2024年3月18日月曜日

『日高六郎・95歳のポルトレ 対話をとおして』黒川創

 101歳まで長寿を保った学者さんが高齢者ホームに入居してどのような暮らしを送ったのか、近いうちに同じ状況になるはずのわが身にとって何か参考になるかもしれないと身勝手な考えで読みはじめた。

表紙の写真では車いすに座っている。入居するまで夫妻ともに施設には拒否感があったらしいが、すでに94歳と82歳では自立した暮らしをするには限界を超えているのは自他ともに認めるところだっただろう。辺鄙な立地が多い施設の中で、そこは京都市域の一角には違いな    く、かつて教職に就いた京都精華大学が近くにあり、同じ岩倉の歩いて行  けそうなところには鶴見俊輔さん宅もある、という具合でまるっきり不案  内な場所ではない。来客が多かったであろう暢子夫人にとってはつらい生  活かもしれない。

二階建ての上層階に並びの部屋を借りている。広さは簡素なホテルのツインベッドの部屋程度だという。ベッドは日高六郎の名札のある部屋に2台並べてある。夫人は日中ベッドに腰かけてテレビを見て過ごすことが多いようで、六郎氏もわりあい一緒に見る。入所者を集めてする軽い体操や遊戯の時間もあるがそれには出向かない。画家、エッセイストとして知られる暢子夫人の部屋には、以前描いた絵のカンヴァスがしまってある。今はもうあまり描く気はないらしく、部屋は中ほどに折り畳み式のテーブルが一つ置かれ、壁際に女性の肖像を描いたカンヴァスが立てかけてあるほかはがらんとしている。

ただこうして時間を過ごすだけでは、ストレスも不安も増すだろうと、入居まもなく訪問した黒川は心配している。訪れると、六郎先生は「やぁー」と迎えて、すぐさまほんの今まで考えていたらしいことについて語り始める。おしゃべりが好きなのだ。運動など体力維持には無関心だ。

ここに移る前は下賀茂にマンション住まいだった。先行きの暮らしを気にかけてくれる取り巻きの面々がこの新築の施設を探し出して引っ越しから何からすべてやってくれたようだ。引き換えてわが身の場合はどうしたらいいかとやや不安になる。

それ以前の夫妻は1989年から2006年までパリの自宅で過ごしていた。2005年刊行の『戦争の中で考えたことーーある家族の物語』(筑摩書房)はフランスで書き上げた。内容は日本の敗戦1945年までの記録である。

パリに出かけたのは、べ平連でフランスに向けて送り出した脱走米兵たちがどうしているか見に行こうと思い立ってのことだった。1971年だったが翌翌年にパリで自宅をを買ってしまった。鎌倉の旧居は処分した。暢子夫人の意向が強かったのであろうが、利用法がいろいろ議論されたようだ。日高氏らの世話になった脱走兵たちも訪ねてきた。夫人が中心のサロンみたいな様子だったろうか。そのうち1974年、六郎氏が帰国している留守中に、暢子夫人が日本赤軍に関係しているとの嫌疑がかかって逮捕される事件が起きた。集まりに部屋を貸す日常から生じた誤解らしいが、結果は夫人がかかわっていないとわかって釈放され、夫婦ともに帰国した。しかし、以後夫妻に長期ビザが下りなかった。それから15年間、フランスに自宅がありながらもどれなくなった。この事件にはおまけがついて、オーストラリアのラ・トロープ大学とモナシュ大学から六郎氏に招聘があったが、出発間際にビザ発給が拒まれた。オーストラリア政府からの問い合わせに対する日本政府の態度が底の浅い冷淡なものであったらしい。「わたしはチェリー」と不思議な発言をした桜内義男外務大臣だったようだ。

話をフランスに戻せば、パリの日高家には犬が二匹いた。飼い主は警察に拘留中でも犬に餌を与える権利がある。毎日夕方になると拘留中の者は警官に連れ出されて、肉を買ってそれを柔らかくして犬に食べさせて警察に戻るまで、ずっと警官が一緒にいる。守られるのは犬の権利か人の権利か。なんとなくフランスらしい。

2006年秋ごろ、暢子夫人が変調をきたして精神科にかかっていた。医師は日本に戻って治療するほうが良いと帰国をすすめた。京都の病院に入院したが、医者のはからいで六郎氏も病院で過ごせるようにしてくれた。その時期が過ぎて下賀茂でマンション住まいののち2011年、老人ホームに移ったということになる。夫人の再発の可能性はあるらしいが、そのときはフランスに戻してくれと夫人はいうらしい。あちらには無料の病院もあるし、とか。それはそれとして両人ともに衰えてゆく。六郎氏は車椅子になったし、夫人もよく転ぶ。それでも暮らしをどうするか、あまり考えない夫妻だったと黒川の観察だ。

黒川は日高の哲学とでもいうような考え方を最後に問うている。日本を分析する道具として鶴見俊輔は「お守りとしての言葉」を考え、丸山真男は「天皇制」をかんがえた。で、日高六郎は何を基準に考えるのか。答えは「人間」だった。

戦後60年、本当の社会民主主義的な政権が日本に一度も現れなかった。これについて一般の民衆の受け止め方はどうなのか。フランス人は、重要な政治問題が出てくると、みんながそれに注目する。悪いほうへの動きが現れると猛烈に怒る人間がたくさんいる。怒る原動力が社会に備わっている。日高はそういう風な動きは日本には現れないから、状況がひどくなれば逃げるほうがいいとさえ思う。亡命だ。ヨーロッパ人にはこれができた。ナチスに対するトーマス・マンのように。スペインのフランコ軍事政権が倒れたとき、フランスから亡命者たちがどっと帰っていく。フランスに残った人もいた。人間がどこで生活するかは自由でなければならない。脱走兵にだって自由がある。1971年のパリにはNATO軍からの脱走米兵がうじゃうじゃいた。警察に申告して名前と引受人を届ければよい。住まいも生活費も生きる道も保証しないけれども住んでよろしいと許可証をくれる。日本ではべ平連が一生懸命に彼らを匿った。いいことをしたような気持でいたけれどどうなのか。脱走兵一人ひとりの動機はバラバラ、個人の生き方だ。軍隊での捕虜の扱いも日本とは違う。フォークランド戦争で捕虜になった英国兵が条約に基づいて戻されてくると英国では庶民が挙げて歓迎した。日本の軍隊では自殺を強要した。日高がこういう話をするのは、人は生きたいように生きればよいという思想を話しているわけだ。

青島に生まれた日高は父親に、ここにいたら権力、武力の下で人間が堕落するから日本で勉強するように厳しく言われた。生まれ故郷にいたら道徳的な居心地の悪さが魂に棲みつくというわけである。ならば、日高六郎にとって日本がそれにとって代わったかといえば、そうはならなかった。黒川はこの本の締めくくりの章を「異郷にて」と題した。

この「ポルトレ」は肩は凝らないけれども理解が浅くなる。対話中心だからやむを得ない。人物への親しみは増す。社会学などという看板に関係なく、日高六郎さんにもっと近づきたいと思う。すでに故人であるが、遺された著書は多い『戦争の中で考えたこと』(2005年)、『戦後思想を考える』(2019年)、『1960年5月1日』(1960年)などなど。

(2024/3)

 

 

2024年2月28日水曜日

『日本精神史 近代編 下』より日高六郎さんのこと

(本文とは関係はありません)

精神史とはどんなものか。社会史から、ひとの行動や思想を取り出したものなのかな。

長谷川宏さんの『日本の精神史』近代編(上)「はじめに」はその方法が書いてある。

「美術と思想と文学の三領域にわたる文物や文献を手がかりに、そこに陰に陽に示された精神のありさまをことばにする」 。以下は下巻を読んだ感想の一部である。

16章 時代に抗する種々の表現 には、1として堀田善衛と日高六郎を置く。ここでは後者について述べる。

日高について、「80年刊行の『戦後思想を考える』(岩波新書)以降、自分の目の前にある身近な具体的な事実にこだわり、その意味を自分がかつて経験した、これまた身近な具体的事実と対比しつつ思考するもの書きだった」「『戦後思想を考える』の底に流れるのは50年代後半に始まり60年代、70年代にまで続く高度経済成長に対する根深い違和感、疑問、批判である」(358ページ)。

人びとは戦後の貧困と混乱のなかで身を粉にして働き、少しでも豊かな楽な暮らしを手に入れようとした。戦争と軍国体制への反省から、平和と民主主義の実現に向かって努力を重ねてきた、と著者が書く時代に、私は中学、高校、大学へすすんでサラリーマンになった。1万円をかろうじて超える月給が嬉しかった。やっと自分の自由になる金を持つことができた。

60年代にはいる頃、社長が代わって給与体制が大きく変わった。思えば入社後2、3年の間は組合活動に駆り出されることが多かったが、いつとはなしにそういう活動がなくなったのに今更ながら気がついた。本書の著者が「60年代に高度経済成長の名で呼ばれる流れが目に見える形を取ってあらわれ、多くの人が生活水準の向上を実感できるようになった」と書いているとおりだ。だが、平和と民主主義への願いと努力はどうなったのか。

反戦平和の声はけっして小さくはなかったものの、自民党政権の再軍備やアメリカ軍への基地提供を阻止することはできなかったし、民主主義に逆行する差別や不平等や人権侵害はいまだ社会に根強く残っている。

と著者が続けて書くのは高度経済期と呼ばれた昔のことであるが、世紀が変わってしまっているいまも同じであるのに気がつく。サラリーマンで夢中に過ごしたころの自分はまったくのノンポリであって、仕事の進め方や得意先とのやり取りに日を送っていたから、「人びとが政治・社会状況への広い関心を失い、私生活の快適さに埋没していくありさまに並ならぬ違和感と危機意識をもった」日高六郎氏とは大違いである。

そして、日高氏は「こういう受け身の生活の中でわたしたちは権力者の敷いたレールに乗せられていくのではないのか」と問う、と著者は解説してくれる。「個人の日常生活、その中での生活態度や姿勢が、じつは戦争そのものの遠因となり、戦争を始めさせ、戦争の一部を支える力の一部となっているということだ。[中略]戦争のある部分を育てたものとして人びとの日常性がある。」(『戦後思想を考える』34ページ)

しかし、だから生活と意識のつくりかえが肝心だという時代認識は当を得たものであっても、その実現は至難である。そこで考え出されたのが「自立と連帯」だ。「連帯」の初発の形は、労働者の団結よりもっと小さな家族あるいは友人あるいは隣人とのコンミューンであろう、と考える。私生活優先の時代にあっても、自立と連帯とコンミューンは作り出せると日高は考えていた(本書362ページ)。

そこで著者は『戦争のなかで考えたことある家族の物語』(2005年刊)を紹介している。太平洋戦争以前から中国の青島市に住んだ父・母兄弟4人の家族が心のうちに強い批判の心をもち続けたなかで、末弟八郎が家庭新聞『暁』を創刊し、4年半続いた後、盧溝橋事件の一年前に無言のうちに終刊にする。六郎は学校での自分と家庭内の自分を二重人格かと疑いながらも自分の心を守る。自分の心を守ることが家族の自然な人間関係を守ることに通じていたことを長谷川氏は強調している。

抵抗の持続が家族のふるまいとしてあらわれる場面が本の最後にでてくる。

兄、三郎の戦死公報が届いたとき、「父は鎌倉市役所にも隣組にも内密にした。父と母と長兄と私(六郎)だけが仏壇の前にあつまって、父の読経につづいた。八郎は海軍下士官として舞鶴にいた。これ以上にひそやかな、これ以上に心をこめた葬送のいとなみはなかった。父は天皇のため、国のための一言も発しなかった。……それは私たち家族だけの事件であり悲しみであった。そして私たちが感じたのは、公的に口外できない怒りであった……」。この父は一度も靖国神社に詣でなかったとも書いている。

このとおりに受けとめたいが、もしこれが向こう三軒両どなり式の密集した町家であったなら郵便配達夫が来ることだけで事情はすぐにわかっただろうと想像する。しかし、たとえ秘密が守れなかったにしろ、この家族は揺るがなかったと思う。これは余談だ。

この著書の副題は「ある家族の物語」ではあるが、家族外との関係も不問にしているわけではない。外との関係は当然著者日高が20歳を超えた青年期以降にかえって強く意識される。戦争への抵抗の精神と自他の人格及び自由を尊重する寛容の精神が、その心にしっかり生きて根づいていることは驚くべきことといえようか、と長谷川さんは述べている。こうしてさらに日高の東大から「海軍技術研究所」時代の抵抗精神の記録へと話題が進む。

こうして読者のわたしたちは社会学者日高六郎さんを偲ぶことができる。なるほどこれが精神史という作物であるかとも。

日高六郎さんは201867日京都の老人ホームで老衰のため亡くなった。享年101歳。 

(2024/2)


  

2024年2月10日土曜日

『日本精神史 近代編 上』を読んでみる

朝日新聞に紹介されていたのに気をそそられて読んでみた。下巻のほうがよく親しんだ書き手が多いので先に読みたかったが、あいにく図書館では貸出中だった。著者は、すでに江戸期までを上下巻の二冊に編んでいて、新たに近代編を同じ手法で引き継いだという。その探求の手法は、美術と思想と文学の三領域にわたる文物や文献を手がかりに、そこに陰に陽に示された精神のありさまをことばにするやりかたである 。著者は敗戦翌年の1946年に小学校入学という世代である。身近な体験は歴史と時代の流れとさまざまに交錯するが、「体験を客観化できるような広い視座のもとで時代の精神に形を浮かび上がらせたい」と述べている。その著者より一回り早く生まれている読者の私は、本書の行間に想像を巡らせたり、記憶を辿ったりしながら読み進むが、著者の知識にはもとより及ばない。新しく知ることのほうが多く、知っているはずの事柄にもあらためて教えられることが多いという経験をした。文章が易しいのが魅力だ。萩原朔太郎についての場合など、当方が詩に不案内のために難しく感じることはあっても全体的に読みやすい。この著者はヘーゲルをやさしく説くことで知られているそうである。脳が弱ってきたいまの私が読んだことを蓄積するためには、繰り返して読むことが必要になるが、この本は分厚い。上巻は540ページあるから読み返すのも大儀ではある。
最初に登場するのは画家の高橋由一、この人の名はおぼろげに思い出した。油彩画の『鮭』の人だ。明治維新のときにすでに40歳、武芸にも秀でていたが病弱のため幼い頃からの画才で身を立てる。洋製石版画を見て「絵がなにからなにまで真にせまっている上に、なんともいえぬ味わいがあるのを発見し」て洋画習学を志して幕府洋書調所画学局に入る。油絵の絵具や絵筆の何一つ揃わない頃、唐絵や大和絵の道具などで工夫した。由一自身の言葉に、西洋の画法は[真をうつすこと」(「写真」)を本質とする、真を写す洋画は国家社会に役立つなどとある。この国家社会に役立つというのは師の司馬江漢を見習ったのだと著者は説明する。それは、何をどう描くかにある。著者は洋画の写真性をリアリズムの語に置き換える。絵を描くことにリアリズムを求める点で由一は司馬江漢の忠実な弟子だった。 
「思想が豊かであって、描かれていないもののおもしろさまで想像できるような妙境に達していなければ、愛するに値しないし、後世に残す価値がない。筆の運びが緻密でも、なにをどう描くかがきちんと考えられていないものは俗っぽく下品な絵であって、筆の跡が粗略でも、なにをどう描くかが考え抜かれた絵は品が良く格調が高い」。

 これらは由一が油絵の価値と魅力をどのように捉えていたかを示す文言を著者が現代文に訳した文である(『日本近代思想大系17 美術』岩波書店1989年195ページ参照)。

で、その由一の精神のさまを著者は『豆腐』と『鮭』の二つの静物画に照らして追跡している。本書にはこの二作のモノクロ写真が示されて著者の解説があるがここでは割愛する。「表現のジャンルはちがうが、坪内逍遥も、正岡子規も「実」を写し「生」を写すのに全神経を集中して世界と向き合い、おのれの表現と向き合い、どこまでも続く実験と探求の道を歩まねばならなかった。一歩一歩の過程の集積によってしか出来上がらぬリアリズムの世界は、理念が定まればあとは勢いで行けるというものではまったくなかった(30ページ)。その都度新しい経験を積まなくてはならなかったというわけだ。由一のことばに「絵というものは精神のなす仕事なのだ」(岩波前掲書173ページ)というのもある。求道の精神だ。

現在の読者にはインターネットで絵を見ることができる便宜がある。美術館ゃオークションの見本などで色彩まで見ることができるのはありがたい。どうしても見つからない作品、たとえば村上華岳『晩照帰鴉図』、本書に写真もない。こういうのは、著者が細部にわたって説明しているからには美術全集などで見られるのであろう。

第一章 「近代の始まり」には、もうひとつ『米欧回覧実記』を題材においている。私にとっては30年ほど前に日本語の語彙をさぐるのに利用したり、掲載の銅版画の風景をいまに求めてスイスを旅行したりした懐かしい書物である。私は岩波文庫で読んだが、内容に興味をもった4歳下の友人は現代文の版でしか読めないと言った。いま戦乱に荒らされているウクライナの広大な農地は、この書物での車窓に見えるロシアの風景なのかもしれない。

何でも見てやろう精神の記録とでも言えそうな『米欧回覧実記』は、リアリズムが新しい時代を切り開こうとする人びとに共有された時代精神にほかならなかった。岩倉大使一行に随行した、のちの歴史学者、久米邦武の編纂による記録は何もかもが克明だ。かつて私が一部を利用した銅版画は300枚以上もの各地の写真を銅板に彫って挿絵にしたものだそうだ。

明治初期に結成された岩倉使節団は、政治権力者や知的エリートをもって任じる人物を多数ふくむにもかかわらず、海の向こうから押しよせる西洋文明にたいして、その力強さ、その広がりの大きさと奥深さにたいする驚きと戸惑いをもちつづけ、旅の途中でも記録の編修に携わる時期においても、文明に学ぶ姿勢は強まりこそすれ衰えることはなかった。学びの難しさ、ゆたかさ、楽しさが強く実感されているかぎり、人びとの上に立っているという意識は背後に退き、むしろ、自分たちの経験した事柄を人びとにきちんと伝え、人びととともに学んでいこうとする姿勢こそが全面に出てきたのだと思う。(44ページ)

と著者は書くが、現在の我が国の政治家と自称する人たちに是非学んでいただきたいものだ。さらにまた著者は、「西洋各国の外交は、表向きは親睦と公平の形を取るが、裏ではつねに相手の権謀を疑っている。[…中略…]ヨーロッパの国々が戦争中にめぐらす権謀にはあらゆる嘘が入りこんでいる。」(文庫三、116ページ)と批判のことばを引用しながらも、これによって読者は驚くことはないし、不愉快になることも溜飲の下がるおもいをすることもなく、冷静に事態を受けとめることができる。書き手に学ぶ姿勢が保たれているためだ。学ぶ姿勢が全編をつらぬいていることが、この啓蒙書にたぐいまれな知的爽快さをあたえていると思う。」(45ページ)と締めくくっている。

さて、このような学ぶ姿勢でいられる時代は長くは続かなかった。やがて日本人は日清・日露の戦争と国家主権の確立と地政学的な領土問題に直面する。福沢諭吉は啓蒙家として大きな足跡を残してはいるが、文明を楽観的に展望し、個人の学ぶ力の養成を説く姿勢はいざ帝国主義のもとに大陸進攻がうたわれる頃になると、その主張も国策に沿って変化する。

このあたりの問題について著者は、「なによりの問題は、個としての人間一人一人を、独自の思考と意志と感情をもつゆたかな主体的存在としてとらええない人間観の貧しさにあると思う」と鋭い。新しい世界とは、文明が進歩する社会にあって個人もともに進歩するものと楽観的だったようだ。

近代の原理とは、共同体に包摂されてきた個人を、独自の意味と価値をもつ一存在として打ち立てることだったのである、とは著者のことばである。共同体の中で仲間と一緒に過ごしてきた自分が、ほんとに自分が満足しているか、他にやりたいこともあるのではないかなどと思いめぐらすとき、自分に目覚めるなどという。独自の意味と価値をもつ一存在とは、目覚めた自分のことである。こうなると周囲と難なく打ち解けていた自分が変わってしまう。近代の原理とは自分と周囲との対立や矛盾のことだ。共同体と自己との矛盾は現代でもところに応じた形になって世界中で生じる。人間をこういう生き物だと思ってしまえばそれまでであろうが、人はなんとかしてその矛盾を乗り超えようとする。どうも福沢先生はこのあたりで行き詰まることを想像しなかったみたいだ。

近代の原理が日本の社会に根付くのはいまでもむずかしいが、福沢が富国強兵や殖産興業、さらに海外侵略に快感を覚えたのは、そういう時代に生きた人の限界だったのだろう、ということを私は教わった。個と集団の矛盾という問題は、いつも新しくて解決しないのは、最近の日々の社会的出来事で感じることだが、同じ事象が起きていても福沢の時代には人びとは、そのおかしさを感じとることができなかったにちがいない。人間観の貧しさとはそういうことだろう。

福沢の説く啓蒙思想は時代が進むと、富国強兵や海外進出を推奨するものへ変質した。精神史は読んで字のとおり歴史であるが、時代時代の精神はその時どきの人びとの活動状態にあらわれる。人それぞれにその時どう生きたのか、記録が大事にされてこそ真実が解る。話がとぶが、現在という時代の日本の精神史はどういうふうに描かれるだろうか。片っ端から記録が消されるいまは、暗闇を前にしたたそがれの時代みたいだ。

上巻は第十章まであり、韓国併合や大逆事件という国の右傾化、鴎外と漱石、柳田国男の民俗と柳宗悦の民芸、斎藤茂吉、宮沢賢治など、どこを読んでも私にはおもしろいし、著者の書きぶりはやさしくとも繰り返し読んで自分のことばでの表現にしてみる楽しみもある。あとに下巻も控えているが、読み通すまでが大変だ。

読んだ本:長谷川 宏『日本精神史 近代編(上)』2023年 講談社

(2024/2)