2016年9月2日金曜日

古代史拾い読み(その2) 邪馬台国

『岡田英弘著作集Ⅲ 日本とは何か』藤原書店 2014年を読んで書いている。
本稿では、著者にしたがって、現代中国ではない19世紀までの土地や文明は「シナ」、人は「漢人」、シナの外に定住する漢人は「華人」と書く。また英語のKoreaに対応する地域は「韓半島」と書く。

晋王朝に公認された正史『三国志』の一部をなす『魏志』に「倭人伝」という部分がある。そこには、邪馬台国という國と卑弥呼という女王の名が出てくる倭人についての記事がある。いわゆる「魏志倭人伝」であるが、そういう書物があるわけではない。
古代史に関して意見の表明が自由になった戦後、堰を切ったように溢れだした諸説による邪馬台国論争が続いていたが最近はどうなのだろうか。なんとはなしに、いまだにくすぶっているような気もする。
岡田氏による本書はその書きぶりがわかりやすい。氏は東洋史学者であるが、非常に広い視野で例を引いたりして、その説には説得力がある。

邪馬台国がどこにあったのかという論争は、氏の説にしたがえば無意味なことに帰する。「倭人伝」のうち邪馬台国の方位と行程の距離は故意に歪めてある。実際より甚だしく大きな國が、現実より甚だしく遠くに存在しているかのように偽装されているのだ。日本の歴史を考える場合に、そんなインチキな話をまともに議論するのはまったく意味がない、というのが結論である。しかもシナの正史に記載されていることであって、日本の歴史にはなんにも関係がないのである。

それでは何故たくさんの日本人がこれまで長い間議論し続けてきたのか。それは「倭人伝」がホントの事を書いてあると考えたからだろうが、実はシナの歴史書はそんなものではない。漢人にとって、何かを書くという行為は、あるべきことを書くことを意味するのだそうだ。歴史の記録の場合には、ことが期待通りに起こらなければ、無視するか、または記録者の理想を書きつけて、世界をさらに完全にするかしかないことになる。このあたりが、日本人にはわかりにくい。

正史は紀伝体の形で書かれる。「(ほんぎ)」は皇帝に関した出来事を年ごとに書く。「列伝」は皇帝と同時代の人が、皇帝との関係でどんな位置にあって何をしたかを伝える。皇帝の直接統治が及ばない地域の人々については、その種族が皇帝とどういう関係を持ったか、を列伝の形で書く。「倭人伝」がその一部をなす『三国志』の『魏書』「東夷伝」はそういう列伝である。

次に朝貢(ちょうこう)という外交儀礼がある。皇帝は人民に対して、自分が皇帝たるにふさわしい人物であることを説得するには、自分の統治下にない人々の集団、すなわち外国人の精神的支援を取り付けるのがもっとも有効である。古代シナでは、この外国からの訪問を「朝貢」といった。挨拶する「朝見」と手土産の「貢物」を合わせた用語だ。朝貢使節の派遣を決定するのは、その外国ではなく、たいていその國との貿易の窓口になっている郡である。郡の官吏が手伝って皇帝宛の賛辞を書き連ねた手紙を定まった書式で作成し、使節の員数を揃え、手土産を用意する。費用は一切シナが負担する。洛陽に入場するときは護衛兵がついて「倭人朝貢」の旗を翻して行進する。黒山の人だかりであったようだ。当の外国でどのように受け取られるかは問題ではない。あくまでも対内宣伝の手段なのである。
なお、國というのは城壁で囲った都市であって国家ではない。韓半島から日本列島にかけては城壁のある集落はまずなかったようだ。卑弥呼が代表した30国というのは、それぞれ交易の町のことである。わずかに卑弥呼の居所だけに城壁があったように伝えられている。

さて、『三国志』は単なる史実の記録ではない。265年に建国した晋という王朝の正史である。「正史」は現政権の正統性を証明するために書かれる。「正統」の意味は、シナを統治する権限を前政権から合法的な手続きを踏んで移譲されたということである。正史の資格には政府の公認が要る。
魏(220-265)の初代皇帝・文帝の学友だった将軍・司馬懿(しばい)は226年、文帝の遺言によって、曹真・曹休と3人で次代の明帝の後見人となる。曹真は西域方面の工作に大きな貢献をした。最大の勲功は229年に大月氏王()調(ちょう)の使節来訪に成功したことであった。大月氏国は今の新疆ウイグル自治区西部からトルキスタン、アフガニスタン、パキスタン、北インドまで支配する大クシャン帝国のことである。明帝はこれに「親魏大月氏王」の称号を贈った。曹真の最高の名誉になる出来事だ。

司馬懿の宮廷内の政敵はこの曹真だったが、231年に病死した。嗣子の(そう)(そう)が代わって西北司令官になるところ、若すぎるため皇帝は司馬懿に代行させた。蜀の諸葛(しょかつ)(りょう)(孔明)の病死によって、幸いなことに西方は安定し、司馬懿は続いて乱れていた東北安定に向かう。天候に祟られた大苦戦も大流星群の出現という僥倖に助けられ、4年越しで公孫氏を滅ぼすことができた。その結果、楽浪郡、帯方郡を征服し、東北アジア一帯は司馬懿の地盤となった。強運の人である。郡は軍管区のことをいう。
239年に明帝が死亡した。8歳の斉王・曹芳を養子にとって帝位につけるにあたり後見争いが生じ、曹爽と司馬懿が後見者となって元帝が即位する。これで、司馬懿は古くからの地盤、河南に加えて西北・東北両方面に発言権を持つ魏朝宮廷の第一人者になった。これに対して曹爽は、実権を自分の手中に収めるべく、若い有能な官僚を周囲に集める一方で、老齢の司馬懿には最高顧問・太傅(たいふ)の肩書を初めとしてあらゆる栄誉を捧げて祭り上げる方策をとった。その一環として演出されたのが、邪馬台国の女王・卑弥呼の朝貢であった。

曹爽は父・曹真と同等の名誉を司馬懿に与えることにし、新たに司馬懿の勢力圏に入った東北方面から、なるべく遠くの酋長として、倭の邪馬台国の女王が選ばれた。帯方太守・(りゅう)()の働きかけで、239年の内に、早くも卑弥呼の表敬使節団が洛陽に到着した。司馬懿の面子を立てるため、波調と同格の「親魏倭王」の称号が卑弥呼に贈られた。

しかし、ここに無理があった。「王」の称号は宮廷内での最高の地位を意味する。「親魏倭王」と「親魏大月氏王」とは「王」として同格であっても、現実の倭王はちっぽけな30ほどの諸国の代表に過ぎず、広大な大月氏國の王とは同格どころか格差がありすぎた。称号の手前、つまりは司馬懿と曹真の面子を等しくするため、邪馬台国は大月氏國と同等の遠方の大国に仕立てあげられなくてはならなかった。

偽装作業が称号を授与するとの公報に反映させるために行われた。その内容が「魏志倭人伝」に記された邪馬台国所在地の方位とそこまでの距離、および「倭人伝」に挙げられている諸国の戸数なのである。

結果的に距離は洛陽から大月氏国に至る16370里に相当するよう、洛陽から邪馬台国までは17000里ほどに作られた。戸数はもっとも大きい邪馬台国を7万余戸とし、倭国全体で15万戸とされた。大月氏國の15万余戸に対抗させたものであるが、当時人口が激減していたシナから見ると驚くべき数字である。岡田氏によれば『晋書』「地理志」によると、洛陽を含む河南郡の戸数は、12県(県は城壁で囲った都市)で114400戸となっていて、洛陽だけではおそらく10万戸以下で邪馬台国の7万戸と同程度だったに違いないという。さらに所在地は「会稽の東冶の東に在るべし」とおおまかなことが書かれてあり、これで敵対する呉の背後に新たに友好国となった邪馬台国という大国が在ることなり、魏の防衛にとって大きな安心事である。公孫氏を討伐した司馬懿の勲功あってこそ、ということになる。このような作為が魏の内部で行われた。239年のことである。
卑弥呼はその後247年に死んで、一族の少女の(たい)()が女王に立てられ、引き続き折につけ表敬使節を送ってきた。

司馬懿は敵対する曹爽の失政につけこんで明帝未亡人の皇太后と組み、249年にクーデターを成功させて、魏の全権を手中にした。翌々年の251年に73歳で亡くなリ、長男・司馬師が跡を継ぎ、255年に師が死ぬと、弟の司馬(しょう)が継いだ。265年に、もはや名目だけに過ぎなかった魏の元帝を廃して、司馬昭の子息・司馬炎が普朝を開いた。武帝という。倭の女王は早速翌年、祝意を述べる使者を送ってきた。

ここまでが「魏志倭人伝」にいう邪馬台国にまつわるシナにおける出来事のあらましである。そこには現実の邪馬台国を大国であり、遠方に位置し、かつ、魏の友好国として背後の敵、呉を脅かす頼もしい存在に仕立てる壮大な偽装が行われる特別な事情があった。「親魏倭王」の称号の重みにその秘密があった。

それでは『三国志』の作者陳寿はどういうつもりで、この偽装された記録を綴ったのだろうか。結論を先に言えば、承知のうえで書かざるを得なかったということである。
陳寿は魏に併合された蜀の生まれ、早くに文才を認められながら、不運、不幸が続いて官途につけなかったが、張華に認められた。この人もまた不運が続いた人だったが司馬昭に救われ高位に昇った。司馬昭は司馬懿の子息である。

『三国志』は晋朝がその正統性を証明する目的の公認された正史である。初代の武帝は司馬懿の孫だ。司馬懿は249年のクーデターにより魏の全権を握った人物で、実質的に普朝の創業者である。創業者の最大名誉となった盛儀、「親魏倭王」授与その他、司馬懿にまつわる事歴に疵をつけることは出来ない。魏朝の時世はわずか45年で終わったために、関わりのある人もまだ現存している。陳寿としては自分の今日あるは張華のおかげ、司馬昭のおかげ、そして司馬懿まで人脈がつながっている。そういう人たちにも配慮して、書くべき内容に細心の注意が求められたのは必定であった。いやでも筆を抑えることになったであろう。
邪馬台国に関わる偽装の部分は「親魏倭王」授与に際して作られた公報の丸写しで収めるほかなかった。公式の記録であるからには、明らかに事実でないとわかっていても訂正は出来ない。訂正すれば、もはや正史でなくなるのだ。

いま私たちがこの事実を知って不思議に思うのは、陳寿だけでなく司馬懿も、それから東北方面の管理に関与した人々、現実に邪馬台国に足を運んだ人たちが一人ならずいることは確かである。つまり実際の方位、里程を知り尽くしている人達がいるにもかかわらず、という不思議である。これが先に書いたシナの歴史というものだろうか。
ちなみに、魏は大月氏国をはじめとして西方地域と広く友好関係を結んでいた。『三国志』に付属する外国関係列伝には、あるはずの「西域伝」がない。この地方の工作の功労者は司馬懿の政敵、曹爽の父親の曹真である。書けば曹真をたたえることになってしまうから書けなかったという。この欠落を補うために、西域に関しては宋の人、裴松之(はいしょうし)によって、はるかな後に『三国志』注(429年)が書かれることになる。そこには陳寿が避けて通った史実が述べられている。

著者岡田氏は、日本での邪馬台国論争に水をかける結果になるだけに、事細かくシナの史書を読んで分析されている。問題の里程についてもシナの一里は三百歩、一歩は左右一回ずつの複歩だから、つごう450メートルというような基本からはじめて、現在の鉄道マイル数と比較して割り出す、あるいは数多い史書から使える道程の距離を検証する、などを重ねて偽装部分を探っている。240年と247年に魏の官吏が邪馬台国に戻る使節を送っていった際の報告書を参照して倭人伝に登場する諸国の名を確かめ、さらにそれぞれの年には楽浪太守が別人であったことから二つの報告書の相互照合ができていないことまで見ぬかれた。だから倭人伝の倭国の国名が列挙されている箇所の前半と後半では記述の仕方が違うという。こういう指摘は他の研究者にはないのではないか。

偽装のことはシナの話であるからそれはそれとして措いて、日本の歴史を考えるときにもっとも古い『日本書紀』は八世紀の資料である。それ以前の文献は日本にはない。「魏志倭人伝」が三世紀後半の記録であるなら、こちらを参照することで『日本書紀』の記述の真偽がわかるかもしれない。岡田氏以前にはそういう方法をとった研究はなかったという。しかも邪馬台国の記述があるのを知って、そこになぜ倭人の國の記事があるのか、不思議に思った気配はなかったそうだ。シナの史書に倭人が登場する理由を探ってみたいというのが岡田氏の日本研究の出発だったと書かれてある。

こうしてみると、敗戦の時以後、解禁された日本古代の研究に30年もかけて多くの頭脳がこの論争に無意味に消費されたことは、いかにももったいなかったと感じる。無意味にというのは、シナの史料も取捨選別すれば有効に利用できる部分があることを岡田氏は指摘しているからである。筆者は引き続いて岡田氏の著作を読むつもりでいる。

(2016/9)