2014年8月26日火曜日

旅の回想 流しの楽師たち ロマ


東欧4か国の世界遺産をめぐるグループ・ツアーに出かけたことがある。プラハ・ブラチスラバ・ブダペスト・ウィーンと回る。ウィーンとかプラハの名は知っていても、ブラチスラバなどという名前は頭になかったぐらい、このときの旅は馴染みのない地域であった。また、この4か国、チェコ・スロヴァキア・ハンガリー・オーストリアは、すべてハプスブルグ家が支配していたという歴史的事実もあらためて感懐をよんだ。旅行そのものは「世界遺産をめぐる」といううたい文句の通り、どの旅行案内書にもある風景や建物を見て回る物見遊山にすぎない。団体旅行ではこうなるのは仕方がない。オプションで行ったドナウベント地方というのは、西欧的な雰囲気から外れた鄙びた土地柄がなかなか良かったと思う。バックザック一つで回る旅ならいいが、こう年をとってしまうとこういう土地にはなかなか行けない。
さて、旅行を思い返せばいろいろあるが、食事時に現われた楽師達については、その後も何かにつけて思い出されるので、少し書いておきたい。

このときの添乗員が言うには夕食時に全部生演奏がついていますが、こんなことは滅多にありませんと。なるほど言葉に偽りはなかったが、登場したのは二、三人が組んだ楽師達、服装はほとんどややくたびれた普段着、日本でいうなればギターの流しみたいな感じ。生演奏と聞いて洒落たムードピアノのソロとか、弦楽クヮルテットなどを期待していれば馬鹿かといわれそう。結論を言えば、「夕食時の生演奏」では楽しいことは全くなかった。ないほうがよほどよろしい。

チェコのビアホールのは女性のアコーディオンとチューバ二人組。お国柄でいけばビアマグを挙げての合唱でもあれば様になろうが、ツァーの日本人では歌も出なければリクエストも出ない。相手も困って一曲いかがですかと回ってくるが皆さん黙々と飲み食いに忙しい。なにしろ「いえ、私は結構です」なんてことも言えない人ばかりだから、見ていていらいらする。結局登場したときに演奏した「ビア樽ポルカ」一つでほかのグループに行ってしまった。この女性達はチップももらえずじまいで気の毒した。
ひょっとしてわがグループの人たちはテーブルを回ってくる楽師達にリクエストして、チップを渡すという、暗黙の社会的取り決めに気がつかないのかもしれない。それともチップなど出さなくてもいいのかな。後述するハンガリーの例だとそうは思えないのだが。

チューバなんてブラスバンドでしか見ないものだから珍しかった。これはベースの代りを務めるわけだと分かった。「ビア樽ポルカ」は日本では戦後アンドリューズ・シスターズの歌で流行ったが、原曲はなんとチェコであったとは誰も知らなかったろうと思う。ただしビールにはまったく関係なしの「スコダ ラスキ(失われし恋)」(1934)という失恋の歌だそうだ。チェコに進駐したナチス・ドイツ兵が歌って、ドイツ語の「ロザムンデ」という歌になった。アメリカに渡って「ビア・バレル・ポルカ」として歌詞がついた(1939)。ヨーロッパではアメリカ軍が一帯に展開していたせいで英語とポピュラー曲が普及したようだが、この曲はお里帰りであったのだ。
アンドリューズ・シスターズ
チップの話を続ける。食卓で囲んだ小さなステージで演奏するピアノを含んだ男3人組があったが、このときはグループの女性客もだいぶ慣れて一緒に歌ったり、写真を撮ったりしてはしゃいでいたが、誰もチップは出さなかったようだ。こういうのは店を通じて添乗員で処理するのだろうか。チップがなければ彼らの実入りはないはずだろう。

不愉快な思いをしたのはブダペストの中年男3人組。誰もチップを出さないので端の席にいた私の横に親分格が来てヴァイオリンを弾きながら「アリガト、アリガト」とチップを催促する。ほかの客は黙ってうつむいて食べるだけ。演奏を聴きながら彼らの様子を見ていたのが失敗だったようだ。いつまでたっても動かず、明らかに強要であった。あいにくコインがなく、ありあわせた500フォリント(250円強)をポケットにねじ込んでやると、やおら引っ張り出して、ゆっくり引き伸ばしてわれわれお客みんなに見せた上、弦の間に挟んでようやく立ち去った。あのグループは、親分のしつこさとともに実にいやーな感じの人たちであった。そこで思い出したのが映画の一場面だ。『ヴェニスに死す』(伊1971)。執拗に繰りかえし演奏してチップをせびる一団。生暖かい空気とコレラ騒動の不安が観客にも伝わってくるような場面。音楽の効果がめいっぱい使われていた。あの一団の楽師達とブダペストの経験は似ている。
映画『ベニスに死す』より
ハタと思いあたったのはロマだ。昔はジプシーといわれた人たち。弾いているのはヴァイオリンだが、この場合はフィドルと呼ぶほうが似合いそうだ。日本語では「屋根の上のバイオリン弾き」となっているアメリカのミュージカル、原題は「Fiddler on the Roof」だ。これに登場するのは帝政ロシアのユダヤ教徒でロマではないが、同じ構造の楽器であっても弾く人たちや曲目の種類などで、所謂クラシックのバイオリン演奏とは違う。フィドルのほうがぴったりという感じがする。

で、ロマの話に戻ろう。現代では欧州一円に拡散したロマは、各国ともその制御に手を焼いているようだ。基本的に放浪生活のかれらは定住を嫌うらしい。経済的にも弱い人たち。シューマンの「流浪の民」という歌曲、高校時代には綺麗な合唱曲だと思っていたが、詩に歌われていたのはナイルのほとりからさすらいの旅に出る可哀想なジプシー達であったのだ。使われていた詩はロマがエジプトから流浪し始めたとの伝説がもとでジプシーと呼ばれた時代の作品。ドイツ語の原題を知ってみれば「ツィゴイナーレーベンZigeunerleben」、ツィゴイナーが今でいうロマだ。だから「流浪の民」の元の題は「ロマの暮らし」ということになる。サラサーテの「チゴイネルワイゼン」は「ロマのメロディー」だ。

4か国世界遺産の旅などと謳われているが、ヨーロッパの中でもロマ人口が多い地域。ブラチスラバでは街を行く数人かたまった人達を見て、ガイドさんは「あれはスリだから気をつけましょう」と言って、注意深く間隔をとっていた。一人が何やら話しかけてきて、受け答えを強いられる間にぐるりと囲まれて刃物でバッグの底を切り取って中身を持ち去るという手口が多いのだそうだ。何となく小汚い風体の人たちだから、慣れればすぐ分かる。楽師達もそうだとは言えないが犯罪者すれすれの生活であることは間違いなさそうだ。昔からのジプシーのイメージではフラメンコであり、馬車暮らしだった。現代では馬車が自動車に変わっているらしい。馬や馬車の取引が今は中古車になり、その延長で修理工も多いという。日本でも放浪職人には鋳掛け屋が多かったが、西洋にも同様の鋳掛け職人があるようだ。放浪しながら生計を立てなければならないとなると、職業の範囲は自ずから限られるだろう。だからロマと呼ばれる人たちにはダンサーや楽師などの芸人、修理屋、占い師などが話題になることが多い。犯罪者の発生も多いし、スリ、泥棒、誘拐もある。結局は嫌われる人たちということになり、ロマはどこでも疎外され、差別の対象になってしまう哀しい存在である。
世界遺産巡りが図らずもロマの存在を目の当たりに意識させられることになってしまった。

しかし、ロマといっても悪い人たちばかりではないのは当たり前だ。片親がロマ出身というのも有名人には多いようだ。熱心な研究者によって世界の有名人のリストも作られているようだ。
ジャズ・ギタリストでジャンゴ・ラインハルト(1910-1953)がいる。両親がロマでベルギー生まれ、フランスを中心に活躍した。ロマの音楽とジャズ・スウィングを混淆させたマヌーシュ・スウィング(マヌーシュはフランス語圏でのロマの呼び方)の楽曲を独特の奏法で演奏する。キャラバンの火災で大けがをした名残で指が不自由なためその技法も特殊になった。
チョコレートを題材にした風変わりな物語の映画『ショコラ』(米2000)ではジョニー・デップが水上生活のロマを演じるが、ジャンゴの曲『マイナー・スウィング』が印象的に使われる。映画にはロマという言葉は出てこないが、この曲が聞こえることで、あ、そうか、と思ったことを覚えている。

ジャンゴ・ラインハルト

東欧4か国めぐりはチェコを除いてドナウ巡りの旅でもあったが、ドナウ周辺にはロマが多い。ドナウの終点、ルーマニアはロマ人口が150万人はいるだろうといわれるほどロマが多く、問題も多い國のようだが、政府はロマは存在しないという立場だそうな。Wikipediaにも興味深いことが書いてあった。ここには書かない。(2014/8)






2014年8月19日火曜日

読書随想 唐木順三 『実朝の首』

唐木順三氏の「実朝の首」は昭和48(1973)年『歴史と人物』に掲載された。本稿は昭和文学全集28 小学館1989によっている。

大銀杏倒伏前の八幡宮。現在の上宮は1828年に再建されたもの
本編は鶴岡八幡宮で暗殺された三代将軍源実朝の首の所在が記録に残っていないことに題材をとり、当時の模様を誌した『吾妻鏡』『愚管抄』などを参照しながら首の行方を尋ねる史伝と推理のエッセイである。
『吾妻鏡』によれば事件の当日は二尺ほど雪が積もり、拝賀の儀式に参内する将軍一行の行列は午後六時に来た。行列の詳細も細かに書かれているが、優に百名を超す顕官に警護が千人とある。夜になってから退出。実朝が殺される場面は合戦のように大勢が入り乱れる有様で決して公暁の一人テロのような光景ではなかった。先年倒れた大銀杏は樹齢千年とかいわれていたが、建保七年は1219年だから樹はあったとしても大きくはなく、そこにかくれていたとは伝説にすぎない。『吾妻鏡』には「石階の際に窺い来たり」とある。まずこれだけをイメージして読み始める。
著者によって分けられた六つの節にしたがって書いてゆく。


秋の好日、小田急大秦野駅からタクシーで実朝首塚を見に行く場面から始まるこの文章は、それだけで著者が身近に感じられて読む気が出る。運転手が、実朝の首塚っていわれているが本当かね、とわざわざ此処を訪れるものずきをからかうような口ぶりで言った。
周囲が南京豆や大根の畠で、その中に欅、榎、楓の巨木のある百坪ほどの一劃にありきたりの五輪塔、傍に大正八年に建てられた大きな石碑、そこに刻まれた漢文の由来記を分かりやすくしたような案内記がある。
三浦義村の家臣武常晴(或いは武村常晴)が実朝の首を此処に持ち来たり、退耕行勇を導師として供養し、葬った。武常晴は武村(いまの横須賀武山)の人で.この地の領主波多野忠綱を頼って将軍の首をひそかにはこんだというわけである。忠綱は実朝の菩提のために近くに金剛寺を建立した。現にその寺は塚の北の丘陵地帯の裾にある。

さて、タクシーの運転手も此処に首が葬られているとは思っていない様子だ。多分この五輪塔は供養塔だろう。では、なぜここに実朝の供養塔があるのか。忠綱はなぜ金剛寺を建立したのか。
実朝が殺されたのは健保七年の正月二十七日、波多野忠綱は『吾妻鏡』では建保四年までしか名前は出てこない。また、忠綱は三浦義村との仲はよくない。健保元年の和田合戦で誰もが認める先陣先登でありながら義村と争って論功行賞に漏れた。義村は後に「友を食う三浦犬」と悪名が立ったほど盟友をも利で裏切る人物、忠綱は単純率直の武勇の士である。武義晴はワルの義村の家臣であるが、なぜ主人が敵対する忠綱を頼ってきたのか。史実にあたって著者の疑問が湧いてくる。


此処で序説は終わり、次節では『吾妻鏡』と『愚管抄』の叙述に従って実朝暗殺事件が著者の手によって再現され、事件のからくり、つまり一派の悪巧みがおおよそあからさまになる。しかし、ところどころ、どう解釈すればよいか分かりかねる、逆に言えば自由な補填が許される箇所があると著者は書く。
実朝が討たれたとき、『愚管抄』には公暁は太刀持ちを北条義時と思って斬り伏せたとしている。実はその太刀持ちは本来義時の役目であったが、文章博士の中原仲章が代理をつとめていたのであった。著者が分かりかねるというひとつはなぜ義時が仲章と役目交代したのかにもあると思う。ここには書かないが、このことに関係しそうな記述を著者は『吾妻鏡』から二、三拾って推理を働かせている。

著者も説明は付けてくれるが、公暁が実朝を討つ理由、「父の敵を討つ」と叫んだ敵はだれか、父とは二代将軍頼家であることなど、「国史」が学校の授業になかった世代の私はあれこれ資料に当って確認しながら読み進む。

http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/sanetomo/index.html



下手人公暁は将軍実朝と執権義時の両名を殺害したと思い込み、実朝の首を抱えて、ただ一人雪の下の備中阿闍梨の屋敷に入って、使者を立てて「今は我こそは大将軍なり」と三浦義村に通告して義村館へ赴く。この間公暁は食膳でも首を手放さなかったと伝えられる。
一方、義村は公暁の通告を義時にも連絡し、公暁討ち取りの命令を受ける。義村の館へ行く途上で公暁は敢えなく斬られてしまった。著者いわく、『吾妻鏡』では、実朝の首を抱えていた公暁が義村の家臣等に首を斬られたというところで実朝の首のほうは行方不明になっている。『愚管抄』では公暁殺害のくだりを誌した後に、「実朝が頸は岡山(鶴ヶ丘の裏山)の雪の中よりもとめいだしたりけり」と附加えているが、その首がどうなったかについては何も言っていないと。
義村は公暁の首を義時の御覧に入れたが、実朝の首はどうなったのか。
著者は義時が事件後も健在であることを義村は知っていた、だから公暁の言を義時に連絡するわけだが、仲章が義時の身代わりになったことをいちはやく通報されていたからだと見る。実朝暗殺の張本人だった義村は公暁を裏切ることによって一転身の安全を図ったのであった。

一月二十七日に凶変が起こることを義村はもとより、義時ほかかなりの人が知っていた様子だと著者は書いている。典拠は出していない。実朝は知っていたのかについては『吾妻鏡』に誌されているところをひいている。すなわち八幡宮の拝賀の式に出発する前、鬢を整えた随身の秦公氏に髪一筋を抜いて与え、折から庭に咲いている梅を見て「いでていなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな」の一首を残したと。ほかにも、早い時期から不安を感じていたらしいことが、詠んだ歌のいくつかから判断できるとして例が四首挙げられている。

実朝の葬儀は横死の翌日、即ち二十八日に行なわれた。『吾妻鏡』はこの日、哀傷に堪えず、母政子が行勇律師を戒師として落飾し、秋田城介景盛等百余人が出家したことを報じた後に次のように誌している。「戌の刻、将軍家を勝長寿院の傍に葬り奉る。去夜御首の在所を知らず、五体不具なり。其憚有る可きに依りて、昨日公氏に給はる所の御鬢を以つて御頭に用ひ、棺に入れ奉ると。」
勝長寿院は頼朝が父義朝の霊を慰めるために建立した寺だが、いまはただ義朝の墓があるばかりで、寺は無い。実朝の墓の跡もまた無い。

唐木氏は上のように書くが『吾妻鏡』二十八日条には「御臺所令落餝御」とあって落飾したのは実朝の室である。母政子ではない。だから、この部分だけは著者の誤りと指摘しておこう。

ここでは著者は、まず当時の武士達にとっての首の値打ちについて読者に注意を促している。
保元平治以来、武家の首に対する関心は異常に高い。首実検によって初めて生死が決定され、従って論功行賞も決定されるわけだから、首は木の根、草の根を分けても探しださねばならぬものである。それが武士の習いであった筈である。実朝が首無しの五体不備のまま葬られたということは異常中の異常であった。この異常を『吾妻鏡』はなぜか追及していない。だからこそ実朝の首塚が問題になるわけである。

波多野忠綱に首を持参して供養を願い出たのは武常晴だという。この人物について著者はほとんど分からないと書いて推理が始まる。『吾妻鏡』によって、公暁を斬った義村の家臣は長尾定景と雑賀次郎以下五人の郎従と分かっているが、四人の名は不詳である。著者は四人の郎従に着目して武義春はこの中にいたと推理する。何やらアガサ・クリスティのポアロ氏の謎解きの場面のようだ。
定景は公暁を誅すべしという命を受けている。主眼は公暁の首にある。実朝の首など目にも入らなかったであろう。常晴はふとそのあたりにころがっている首を見つけ、それが実朝のものと判断し、人に知られないところにそれを隠して一旦は義村のもとへ帰った。なぜ義村のもとへ首を届けることをしなかったか。
常晴はかねがね首領ながら三浦義村の権謀また裏切りを快く思ってはいなかった。古つわものの親分定景は今回の事件での義村の変身をうすうす勘付いている。長年行をともにしてきた親分の心の機微は引率する郎従にもうつる。著者はこのように常晴の心理を探る。
常晴の心に実朝の首を義村の見参に入れることを不快とする感情が咄嗟に起こった。
公暁事件の余波が静まってから、常晴は実朝の首を隠し持って波多野忠綱を訪れ、一部始終を話して供養を願い出た。
なぜ忠綱を頼ったかといえば、和田合戦で義村との先登争い事件に見るように忠綱が義村とは正反対の剛直の士であったからである。
忠綱は実朝の首をひそかに森の中に埋め、世間がこの事件を忘れる頃を待って寿福寺の長老行勇を招いて、新たに建立した金剛寺で亡き将軍の霊を慰める供養会を催した。

推理を終えて著者は言う。すべてに実証があるわけではなく推理推定にすぎないと。
ここで著者は、「タクシーの運転手が『首塚っていうが本当かね』と私に言ったとき、私は『さあね』とあいまいな返事をした」と書く。冒頭の節では、本当かねと言う運転手のからかうような口振りと、運転手も此処に首が葬られたとは思っていない様子だった、との叙述だけしか書いていないのだ。読者はうまく誘導されてきた感じがする。最後に著者はいう。
あの首塚が事実無根かといえば、そうでもない。事実無根を証拠だてる資料も事実もないのである。
著者の勝利宣言のようだ。実質的に本編はここで終る。



寿福寺について開山は栄西。頼朝の菩提を願う政子の発願により頼朝が没した翌年正治二年である。元久元年十二月十八日南都より政子の御願による七観音像図絵が到着の折、供養の導師は栄西、将軍家御結縁のため渡御との記録がある。この年七月に前将軍の兄頼家が殺された実朝は十三歳であった。このときが栄西と初対面で以後屡々寿福寺に赴いて法話を聞いたりしていると紹介している。行勇はその栄西の後継である。八幡宮の供僧であったが、寿福寺の栄西に禅を学び、栄西の没後長老になった。十二歳で将軍になった実朝は最初に『法華経』講義を聴いて以後、なにかにつけて行勇を頼りに教えを請うていた。寿福寺に実朝と政子の墓といわれる五輪塔が並んでいることはや行勇との深い因縁を示している。

第六節には紀州由良にある興国寺(もと西方寺)の紹介があり、ここにも実朝の墓といわれるものがあるとのことで、その由来を『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』に拠って紹介している。
実朝暗殺の八年後、嘉禄三年に沙門でありながら地頭であった願性が施主で西方寺が建立された。この願性はもと実朝の近侍藤原景倫である。実朝に宋に渡る意志を打ち明けられ、その準備のために藤原景倫が九州博多に下ったところで実朝暗殺の報を聞いて、剃髪して高野山に登る。そこでたまたま筑後の前司の孫の西入という人物に出会う。
この西入が実朝の頭骨を持って髙野に登ったのである。西入の配下の侍が『葬所に於いて之を拾得す』と誌されている。そしてこの頭骨を西方寺に葬ったわけである。
これでは今ひとつ要領を得ない。西入が何者とも分からないし、葬所がどこかも不明である。

高野山金剛三昧院は政子の発願で建立され、初代別当は行勇である。法灯国師心地覚心は二十九歳で金剛三昧院で行勇に参じ、三年後行勇に従って寿福寺に行く。まもなく鎌倉を出て、諸国遍歴の後、四十三歳で渡宋し、六年後無門和尚の印可を得て帰国、髙野へ登ってまたも行勇に出会い、三昧院の第一座に据えられたが、四年後に由良の興福寺に移った。願性の願いを入れて実朝の霊を厚く供養するための「追修道場」とした。唐木氏の文章にはないが、覚心が西方寺に移った後、寺名が興福寺に変わったようだ。
源実朝公御首塚(秦野市のサイトより)

以上が「実朝の首」おおよその内容であるが、さて唐木氏の推理では首の在処は秦野であるが、由良西方寺にも、また、寿福寺にも墓がある。
私には『吾妻鏡』が首の所在に触れていないことが気になる。
『吾妻鏡』が首の在処を追及していないのは、一件落着したからではないか。つまり、『吾妻鏡』の作者はのちに首の所在を知ったが、何らかの理由で公表しなかった気がする。
首の所在を追いかけていたら行勇が出てくるという唐木氏の話をヒントとすれば、秦野の金剛寺開山に際し行勇が招かれているのは、そこに首があったからだとも思える。
第五節に唐木氏は『吾妻鏡』五月十二日の条をひいている。行勇が御所に来て「所帯相論の輩」について申し述べるつもりのところ、実朝は政事に介入するなと嗜めてとりあわなかったので、行勇は泣いて寺に帰り閉じこもってしまった、というのである。これについて唐木氏は、このあと三日おいて実朝は行勇をわざわざ寿福寺に訪ねて慰めたと『吾妻鏡』にならって簡単に処理しているのであるが、実朝が師弟の禮をとって両者涙を流しながら法話をかわしたとの寿福寺の老人たちの伝聞もある。唐木氏は材料の取捨選択に厳密さを保って伝聞のたぐいは捨てたのだろう。
(『吾妻鏡』建保5年5月15日壬辰条)(『沙石集』巻第9ノ13)
これほど親密であった実朝の供養だからこそ金剛寺に行勇も出てきたといえるのでないか。

『愚管抄』に「実朝が頸は岡山(鶴ヶ丘の裏山)の雪の中よりもとめいだしたりけり」とあるからには首が見つかったのであろう。誰が見つけたのでもよいがそれが金剛寺に来ているとしてもよいだろう。
そうであれば、唐木氏の推理が当っていてその続きがあったことになる。このほうが結末がめでたくてよろしいと思うがどうだろうか。
しかし、こんな単純なことなら唐木氏が書かないわけがない。何が支障なのだろうか。何とも気持ちの落ち着かない読後感ではある。

秦野辺を探っている人の情報には、金剛寺の周囲には武という姓がたくさんあるそうだ。これも興味ある話である。今売れている作家葉室麟氏に『実朝の首』(2013)という作品があることを知った。首の所在が不明では許されなかった人たちの時代、結論は出ているはずだ。情報が後世にまで伝わらなかっただけのことだと思う。現在の私たちが自由に推理を楽しんでも許されるだろうと勝手に考えている。
唐木氏の推理は丸谷才一氏が朝日新聞の文芸批評で激賞したと粕谷一希氏(当時『歴史と人物』社)が書いているのだが、読んでみたい。(2014/8)




2014年8月9日土曜日

「焼き場に立つ少年」1945年の記録

長崎原爆の記念日に、偶然この記事に出会いました。出来るだけ多くの人に見てもらうために転載させてもらいます。記事の中にNHKスペシャル「解かされた封印」のビデオがあります。
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/d1c013638e8e33d9c2619d0181b6ed54



2014年8月8日金曜日

エッセイ "Over The Waves"

(お断り;この記事は2010年に書いた文章です)
子供の頃から聞き慣れた音楽の中にワルツというリズムがあります。いわゆる洋楽が盛んになった頃に始まっているのでしょうか。サーカスのジンタもそうでしょう。ジンタの語源は知りませんが不思議な言葉ではあります。そしてジンタといえば『美しき天然』です。私の耳にはラッパやクラリネットがメロディを奏でる楽隊の演奏やら明治の名残のようなバイオリンによる演奏などが残っています。この曲はワルツでした。
ふと思いついてYouTube で聴いてみました。ありました、ありました。『美しき天然』、紛れもないこの曲です。
どこにも書いてありませんが、初音クミというのが歌っているらしいのですが,私には分かりません。でも、そうだとしたらこれはごく最近の作り物ということになりますね。テンポも私が持っている感覚よりも遅く感じられます。
Wikipediaの『美しき天然』には、まず、「唱歌」とされていて1902(明治35)年成立となっています。楽譜には「ワルツのテンポで」と表示されているそうです。上に述べたYouTubeには日本人による最初のワルツだそうですとありました。
ついでにジンタについて探しましたら「英語で賢くなるサプリ」というブログに「ジンタッタ、ジンタッタ」という調子からジンタと呼ばれるようになったもので英語ではないなんて。このブロガーは書きぶりから言ってまともな人のようです。このジンタッタはワルツのテンポの擬音語ですね。

こんなことを書きながら調べていると、根が好きなほうですから、ついついYouTubeを漁って「東京行進曲」やら「東京ラプソディー」とか「夢淡き東京」など藤山一郎さんの曲へと移っていきます。
なかでも「東京ラプソディー」は私の愛唱曲だったのを思い出します。ただし学齢前の私です。見ると成立は昭和11年となっていますから3歳の時にできた歌です。家では童謡のレコードもいろいろ聴きましたがあまり歌った記憶がありません。けれども、「花咲き花散る宵も・・・」と歌っていたのだそうです。
「東京行進曲」は昭和4年で曲調も古いですが、歌詞に「ジャズで踊ってリキュルで更けて・・・」とあるように、当時でいう「ジャズ」という言葉が出てきます。大正から昭和初期までの束の間の自由な日本の象徴みたいな語感を持った言葉ですが、いまでいうのと大違いで流行歌からダンス音楽まで何でもジャズといわれていたようです。私の学生時代銀座にあった「テネシー」という「ジャズ喫茶」(と呼ばれていました)ではステージがあって鈴木章治のリズムエースや渡辺晋のシックスジョーズなどはいいとしても、ハワイアンのバッキー白片,大橋節夫のハニーアイランダースなども来ているのですからポピュラー音楽何でも「ジャズ」という日本語であったわけですね。
ちょっと「シックスジョーズ」でYouTubeを検索したら昭和28(1953)年録音という映像でOn the sunny side of the streetをやっていました。まさに私がテネシ-に通っていた頃です。いま聴くと「色あせた」という感じの音色ですが,当時は花形でした。
オスカーピーターソンがやってきて秋吉敏子さんを聴いたのもこの頃このお店でした。閑話休題。

きょうこの文を書き始めたのは戦前からワルツが盛んであったなぁという思いからです。その理由は私が一番好きなジャズ系統のニューオリンズジャズ、あるいはデキシーランドジャズではいわゆるtraditionalとされる曲目がよく演奏されます。『リンゴの木の下で』などはこれも戦前の日本でもジャズとしてよく演奏され、戦後もレコードなどが復活する前はハワイアンなどでよく演奏されました。私たちも高校の文化祭でやってました。
ニューオリンズジャズではOver The Wavesがよく取り上げられます。おなじみのメロディですが、なぜおなじみかというとこれも戦前のジャズみたいに日本でよく知られていたのです。私自身の記憶では我が家にあったウインナワルツなどと一緒になっています。『美しき青きドナウ』『ドナウ河の漣』『波濤を越えて』おまけに『金と銀』もなぜか一緒に記憶に出てきます。みなワルツです。これらが記憶としてなぜひとかたまりになっているのか訳を知りたいと思って調べるのですがそんなこと分かることはありません。
ただひとつ英文のwebsiteにこれらをみな同種のように考えている人たちが多いという指摘に出会ったことがありましたが、その書き手自身もそのように思っていたということでした。
結局私自身の混同は日本の流行のせいであろうということにしました。つまり大正から昭和にかけての頃にジャズで踊ってという歌詞で想像できるようにダンスがはやって,洋楽はダンス音楽として流行したのだろうということです。だからワルツなのです。フォックストロットももちろんあったでしょう。そしてタンゴです。ルンバは『南京豆売り』など知られていましたがステップはどうでしょうか。ジルバはまだありませんね。ほろ酔い気分でキャバレーやダンスホールで踊るにはワルツが心地よいということではなかったかと思うわけです。
そこで先ほどの曲目についてよく考えると、ドナウ川に関連するのは『美しき・・・』と『ドナウ河の漣』だけで『金と銀』は関係なし。

さて”Over The Waveswaveはどこの波かというに、これが作曲者がメキシコの人でした。
フベンティーノ・ロサス、26歳で亡くなった人だそうですが、バイオリン奏者でダンス音楽の作曲家として身を立てていたそうです。作者のイメージしたWaveがどういう波か分かりませんが、メキシコと海という関連も私には最近のBPの海底原油採油井の汚染ぐらいしか頭に浮かびません。作品は1884年。
調べていて分かってきたことはこの曲がメキシコの土俗性など全くなく、ワルトトイフェル(スケーターワルツ)やヨハン・シュトラウスを連想させるとかの感懐を人々に抱かせるということです。日本でも私が想像したように大ヒットしたとあります。ダンス音楽のワルツとしてのヒットでしょう。
けれども、なにかしらウイーン音楽とは違う味があるのかもしれません。管弦楽曲ではない生い立ちから来る何かがこの曲にはあって、時に編曲には大衆音楽的な要素も加味されるのかもしれないなどと思っています。
これがニューオリンズジャズで演奏される理由ではないかなと勝手な解釈をしているのですが。
ここに挙げたワルツはたとえば、Naxos Music Library では「グレートワルツ集」に揃って入っています。
さて、ニューオリンズジャズではどうかというに、いつのころからかGeorge Lewis(ジョージルイス)の定番みたいになってしまって、前はたくさん演奏があったと思うのですがいまなかなか探し出せません。ジョージ・ルイスは大阪のアマチュアバンド「ニューオリンズ ラスカルズ」のリーダー河合良一さんが崇敬していて,生前は親交もありました。いまは精神を後継するバンドと称しています。ボクもこの人の哀愁を帯びたような演奏が好きですし、またラスカルズもいかにも日本のバンドというサロン的ニューオリンズジャズが好きで長年聴いています。
で、ジョージ・ルイスの名とニューオリンズジャズの存在を一段と高めたのは1954年にオハイオ州立大学で催されたコンサートでした。ルイスがOver The Wavesを演奏しています。YouTubeでも見ることができますが、ここに私の録音したファイルを添えておきますから聴いてみてください。


  (2010/11/18記)

2014年8月6日水曜日

読書随想 小林勇 『蝸牛庵訪問記』 講談社文芸文庫 1991年

幸田露伴60歳から亡くなるまで日常的に身辺にいた編集者の記録。
書名の蝸牛庵は幸田露伴の号である。
「蝸牛庵というのはね、あれは家がないということさ。身一つでどこへでも行ってしまうということだ。昔も蝸牛庵、今もますます蝸牛庵だ。」昭和十三年八月九日談

岩波書店の小林勇は大正15(1926)年に小石川の露伴宅を初めて訪問している。原稿の催促に行ったのであるが、庭先までしか入れてもらえない。昭和2年、幸田家は近くの家に引っ越した。この引っ越しの手伝いで急速に露伴一家と親しくなったと書いてある。旧宅で長男成豊が亡くなっている。後妻の八代夫人と次女文子がいた。翌年文子は嫁ぎ、夫人はやがて信州へ別居する。
この年露伴61歳。小林は24歳、店主岩波茂雄の信任厚く、よく協力してこの年岩波文庫を立ち上げた。明治二十五年の旧作『五重塔』はいきさつがあって人手に渡っていた版権を露伴が買い戻してあった。頼んで岩波文庫に入れてもらった。山本夏彦が書いている。
初め門前払いされたが忽ちふところにとびこんで、いつか入りびたりになるまでになった。露伴は一代の碩学ではあっても、今も昔も売れる人ではない。三日にあげず訪ねて許されるのは、著者と編集者の仲ではない。友に似たものになってついに死水までとった(山本夏彦 『私の岩波物語』 文藝春秋1994
その通りである。小林の露伴訪問は不定期であるが頻繁である。露伴の居室に出入り自由、そのときの判断でそのまま長時間話し込んだり、来客や多忙時など遠慮すべき時には遠慮する。露伴は厳格な人だが、気さくな人でもある。小林の立ち居振る舞い、かくれた努力などが気に入られたのかもしれない。信州の父親にやかましくたたき込まれたこと、すなわち、約束を守ること、骨惜しみをしないこと、それに、けじめをきちんとすることを実行し続けた。これはおそらく露伴の気性と一致したことであろう。

長年の露伴の座右にあっての出来事や話題はさまざまである。この訪問記を通して露伴が勉強している様子はほとんど見えない。小林に会うまでに大抵の勉強は終っていて小林とはその成果を語っていただけかもしれない。露伴は座談の相手にその話柄が理解されているかいないかをすぐに見破っていたようであるから、小林も始終勉強を強いられていたことであろうが、文章にはまったく気配も出ていない。買いかぶりかもしれないが、このあたりも小林のひそかな努力だろうと思う。この本には出てこないが小林は多芸多能の人である。
小林勇は、画をかき、書をよくし、集めて十一巻におよぶ文を撰したのみならず、歌舞、詩歌、酒、食物、釣にいたるまで、みな一家言を有し、ただの素人ではないの風があった。鍋物ならば、みずから味をととのえねば気がすまず、そのわけをも述べて説く。(同書巻末「人と作品」竹之内静雄)
これはほとんど露伴ではないか。ほぼ50年近く露伴の座右にあって学び取ったことだろうか、あるいは生来の天分であったか。いずれにしろこの本を読み終えたあと、今まで何日間かいっしょにいた露伴がいなくなったような寂しさを感じたものであった。露伴からはほのぼのとした暖かみを感じ続けていた。しかし、実を言えば、小林は小林に対している間の露伴しか書いていない。病勢の進んだ露伴が文子に対しているときは健康なとき以上に辛く当っているはずだ。家族への甘えが無理を承知で無理を言うということがある。先夫人が傍に付き添ってでもいれば家内はかなり穏やかであったろうと思える。今の今まで辛く当っていたときでも小林が顔を見せると、家族はよくしてくれるなどというのだ。もともと気むずかしいと評のある露伴だが、実のところはやせ我慢なのではないかと思う。愛すべき爺さんとでもいえるが家族にとっては大変だったに違いない。小林はそれも承知でこの作品には露伴が悪く思われないように気をつかっている。露伴は淋しかった。小林勇がいてくれてよかった。これはそういう作品でもある。

時局が切迫するにつけ文学報国会の会長にとか、なんだかんだと有名人を狩り出そうとする動きが盛んになったが、露伴は一切応じなかった。講演やら意見記事やらすべて断っていた。戦争が始まった日、露伴は真珠湾のニュースを聞いて「若い人がなぁ」といって涙を流したという。

最後に著者が横浜事件の難に遭った際、東神奈川署で読んだ露伴からの手紙をそのときの状況とともに記録しておこう。露伴は信州坂城の不愉快な人たちの家に寝たきりの日々を送っていた。
八月になって戦争が終りに近づいていることは、私にもわかって来ていた。そのころ、私に対する取調べはふたたびひどくなっていた。八月の三日か四日であると思うが、私の顔は血だらけになっていた。そこへ検事が私に会いに来たというのである。私をなぐっていた男は私を留置場へ返して逃げてしまった。私はひょっとこが血だらけになったような顔で検事の前へ出て行った。

その後如何。足下が拘禁せられし由をきゝて後、日夕 憂慮に堪えず、然れども病衰の老身、これを何ともする能はず、たゞ誠にわが無力のこれを助くるなきを愧づるのみ。たゞ、今の時に当たりては足下が厄に堪へ、天を信じて道に拠り、自ら屈し、みづから傷むことなきをねがふのみ。おもふに我が知る限り足下が為す処、邦家の忌避にふるゝことなきを信ず。まさに遠からずして疑惑おのづから消え、釈放の運に至るべきを思ふ。浮雲一旦天半を去れば水色山光旧によって明らかなる如くなるべし。なまじひに散宜生の援護の手を動かして人を救ふが如きをせず、孔子が縲紲の士その罪にあらざるの信を寄する挙を敢へてするの念をいだくのみ、足下また将に人知らずして恚るの念を懐くことなかるべし。人悲運に際して発生するところは、心平らかならずして鬱屈危詖に至にあり、冀くは泰然として君子の平常を失はざらむことを欲す、即ち遠からずして青天白日足下の身をつつまむ、この心をいたしていささか足下をなぐさむるのみ。
        月  日         露
小林勇様

検事は君は取調中の人間だから、これを渡すことは出来ない。私が預かっておくといった。
それからまた、「君は単に本屋の店員としての知り合いだというが、この露伴先生の手紙はそんなものではない。露伴先生ほどの人がこのように愛している君については、考えなければならぬものがある」といった。
そして彼は「この手紙はわたしにくれないか」といった。(昭和二十年 「使者・手紙」)
(2014/8/6)