2014年8月6日水曜日

読書随想 小林勇 『蝸牛庵訪問記』 講談社文芸文庫 1991年

幸田露伴60歳から亡くなるまで日常的に身辺にいた編集者の記録。
書名の蝸牛庵は幸田露伴の号である。
「蝸牛庵というのはね、あれは家がないということさ。身一つでどこへでも行ってしまうということだ。昔も蝸牛庵、今もますます蝸牛庵だ。」昭和十三年八月九日談

岩波書店の小林勇は大正15(1926)年に小石川の露伴宅を初めて訪問している。原稿の催促に行ったのであるが、庭先までしか入れてもらえない。昭和2年、幸田家は近くの家に引っ越した。この引っ越しの手伝いで急速に露伴一家と親しくなったと書いてある。旧宅で長男成豊が亡くなっている。後妻の八代夫人と次女文子がいた。翌年文子は嫁ぎ、夫人はやがて信州へ別居する。
この年露伴61歳。小林は24歳、店主岩波茂雄の信任厚く、よく協力してこの年岩波文庫を立ち上げた。明治二十五年の旧作『五重塔』はいきさつがあって人手に渡っていた版権を露伴が買い戻してあった。頼んで岩波文庫に入れてもらった。山本夏彦が書いている。
初め門前払いされたが忽ちふところにとびこんで、いつか入りびたりになるまでになった。露伴は一代の碩学ではあっても、今も昔も売れる人ではない。三日にあげず訪ねて許されるのは、著者と編集者の仲ではない。友に似たものになってついに死水までとった(山本夏彦 『私の岩波物語』 文藝春秋1994
その通りである。小林の露伴訪問は不定期であるが頻繁である。露伴の居室に出入り自由、そのときの判断でそのまま長時間話し込んだり、来客や多忙時など遠慮すべき時には遠慮する。露伴は厳格な人だが、気さくな人でもある。小林の立ち居振る舞い、かくれた努力などが気に入られたのかもしれない。信州の父親にやかましくたたき込まれたこと、すなわち、約束を守ること、骨惜しみをしないこと、それに、けじめをきちんとすることを実行し続けた。これはおそらく露伴の気性と一致したことであろう。

長年の露伴の座右にあっての出来事や話題はさまざまである。この訪問記を通して露伴が勉強している様子はほとんど見えない。小林に会うまでに大抵の勉強は終っていて小林とはその成果を語っていただけかもしれない。露伴は座談の相手にその話柄が理解されているかいないかをすぐに見破っていたようであるから、小林も始終勉強を強いられていたことであろうが、文章にはまったく気配も出ていない。買いかぶりかもしれないが、このあたりも小林のひそかな努力だろうと思う。この本には出てこないが小林は多芸多能の人である。
小林勇は、画をかき、書をよくし、集めて十一巻におよぶ文を撰したのみならず、歌舞、詩歌、酒、食物、釣にいたるまで、みな一家言を有し、ただの素人ではないの風があった。鍋物ならば、みずから味をととのえねば気がすまず、そのわけをも述べて説く。(同書巻末「人と作品」竹之内静雄)
これはほとんど露伴ではないか。ほぼ50年近く露伴の座右にあって学び取ったことだろうか、あるいは生来の天分であったか。いずれにしろこの本を読み終えたあと、今まで何日間かいっしょにいた露伴がいなくなったような寂しさを感じたものであった。露伴からはほのぼのとした暖かみを感じ続けていた。しかし、実を言えば、小林は小林に対している間の露伴しか書いていない。病勢の進んだ露伴が文子に対しているときは健康なとき以上に辛く当っているはずだ。家族への甘えが無理を承知で無理を言うということがある。先夫人が傍に付き添ってでもいれば家内はかなり穏やかであったろうと思える。今の今まで辛く当っていたときでも小林が顔を見せると、家族はよくしてくれるなどというのだ。もともと気むずかしいと評のある露伴だが、実のところはやせ我慢なのではないかと思う。愛すべき爺さんとでもいえるが家族にとっては大変だったに違いない。小林はそれも承知でこの作品には露伴が悪く思われないように気をつかっている。露伴は淋しかった。小林勇がいてくれてよかった。これはそういう作品でもある。

時局が切迫するにつけ文学報国会の会長にとか、なんだかんだと有名人を狩り出そうとする動きが盛んになったが、露伴は一切応じなかった。講演やら意見記事やらすべて断っていた。戦争が始まった日、露伴は真珠湾のニュースを聞いて「若い人がなぁ」といって涙を流したという。

最後に著者が横浜事件の難に遭った際、東神奈川署で読んだ露伴からの手紙をそのときの状況とともに記録しておこう。露伴は信州坂城の不愉快な人たちの家に寝たきりの日々を送っていた。
八月になって戦争が終りに近づいていることは、私にもわかって来ていた。そのころ、私に対する取調べはふたたびひどくなっていた。八月の三日か四日であると思うが、私の顔は血だらけになっていた。そこへ検事が私に会いに来たというのである。私をなぐっていた男は私を留置場へ返して逃げてしまった。私はひょっとこが血だらけになったような顔で検事の前へ出て行った。

その後如何。足下が拘禁せられし由をきゝて後、日夕 憂慮に堪えず、然れども病衰の老身、これを何ともする能はず、たゞ誠にわが無力のこれを助くるなきを愧づるのみ。たゞ、今の時に当たりては足下が厄に堪へ、天を信じて道に拠り、自ら屈し、みづから傷むことなきをねがふのみ。おもふに我が知る限り足下が為す処、邦家の忌避にふるゝことなきを信ず。まさに遠からずして疑惑おのづから消え、釈放の運に至るべきを思ふ。浮雲一旦天半を去れば水色山光旧によって明らかなる如くなるべし。なまじひに散宜生の援護の手を動かして人を救ふが如きをせず、孔子が縲紲の士その罪にあらざるの信を寄する挙を敢へてするの念をいだくのみ、足下また将に人知らずして恚るの念を懐くことなかるべし。人悲運に際して発生するところは、心平らかならずして鬱屈危詖に至にあり、冀くは泰然として君子の平常を失はざらむことを欲す、即ち遠からずして青天白日足下の身をつつまむ、この心をいたしていささか足下をなぐさむるのみ。
        月  日         露
小林勇様

検事は君は取調中の人間だから、これを渡すことは出来ない。私が預かっておくといった。
それからまた、「君は単に本屋の店員としての知り合いだというが、この露伴先生の手紙はそんなものではない。露伴先生ほどの人がこのように愛している君については、考えなければならぬものがある」といった。
そして彼は「この手紙はわたしにくれないか」といった。(昭和二十年 「使者・手紙」)
(2014/8/6)