから調べたら、私立恵比寿中学のメンバーと出てきた。なんだい、この、中学のメンバーってのは?20歳だろ?私がバアサンなら知ってたかもしれないけれど、あいにくジイサンでアイドルの歌や踊りは見ていない。わかったことは、中学というのがアイドルグループの名前だそうで、略称「エビ中」、中学生は一人もいなくて、2009年からやってると。はは~んてなところで、ちょっと時代に追いついた。
NHKプラスの動画で30分を楽しませてもらった。後半に興福寺の宝物館をおとずれて阿修羅像を見る。仏像界のスーパー・アイドルと紹介される。両側に居並ぶ八部衆はインド神話の像が仏教にとりいれられたと説明される。仏教に神が一緒にいるのは日本独特なのか、神社がお寺を守っているのは日本のあちらこちらで見かけられる。何しろ八百万の神がいるのだから、いろいろあっても当たり前だ。神宮寺という姓もあるが、これは寺と神社の関係が逆に感じられる。それはどうでもよろしい。
興福寺の仏頭の前で小林は、「圧がすごい」「顔だけなのにこんなに圧が来るものなんだ」と驚く。「圧が…」という言葉遣いは今の若者のものなのだろうか、私には珍しかった。「~に圧倒される」という言い回しを分析すれば、モノ・ヒトなどから何かを受けて気持ちなどに強く感じる現象を言うのだろうが、その原因はモノ・ヒトから発せられる何かにある。つまりこれが圧なのだ。ふ~む、なかなか科学的、論理的な言葉遣いではあるな。むかしの人は、圧倒されっぱなしで、その原因まで考えなかった、つまり情緒的だったってことかな。分析力がついた日本人は進歩しているぞ。
それにしても仏像巡りに若い女性を組み合わせるとは。たぶん刀剣女子や歴史女子のように仏像女子の存在があるのかも。近頃のNHKは視聴者の標的を広げて若者に迎合しようとしているかに見える。本質がおっさんだからなかなかうまく行かないみたいだね。何をやっても軽やかさがない。
さて、英語のアイドル、"idol" は、たとえば大島かおり訳『モモ』では神々の像と訳されている。そうなんだ、英語の"idol" には「神としてあがめられる像」という意味のほかに、"someone or something admired or loved too much"との意味もある(ロングマン、現代英英辞典 1988)。だから日本語にいう、歌ったり踊ったりしている女の子を指すアイドルは英語そのままの意味に使われているわけだ。
この日本語のアイドルは、かなり以前からあり、たとえば1970年代にもたくさんいた。天地真理、河合奈保子、渡辺真知子、太田裕美…。でも荒井由実はアイドルとは呼ばれなかったな。この時代は流行歌ではなくニューミュージックといったかな。そのあとJポップがあって、いまどうなってるかは知らない。
アイドルと言っても若い女性とは限らない。毒蝮三太夫はすでに84歳だそうであるが、お年寄りのアイドルと呼ばれている。毒蝮がお年寄りだからなのではなくて、この人の贔屓筋がお年寄りなのである。だからアイドルには年齢性別などの区別はないのだ。ふと考えるのだが、犬や猫のペットはどうしてアイドルにはならないのかな。
ところでステージで跳んだりはねたり(ここも漢字を使うと「跳」になって変だねぇ)しながら歌うアイドル・グループ、ときに握手会などやっていた。コロナの時代には厳禁だろうな。どんな野郎が来るかもわからないのに、握手してあげよう、というのは勇気があるなぁ。興行としてこんなことで稼げるのは日本ぐらいではないのかな。いや隣の国でもありそうだな。欧米にはないだろう。タレントという商売やアイドルとして売る歌手、こういうのは芸に厳しい文化圏にはない。そうですよ、これは文化の問題です。いやまてまて、政治家の水準と同じで選ぶ方の問題です。ならば文化とは言わずに民度と言おうか。日本の寄席ではつまらない噺だと、寝そべったお客は起きてくれなかった。何でもかんでも笑う客が増えて噺家の芸が粗末になった。
どうも話が嘆き節になって来たからこのあたりでやめよう。というわけで、耳が壊れてから遠ざかっていた社会の最近の一端を知ることができた。
(2020/10)