2014年5月15日木曜日

『一銭五厘たちの横丁』

                    
『一銭五厘たちの横丁』児玉隆也/桑原甲子雄(写真)岩波現代文庫 2000年(原著1975年晶文社)
児玉隆也(1937-1975)は「淋しき越山会の女王」(文藝春秋1974年11月号)で知られている。

 「昭和十八年、出征軍人留守家族記念写真。撮影場所東京下谷区車坂町、稲荷町、竜泉寺町、練塀東、谷中清水町。氏名不詳」と書かれたネガ袋が東京大空襲で焼けた質屋の蔵の中にかろうじて燃え残っていた。
当時、下谷区に住まうアマチュア写真家50数人が在郷軍人会の案内で、戦地に「銃後の姿」を送るため留守家族を撮影して歩いたのだという。撮影者は共著者の桑原氏、質屋の長男で写真を趣味としていた。現像してみると99枚の家族写真ができた。


 新しく焼き付けた写真を持って著者は写真の主たちの32年後の消息を求めて歩き始めた。この本はその記録である。映画『舞踏会の手帳』のようだと洒落たことをいいながら、写真の主に縁のあった人たちを捜し当てては話を聞く。空襲で焼き尽くされたこの街でのこういう作業は、「歴史に名をとどめることのない無量大数の氏名不詳日本人」の「天皇から一番遠くに住んだ人びとの、一つの昭和史を聞きとること」でもあった。

 私がこの本に出会った契機は磯田光一『思想としての東京―近代文学史論ノート』(1978年、新装版1989年)にある。著者は「ナオミの出身地の千束町付近の半世紀後の帰結は、先年亡くなった児玉隆也の『一銭五厘たちの横丁』に記されているとおりである」と紹介している。
 谷崎潤一郎『痴人の愛』はナオミと地方出身の男の物語である。磯田氏はこの小説に「東京」と「地方」、「標準語」と「方言」、「標準語」と「東京語」、「東京語」と「東京方言」など対立する思想を重ねて日本の「近代」のあり方をみている。


 一銭五厘たちの横丁はいわゆる下町と呼ばれる区域にあるが、明治25年の地図には金杉村、竜泉寺村とあるように「下町」
ではなかった。そして千束は明治30年でも浅草区千束村であり、「主たる産業は吉原を別にすれば農業であった」。樋口一葉の『たけくらべ』(明治29年)の世界でもある。一葉は竜泉町で駄菓子屋を営んでいたという。 
 
              


磯田氏の記述によれば、東京が下町と山の手に人びとの意識が分かれたのは、関東大震災のあとの都市計画の線引きがものをいった。東京の近代化は山の手の新住民地域が下町の江戸っ子地域を押しつぶしていった。この辺りの事情の半世紀をたどって磯田氏の思考はめぐる。


 さて、『一銭五厘たちの横丁』に戻ろう。ここの住人は堅気の職人が中心だが、棟割り長屋の路地のつくりはまさに東京の下町の代表であろう。下町の横丁といえば貧しさの代名詞でもある。歩き回った著者の頭にも残っている。  
私はあの竜泉の町で六十年来質屋の暖簾を掲げているM屋のおばあさんに写真を見ても   らったときの話を思い出した。昔は、朝になると飯を炊き、日銭を稼ぎに出る父ちゃんの弁当  をつくると、ご飯の入ったままの釜を質草に入れに来、夕方、父ちゃんの稼ぎを受け取ると  また釜を受け出しに来るというかあちゃんが珍しくなかった。
この竜泉の町は「神隠しの街」である。跡形もなく焼けてしまい元の住民はだれも戻ってこなかったのだ。二宮尊徳さんの銅像が供出されて、あとに残った台座の前で撮った写真から、竜泉小学校であることが判明した。東京大空襲のとき校庭に逃れてきた人びとが猛火に囲まれて全員が折り重なって焼け死んだ悲劇の場所である。そこから道一本へだてた金杉下町は焼け残った。
いまは三輪一丁目と町名が変わったが、露地裏の人びとは、写真のままの格子戸の内側に生きていた。隣り町の神隠しにくらべて、まるでタイムマシンで引き戻されたようなたたずまいで生きていた。

 露地で撮った写真を見ると大人3人ほども並ぶと道幅ほぼいっぱいになる。向こうの突き当たりに吉原土手道(いまの日本堤通り)が見えている。露地の狭さは六代目圓生が語る「唐茄子屋」を思い出させる。ふらつく腰つきで唐茄子を天秤棒で担いだ若旦那が路地を出て行く場面。

「あゝ、納豆屋さん、入ってきちゃァいけねぇ。野郎が出てくから、そこで待っとくれ。素人で、かわすことができねぇから・・・」(引用;筆者
 住人の職業は千差万別であるが、圧倒的に手職である。 ローソク屋、目玉屋(義眼)、指物師、泡盛屋、靴屋、タクアン屋、屑屋、下駄の歯入れ、キセルのラオ詰め、風鈴屋、際物屋(お酉様の熊手など)、ペンキ屋、麩屋、拝み屋、芋屋、鳶の頭(かしら)、皮の打ち抜き屋、めがね玉くりぬき職人・・・。

 この本には書かれていないけれども、一夜にして10万人以上の死者を出した3月10日。焼夷 弾による皆殺し作戦を立案、指揮したアメリカ空軍のカーチス・ルメイ将軍は、戦後の回想記で、 無差別爆撃の批判に応えて「民間人を殺したのではない。民家がすべて軍需工場だったのだ・・・何が悪い」とうそぶいたとか。ここに例を挙げた庶民の仕事の何が軍需品なものか、馬鹿馬鹿しい。

 一銭五厘のはがきによる召集令状で軒並み男手を狩り出されたあとの露地では老人、女性、子どもたちが懸命に生きていた。だが、折角の写真も大部分が氏名不詳のままである。
 昭和49年夏、桑原氏が「氏名不詳者の写真展」を銀座キャノンサロンで開いた。写真展のタイトルを児玉氏の希望で『一銭五厘と留守家族たち』としたところ、思わぬ反響があった。NHKのプロデューサーが電話してきて「“一銭五厘”て何のことですか」と聞いたのだ。30年!その時間の長さの意味するところをあらためて知ったという。忘れられつつある戦争。 

それでも展覧会のおかげで情報が増えた。学校の校庭で撮られた写真は竜泉小学校だけと考えていたが、下谷小学校の校庭もあることを教えられた。写真を見せてまわって問い合わせる作業が再び始まった。さらにいくつか新しい家族の名が判明した。教えてくれた人によるとこの小学校の近所は軒並み強制疎開になったそうだ。写真の当時とは住人が変わってしまっているし、戻らなかった人もいる。 二人の助手と1年がかりで歩き回った結果は名前が分かった家族が三分の一、残りはどこの誰やら不詳のままに終っている。

 巻末に当時の暮らしを知る一助として著者は下谷神社の記録(『鳥居の蔭―下谷神社資料』)を載せている。行政との関わりでさまざまな許認可事項が候文でなされている。いわく灯火許可願(縁日のため、警報発令時は消灯のことなど)、いわく金属類譲渡申込書(いわゆる供出である)、いわく社掌増員願(神主が招集されて手不足のため)等々神社も多難な時代であった。

 30年間の暮らしの変化について著者のノートからの感想のうち、風化しないものの記載がある。
 (1)焼け残った三筋の路地は、あい変わらず戦前の家内工業を格子戸の内側で営んでいた。
 (2)運がよかった、という諦めと陽気さ。
 (3)そして、いつもまっ先に波をかぶる暮らしの不安。

この三番目のものは著者が聞き歩いた住人の言葉の裏に感じた「またアレが来るのじゃないか」という脅えに似た蔭であった。アレとは一銭五厘のはがきである。
(1)の状態は時に「伝統」と呼ばれることがある。だが、ここでは暮らしがまったく上向くことがなかったことを意味する。
写真が撮られたのは昭和18年秋のことだ。桑原氏以外にも50人ほどもカメラマンが参加したというが、ほかの人の手になった写真はない。焼失したのであろう。撮った人も撮られた人も消えてしまった。残された写真はネガから起こされたから鮮明である。じっと見ていると何かを語りかけられている気分になる。みんなどこへ行ってしまったのだろうか。

著者がタイムマシンで 戻ったようなと書いた路地筋は、さらに30年以上経た現在の様子がグーグルのストリートビュ ーで垣間見ることができる。少しは広くなって舗装されているようだが。
(2014年1月記)
関連;旭日大綬章の項。