2014年5月13日火曜日

『空の神兵』


高齢の方々が発信されるサイトやブログを参考にしたいと思っていろいろ探していると、応召して戦地で経験されたことを書いたホームページに出逢いました。戦場体験や戦記物の出版物には信頼性の薄いのもあるので私は敬遠していますが、この記事は素直に受け止められました。
戦争を語ろうとかよく言われますが、出征経験のある世代は総じて口が重く、自発的に語られることは多くありません。ましてパソコンを操ってホームページをつくってまで発信されることは数少なく貴重な存在です。
若い世代に戦争の実態を語り継ぐためにもITを強みにして、おおいに発信していただきたいところですが、時すでに遅く当の世代はまもなく人生を終えようとしています。
ここにご紹介する方も大正8(1919)年生まれの81歳とプロフィルにありますから、お元気ならいまや95歳におなりです。記事は1年だけで終ったままですが、ご健在を祈ります。
ご隠居さんのホームページは、homepage1.nifty.com/jiyjiy-80/hyoushi.htm です。

さて、このホームページの第8回にスマトラ島パレンバンへの落下傘部隊降下の見聞が載っています。落下傘とはパラシュートのことです。パレンバンと聞けば『空の神兵』という歌が反射的に脳裏に浮かびます。落下傘部隊が大戦果を収めた功績をたたえるようにニュースの後を追いかけて大ヒットしました。このたびもご隠居さんの話を読んで同時に歌を懐かしんでいましたが、途中でショックを受けました。

私はパレンバンの作戦は大成功とばかり信じていましたが、影に隠れて気の毒な部隊もあったことを知ったのです。当時も報道されたのかどうか、おそらく無視にちかい扱いだったろうと思います。ですが、お話には全滅のような形で終ったとあります。それなら遺族がいたはずです。どんな形で遺族に伝えられたのか。内地では戦捷に沸き立って流れる『空の神兵』を遺族はどのような思いで聞いたのか。そういうことにいままで私はまったく思い至りませんでした。爽やかな快感をもたらした歌に今の今まで酔わされていたのかもしれません。迂闊なことでした。

当時の情勢を補足しておきます。
昭和16年に戦争を始めた日本軍には燃料とする石油がありません。そこで、オランダ領インドネシア(当時)のパレンバンで操業されていたロイヤル・ダッチ・シェル石油の油田と精製設備を乗っ取ることを画策して攻撃します。昭和17年のことです。下手に攻撃すればオランダ軍が自ら設備を破壊する危険があり、そうなってしまっては作戦が無意味になるだけでなく、石油がなくては戦争を続けられなくなります。そこで、空からの奇襲作戦が立案されました。
落下傘部隊は陸軍、海軍ともに創設され、1月にまず海軍がメナドを攻略して成功しました。しかし続くパレンバン攻略が最重要目的のため海軍の落下傘部隊の戦果は秘匿され、パレンバンの陸軍の成功ののちに報道されました。
2月14日マレー半島から飛び立った輸送機から陸軍の落下傘部隊は飛行場近辺に降下して、戦闘の後、飛行場を確保、あとに続く部隊と合流して18日に目的を達しました。石油が手に入った大戦果です。新聞は大見出しで報じ、2月15日のシンガポール陥落が一緒になって日本中が湧きました。


ご隠居さんは詳しい背景事情など抜きで熊さんに落下傘部隊の話をしています。陸軍の落下傘部隊はまたたく間に無傷で油田を手に入れたが、可哀想なのは海軍やったなぁと語ります。日本軍に追われたオランダ軍が「椰子林に集結しておった、丁度その中へ落ちてきたとこういうわけや、これはもうたまったもんではないわなぁ、下から狙い撃ちされるもんでどうしようもない、ほとんど全滅のような形で終ってしまった(以下略)」。たったこれだけの文章ですが、ここには陸軍の成功の影に隠れてしまった海軍の部隊があり、しかもそれはほぼ全滅という結果だった事実が遺されています。

大戦果の報道に続いて、4月にはビクターレコードから国民歌『空の神兵』が発売され、当時の昂揚した気分にのって大いに歌われました。作曲した高木東六氏は作詞の梅木三郎氏の詩を見て、たちまちイメージが湧き音符を書く間の15分でできたと書いています(高木東六『高木東六「愛の夜想曲」』2003年日本図書センター)。
高木氏はフランス留学でピアノと作曲を勉強された人、勇ましい歌は嫌いで軍歌はこの1曲が例外です。歌詞の一番のさわやかさに飛びついた形で曲ができたが、いくらヒットしても軍歌をつくった恥ずかしさがいつまでも抜けなかったとも書いています。高木東六さんは2006年8月、肺炎で亡くなりました。享年102歳、正教徒(ニコライ堂)でした。



写真は「ぶひんたろう」さんのをお借りしました

今は昔、落下傘部隊と『空の神兵』は昭和の日本のいじらしいような光景の一つですが、可哀想な海軍の部隊のことは記録が分かりません。しかし、戦果を挙げた陸軍部隊にしても、予定した武器が入手できずに僅かに拳銃と手榴弾で攻撃したと記録されています。まるで万が一の時の自殺用の武器じゃないかと思いましたが、調べてみると落下傘兵用の武器がまだ開発できていなかったとか、兵は身一つで降下して攻撃用の武器は別の輸送機が投下する計画だったそうで、それが離れた地域に落ちてしまったようです。また部隊編成も二連隊のはずが、一つの連隊は輸送船の発火沈没で装備すべてを失ったのだと。だから予定の半数の兵がまるで丸腰で戦ったわけです。これでよく勝てたものだと思います。奇襲攻撃であったことと幸運の賜物としか思えません。
戦場では何事も作戦どおりにはいかないものだそうですが、そもそも、この戦争自体が已むに已まれぬとかいって、燃料もないのに始めた無謀で粗雑な計画であったと思います。こういうことも含めて後世に伝えるようにしたいものです。