日本の古代の話にハクスキノエの戦いというのがあった。白村江と書いてハクスキノエと読むと憶えていた。ヘンだと感じながらもそのままに過ぎたが、いまは日本語でハクソンコウと読む。現在の地図で言えば韓国の南西部で黄海に注ぐ大河、錦江の河口あたりが戦場にあたる。
いま、岡田英弘氏の著作集のページをあちらこちら探索しながら書いている。氏は地理上の朝鮮半島を韓半島と呼び、古代の中国をシナと表記する。筆者もそれにしたがっている。
660年に唐・新羅連合軍により百済が滅亡した時、飛鳥の都にあった倭王、斉明は百済復興を決意する。倭国から唐へ行くには百済を通って海を渡るのが経路だったからである。
翌661年に難波津を出帆して筑紫の博多に向かったが、その年のうちに陣中で死亡する。
皇太子の中大兄が博多に留まって作戦を指揮したが、663年、倭軍の艦隊は白村江口で唐軍の艦隊に敗れて全滅した。倭国は同盟国百済を失って韓半島の足がかりがなくなり、唐土との関係が絶える。それどころか唐はいま眼前の敵である。敗戦後まだ唐の艦隊が付近を遊弋しているし、攻めてこられれば難波津までの水路は一本道、あとは一気にヤマトに入れる。
中大兄は対馬や筑紫方面の防御を固める一方、都を近江の大津に移した。成文法典『近江律令』を制定し、そのなかで、倭王は今後、外国に対しては「明神御宇日本天皇(あきつみかみとあめのしたしらすやまとのすめらみこと)」と自称することを規定した。「日本」という国号と「天皇」という王号の起源である。
668年に中大兄は大津京で即位し天智天皇となる。670年に初めて戸籍をつくり、671年には太政大臣以下の官職を任命し、『近江律令』を施行した。
『新唐書』「東夷列伝」によれば、670年に倭王家は唐に使者を送って高句麗平定の祝を述べた。このことは『日本書紀』「天智天皇紀」に669年「この歳小錦中・河内直鯨(かふちのあたひくじら)らを遣わして大唐に使いさせた」とあるのに符合する。この使者は翌年長安に入って高宗皇帝に会ったわけだろう。このときの国書にはまだ天皇の称号は使われていない。
白村江敗戦のあと唐の大軍が来ようかと恐れている時期に、皇帝と対等の価値を持つ称号の天皇を使えば、明らかな挑発になる。そのような危険を冒すことはできないから、国内でこそ国号と称号を規定したものの、対外的には使用を控えた。
結局702年にシナの資料に国号が登場した。すなわち、『旧唐書(くとうじょ)』に、702年冬10月日本国が使いを遣わして方物を貢した、とある。対外的に国号「日本」を使用した初めである。唐側ではこのとき、日本人がどう見ても倭人であることについて、その関係が問題になったと記録されている。使いは大臣の朝臣真人(あそみまひと)とされている。(『旧唐書』「東夷列伝」)。
日本側の記録では、『続日本紀(しょくにほんぎ』に701年5月に出発を命じられた粟田朝臣真人が荒天で渡海できず、翌702年6月に出帆したとでている。歓迎されて従三品の司膳卿を授けられ、2年勤めて解放され、704年に帰国する。相手は高宗が既に亡く、即天皇后が皇帝になり、聖神皇帝と称し、国は大周(だいしゅう)と号した。
上述のように、日本で最初の法典「近江令」で「明神御宇日本天皇」の国号と称号が決められたのは668年である。その証拠は、同年12月につくられた「船首王後墓誌銘(ふねのおびとおうごのぼしめい)*」にある。それには「乎娑陀(をさだ)宮治天下天皇(敏達天皇)」「等由羅(とゆら)宮治天下天皇(推古天皇)」「阿須迦(あすか)天下天皇(舒明天皇)」の天皇号が使われている。これが一番古い天皇の用例である。
*筆者注:船首王後墓誌銘;大阪府柏原市国分市場、 松岳山古墳から出土した銅板の墓誌銘。発見は江戸時代とされている。船首王後が埋葬された人の名前で、船氏という氏は渡来人らしい。
乎娑陀、等由羅、阿須迦は地名である。
また、『日本書紀』「天智天皇紀」の記事に、671年正月6日「冠位、法度の事を施行し、天下に大赦した」とあって、その注に「法度、冠位の名は、つぶさに新しい『律』『令』にのっている」とある。『近江律』『近江令』のことだ。すなわち、日本の国号と天皇の王号とは671年に正式に決定したに違いない(『岡田英弘著作集Ⅲ 日本とは何か』(藤原書店2014)385ページ)。
上の墓誌銘文にある「治天下」は他の資料を調べると「あめのしたしろしめす」と読むようであるが、『近江令』の天皇号の箇所では「御宇」で「あめのしたしらす」と出ていた。この二種類の表記の違いは、当時はまだ言葉の音声と表記する漢字の関係が定まっていない頃だからであろうと考えておく。それにしても肝心の「日本」と「天皇」の語についてはどうなのだろう。
著者岡田氏による読み仮名は「日本」に「やまと」、「天皇」は「すめらみこと」である。いまのところ、著者はこの読み仮名の根拠を示してはくれない。
大唐に赴くはずが、はからずも大周に表敬した粟田朝臣真人は何と言って新しい国名と天皇名を伝えたのであろうか。シナ側では従来の「倭」が「日本」に変わったことを文字の上で理解したことであろう。真人さんはシナの言葉で話して「日本」を「やまと」、「天皇」を「すめらみこと」と、そこだけを倭語で表現したか、それとも、黙って文書を捧げたとでも想像しておこうか。
船首王後墓誌銘は、その銘文からみて668年に造られたと考えられる。記された乎娑陀、等由羅、阿須迦はそれぞれ天皇が居住していた宮の所在地を表すが、おそらく土地の人がヲサダ、トユラ、アスカと呼び習わしていた音声を墓誌の作者が漢字を当てて表記したと考えられる。この作者も船氏に関係する渡来人だろう。
船氏というのは船に関係する仕事、つまり水運関係の文書管理を担当する職能を持っていたらしく、広い意味で文字に関わっていたと考えられている。松岳山古墳の所在地大阪府柏原は4−5世紀の大和川近辺にあたり、古くは生駒山麓まで迫っていた海が後退したのち、このあたりは湖として残されていた。いずれはすべてが土砂で埋まって河内平野になるが、その中間期に河内湖が存在した。船氏は大阪湾、大和川、河内湖を結ぶ水運にかかわる氏族であった。(河内湖についてはWikipediaを参照した。)
漢字を操る人たちと文字を知らない土地っ子との共同作業が日本語を作り上げてゆくことになったのであろうが、668年という頃の住民の実態はどのようなものであったろうか。
天智天皇が近江律令を制定したのは、百済を失って孤立した倭国が唐に立向かうために団結する必要を認めたからである。倭人とか倭国とかいうのはシナからみた称号であって、そのように呼ばれていた人たちは自分たちを何者とも考えていなかったに違いない。九州北部や瀬戸内沿岸、河内から飛鳥にかけてなどに日々の暮らしを営んだり、他の集団との物々交換などをしていた土着の人たちが倭人の実体であったろう。
それぞれの集団は地縁、血縁で結ばれていたにしても、それ以前は、ともかく話が通じて気の措けない人というぐらいが集団形成の基本だったはずだ。したがって言葉が絆だ。文字はなかった。唐の制度に学んだ律(刑法にあたる)と令(行政法にあたる)で人々を統治する側に立つ人たちは、漢字が読めて漢語が理解できた。最初の官吏たちは渡来人だ。
先般、伏見稲荷の創建を調べたときには、渡来人秦氏が登場した。深草に本拠をもった大氏族だった。この氏族には官吏は多くなかったようで、主として生活に直結する技能集団を傘下に抱えていたらしい。対する大集団、漢(あや)氏は官の仕事が多かった。漢氏は系列に文(あや)氏をもち文筆・教育に多く関係する、さきの船氏もそれである。この他にも渡来人は多くの職能をもって住みついていた。
渡来人は、平安時代815年に編纂された『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』の分類では「諸蕃」とされ、シナまたは韓半島から移住してきた人々を祖とする氏族である。韓半島からの移民も実情からいえば華人になる。シナからの移民男性は通常単身で来て、住みついた先で現地人の女性に子を産ませるから、生まれた子供は華人である。秦氏も漢氏もシナからの移民を祖とするといわれるが、実態は韓半島への移民の子孫であり、華人であった。
こういう百済人、新羅人、任那人、華人、倭人の雑居状態が倭国の姿であった。百済や新羅、高句麗もみなそうであったし、そちらに倭人もいたわけである。シナの境の外、韓半島と倭国はこのように雑然とした人々がいたというだけの状況であった。いまのように竹島だの尖閣諸島だのと目くじらを立てなくてもよかったと考えれば、羨ましくもある。
話を戻そう。『近江律令』で天智天皇をたすけて、それまで自らの名乗りを持っていなかった倭国に「日本」という国号を創りだしたことは華人の貢献が大きかった。ひとえに漢字のおかげだといえる。「日本人」とは上にいうような雑居状態にあった諸種族の総称である。岡田英弘氏は「日本」国号は多種族統合の象徴だったという。音声の記録は残らないが、当時の「日本」は「ニホン」でも「ニッポン」でもなかったであろう。
華人の活躍はさらに続く。次代の天武天皇に仕えた柿本人麻呂や山上憶良などが漢字を使って倭人の言葉を書き表す工夫をつづけて日本語を誕生させる。このあたりはいずれ稿をあらためることにしよう。
(2016/8)