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精神史とはどんなものか。社会史から、ひとの行動や思想を取り出したものなのかな。
長谷川宏さんの『日本の精神史』近代編(上)「はじめに」はその方法が書いてある。
「美術と思想と文学の三領域にわたる文物や文献を手がかりに、そこに陰に陽に示された精神のありさまをことばにする」
。以下は下巻を読んだ感想の一部である。
第16章 時代に抗する種々の表現 には、1として堀田善衛と日高六郎を置く。ここでは後者について述べる。
日高について、「80年刊行の『戦後思想を考える』(岩波新書)以降、自分の目の前にある身近な具体的な事実にこだわり、その意味を自分がかつて経験した、これまた身近な具体的事実と対比しつつ思考するもの書きだった」「『戦後思想を考える』の底に流れるのは50年代後半に始まり60年代、70年代にまで続く高度経済成長に対する根深い違和感、疑問、批判である」(358ページ)。
人びとは戦後の貧困と混乱のなかで身を粉にして働き、少しでも豊かな楽な暮らしを手に入れようとした。戦争と軍国体制への反省から、平和と民主主義の実現に向かって努力を重ねてきた、と著者が書く時代に、私は中学、高校、大学へすすんでサラリーマンになった。1万円をかろうじて超える月給が嬉しかった。やっと自分の自由になる金を持つことができた。
60年代にはいる頃、社長が代わって給与体制が大きく変わった。思えば入社後2、3年の間は組合活動に駆り出されることが多かったが、いつとはなしにそういう活動がなくなったのに今更ながら気がついた。本書の著者が「60年代に高度経済成長の名で呼ばれる流れが目に見える形を取ってあらわれ、多くの人が生活水準の向上を実感できるようになった」と書いているとおりだ。だが、平和と民主主義への願いと努力はどうなったのか。
反戦平和の声はけっして小さくはなかったものの、自民党政権の再軍備やアメリカ軍への基地提供を阻止することはできなかったし、民主主義に逆行する差別や不平等や人権侵害はいまだ社会に根強く残っている。
と著者が続けて書くのは高度経済期と呼ばれた昔のことであるが、世紀が変わってしまっているいまも同じであるのに気がつく。サラリーマンで夢中に過ごしたころの自分はまったくのノンポリであって、仕事の進め方や得意先とのやり取りに日を送っていたから、「人びとが政治・社会状況への広い関心を失い、私生活の快適さに埋没していくありさまに並ならぬ違和感と危機意識をもった」日高六郎氏とは大違いである。
そして、日高氏は「こういう受け身の生活の中でわたしたちは権力者の敷いたレールに乗せられていくのではないのか」と問う、と著者は解説してくれる。「個人の日常生活、その中での生活態度や姿勢が、じつは戦争そのものの遠因となり、戦争を始めさせ、戦争の一部を支える力の一部となっているということだ。[…中略]戦争のある部分を育てたものとして人びとの日常性がある。」(『戦後思想を考える』34ページ)
しかし、だから生活と意識のつくりかえが肝心だという時代認識は当を得たものであっても、その実現は至難である。そこで考え出されたのが「自立と連帯」だ。「連帯」の初発の形は、労働者の団結よりもっと小さな家族あるいは友人あるいは隣人とのコンミューンであろう、と考える。私生活優先の時代にあっても、自立と連帯とコンミューンは作り出せると日高は考えていた(本書362ページ)。
そこで著者は『戦争のなかで考えたこと―ある家族の物語』(2005年刊)を紹介している。太平洋戦争以前から中国の青島市に住んだ父・母兄弟4人の家族が心のうちに強い批判の心をもち続けたなかで、末弟八郎が家庭新聞『暁』を創刊し、4年半続いた後、盧溝橋事件の一年前に無言のうちに終刊にする。六郎は学校での自分と家庭内の自分を二重人格かと疑いながらも自分の心を守る。自分の心を守ることが家族の自然な人間関係を守ることに通じていたことを長谷川氏は強調している。
抵抗の持続が家族のふるまいとしてあらわれる場面が本の最後にでてくる。
兄、三郎の戦死公報が届いたとき、「父は鎌倉市役所にも隣組にも内密にした。父と母と長兄と私(六郎)だけが仏壇の前にあつまって、父の読経につづいた。八郎は海軍下士官として舞鶴にいた。これ以上にひそやかな、これ以上に心をこめた葬送のいとなみはなかった。父は天皇のため、国のための一言も発しなかった。……それは私たち家族だけの事件であり悲しみであった。そして私たちが感じたのは、公的に口外できない怒りであった……」。この父は一度も靖国神社に詣でなかったとも書いている。
このとおりに受けとめたいが、もしこれが向こう三軒両どなり式の密集した町家であったなら郵便配達夫が来ることだけで事情はすぐにわかっただろうと想像する。しかし、たとえ秘密が守れなかったにしろ、この家族は揺るがなかったと思う。これは余談だ。
この著書の副題は「ある家族の物語」ではあるが、家族外との関係も不問にしているわけではない。外との関係は当然著者日高が20歳を超えた青年期以降にかえって強く意識される。戦争への抵抗の精神と自他の人格及び自由を尊重する寛容の精神が、その心にしっかり生きて根づいていることは驚くべきことといえようか、と長谷川さんは述べている。こうしてさらに日高の東大から「海軍技術研究所」時代の抵抗精神の記録へと話題が進む。
こうして読者のわたしたちは社会学者日高六郎さんを偲ぶことができる。なるほどこれが精神史という作物であるかとも。
日高六郎さんは2018年6月7日京都の老人ホームで老衰のため亡くなった。享年101歳。
(2024/2)