この稿には日本が自らを国として認知する以前の状況についてあらましを書く。前回に続いて用語として、土地についてはシナ及び韓半島、人については漢人、華人を使う。
紀元668年に日本が国号を日本と定めるまでは、列島にいる人達は自分たちが何者であるかを考えたことはなかったのではないか。文献に見る限りシナの歴史書では、人は倭人、地域は倭国と呼ばれていた。
『漢書』「地理志」(82年頃成立)に「楽浪海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ」とあり、これが倭人が記事になった最初らしい。楽浪郡は、前漢(紀元前202年-8年)の武帝が紀元前108年に朝鮮王国を征服して韓半島に設置した郡の一つ、王朝の出先機関であり 交易と軍を管轄する。その楽浪の海の先に倭人がいて百余りも國があるというのであるが、ここでいう国は人の集まって 住んでいる所、つまり集落、かっこよく言って都市である。
江戸時代に北九州の志賀島で出土した「漢委奴国王(かんわなこくおう)」の金印については『後漢書』「倭伝」に該当する記録がある。後漢の光武帝の治世、紀元57年に倭奴国が使節をもって朝貢してきたので、これに印と綬を賜ったとある。この記録はシナ王朝が倭人の王を認定したはじめてのものである。この場合の王は交易の窓口の役目でしかない。
古くからシナが黄河中流の洛陽付近から発達し、東北に向けて進出し、韓半島、さらに日本列島へと関心を向けていたのは、一つには漢民族が商業文明の民であること、もうひとつに水路を使って交通ができたことが理由と考えられる。前108年には半島東南端まで進出していたのである。それは日本列島という地域を有望な商圏として見込んだからであるらしい。
シナは韓半島に流出した漢人たちの交易を大目に見ていたのが、王朝が統一を果たして力がつくと直接乗り出してくるように変わる。韓半島に設けた楽浪郡や帯方郡は交易を管轄する軍管区で、取引収益を確保する皇帝直轄の組織だ。九州の博多は倭の出入り口として次第に都市を形成する。内陸に向けての交通路にそっても次々に都市ができる。百余国というのもそれらの都市を指している。金印に彫られた倭奴国は倭人の國の一つである奴国を意味する。つまり奴国とは今の博多あたりのことだった。金印で王と認められた奴国の酋長はその他の国々がシナとの交易に必要とするビザを発行する領事の様な特権的な存在になる。ただし、王は自分の統治能力で地位を得たわけではないからシナの王朝が没落すれば倭王の権威はひとたまりもない。
紀元57年の「漢倭奴国王」が誰であったか記録されていないが、岡田英弘氏は107年に160人の奴隷を献じて朝貢した師升(すいしょう)がそうだという。この年、不安定な立場に陥った魏の安政権がテコ入れのため、友好国の君主のなかで序列の高い金印を所有する倭王に働きかけて演出したのだと説明されている。手みやげの奴隷が160人もの数であったことは、宮廷まで参上したのが奴国だけでなくほかの国々の使節も同道していたと考えられる。「魏志倭人伝」にはこの奴国の倭王は2世紀末に没落したと書かれている。
「その國はもと、また男子をもって王となした。住すること七、八十年、倭国は乱れ、あい攻伐して年を歴た。すなわち共に一女子を立てて王となした。名は卑弥呼という」とある。
男の王、師升のあと77年後のシナでは184年に黄巾の乱が起きて国内が混乱する。続いて三国時代になった。シナ王朝に依拠している倭国王はたちまち権威を失う。そのため倭国内も乱れて互いに争う事態が続いた。共同して女王、卑弥呼を立てることでようやく決着した。これが上の倭人伝の内容である。
倭国内が乱れたというのは、金印を所有する奴國の後裔がいただろうし、邪馬台国に同調しない句奴国もあって、少なくとも三人の酋長がそれぞれ組んでいた諸国を率いて争っていた状況があったらしい。男の王同士の争いが決着がつかないから共同して女王を立てたという。そこにも何か訳がありそうで岡田氏はそれを華僑内部の宗教結社と解している。
「魏志倭人伝」に卑弥呼について「鬼道に仕えてよく衆を惑わし」とある。「鬼道」は190-215年の間、陝西の南部から四川の東部にかけて宗教共和国を建設した五斗米道教団の神々をいう当時の用語だった。卑弥呼は単なる女シャーマンではなく、漢人商人が日本列島に持ち込んだ秘密結社組織の祭司だった。それが倭人諸国の市場を横に連ねる華人のネットワークに乗っていたから秩序を保てたと説明する。倭人の酋長たちの間では他を圧倒する実力者が誰もいなかっただけだ。卑弥呼を担ぎ出せばまとまりがつきやすかったということで、卑弥呼に格別の実力があったわけではない。
やがてシナでは後漢が滅亡して魏に政権が移り、卑弥呼は即応するようにして魏に使節を送って朝貢した。これが239年、倭の使節は「親魏倭王」の印と綬を賜った。卑弥呼は247年に死亡するが、しばらく国同士がもめたあとに卑弥呼の一族の娘、十三歳の台与が後継女王となって、魏に続く晉にも266年に入貢している。これを最後にシナの史書から倭国の名は消えてしまう。
300年になるとシナ各地で各種軍隊が騒乱を起こし、五胡十六國の乱世に入る。韓半島でも倭国でもシナの勢力はなくなってしまい、原住民たちはそれぞれ自立の道を選ぶしかなくなる。
この後の時代については、文献では5世紀に完成した『宋書』の「倭国伝」に倭国が再登場するが、日本側の資料は7世紀の『日本書紀』まで何もない。
ここでここまでの倭国の内情を少し探ってみたい。といっても筆者は浅学であり、特に日本の歴史については神武天皇に始まる国史のほかは学校で教わったことがない。基本は岡田英弘氏のお説に従うが、氏は東洋史学者であるから日本の歴史もシナの文献に現れた記述を追って考察されている。一方私たちは敗戦後盛んになった考古学者の研究で縄文だの弥生だのという言葉を知るようになった。ところがそれらの時代は文献にいうどの時代かということはあまり結びつけて知らされていない気がしている。手元の乏しい資料の年表で見ると紀元57年の金印の頃は弥生時代となっている。ヘェっと感じるだけでそれ以上の実感は湧いてこないが、稲作の技術がすでにもたらされていただろうとは思う。人々の生活ぶりなどさっぱりわからないが、人間の種類はナントカ大雑把に分かりそうだ。土着の原住民と渡来人だ。さきごろ「日本人はどこから来たか」というテーマで台湾から草船で沖縄に渡る実験がなされて成功しなかった。これは言うまでもなく、もともとの原住民の祖先を探ろうとした実験だろう。推定では南から、西から、北からの各方面から来たらしい。
ともかく、どこからともなく到来して住みついた人々がいた。最近、外国の学者の話に、人間がまったく気がおけない間柄として出来る集団の規模は150人程度までだそうだ。言い換えれば同じ言葉を話す間柄の人だ。ここで考えるレベルでは、少し訛りが違えば、おそらく別の仲間になるだろう。こういう人たちのかたまりが、あちらこちらにできて集落ができてゆく。生計を立てる手段に応じて、ひとつところで日を過ごす人や別の集落の間を巡る人などがでてくる。そのうち親分格も出来るだろうし、その手下として暮らす人もできるだろう。争いも起これば治める役の人もでる。集落の親分格のことを岡田氏は酋長と書いている。韓半島に常駐するシナの太守は常日頃倭国内の事情をよく知っていて、これと見込んだ酋長を宮廷に推薦したうえで、上表文を作成して使節を仕立て朝貢させる。宮廷は詔書を発布して王位を認知する。印と綬を授ける。印材は幾通りかあって金印は最高位だったそうだ。博多の酋長はこんな具合に「漢委奴国王」に 叙されたのであろう。倭人の暮らしに立ち交じる渡来人たちがいたことは当然だ。主として商人だろう。これは倭国の市場を当てにして韓半島から渡って来た華人である。韓半島にだって土着の人と、ほかから流れこんだ人、多くは漢人だったろうが、新たに土着した人たちもいたはずだ。これはすでに華人である。シナの王朝の使用人もいたろうし、下々の商人や船乗りもいただろう。王朝の役人は漢語の読み書きができたはずだ。そのほかの渡来人や土着の人は文字を知らない話し言葉だけの人たちだ。渡来人たちの話す漢語は倭国に来る前にいた土地で話されていた方言だ。長く住み込んで土語に通じる人もいる。土着の人の中にも漢語を話す人も出てくる。通訳が活躍しピジン語が飛び交ったことだろう。ピジンは片言の外国語をいう。片言の各種土語と片言の各種漢語でお互い話を通じさせていたと想像できる。漢字はほぼ華人役人の占有物だっただろう。こういう状態を全体的に見れば、当時の日本列島はまさに雑居状態であって、お互いがナニ人とも言えない、そんなことも考えない人たちがいたわけだ。そのうえ、華人は男が単身で来るのが常態だから、土着の女性との間に子どもが生まれて、次の世代になれば出自もあやふやになるわけである。だから、古来日本民族は単一民族にして云々などとはとても言えない
状態であったのだ。日本民族が誕生するのは、671年に律令制度が施行され、日本国号が制定されたあとの話である。それでも日本人は雑種であることには変わりがない。
次にシナの文献に倭人が登場するのは『宋書』の「倭国伝」(488年)である。讃、珍、済、興、武の五人の倭王のことが記されている。この人たちは720年完成の『日本書紀』記載の系譜に合致するところから、それぞれ、履中、反正、允恭、安康、雄略の諸天皇と認めるのが通説である。『宋書』「倭国伝」中の「倭王武の上奏文」には、「むかしより祖禰(そでい)は、躬(み)に甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、寧(やす)らかに処(お)るに遑(いとま)あらず。東は毛人の五十五國を征し、西は衆夷の六十六國を服し、渡りて海北の九十五國を平らぐ」と記されている。
祖禰は祖父である禰という意味で、禰は仁徳天皇の名前である。つまりこの文で雄略天皇は祖父仁徳天皇の事績をつたえている。東の毛人の五十五國は上毛野國(群馬県)、下毛野國(栃木県)に代表される関東諸国、西の衆夷の六十六國は九州諸国、中間の中部、近畿、中国、四国の諸国はかつて邪馬台国の女王と狗奴国の男王を支持した諸国が、今度は連合して、仁徳天皇を共通の倭王として戴いたのである。海北九十五國は韓半島の諸国のことを指す。高句麗が南下して百済を征服しようとしたが、百済王の太子・貴須(きしゅ)は難波の仁徳と同盟して、仁徳を倭王として承認、証拠として七支刀をつくって贈った。369年の日付と銘文が 刻してある。奈良の石上神宮に現存する。かくして369年は河内王朝の建国の年であり、畿内の倭国の起源となった。
現在の中国吉林省に「広開土王碑」(414年建立)があって、碑文に「倭は辛卯(しんぼう)の年(391年)をもって来たりて海を渡り、百殘・新羅を破り、もって臣民となす」とある。倭王武の祖父禰が九十五國を平らげたという事件のことだ。広開土王は、ときの高句麗王である。岡田氏によれば、この後、倭と百済の連合軍は407年まで戦いを続けるが、その後の戦闘は伝えられていないという。倭王禰、すなわち仁徳天皇はこの頃死んだようだ。
412年に広開土王が死んで高句麗と倭の間に和解が成立した。翌413年には、高句麗の長寿王の使者と、仁徳天皇の息子の倭王・讃(履中天皇)の使者が連れ立って今の南京にあった東晋の朝廷を訪問した。この時すでに実権を握っていた将軍・劉裕は、自ら皇帝となって宋朝を建てた。武帝である。この宋朝と河内王朝の倭国は、倭王・讃の弟の倭王・珍(反正天皇)、倭王・済(允恭天皇)、その息子の倭王・興(安康天皇)、倭王・武(雄略天皇)の二世代、五王にわたって友好関係を保った。すべて『宋書』などに記されている。
『随書』および『北史』に600年「倭王、姓は阿毎(あま)、名は多利思比孤(たらしひこ)、阿輩鶏弥(おほきみ)と号す」という者が、隋の都、大興に使いを遣わしてきた、とある。その記録には「王の妻は鶏弥(きみ)と号す。太子は利歌弥多弗利(りかみたふつり)となづく」とあった。よってこの時の倭王は男であったことは間違いない。しかし『日本書紀』では女性の推古天皇が在位したとなっている。倭王・多利思比孤は二度目の使いを608年に送っている。例の国書『日出づる処の天子・・・・・・」を持たせて。随の皇帝・煬帝は翌年裴世清(はいせいせい)を倭国に遣わした。難波津経由で邪靡堆(やまと)に着いて、男王に会っている。王は非常に喜んで問答をしたという。この王は誰だったのか、太子も聖徳太子ではないし、小野妹子の名も出てこない。
随はまもなく唐に変わり、唐は韓半島の利権を取り戻すべく高句麗を攻めるが失敗する。それでまず百済を滅ぼしにかかる。百済と同盟していた倭国はともに敗北(660年)、次いで高句麗が滅ぼされた(668年)。
この間、倭国は撤退して守りを固め、大津に遷都して天智天皇が即位して668年の建国に至る。近江律令の施行によって日本國が誕生する運びとなる。高句麗をも滅ぼした唐は半島から撤退して670年代には遼河の西の方に撤退してしまう。この理由は華北の生態系が破壊されてしまって、人口の中心が江南に移ったためと岡田氏は説く。韓半島を経由するより、日本を差配するには海上交通のほうが有利となり、さらに大船建造ができはじめたのである。おかげで新羅は半島統一することが出来た。
ここで再び住民のことを考えてみよう。『随書』「東夷伝」(636年)には、おおよそ6世紀末から7世紀初めの見聞が書かれているが、百済の住民は百済人だけではなく、高句麗人と新羅人と倭人と漢人とで成り立っていると書かれているそうだ。新羅については、新羅人だけでなく、高句麗人と百済人と漢人である。同時代の裴世清の倭国遣使の記録には日本列島には秦王国というのがあり,それは漢人の國だという。『新撰姓氏録』(814年)によると、日本には高句麗系もいれば、漢人系の秦氏も漢(あや)氏もいるし、任那系、新羅系、百済系もいる。要するに住民の種族構成は、韓半島も日本列島もだいたいおなじで、あらゆる種族が混ざっていた。
白村江敗戦の後、倭人は半島から駆逐されてしまい、新羅は残りの種族をすべて吸収して統一新羅王国をつくった。つまり民族国家誕生への第一歩だ。このあたりはすべて岡田英弘氏の受け売りであるが、このあと、いよいよ同氏の独擅場になる。
白村江の戦いの後、新羅にしてみれば対馬海峡でとどまらず、来ようと思えば難波津まで水路の一本道であった。当時の情勢からはそこまで統合できたはずなのに、なぜそうならなかったのか。それは天智天皇をとりまく華人のアドバイザーたちが身の危険を感じたからだった。
それまで倭国は列島全体ではなく、近畿の一部を占めるに過ぎなかった。経済的基盤は百済を通じての南朝との商売だった。輸入商品を売りさばく市場としての難波を中心としての倭国だった。倭国王の宮廷の経営はそれで成り立っていたわけである。その根底がなくなってしまった。
立て直すために打つ手としては先ず人の統合である。無能無力の原住民と共同して統合するしかない。次に言葉を転換しようと考えた。韓半島の公用語は漢語であるが、それを使うことはやめよう。倭人の言葉を採用して共通日本語を作ろうと考えた。(岡田氏はマレーシアのマレー語標準語作りを念頭にバハサ・ニッポンと書いている。)それで大変な無理をして、漢語で考えた文章を倭人の言葉で一語一語置き換え、日本語を創りだした。『万葉集』は日本語を無理やり発明した記録だという。なるほどそういう見方があったかと意表を突かれた思いがする。柿本人麻呂という天才がいた。当然に渡来人で漢人系だ。そうでなければ和歌が詠めるはずがない。だいたい五七調そのものが、シナ南北朝の楽府(がふ)の長短句のまねなのだそうだ。ともかく、それまでの倭人と百済人と高句麗人と任那人と漢人を総称して全部包括する新しいアイデンティティとしての日本人ができた。絆が日本語だということであろう。多種族の統一国家の象徴が新しい国号、日本だった。
東洋史、ことに中国の歴史と朝鮮半島の歴史は墨で消された国史教科書しか知らない世代の筆者は、これまでまじめに読んだことがなかった。それだけに岡田氏の著作集一冊をほじくり回すばかりで、どうにもまとめがつかない。いつも以上に稚拙な文章しか書けなくて疲労困憊した。それでもいい書物に巡りあったという気持ちは続いている。
今回は雑種日本がテーマだったつもりである。
まだ書いておきたいこととして『日本書紀』と 『万葉集』があるが、いつのことになるやら。しばらくは読むことに集中しよう。
今回も『岡田英弘著作集Ⅲ 日本とは何か』(藤原書店 2014)のお世話になった。(2016/9)