2016年8月23日火曜日

古代史拾い読み 「日本」「天皇」

 日本の古代の話にハクスキノエの戦いというのがあった。白村江と書いてハクスキノエと読むと憶えていた。ヘンだと感じながらもそのままに過ぎたが、いまは日本語でハクソンコウと読む。現在の地図で言えば韓国の南西部で黄海に注ぐ大河、錦江の河口あたりが戦場にあたる。
いま、岡田英弘氏の著作集のページをあちらこちら探索しながら書いている。氏は地理上の朝鮮半島を韓半島と呼び、古代の中国をシナと表記する。筆者もそれにしたがっている。

660年に唐・新羅連合軍により百済が滅亡した時、飛鳥の都にあった倭王、斉明は百済復興を決意する。倭国から唐へ行くには百済を通って海を渡るのが経路だったからである。
翌661年に難波津を出帆して筑紫の博多に向かったが、その年のうちに陣中で死亡する。
皇太子の中大兄が博多に留まって作戦を指揮したが、663年、倭軍の艦隊は白村江口で唐軍の艦隊に敗れて全滅した。倭国は同盟国百済を失って韓半島の足がかりがなくなり、唐土との関係が絶える。それどころか唐はいま眼前の敵である。敗戦後まだ唐の艦隊が付近を遊弋しているし、攻めてこられれば難波津までの水路は一本道、あとは一気にヤマトに入れる。

中大兄は対馬や筑紫方面の防御を固める一方、都を近江の大津に移した。成文法典『近江律令』を制定し、そのなかで、倭王は今後、外国に対しては「明神御宇日本天皇(あきつみかみとあめのしたしらすやまとのすめらみこと)」と自称することを規定した。「日本」という国号と「天皇」という王号の起源である。
668年に中大兄は大津京で即位し天智天皇となる。670年に初めて戸籍をつくり、671年には太政大臣以下の官職を任命し、『近江律令』を施行した。

『新唐書』「東夷列伝」によれば、670年に倭王家は唐に使者を送って高句麗平定の祝を述べた。このことは『日本書紀』「天智天皇紀」に669年「この歳小錦中・河内直鯨(かふちのあたひくじら)らを遣わして大唐に使いさせた」とあるのに符合する。この使者は翌年長安に入って高宗皇帝に会ったわけだろう。このときの国書にはまだ天皇の称号は使われていない。

白村江敗戦のあと唐の大軍が来ようかと恐れている時期に、皇帝と対等の価値を持つ称号の天皇を使えば、明らかな挑発になる。そのような危険を冒すことはできないから、国内でこそ国号と称号を規定したものの、対外的には使用を控えた。

結局702年にシナの資料に国号が登場した。すなわち、『旧唐書(くとうじょ)』に、702年冬10月日本国が使いを遣わして方物を貢した、とある。対外的に国号「日本」を使用した初めである。唐側ではこのとき、日本人がどう見ても倭人であることについて、その関係が問題になったと記録されている。使いは大臣の朝臣真人(あそみまひと)とされている。(『旧唐書』「東夷列伝」)。

日本側の記録では、『続日本紀(しょくにほんぎ』に701年5月に出発を命じられた粟田朝臣真人が荒天で渡海できず、翌702年6月に出帆したとでている。歓迎されて従三品の司膳卿を授けられ、2年勤めて解放され、704年に帰国する。相手は高宗が既に亡く、即天皇后が皇帝になり、聖神皇帝と称し、国は大周(だいしゅう)と号した。

上述のように、日本で最初の法典「近江令」で「明神御宇日本天皇」の国号と称号が決められたのは668年である。その証拠は、同年12月につくられた「船首王後墓誌銘(ふねのおびとおうごのぼしめい)*」にある。それには「乎娑陀(をさだ)宮治天下天皇(敏達天皇)」「等由羅(とゆら)宮治天下天皇(推古天皇)」「阿須迦(あすか)天下天皇(舒明天皇)」の天皇号が使われている。これが一番古い天皇の用例である。

  *筆者注:船首王後墓誌銘;大阪府柏原市国分市場、 松岳山古墳から出土した銅板の墓誌銘。発見は江戸時代とされている。船首王後が埋葬された人の名前で、船氏という氏は渡来人らしい。
    乎娑陀、等由羅、阿須迦は地名である。
  
また、『日本書紀』「天智天皇紀」の記事に、671年正月6日「冠位、法度の事を施行し、天下に大赦した」とあって、その注に「法度、冠位の名は、つぶさに新しい『律』『令』にのっている」とある。『近江律』『近江令』のことだ。すなわち、日本の国号と天皇の王号とは671年に正式に決定したに違いない(『岡田英弘著作集Ⅲ 日本とは何か』(藤原書店2014)385ページ)。

上の墓誌銘文にある「治天下」は他の資料を調べると「あめのしたしろしめす」と読むようであるが、『近江令』の天皇号の箇所では「御宇」で「あめのしたしらす」と出ていた。この二種類の表記の違いは、当時はまだ言葉の音声と表記する漢字の関係が定まっていない頃だからであろうと考えておく。それにしても肝心の「日本」と「天皇」の語についてはどうなのだろう。
著者岡田氏による読み仮名は「日本」に「やまと」、「天皇」は「すめらみこと」である。いまのところ、著者はこの読み仮名の根拠を示してはくれない。

大唐に赴くはずが、はからずも大周に表敬した粟田朝臣真人は何と言って新しい国名と天皇名を伝えたのであろうか。シナ側では従来の「倭」が「日本」に変わったことを文字の上で理解したことであろう。真人さんはシナの言葉で話して「日本」を「やまと」、「天皇」を「すめらみこと」と、そこだけを倭語で表現したか、それとも、黙って文書を捧げたとでも想像しておこうか。

船首王後墓誌銘は、その銘文からみて668年に造られたと考えられる。記された乎娑陀、等由羅、阿須迦はそれぞれ天皇が居住していた宮の所在地を表すが、おそらく土地の人がヲサダ、トユラ、アスカと呼び習わしていた音声を墓誌の作者が漢字を当てて表記したと考えられる。この作者も船氏に関係する渡来人だろう。
船氏というのは船に関係する仕事、つまり水運関係の文書管理を担当する職能を持っていたらしく、広い意味で文字に関わっていたと考えられている。松岳山古墳の所在地大阪府柏原は4−5世紀の大和川近辺にあたり、古くは生駒山麓まで迫っていた海が後退したのち、このあたりは湖として残されていた。いずれはすべてが土砂で埋まって河内平野になるが、その中間期に河内湖が存在した。船氏は大阪湾、大和川、河内湖を結ぶ水運にかかわる氏族であった。(河内湖についてはWikipediaを参照した。)

漢字を操る人たちと文字を知らない土地っ子との共同作業が日本語を作り上げてゆくことになったのであろうが、668年という頃の住民の実態はどのようなものであったろうか。
天智天皇が近江律令を制定したのは、百済を失って孤立した倭国が唐に立向かうために団結する必要を認めたからである。倭人とか倭国とかいうのはシナからみた称号であって、そのように呼ばれていた人たちは自分たちを何者とも考えていなかったに違いない。九州北部や瀬戸内沿岸、河内から飛鳥にかけてなどに日々の暮らしを営んだり、他の集団との物々交換などをしていた土着の人たちが倭人の実体であったろう。
それぞれの集団は地縁、血縁で結ばれていたにしても、それ以前は、ともかく話が通じて気の措けない人というぐらいが集団形成の基本だったはずだ。したがって言葉が絆だ。文字はなかった。唐の制度に学んだ律(刑法にあたる)と令(行政法にあたる)で人々を統治する側に立つ人たちは、漢字が読めて漢語が理解できた。最初の官吏たちは渡来人だ。

先般、伏見稲荷の創建を調べたときには、渡来人秦氏が登場した。深草に本拠をもった大氏族だった。この氏族には官吏は多くなかったようで、主として生活に直結する技能集団を傘下に抱えていたらしい。対する大集団、漢(あや)氏は官の仕事が多かった。漢氏は系列に文(あや)氏をもち文筆・教育に多く関係する、さきの船氏もそれである。この他にも渡来人は多くの職能をもって住みついていた。
渡来人は、平安時代815年に編纂された『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』の分類では「諸蕃」とされ、シナまたは韓半島から移住してきた人々を祖とする氏族である。韓半島からの移民も実情からいえば華人になる。シナからの移民男性は通常単身で来て、住みついた先で現地人の女性に子を産ませるから、生まれた子供は華人である。秦氏も漢氏もシナからの移民を祖とするといわれるが、実態は韓半島への移民の子孫であり、華人であった。
こういう百済人、新羅人、任那人、華人、倭人の雑居状態が倭国の姿であった。百済や新羅、高句麗もみなそうであったし、そちらに倭人もいたわけである。シナの境の外、韓半島と倭国はこのように雑然とした人々がいたというだけの状況であった。いまのように竹島だの尖閣諸島だのと目くじらを立てなくてもよかったと考えれば、羨ましくもある。

話を戻そう。『近江律令』で天智天皇をたすけて、それまで自らの名乗りを持っていなかった倭国に「日本」という国号を創りだしたことは華人の貢献が大きかった。ひとえに漢字のおかげだといえる。「日本人」とは上にいうような雑居状態にあった諸種族の総称である。岡田英弘氏は「日本」国号は多種族統合の象徴だったという。音声の記録は残らないが、当時の「日本」は「ニホン」でも「ニッポン」でもなかったであろう。
華人の活躍はさらに続く。次代の天武天皇に仕えた柿本人麻呂や山上憶良などが漢字を使って倭人の言葉を書き表す工夫をつづけて日本語を誕生させる。このあたりはいずれ稿をあらためることにしよう。
(2016/8)








2016年8月19日金曜日

読書随想 『ひとびとの跫音』 司馬遼太郎

ひさしぶりに司馬遼太郎の作品を読んでいる。私はよい読者ではない。有名な小説はほとんど読んでいない。折々に読むエッセイや評論が好きである。『ひとびとの跫音』は藤沢周平が、読むならこの一冊、みたいな表現で感心している文に出会ったので読む気になった。

正岡子規に縁のある人々が次から次へと登場する。子規はすでにいない。忠三郎さんが出てくる。子規亡き後に妹の律が母八重の実家からむかえた養子だ。

私が司馬遼太郎を好くのは彼が大阪人だからだ。彼が歩くと懐かしい地名が次々あらわれる。風景も当然ついて出てくる。ただし著者が訪れる時代によって違う風景だ。地名のゆかりや、時代に登場する人々の逸話など著者の得意とするところだが、これが嬉しい。

今度も、著者が大阪のタクシーで、梅田は百貨店の周りをウロウロしながら阪急本社をさがすことからはじまる。
出だしの章の表題は「電車」とある。忠三郎さんの社会人生活は電車の車掌からはじまった。小林一三の方針がそのようにした。ついでのようにして、明治43年の創業時代の関西私鉄の状況が語られる。
司馬さんの住まいは近鉄沿線だったが、大鉄と称した吉野行き電車で4歳の頃に見た車掌の様子など面白くサービスしてくれている。その内容は本文の流れに沿っているから決して取ってつけたようにはならない。

この作品は16の章に分かれている。年譜によれば、昭和54年8月から同56年2月まで「中央公論」に連載された。章立てと雑誌の号数との関係はわからない。

終わりの章は「誄詩(るいし)」と題されてある。ときに難しい漢語を好むのはこの著者の習性のようだ。おそらく自分の想念によく合うためだろう。誄詩とは「死者の生前の徳をたたえる詩」と広辞苑に出ている。
この場合、死者は忠三郎さんで、詩を贈ったのは作中でタカジと名のっている人、このとき信州は佐久の病院で食道がんの死の床にあった。詩人としての名は、ぬやま ひろし、本名、西沢隆二、風変わりな元党員である。昭和9年から12年間、未決監房にあった。忠三郎さんに遅れること8日にしてこの世を去った。昭和51年のことである。

終始主軸になるのは忠三郎さんとタカジであるが、その余の人たちをも含めて著者は場面に応じて小出しに人柄や立ち居振る舞い方を出してくる。よくもこれだけの人たちを描き分けて、まとめられるものだとその手腕に感心するが、先方は作家だから当然かも知れない。
どのようにして材料を揃えるのだろうと考えたりもするが、思い出すのは井上ひさしがよく話していたことだ。司馬さんが何かを書こうとすると、古本屋街から関連する本が一斉に姿を消してしまうという。この作品で言えば、『坂の上の雲』のために集めた材料がほぼそっくり使えたであろうとわかる。それにしても使い方がうまい。

最後の章、誄詩のはじめに書いている。
この稿の主題は、子規の「墓碑銘」ふうの、ごく事態に則したリアリズムでいえば、「子規から『子規全集』まで」というべきものであったかと思っている、と。そして続ける。忠三郎さんとタカジというひとたちの跫音を、なにがしか書くことによつてもう一度聴きたいという欲求があった、と。
ここで読者は考えてみる。『子規全集』ができた経緯を述べるだけなら、こんなに複雑な人間関係の入り組みを長々と書くことはないのだ。この作者は大勢の縁者たちの集団が、ある時代にお互い無意識のうちに暮らしていた生活の中から、瓢箪から駒のようにして出来上がった『子規全集』をめぐって、取り巻いていた情景をつぶさに覗いてみて、そこにいた人たちの跫音に耳を澄ましてみたかったのだ。

ある人は地味な小説だと評する。それよりも、これは小説かと首を傾げる人もいる。でも読んでみれば、そんなことはどうでもいい。舞台に現れるそれぞれの人たちに作者は心を寄せて話を聞いているのだ。読み終わった読者はもう一度反芻しながら人々を回想する。ついいましがた知った人たちばかりなのに、実に懐かしい想いを抱く。少なくとも筆者はそうだった。

途中に多くの司馬さん一流のサービスがある。
南シナ海は香港の沖合にある東沙群島が話題になる。現代中国のことではない。明治40年頃、タカジの父親吉治は、これが無人島と聞いて事業を始める。まるで自分の国にでもするつもりか、西沢島と名づけて紙幣まで発行したという。清国から抗議されて日本政府が評価した金銭で清国が買収してその領有を認めた。西沢吉治は大損した。
島の評価のため日本政府が軍艦三隻を連ねてやってきた。そのうち軍艦「明石」の艦長は鈴木貫太郎大佐、「音羽」館長が秋山真之中佐だった。吉治と秋山真之の親交がこの時始まったというおまけがつく。

また、忠三郎さんの妹は事情あって修道女であった。戦争中のこと、軍は占領したフィリピン統治策にキリスト教を利用しようとした。カトリック国のフィリピンに修道女を集めて送り込むことにした。同時に別の種類の女性も集められた。兵隊の慰安所を作るためだ。
彼女らは大阪に集合させられたらしい。ここから列車輸送され、下関から一ツ船でもって、フィリピンに送られるのである。この異様な光景が、あの戦争に関する厖大な記録、資料のなかに一行も見かけないのは、どういうことであろう。
著者はこの話題に深入りはしない。妹の修道女を大阪駅頭に見送った忠三郎夫妻がこのくだりの主題だ。ふだんのっそりしている忠三郎さんが忙しげにホームを走りまわっている。あや子夫人にとって、走りまわる亭主の姿は異常な印象だったらしいと書いてある。

忠三郎さんは富永太郎の手紙をたくさん保存していた。若くして逝いた詩人の名が、忠三郎さんの古ぼけた伊丹の家の押し入れの奥から現れたことに読者は驚かされる。同時にこのことは著者をも戸惑わせたらしい。
この両人は東京府立一中で一学年違い、仙台の二高では同級であった。わかってみればなぁんだということかも知れぬが、最晩年の四年の間に太郎が忠三郎さんに書いた手紙が156通となればただごとではない。著者は大岡昇平氏の助けを借りてこのくだりを続けている。ここでは二人の交友について書くことはしない。
富永太郎による忠三郎さんの人物評は「独自のボヘミアン的孤立生活者のスタイルを作りだしていた」というものだったことだけ記しておこう。
筆者の感想では、生い立ちの環境が、長じて後の忠三郎さんの性格をしからしめたのではないかというものであるが、底抜けの善人めいたやさしい人である半面で、うちには頑ななほどのきつい芯を持っていたように思える。

あれやこれやと、一読後いろいろな人物像が思い起こされるが、途中で、はてこれはどういう関係の人であったか、などと突然の再出現に戸惑ったりする。筆者は系図、または相関図のようなメモを作って、ときどき参照して読み進んだ。
明治の家禄奉還の頃から昭和51年までのことが話柄になっている。以来およそ80年余りの時が流れた。その間の、多いといってもひと握りの人々の暮らしだが、ひとびとの生活史であり、社会史でもある。

この作品は昭和54年単行本化された。今回は『司馬遼太郎全集50』昭和59年文藝春秋社(平成12年第5刷)で読んだ。(2016/8)