2014年5月22日木曜日

グーテンベルグ・プロジェクト 無料の電子書籍を読む

Project Gutenberg は著作権の切れた作品を電子化してインターネット上で公開している電子図書館です。 1971年にはじまり、最近ではおよそ45,000点もの著作が提供されています。 使われているファイル形式はepub、kindle、HTML、Plain Text(UTF-8)で、オンラインや、ダウンロードしてオフラインで 読むことができます。全部無料です。 ほとんどが外国語ですが、私は原典参照などに利用しています。日本人著者と外国文学の翻訳が若干日本語で読めます。
日本での無料電子図書館には青空文庫が1997年から頑張っています。現在、1万点強ぐらいかと思います。テキスト・ファイルが基本ですが 、最近はepub形式も取り入れられています。縦書きに変換して読めたりなかなか便利になっています。
読み方については青空文庫のサイト、 www.aozora.gr.jp にあります。
電子書籍を読むにはそれぞれのファイル形式に応じたreaderが必要です。私はふだんブラウザにgoogle chromeを使っていますので、最近経験した readiumというreaderでepubファイルを読む手続きを心覚えに書いておきます。
私が必要としたのはパソコンでの利用だけですので、 スマホなど他のデバイスについては触れません。

Google Chromeでepubファイルを読むには: Readiumをインストールして読むことができる。 Readiumのインストール方法;Google chrome画面からhttp://readium.orgを開く。


[Install from Chrome Web Store]をクリック、ダイアログが出たら「追加」をクリック。 「追加されました」の案内でインストールが完了します。 

epubを読むには;新しいタブのchrome画面でアプリ アイコンをクリックするとreadiumのアイコンが表示される。


上部にReadiumの黒いメニューバーができていて右の方に+マークがあり、ここをクリックして本を登録しますという矢印がある。

        

クリックして「Add Book To Readium Library」画面でLocal Fileの「ファイルを選択」をクリック。ファイルを選択して[Add Book]ボタン。 登録終るとreadium ライブラリ画面に当該ファイルが表示される。 マウスをホバーすると手の形が表示され、クリックでファイルが開く。
量的に欲を言えば切りがありませんが、それでも、ずいぶん便利になったものです。ときには古い作品を読むのもいいものです。



2014年5月15日木曜日

『一銭五厘たちの横丁』

                    
『一銭五厘たちの横丁』児玉隆也/桑原甲子雄(写真)岩波現代文庫 2000年(原著1975年晶文社)
児玉隆也(1937-1975)は「淋しき越山会の女王」(文藝春秋1974年11月号)で知られている。

 「昭和十八年、出征軍人留守家族記念写真。撮影場所東京下谷区車坂町、稲荷町、竜泉寺町、練塀東、谷中清水町。氏名不詳」と書かれたネガ袋が東京大空襲で焼けた質屋の蔵の中にかろうじて燃え残っていた。
当時、下谷区に住まうアマチュア写真家50数人が在郷軍人会の案内で、戦地に「銃後の姿」を送るため留守家族を撮影して歩いたのだという。撮影者は共著者の桑原氏、質屋の長男で写真を趣味としていた。現像してみると99枚の家族写真ができた。


 新しく焼き付けた写真を持って著者は写真の主たちの32年後の消息を求めて歩き始めた。この本はその記録である。映画『舞踏会の手帳』のようだと洒落たことをいいながら、写真の主に縁のあった人たちを捜し当てては話を聞く。空襲で焼き尽くされたこの街でのこういう作業は、「歴史に名をとどめることのない無量大数の氏名不詳日本人」の「天皇から一番遠くに住んだ人びとの、一つの昭和史を聞きとること」でもあった。

 私がこの本に出会った契機は磯田光一『思想としての東京―近代文学史論ノート』(1978年、新装版1989年)にある。著者は「ナオミの出身地の千束町付近の半世紀後の帰結は、先年亡くなった児玉隆也の『一銭五厘たちの横丁』に記されているとおりである」と紹介している。
 谷崎潤一郎『痴人の愛』はナオミと地方出身の男の物語である。磯田氏はこの小説に「東京」と「地方」、「標準語」と「方言」、「標準語」と「東京語」、「東京語」と「東京方言」など対立する思想を重ねて日本の「近代」のあり方をみている。


 一銭五厘たちの横丁はいわゆる下町と呼ばれる区域にあるが、明治25年の地図には金杉村、竜泉寺村とあるように「下町」
ではなかった。そして千束は明治30年でも浅草区千束村であり、「主たる産業は吉原を別にすれば農業であった」。樋口一葉の『たけくらべ』(明治29年)の世界でもある。一葉は竜泉町で駄菓子屋を営んでいたという。 
 
              


磯田氏の記述によれば、東京が下町と山の手に人びとの意識が分かれたのは、関東大震災のあとの都市計画の線引きがものをいった。東京の近代化は山の手の新住民地域が下町の江戸っ子地域を押しつぶしていった。この辺りの事情の半世紀をたどって磯田氏の思考はめぐる。


 さて、『一銭五厘たちの横丁』に戻ろう。ここの住人は堅気の職人が中心だが、棟割り長屋の路地のつくりはまさに東京の下町の代表であろう。下町の横丁といえば貧しさの代名詞でもある。歩き回った著者の頭にも残っている。  
私はあの竜泉の町で六十年来質屋の暖簾を掲げているM屋のおばあさんに写真を見ても   らったときの話を思い出した。昔は、朝になると飯を炊き、日銭を稼ぎに出る父ちゃんの弁当  をつくると、ご飯の入ったままの釜を質草に入れに来、夕方、父ちゃんの稼ぎを受け取ると  また釜を受け出しに来るというかあちゃんが珍しくなかった。
この竜泉の町は「神隠しの街」である。跡形もなく焼けてしまい元の住民はだれも戻ってこなかったのだ。二宮尊徳さんの銅像が供出されて、あとに残った台座の前で撮った写真から、竜泉小学校であることが判明した。東京大空襲のとき校庭に逃れてきた人びとが猛火に囲まれて全員が折り重なって焼け死んだ悲劇の場所である。そこから道一本へだてた金杉下町は焼け残った。
いまは三輪一丁目と町名が変わったが、露地裏の人びとは、写真のままの格子戸の内側に生きていた。隣り町の神隠しにくらべて、まるでタイムマシンで引き戻されたようなたたずまいで生きていた。

 露地で撮った写真を見ると大人3人ほども並ぶと道幅ほぼいっぱいになる。向こうの突き当たりに吉原土手道(いまの日本堤通り)が見えている。露地の狭さは六代目圓生が語る「唐茄子屋」を思い出させる。ふらつく腰つきで唐茄子を天秤棒で担いだ若旦那が路地を出て行く場面。

「あゝ、納豆屋さん、入ってきちゃァいけねぇ。野郎が出てくから、そこで待っとくれ。素人で、かわすことができねぇから・・・」(引用;筆者
 住人の職業は千差万別であるが、圧倒的に手職である。 ローソク屋、目玉屋(義眼)、指物師、泡盛屋、靴屋、タクアン屋、屑屋、下駄の歯入れ、キセルのラオ詰め、風鈴屋、際物屋(お酉様の熊手など)、ペンキ屋、麩屋、拝み屋、芋屋、鳶の頭(かしら)、皮の打ち抜き屋、めがね玉くりぬき職人・・・。

 この本には書かれていないけれども、一夜にして10万人以上の死者を出した3月10日。焼夷 弾による皆殺し作戦を立案、指揮したアメリカ空軍のカーチス・ルメイ将軍は、戦後の回想記で、 無差別爆撃の批判に応えて「民間人を殺したのではない。民家がすべて軍需工場だったのだ・・・何が悪い」とうそぶいたとか。ここに例を挙げた庶民の仕事の何が軍需品なものか、馬鹿馬鹿しい。

 一銭五厘のはがきによる召集令状で軒並み男手を狩り出されたあとの露地では老人、女性、子どもたちが懸命に生きていた。だが、折角の写真も大部分が氏名不詳のままである。
 昭和49年夏、桑原氏が「氏名不詳者の写真展」を銀座キャノンサロンで開いた。写真展のタイトルを児玉氏の希望で『一銭五厘と留守家族たち』としたところ、思わぬ反響があった。NHKのプロデューサーが電話してきて「“一銭五厘”て何のことですか」と聞いたのだ。30年!その時間の長さの意味するところをあらためて知ったという。忘れられつつある戦争。 

それでも展覧会のおかげで情報が増えた。学校の校庭で撮られた写真は竜泉小学校だけと考えていたが、下谷小学校の校庭もあることを教えられた。写真を見せてまわって問い合わせる作業が再び始まった。さらにいくつか新しい家族の名が判明した。教えてくれた人によるとこの小学校の近所は軒並み強制疎開になったそうだ。写真の当時とは住人が変わってしまっているし、戻らなかった人もいる。 二人の助手と1年がかりで歩き回った結果は名前が分かった家族が三分の一、残りはどこの誰やら不詳のままに終っている。

 巻末に当時の暮らしを知る一助として著者は下谷神社の記録(『鳥居の蔭―下谷神社資料』)を載せている。行政との関わりでさまざまな許認可事項が候文でなされている。いわく灯火許可願(縁日のため、警報発令時は消灯のことなど)、いわく金属類譲渡申込書(いわゆる供出である)、いわく社掌増員願(神主が招集されて手不足のため)等々神社も多難な時代であった。

 30年間の暮らしの変化について著者のノートからの感想のうち、風化しないものの記載がある。
 (1)焼け残った三筋の路地は、あい変わらず戦前の家内工業を格子戸の内側で営んでいた。
 (2)運がよかった、という諦めと陽気さ。
 (3)そして、いつもまっ先に波をかぶる暮らしの不安。

この三番目のものは著者が聞き歩いた住人の言葉の裏に感じた「またアレが来るのじゃないか」という脅えに似た蔭であった。アレとは一銭五厘のはがきである。
(1)の状態は時に「伝統」と呼ばれることがある。だが、ここでは暮らしがまったく上向くことがなかったことを意味する。
写真が撮られたのは昭和18年秋のことだ。桑原氏以外にも50人ほどもカメラマンが参加したというが、ほかの人の手になった写真はない。焼失したのであろう。撮った人も撮られた人も消えてしまった。残された写真はネガから起こされたから鮮明である。じっと見ていると何かを語りかけられている気分になる。みんなどこへ行ってしまったのだろうか。

著者がタイムマシンで 戻ったようなと書いた路地筋は、さらに30年以上経た現在の様子がグーグルのストリートビュ ーで垣間見ることができる。少しは広くなって舗装されているようだが。
(2014年1月記)
関連;旭日大綬章の項。

2014年5月13日火曜日

『空の神兵』


高齢の方々が発信されるサイトやブログを参考にしたいと思っていろいろ探していると、応召して戦地で経験されたことを書いたホームページに出逢いました。戦場体験や戦記物の出版物には信頼性の薄いのもあるので私は敬遠していますが、この記事は素直に受け止められました。
戦争を語ろうとかよく言われますが、出征経験のある世代は総じて口が重く、自発的に語られることは多くありません。ましてパソコンを操ってホームページをつくってまで発信されることは数少なく貴重な存在です。
若い世代に戦争の実態を語り継ぐためにもITを強みにして、おおいに発信していただきたいところですが、時すでに遅く当の世代はまもなく人生を終えようとしています。
ここにご紹介する方も大正8(1919)年生まれの81歳とプロフィルにありますから、お元気ならいまや95歳におなりです。記事は1年だけで終ったままですが、ご健在を祈ります。
ご隠居さんのホームページは、homepage1.nifty.com/jiyjiy-80/hyoushi.htm です。

さて、このホームページの第8回にスマトラ島パレンバンへの落下傘部隊降下の見聞が載っています。落下傘とはパラシュートのことです。パレンバンと聞けば『空の神兵』という歌が反射的に脳裏に浮かびます。落下傘部隊が大戦果を収めた功績をたたえるようにニュースの後を追いかけて大ヒットしました。このたびもご隠居さんの話を読んで同時に歌を懐かしんでいましたが、途中でショックを受けました。

私はパレンバンの作戦は大成功とばかり信じていましたが、影に隠れて気の毒な部隊もあったことを知ったのです。当時も報道されたのかどうか、おそらく無視にちかい扱いだったろうと思います。ですが、お話には全滅のような形で終ったとあります。それなら遺族がいたはずです。どんな形で遺族に伝えられたのか。内地では戦捷に沸き立って流れる『空の神兵』を遺族はどのような思いで聞いたのか。そういうことにいままで私はまったく思い至りませんでした。爽やかな快感をもたらした歌に今の今まで酔わされていたのかもしれません。迂闊なことでした。

当時の情勢を補足しておきます。
昭和16年に戦争を始めた日本軍には燃料とする石油がありません。そこで、オランダ領インドネシア(当時)のパレンバンで操業されていたロイヤル・ダッチ・シェル石油の油田と精製設備を乗っ取ることを画策して攻撃します。昭和17年のことです。下手に攻撃すればオランダ軍が自ら設備を破壊する危険があり、そうなってしまっては作戦が無意味になるだけでなく、石油がなくては戦争を続けられなくなります。そこで、空からの奇襲作戦が立案されました。
落下傘部隊は陸軍、海軍ともに創設され、1月にまず海軍がメナドを攻略して成功しました。しかし続くパレンバン攻略が最重要目的のため海軍の落下傘部隊の戦果は秘匿され、パレンバンの陸軍の成功ののちに報道されました。
2月14日マレー半島から飛び立った輸送機から陸軍の落下傘部隊は飛行場近辺に降下して、戦闘の後、飛行場を確保、あとに続く部隊と合流して18日に目的を達しました。石油が手に入った大戦果です。新聞は大見出しで報じ、2月15日のシンガポール陥落が一緒になって日本中が湧きました。


ご隠居さんは詳しい背景事情など抜きで熊さんに落下傘部隊の話をしています。陸軍の落下傘部隊はまたたく間に無傷で油田を手に入れたが、可哀想なのは海軍やったなぁと語ります。日本軍に追われたオランダ軍が「椰子林に集結しておった、丁度その中へ落ちてきたとこういうわけや、これはもうたまったもんではないわなぁ、下から狙い撃ちされるもんでどうしようもない、ほとんど全滅のような形で終ってしまった(以下略)」。たったこれだけの文章ですが、ここには陸軍の成功の影に隠れてしまった海軍の部隊があり、しかもそれはほぼ全滅という結果だった事実が遺されています。

大戦果の報道に続いて、4月にはビクターレコードから国民歌『空の神兵』が発売され、当時の昂揚した気分にのって大いに歌われました。作曲した高木東六氏は作詞の梅木三郎氏の詩を見て、たちまちイメージが湧き音符を書く間の15分でできたと書いています(高木東六『高木東六「愛の夜想曲」』2003年日本図書センター)。
高木氏はフランス留学でピアノと作曲を勉強された人、勇ましい歌は嫌いで軍歌はこの1曲が例外です。歌詞の一番のさわやかさに飛びついた形で曲ができたが、いくらヒットしても軍歌をつくった恥ずかしさがいつまでも抜けなかったとも書いています。高木東六さんは2006年8月、肺炎で亡くなりました。享年102歳、正教徒(ニコライ堂)でした。



写真は「ぶひんたろう」さんのをお借りしました

今は昔、落下傘部隊と『空の神兵』は昭和の日本のいじらしいような光景の一つですが、可哀想な海軍の部隊のことは記録が分かりません。しかし、戦果を挙げた陸軍部隊にしても、予定した武器が入手できずに僅かに拳銃と手榴弾で攻撃したと記録されています。まるで万が一の時の自殺用の武器じゃないかと思いましたが、調べてみると落下傘兵用の武器がまだ開発できていなかったとか、兵は身一つで降下して攻撃用の武器は別の輸送機が投下する計画だったそうで、それが離れた地域に落ちてしまったようです。また部隊編成も二連隊のはずが、一つの連隊は輸送船の発火沈没で装備すべてを失ったのだと。だから予定の半数の兵がまるで丸腰で戦ったわけです。これでよく勝てたものだと思います。奇襲攻撃であったことと幸運の賜物としか思えません。
戦場では何事も作戦どおりにはいかないものだそうですが、そもそも、この戦争自体が已むに已まれぬとかいって、燃料もないのに始めた無謀で粗雑な計画であったと思います。こういうことも含めて後世に伝えるようにしたいものです。

2014年5月9日金曜日

難聴について―感音性難聴と補聴器

   耳の構造(図はワイデックスさんにお借りしました)

感音性難聴

私は感音性の難聴者です。声は聞こえても言葉の聞き分けができません。聞こえる音程が狂ってしまうので美しい旋律も和音も楽音にはなりません。見かけには異常がないから他人には私が耳に障害があることはわかりません。耳に手を当てて聞き返す仕草をすれば、相手も気がついてくれます。電話ではそれができないのでホントに困ります。

感音性というのは耳の構造の感音器官(内耳や聴神経)に故障がある症状です。ほかに伝音性難聴があります。伝音器官つまり外耳や中耳に故障がある症状です。伝音性難聴は鼓膜の外傷など治せることが多いようですが、感音性の場合は治療が難しいとされています。

年をとって耳が少しずつ遠くなるのを老人性難聴といいますが、言葉の聞き分けが難しくなるのも老化です。内耳の蝸牛にある有毛細胞が加齢によって減少するのが原因とされています。細胞再生医療が研究されていますが遠い将来のことです。 
加齢による難聴は生理的現象なので治療対象になっていないのが現状です。それにもかかわらず、耳鼻科に症状を訴えると何らかの手当てをしてくれるのが普通です。善意に考えれば難聴の原因は千差万別であり個人差も大きいため、医師が見当をつけて治療を試してみるという姿勢の表れと思います。3ヶ月ほど通院した後で、これ以上はよくなりませんということになるでしょう。ですから患者自身も賢く医師とつきあう姿勢が望まれると考えます。

補聴器について

最近のように世の中に老人が増えてくると補聴器の広告宣伝が目立つようになりました。老人性の難聴には補聴器による救いは大きな役割を果たします。ただし、感音性難聴には効果がすばらしいとは言えません。限界があります。

補聴器の原理は耳に集まる音を耳元のマイクで拾って拡大して耳の内部に伝えます。どの程度の広がりで集音するかは補聴器の性能に大きくかかわります。虎の門病院の熊川部長先生によれば4メートル以内の音を拾うように設計されているそうです(2014/2/23NHKTV)。ですから、それ以上離れている人の声は補聴器をつけてもよく聞こえないという理屈です。
4メートル以内の声であっても大きくするだけでは聞き分けができるとは限りません。感音性難聴では効果が上がりません。

話をする場にはいろいろな音が混じります。人間の耳には聞こえない低周波もあります。老人性難聴の傾向は高い音が聞こえにくいと言われます。雑音の多い場所では聞こえるはずの低い音も無用の音に混じってしまって、聴き取りができなくなります。補聴器では音質や音の強弱を選択して最適になる工夫もしますが完全は期待できません。

感音性難聴者はできるだけ補聴器を使って相手の話を聞きとる努力が期待されます。
難聴者に話しかける人は、できるだけ静かな場所で、耳元に向けて、ゆっくり、分かりやすい言葉で話してほしいと思います。女性の声は聞きにくいとよく言われますが、女性の声は高くても強ければ聞こえます。聞きにくいのは弱い声で、女性男性の区別はあまりなさそうです。口先だけの発音はいつの場合でも落第です。

日本語の音声は母音と子音で言葉が作られます。子音の発音は一般に弱いのです。たとえば、キ、シ、チの区別は難しいので、別の音の言葉に言い換えるなど工夫もほしいところです。
知らない話題や外来語も聞き手の想像で補いにくいから聴き取りが難しくなります。健常の人でも普通は耳に入るすべての音声を全部分かって理解しているのではないのです。部分部分から関連する言葉を脳が判断して理解を助けています。

話し手と聞き手、お互いの理解のために難聴の知識と補聴器の知識の普及が望まれます。私の経験では補聴器外来という部門を備えた耳鼻科が親切だと思いました。購入の義務はありませんでした。補聴器の購入のコツは徹底的に使用者と話し合いながら長期間にわたって調整してくれる業者を選ぶことです。買ってすぐに好調なわけはありません。
(2014/5)

【追記】
2015年6月16日テレビ朝日報道ステーションで京都大学の研究室が聴神経細胞の再生の手ががかりを得たことが報じられた。マウス実験の成功を関谷医師が語っていた。難聴者にとっての大朗報だ。
詳細が京大のホームページにあるのでここに紹介しておく。
www.kuhp.kyoto-u.ac.jp/~ent/Topics/ir/regeneration.htm

(2015/6)

2014年5月7日水曜日

「すみれの花咲く頃」― ニワトコの花とリラの花

今年100周年を祝う宝塚歌劇の愛唱歌。歌詞とメロディーがよく合って私の好きな曲です。
あるときアメリカのジャズ放送を聴いていたら、あのおなじみのメロディーが聞こえてきてびっくりしました。もともと演出家白井鐵造がフランスから持ち帰って「パリゼット」というレビュー舞台にのせたのですから外国で演奏されて不思議はありません。

私が聴いた放送は、ジャック・ヒルトン・オーケストラというのが1928年にベルリンで演奏したのを流していたのです。曲名は「When The White Lilacs Bloom Again」(白いリラが再び咲くとき)と紹介されていました。
ジャック・ヒルトン楽団はイギリスのダンス音楽を得意とする楽団で1920ー30年代にヨーロッパで活躍していました。
このベルリンでの演奏は1928年11月29日に「When The White Elder Tree Blooms Again」としてディスコグラフィーに記録されています。でも、タイトルはどちらも英語表示ですがlilac(リラ)はelder tree(ニワトコ)になっています。

この曲ははじめドイツでつくられてヒットしました。1928年オーストリアのフリッツ・ロッターの詩にフランツ・デーレが曲を付けました。「Wenn der weisse Flieder wieder bluht」がドイツ語の曲名です。日本語訳は「白いニワトコの花が再び咲く頃」または「白いリラの花が再び咲く頃」です。ニワトコとリラは画像で見ると同じ花ではありません。下左は西洋ニワトコ、右はリラです。


Flieder は私の三省堂『コンサイス独和辞典』には、ニワトコ とあります。しかし、ネットで見るとドイツ語表示の日本語訳にライラック、つまりリラとの説明もあります。英語の曲名もlilacになったり、elderになったりして、私たちを混乱させます。

宝塚からパリのレビューちゅうものを調べてこいと言われて出張した白井徹造さんは、丁度流行っていたこの曲を持ち帰って歌詞を日本風になおして使いました。そこでスミレを登場させたのです。リラでは当時の日本人にはピンと来ないと考えたか、ニワトコかリラかどちらか分からないからどちらでもないスミレにしたか。うまくいきましたねえ。それから80年あまりいまも盛んに歌い継がれています。

日本でスミレに定着したからニワトコでもリラでも関係ないじゃないか、日本ではたくさんの人がなんの疑問もなしに歌い続けています。こだわりの強い私は、このニワトコかリラか、どっちなのだろうと人知れず悩みながら答えが見つからずにいたところ、先日、あるブログで教わってやっと納得できました。どちらも正解だったのです。その内容をここに発表するのは憚られますからブログのURLをお知らせしておきます。関連するいくつかの疑問も解けました。お礼を申し上げます。



ドイツ語のタイトルのほうは1953年の同名の西ドイツ映画で再び脚光を浴びました。上にご紹介したブログではこの映画に出演した女優ロミー・シュナイダーに光を当てています。この映画は日本では上映されなかったようですが、脚本は原曲作詞のフリッツ・リッターです。そしてサウンドトラックはすべてフランツ・デーレ作曲で、「すみれの花咲く頃」の原曲が欧米で再び人気を博しました。アメリカではマジック・バイオリニストと呼ばれたヘルムート・ザハリアの演奏により1956年ビルボード9位になっています。

 ちなみに1928年の原曲はフォックストロットのダンス音楽、フランスに渡った際には歌もの、つまりシャンソンとして使われたようです。「パリゼット」では歌として使われたと思いますが、国会図書館デジタルコレクションには白井鐵三作詞、高木和夫編曲、出演は門田芦子と宝塚月組と記録され、戦前のコロンビアから1930年7月発売となっています。なお、「すみれの花~」はパリゼット(二)とされていて、別の曲「パリゼット(一)がありますが、ネットでは聴くことが出来ません(歴史的音源配信提供に参加している図書館で聴けます)。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3568095



リギ山のこと

世界最初の登山鉄道



 写真はスイス、ルツェルンのカペル橋と湖の向こうにそびえるリギ山(標高約1800米)です。(Photo by Luzern Tourismus)ルツェルンからリギ山へは,船でフィッツナウへ行き、登山鉄道で登ります。今年2014年は日本とスイスの国交樹立150年を記念する年です。私が訪れたのは1996年9月16日でしたが、世界最古の登山鉄道であるフィッツナウーリギ山の登山鉄道開通125周年を祝っていました。日曜日には昔の蒸気機関車も活躍しているそうですが、私たちが訪れたときにはフィッツナウの車庫に入っていて運行していなかったので写真は絵葉書で我慢しました。


帰宅後新聞(10月30日)に記事があり、旅を振り返る楽しみがありました。山頂駅リギ・クルム駅まで全通した1873年に、わが岩倉使節団が大統領に招待されて記念式典に列席していたとあります。手元の岩波文庫の久米邦武編『米欧回覧実記』には1873(明治6)年6月23日の記録があります。同書には銅版画でリギ山の風景や鉄道が掲載されていてこの機関車が写っています。
私たちが登ったその日の山頂は雲が降りていて展望が利かず残念でした。帰りの船を待つ間、フィッツナウの港近辺はこれ以上ないほど静かで、湖をわたってくるカウ・ベルの音が時たまカランカランと聞こえるだけ、人声も空に吸い込まれていくようなすてきな経験をしました。



ターナーの「青のリギ」

英国の画家ターナーはその水彩画で私たちの子どもの頃から人気がありました。つい先日までの神戸での展覧会も終って作品たちも英国に帰っていったようです。
19世紀の英国人の間では、リギ山はQueen of mountainsと呼ばれ、「リギに登ったか」が旅行者の合い言葉になるほど人気が高かったそうです。画家J.M.W.ターナーはルツェルン湖とリギ山の光と水蒸気のあやなす雰囲気をこよなく愛し、多くの作品が遺されています。ロンドンのテート美術館はターナーの遺贈作品を多く所蔵しますが、評判の高いスイス物が少なかったために、その蒐集に力を入れていました。そういうさなかの2006年、個人所蔵の名品「青のリギ」がクリスティーの競売に出され、ロシアの石油成金に580万ポンドという破格の値で落札されてしまったのです。ルツェルン湖とリギ山を描いた数多い作品の中でも「赤のリギ」「暗色のリギ」との姉妹作3点はいずれも1840年頃の水彩画で、なかでも「青のリギ」は最高傑作と言われていました。この国民的財産の国外流出を何とか食い止めるべく国を挙げての努力も買い戻し資金が調達できずに困っていたところ、美術館ファンドが案出した新機軸で不足資金獲得に成功して絵は無事に英国民の手に戻ったということです。2007年当時その快挙は資金集めの方法と共に大きく報道されました。案出された資金獲得方法は、インターネット上の絵の画面をたくさんの区画(ピクセル)に分割し、1区画あたり5ポンドで寄付金を募ったのです。名付けて「Buy a Brushstroke キャンペーン」、日本語で言うなら「ひと筆購入」でしょうか。応募者はその部分に名前が のこります。テートのサイトで「青のリギ」の絵をはじめ公募の詳細が分かります(英文)。
 http://www.artfund.org/savebluerigi/Introduction.html
記名されたピクセルの例
最近建築物に命名権を設けて資金を得る方法が出てきましたが、この美術館の手法もnaming rightsとして考えられたようです。大衆の資金公募のこの手法は、我が国80年代の天神崎を護るナショナルトラスト運動、戦前の寺社への奉納などと通底しますが、ネット利用ということではオバマ大統領の選挙資金集めに似ています。大衆の知恵や資金を集める方法としていろいろな方面に応用できそうに思えます。印象に残っている出来事です。

2014年5月6日火曜日

旭日大綬章

 先日、春の叙勲受賞者が発表された。旭日大綬章6名の中に参議院議員の石井一氏がいる。永年在職議員が受賞理由らしい。政治一筋にみえるこの人に数年前に意外なことを発見して嬉しかった。ブログがあったのだ。そして記事のなかではジャズコンを主催していることやら、1953年のJATPのエピソードなどが語られる。政治家には清濁併せのむ器量が求められると言うが、この人にも怪しげな話が時折つきまとう。それでも私はジャズが好きだという人には芯からの悪人はいないと信じている。叙勲という習わしはうさんくさいと私は考えていますが、まずはおめでとうさん。石井氏のブログURLは次の通りですが、最近の投稿がないのが気になります。会長をしていた音楽家協会も不祥事が伝えられていますし。ご健在を祈ります。
http://ishiihajime.blog95.fc2.com/blog-entry-76.html




さて、旭日大綬章という勲章の名前を聞くたびに私は怒りを覚えるのですが。3月10日の東京大空襲、下町をなめ尽くした大火炎。いかに焼夷弾に弱い木造家屋が集まっていたとしても、あのようにうまく人間の集団を蒸し焼きにできるものではありません。そうなるように考えて実行したのです。計画した張本人はアメリカ空軍のカーチス・ルメイ将軍です。無差別絨毯爆撃の創始者でドイツのドレスデンなど多くの実績を誇ります。その実績が買われて東京空爆の指揮官になったのです。
1964年の勳一等旭日大綬章がこともあろうにこのルメイ将軍に贈られました。聞くところによると、天皇が反対したのに、佐藤内閣が決定したとのことです。どういういきさつがあったのか知りませんが、こういう人に勲章を出す神経が私には理解できません。そしてたとえば、『一銭五厘たちの横丁』(児玉隆也著)に描かれたような無垢で純真な善人たちの家族が焼き殺された情景を思い浮かべると共に、ルメイと勲章が悪い夢のように脳裏に映されるのです。「鬼畜米英」はほんとでした。既に多くのブロガーが書いていることですが、やはり黙っていることはできません。