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2018年12月12日水曜日

日本武尊 露伴と『日本書紀』

幸田露伴の「日本武尊」
この間、澁澤栄一のことを少し調べたときに読んだ露伴全集第17巻には渋沢栄一伝を含めて史伝6篇がおさめられてあり、なかに「日本武尊」が入っていた。読むでもなく眺めると、書きぶりが面白い上に、言葉についての探求がこの人らしく、惹かれるものがあったので一通り読んでみた。日本武尊という人物は実在しないというのが今日の定評であるけれども、ここに収録された文章のもとは昭和3年の新聞連載である。探究心旺盛だった露伴のことであるから、日本の古代についてはある程度、それも並の人以上に知識を持っていたろうと思う。素知らぬ顔をして淡々と語る叙述には、執筆者の用語、記紀に表現された和漢の言葉、また、それぞれの音声と文字、今と違う漢字の使い方など、筆者の関心が強いところが次々に繰り出されてなかなか興の深いことであった。すべてを書き出すことは出来ないが、かいつまんで記しておこう。

本文に先立って「緒言」が2頁半ほどある。講談師の枕のような語りで理屈が述べてあるが、真面目風でいて面白く述べるのがこの人らしい。時代や境遇の違いが大きく懸け隔たっている物事を理解することは難しいことだから、それを人に伝えるには、余程注意して控えめにしなくてはならないと心得を説く。今を以て古をはかり、己を以て他を律することは慎めと諭す。こういうときに露伴はなんとレンズの講釈を持ち出すので不意をうたれる。歪みや色収差の多い硝子鏡(レンズ)から覗いたままを真実とするとき、往々にしてレンズの持ち主の身勝手であることが多いものだと訓戒を垂れる。「クラウン玻瓈(ガラス)から覗いた世界は如実であるやうでも色収差に累(わずらわ)せられている、単レンズから覗いた世界は如実であるやうでも歪んでいる。自分がクラウンガラスの単レンズであろうことを憂ふる心づかひを存せぬ譯にはゆかぬ上からは、餘程謙遜した、控へ目の料簡を以て、古の勝れた人々に對したい。……」このあとにフリントグラスやら半球蛍石やらエナガラスやら、聞き慣れない語彙が並ぶ。どれも今でも生きている光学系の用語である。「…レンズが優良で無い時は、精々遠慮して絞りを強くするのが忠実に写真を撮る道である。是非はありません。控え目に、小心に、十分に絞りを入れて、今レンズの蓋を明けまする」と述べて緒言を終わる。
本文は一から四十に分けられ、150頁余り、日本武尊の出生から西征と東征までの事柄について、日本書紀にもとづいて、ときには古事記の記事とも比べながら語る。昭和3年の新聞に連載した文章だが、ことは皇室に関わる題材だけに敬語がしっかり使われている。そのぶん時代のなせることではあるにしても、露伴の生真面目な精神が窺われて好もしい。それだからといって堅苦しくはなく、古い言い伝えの荒唐無稽さをも楽しむ雰囲気をもたらしている。たしかに露伴はこの作品をたのしんで書いたろうと思える。
さて、本文は次の文で始まる。
日本武尊(やまとたけのみこと)(ママ――筆者注)の御上を意(こころ)の随(まま)に記したり談(かた)つたりすることは、まことに畏れ多いことである。それは尊(みこと)がただに皇子の貴(たっと)き御身であらせられたといふばかりで無く、また皇朝第十四代の足仲彦(たらしなかつひこ)天皇、御諡號(おんおくりな)仲哀天皇の御父君にわたらせられた御方であるといふばかりで無く、我が国家人民のために、いろいろと御労苦あそばされて、そして大いに皇化を賛(たす)け、世益を圖らせられた御方であり、そして又大勲偉業を立てさせられたにもかかはらず、光栄幸福の日をおくらせられるにも及ばずして、御壽も猶ほ花ならば咲きの盛りに至らず、月ならば光の圓(まどか)なるを示されざるほどの御齢(おんよはひ)に、口惜しくも嵐に散り、雲に隠れさせたまうたゆゑに、千七百餘年後の今に於いても、尊の御上を思ひ奉れば、誰しも胸の中に何とも申し難いやうな肅然たる感を抱かずには居られないからである。ただし今尊の御上を、かにかく申すのも尊を思いしのびまつる餘りのことである。まことに畏れ多く、罪得がましいことではあるが、しばらく宥恕(いうじょ)を得たい。
こういう調子の日本語は久しぶりである。読んで快感さえ覚えるのはわが歳のせいか。「罪得がましい」など何とも奥ゆかしく響く。千七百餘年後の今、とあるが、これは新聞に連載した昭和3年のことだ。昭和15年に紀元2600年祭というのが催された。当時7歳の筆者は、祖母に連れられて寒い中を橿原神宮に詣ったのはよく覚えている。「キゲ~ンワニセ~ンロッピャクネン」と歌う歌もあった。
神武即位を西暦紀元前660年と決めてかかっての2600年目が西暦1940年すなわち昭和15年に当たる。露伴先生はこの皇紀創出作戦とは無関係のはずだから、何らか別の根拠で1700年余りの時間経過を考えていたわけだろう。いずれにしろ、人か神かもよくわからない実在が疑われる存在の履歴であるから、とは言わないまでも、露伴は系譜やら紀年については、あまり真っ正直に考えないほうがよいと、それとなく教えてくれている。

文には日本武尊は第十二代景行天皇の第二皇子とある。原文を見てみよう。日本書紀は漢字だけの文で、読みや注釈を示すときには少し小ぶりの漢字を用いた。ここでは[ ]内に示す。日本武尊についての記事は、『日本書紀』では「景行天皇紀」に記述されている。これは尊が若くして亡くなって天皇にならなかったからの扱いである。
二年春三月丙寅朔戊辰、立播磨稻日大郎姬[一云、稻日稚郎姬。郎姬、此云異羅菟咩]爲皇后。后生二男、第一曰大碓皇子、第二曰小碓尊。[一書云、皇后生三男。其第三曰稚倭根子皇子。]其大碓皇子・小碓尊、一日同胞而雙生、天皇異之則誥於碓、故因號其二王曰大碓・小碓也。是小碓尊、亦名日本童男[童男、此云烏具奈、]亦曰日本武尊、幼有雄略之氣、及壯容貌魁偉、身長一丈、力能扛鼎焉。 
概略を訳す。(景行天皇は)3月3日播磨のイナヒノオオイラツメを立てて皇后とした。皇后は男子を二人生み、第一の子を大碓皇子(オオウスノミコ)、第二の子を小碓尊(ヲウスノミコト)と申された。この二人は同じ日に生まれた双生児であった。天皇はこれをあやしんで臼にちなんだ名をつけた。この小碓尊はまたの名を日本童男(ヤマトオグナ)、また日本武尊(ヤマトタケノミコト)と申される。幼くして雄略の気があり、壮年には容貌魁偉、身長(みのたけ)は一丈あって、その力は鼎(あしがなへ)を持ち上げられた。

私たちが普通にヤマトタケルノミコトとよぶに対してヤマトタケノミコトとしてあるのはどこから出たものなのか。一説にタケルは悪い評価のある人への称え、尊い人にはタケとするというが、定説はないようだ。ここに云う「またの名」は自称ではなく、人よんでこの名もあるという意味だと思う。
双生児が生まれることを異とする理由はわからないが、露伴はお産がなぜ臼と関連するのか考えようとしている。ウスにはいろいろあるが、碓は「からうす」を意味する文字である。だからといって字面にこだわるのは了見が狭すぎる、広く伝承を探れば何かあるのかもしれないと、徒然草まで引っ張り出して各地のウスに関する民俗伝承をいろいろあげて読者を楽しませてくれるものの結論はない。

原文をうかつに読めば、后を娶ってその年に男子二人が生まれたかのように見えるが、そうではないと読み方に注意している。それは(天皇在位の)27年冬10月の条に日本武尊を遣って熊襲を討たせる話があって、そこに年16とあるからである。したがって、日本武尊の生年は天皇の御代第12年の生まれとなる。この天皇は治世60年の冬に御崩(かく)れになリ、御年106歳とあるから、逆算して、この時天皇は58歳になっていた勘定だ。日本武尊の生年はそれでいいとしても、天皇の年齢については考えないほうが良かろうと諭す。景行天皇については父垂仁の37年に皇太子となって、21歳だったと紀にあるから、在位99年の垂仁が崩じて、景行が即位したのは83歳となり、治世60年なら143歳で崩御のはず、先に述べた106歳と食い違う。これは一例であって、一人の天皇だけでも幾通りもの人生が出てきかねない。
露伴いわく、「一體に古史の紀年は甲乙の齟齬が多くて、深く憑(よ)るに足らない。それは上代に暦術が精(くわ)しかったり、記録係が備へられたりした譯では無くて、文書の事が起ってから後に推算逆行して歳月を記したものであるからで、記紀の出来た前に既に種々家々の記も存して居たらうことは疑も無いが、それらの記にしても然程(さほど)遠い古から出来たものでは無からうから、数百年を隔てた歳月の注記などが精確であり得る道理は無い。[……]むしろ疑はしきを疑はしとして錯誤脱漏あらんと思って置くが宜い。重箱の隅を楊枝でせせっても得るところは無からう」と述べている。

話は前後するが、露伴という人は言葉に敏感に反応する。古代のいわゆる大和言葉による語彙を一つ一つ慈しむかのように検討する。「碓」のことや、「おぐな」についてなど、個々の例をいちいちここにはあげないが、それぞれ頁を費やすに暇なしである。かと思えば漢語の方にも博学ぶりを覗かせる。例えば、雄略について。いまの私達は雄略と字を見ただけであらかた見当はつくからそれでよしとするが、露伴はいちいち立ち止まらなくては収まらない。雄略は「一つの語とも取れるが、漢文の辞法で雄才大略をいふ」のだそうである。「谷川士清は実に詳しく紀を読んでいること敬服すべきだけれども此字面を看過してゐるが、秦鼎(はたかなえ)は流石に漢学者で、これを漢武紀に本づいてゐると指摘してゐるのは、人各々其道によって賢いものだ。雄材大略は漢書の語で、漢の中で最大膨張を敢えてした「武帝を贊した班固の語を採り用ゐて…熊襲、蝦夷までを掃討して天日の光を廣布された尊の御上を、幼にして雄略の気有らせたまひ、と紀の撰者が筆を下したのは、まことに感服なもので、所謂良工に苦心多きものであるのに、庸人多くは做す等閑の看で、うっかり讀過しては濟まぬくらいのものである」とあって、あとは日本書紀の文章が一代の最高才識の結晶であると賛美する。
古人は良い本を熟(よ)く讀んで、じっとりと味はってゐるから、其の發するところの文も、片言隻語亦おのづから來歴ありで、中々手堅い美(うま)いことを爲(し)てゐる。紀の文章なども、日本文学草創時代では有り、漢文を以て國史をものするといふ難局にも當面してゐるのであるから、其の困惑の情状は推察に餘りあるのであるが、それでも全體を通じて論ずれば、どうして中々立派に出来てゐるのであって、用語措辭に至っては感服すべき用意が盡くされてあることを否むわけには行くまい。紀の文章語辭の出典のあらましも見透せぬ分際で兎角を云ふのは、自ら省みて差控へたいことである。壯に及びて容貌魁偉、身長一丈、とあるのなどは、たゞ然様(さう)いふことを然様(さう)記したまでであろうから誰も注記もしないが、後漢書郭太傅に、身長八尺、容貌魁偉、とあるのと字面も辭氣も甚だ近いものがある。力能く鼎を扛げたまふとあるのは前人も指摘して居るが、史記の項羽本記に、籍長(せきたけ)八尺餘、力能く鼎を扛ぐ、とある其の四字一句を其儘移したので、尊の御勇力のほどを譬喩的にあらはしたのだが、此等は我知らず胸中の文字に累されたものであろう。鼎(あしがなへ)などいふものが此時代に餘り無かったものらしいから、まだしも宜いが、若し鼎が数々當時の談話中にあらはれて、そして重いものとされてゞも居たならば、甚だ好ましからぬ文飾であった。
このように述べておいて、そのあとに身長一丈や八尺の寸法論議が5頁ほども続くが、面白いけれども煩わしいから省く。それよりも身の丈高く容貌魁偉で力が強い人となりならさぞ乱暴者でもあったろうと想像させる記事が古事記のほうに見出される。御兄君を拉(とりひし)がれた逸話である。
御父天皇が小碓命に詔(の)りたまふやう、何とかも汝(みまし)の兄(いろせ)の朝夕(あしたゆうべ)の大御食(おほみけ)に参出来(まいでこ)ざる、専(もは)ら汝泥疑(ねぎ)教へ覺(さと)せ、と詔りたまうた。然るに如是(かく)詔りたまひて以後(のち)、五日といふまで猶も参出たまはなかった。そこで天皇が小碓命に問ひたまふには、何ぞ汝の兄の久しく参出ざる、若し未だ誨(をし)へず有りや、と問ひたまうた。尊は、既にねぎつ、と申したまうた。如何さまにか泥疑つる、と詔りたまうた。そこで尊は答へ白(まを)したまふに、朝曙(あさけ)に厠に入りたりし時、待捕へて搤㧗(つかみひし)ぎて、其枝を引闕(ひきか)きて、薦に裹(つつ)みて投げうちつ、と答へたまうたといふことである。記には又直(すぐ)に其段につづけて、そこで天皇は其御子の猛く荒き御情(みこころ)を惶(かしこ)みまして、それから、西の方に熊曾建(くまそたける)二人あり、これ伏(まつろ)はず禮(あや)無き人どもである、其人等(ひとども)を取れ、と詔りたまうて、そして尊を西方にお遣はしになった、と記してゐるのである。天皇が尊の勇猛をかしこみたまふと云ふが如きは、天皇の御心中に立入ったことで、甚だ以て慎言の用意に遠いことである。もとより記さなくても有るべきことである。…尊が兄王を扱われたこと、及び天皇が尊の勇猛をかしこみたまひたること等は其事も不分明であるし、其情も未だ必ずしも然らざるべきものであるから、疑はしきを闕(か)き、晦(くら)きを袪(しりぞ)けて、諱(い)みて書さなかったのであらう。我等がかゝる事をかにかくと談(かた)るのは、古を考へて詳(つまびらか)ならんことを欲するの意からとは云へ、齊東野語の陋に陥ってゐるもので、本来は深く論ぜぬ方が賢いことであらう。
また後ろの方で、尊の仕業も言葉だけのことかもしれず、本当にあったこととも思われないような書きぶりをしている。「諱みて書さなかったのであらう」とは、筆者の都合で露伴の話の一部分を抜かしてしまったが、尊の荒業は『日本書紀』には書かれていないことを指している。

食事時に出てこないことについて、人間にとっての共食は大昔から禽獣とは異なる人の道、礼として大事なことと訓戒をたれ、ことに大御食は宮中儀式としても大切であったであろうと例によって諄々と説いて、皇子が勤める必要もあった場合もあったとしている。泥疑を音で読ませて字義を持った文字を当てていないのは、ネギの語が含蓄が多すぎるくらいの語であるからだと、7世紀の渡来人の官僚の心遣いまで思いやって述べているのである。
ねぎといふ語は禱(いの)るのもそれである、犒(ねぎ)らふのも無論それである、願ふのもそれであるが、和(な)ぎ、和ぐ、和(なご)し、和む、和(にぎ)ぶ、にぎはふ、なだむ、なぐさむ、撫(な)づ等の語と聯(つら)なってゐる語で、そして祈禱願求犒労等の意にもなり、神に仕ふる者をねぎ、なぎなどともいふのである。参出べき筈の皇子が参出られぬのは、何かいぶせく心晴れぬものが有るからなのであらう、それを然様(さう)で無いやうに、泥疑教へ覚せと宣うた」わけであるから、ここは「和(なご)しく優しくといふやうに解したい。」「泥疑の一語が含蓄甚だ多くて、禱、願、犒等の字を用ゐただけでは其の意義景象を盡し難い趣が有り、且邦語其儘を用ゐた方が、写し得て霊活なので、そこで文面上には見づらく無くも無いが、泥疑と借音文字を敢てしたのであらう。
大碓皇子の大御食不参にまつわる逸話の結末は曖昧朦朧として霞の彼方である。不参の理由も父天皇の命に背いた行為をしてしまった大碓皇子自身の心のとがめにあったことが後に語られてはいるが、ただ読み過ごすだけで面白ければいいようなことだ。
何がどうしたところで、すべてがおそらく伝承である。岡田英弘著作集「日本とは何か」によれば、ヤマトタケルは天武天皇の影であると断じる。壬申の乱の出来事がすべて二重写しに記されていると明らかにする。古事記は日本書紀より後に書かれた。古事記にあって日本書紀にない事柄は日本書紀が求めた風土記が日本書紀完成時に間に合わなかったためであり、そのため日本書紀にない事柄が古事記に載せられることになった。大御食にまつわる変事もいまは失われた風土記の何処かにあったのかもしれない。岡田氏は『古事記』は偽書であると断言されている。ここに詳しく引用することは出来ないが、平安朝の作品だそうである。平安朝文学の傑作と評しているが古代の真実に迫る手掛かりとしては役に立たない。兄、天智天皇の息子である大友皇子を、実力で倒して皇位を奪った天武天皇が着手した国史の編纂は、681年から39年かかって720年に完成した。これが『日本書紀』である。日本最古の古典であるが、最古は必ずしも真実ではない。ちなみに『古事記』の序文の日付は和銅5年、すなわち712年、太安万侶の名はここにだけ出ている。風土記の編纂が命じられたのは713年だ。あとから書いた『古事記』にはより多くの風土記の内容が盛り込まれている。「因幡の白うさぎ」の言い伝えもその例である。

露伴がいくら詳しく考証しようとも伝承が史実に変わることはないが、考証してくれている事柄はおそらくどこかにあったはずのことであろう。その考証の過程から地名の変遷、言葉の意味の変化、伝承芸能の誕生、まつりの発生、暮らしの習俗の変化などが生じてきたことなどが考えられる。日本文化の探求として興味がそそられる。筆者はもっと直接的に露伴の遺した文章表記に興味がある。ことば、音声、文字、漢字、漢語、など。明治の頃に西洋知識を吸収しようと西洋文字の文章に取り組んだ人々は漢英辞典を利用したと聞く。ならば以後日本文に使われている漢字の熟語には本来和語であるべきものに漢語が当てられていることもあるだろう。西洋語が意味した内容を日本語用の頭脳で考えて日本語にした場合とのずれもあるはずだ。露伴の文字の使い方にはそのあたりがうまく出ているように思えるので深く読んでみたい。たまたまヤマトタケルに出逢ったが、筆者にとっては話の中身は史実でなくても構わないのである。この度はこのような関心から書き出したのであったが、あれこれと目移りがしてまとまりのないことになってしまって残念であるがこのままにしておく。
そうそう、『日本書紀』景行天皇紀の「二年春三月丙寅朔戊辰」がどうして今でいうところの「二年春三月三日」であるとわかるのか。これまでは詮索するのが面倒だからフンフンと読みすごしていたのだったが、今回リクツを勉強した。十干十二支をあわせた六十干支表を教わった。インターネットは誠に重宝な道具であるにしても、それを使って細かく説明してくれる方もいること、原文の提示も同じく、本当にありがたいことに思う。
読んだ本:『露伴全集 第17巻』(岩波書店 昭和54年第2刷、第1刷昭和24年)(2018/12)





2015年3月24日火曜日

露伴を読む(4)「言語と文字の間の溝」(昭和13年9月)

表題の一篇は座談の記録である。正確には岩波書店編集部の記者が当時かしましかった振り仮名についての議論に対する露伴の意見を聞きに来た時の対談記録である。対談といっても殆どが露伴の発言であるし、その内容の知的な豊富さは巧みな表現と相まって自ずから人柄の滲みでた楽しい座談であると思う。

対談の契機となったのは作家山本有三が著書のあとがきに添えた主張である。本文で山本は易しい漢字だけを用いる文章をこころがけて振り仮名は一切使わないことを実行した。そして、あとがきで振り仮名は一切用いないことを世に勧奨した。これが「ふりがな廃止論」とされ多くの議論が巻き起こったのであった。
(参考)
山本有三『戦争とふたりの婦人』巻末「この本を出版するに当って―国語に対する一つの意見―」岩波書店 昭和13年5月単行本、8月改訂版
山本有三『戦争とふたりの婦人』巻末「この本を出版するに当って―国語に対する一つの意見―」「『ふりがな廃止論とその批判』へのまへがき」岩波書店 新書版 昭和14年
白水社編『ふりがな廃止論とその批判』昭和13年12月)


昭和13年当時と現在では、時代というか世相が全く違うわけだし、言葉や漢字についても感覚も異なることから、ここでは昔のことをとやかくいうことはしない。ただ問題の種類や所在は当時も今も相変わらずである。したがって、この一篇では虚心坦懐に露伴の語るところを愉しめばよいだろうと思う。その意味でこれは筆者にとっては楽しい読み物であった。賢くなった気もするし。

ちなみに「ふりがな廃止論」に対する露伴の意見は、常識的なことである。要約すれば、
普通教育を受けた者には誤解誤読のおそれなきものには付けない。地名などは字が決まっているのだから仕方がないし、ほかにもいろいろあるだろう。そういうものには親切の意味で下に小さく読みを書いておく。
文字と言語の間に溝のある我が国のことだから、訓注を要する場合があるということだけは予想されねばならない。
ということになろう。

「文章はルビーだけで成り立っているわけではなく、もっと大きな問題がいくらもあるのだから、それで漢字を廃してしまうとか、ローマ字を採用するとか、あるいは仮名文字にしてしまうというような大きい議論は別にして、それをお預けにしたところでルビー一つだけで論ずるのならば」という前置きをしているが、その当時の漢字制限論やローマ字運動には批判的であったかのようにみえる。

「『字』という字の意味が元来孳乳繁殖を意味していて」という箇所があるが、調べると哺乳動物が繁殖するということだったが、「うむ、ふえる」という意味の「孳(じ)」が「字」の語源で、字は増えるから「字」を使うようになったと辞書にある。「社会の事物思想が段々と新生して来ると言語だの文字だのは随應して増加して行くべき譯」で「文字を減じ得ても言語は増さぬ譯には行かぬ」から制限しようというのは容易ではない、と言っている。「詞は元来が耳に訴えるものにして(漢字が減らされれば)長々しく示されるようになる」から、露伴の頃から80年余経て、紆余曲折があったとはいえ、現代の漢字仮名交じり文はほどよいところで落ち着いたのかなという感じがする。

漢字クイズなどに難読漢字を読ませるものがあるが、鑷(金偏に耳が3つ)を露伴が話のついでにもち出している。「ケヌキ、毛抜」だそうだ。紅葉が好んで使ったというが「南方」と書いて「ケヌキ」と読ませた。こころは「南方不毛の地」から採ったシャレらしい。この場合南方は今の東南アジアである。昭和期前半の南方も未開瘴癘の地として扱われていた。1970年代、外務省のシンガポール駐在員には瘴癘地手当がついていたらしい、随分失礼な話ではある。

また日本の故事からの言葉として「白馬」を「あおうま」と呼ぶ習慣を紹介している。漢字の白は碧と共通するらしいが、日本では古来の年中行事に「白馬節会(あおうまのせちえ)」があることを知った。そういえば神社に白馬が飼われているのを見た記憶がある。故事の漢字と読みかたの結びつきは、知らなければ振り仮名に頼るしかない。

劇作家の井上ひさしさんは、振り仮名は漢字と仮名、つまり意味と音をつなぐ貴重な工夫なのだ、と書いていて、作品にも数多く利用している。それがまた、たいてい笑わせたりして愉快だったのは懐かしい。大冊「吉里吉里人」が我が本棚の奥に眠ったままになっていたのを思い出した。読んでみよう。

「言語と文字の間の溝」は近代デジタルライブラリーで読める。「音幻論」の付録175ページ。コマ番号95から始まる。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1126366/8

(2015/3)











2015年2月17日火曜日

露伴を読む(2) 『突貫紀行』

『突貫紀行』 幸田露伴


身には疾あり、胸には愁あり、悪因縁は逐えども去らず、未来に楽しき到着点の認めらるるなく、目前に痛き刺激物あり、慾あれども銭なく、望みあれども縁遠し、よし突貫してこの逆境を出でむと決したり。


冒頭、このような文で始まる。突貫の目的が逆境を抜け出ることにあることはわかるが、その逆境がどういうものか、何もかもが意に反する事ばかりでさっぱり面白くないという事情らしいと察して、こちらもともに旅立つ。


「五六枚の衣を売り、一行李の書を典し」たのは、こうして旅費を工面したらしい。典す、とは質に入れることと漢語辞典にあった。

出発の地は不明だが「忽然と出発す。時まさに明治二十年八月二十五日午前九時なり。桃内を過ぐる頃、馬上にて、」として戯れ歌を一首ものしている。

   きていたるものまで脱いで売りはてぬ 
       いで試みむはだか道中   


文語体で書かれていて、擬古文というらしいが、なかなかの名調子で、話のうまい人をしのばせる。 

キト旅館小樽支店昭和15年頃
http://homepage2.nifty.com/tamizu-otaru/miz120.htm


キト旅館函館
http://www.pocketbooks-japan.com/index.php/manufacturers_id/3/sort/1a/filter_id/2500/page/5

次に出てくる文は、「小樽に名高きキトに宿りて、云々」とある。さてこのキトとは何ぞや。宿であることはわかるが、宿の名なのか、そういう建物のことなのか、聞いたことのない言葉だけに見当がつかない。なぜカタカナなのか、意味は何だ、と余計なことが気にかかる。函館でもキトに泊まっている。結局ネットで調べがついた。
キトはキト旅館という旅館のことを指していた。カタカナ表記で意味は不明であるが、函館の建物を当時の写真で見ると「キ」偏に「ト」を旁とした漢字風の表記が見える。当時は上等の宿であったようだ。

小樽からは船で船中泊を重ねて函館に至る。キト旅館に泊まって、文魁堂とやら云える舗にて「ジグビー、グランド」を旅の退屈しのぎに買ったというが、これは何を買ったのか。明治42年出版の博文館叢書所収の「突貫紀行」では、この箇所は「小説を...」となっている(近代デジタルライブラリー)。誰がいつ変更したのか。しかし、初出本を元にした岩波の露伴全集では元に戻っている。原文は旧仮名でヂグビーである。


その午後、「わがせし狼藉の行為のため、憚る筋の人に捕えられてさまざまに説諭を加えられたり」とあるのはどうしたのであろうか。なにか悪いことをしたのか。これが二十九日。


されどもいささか思い定むるよし心中にあれば頑として屈せず、他の好意をも無になして辞して帰るやいなや、直ちに三里ほど隔たれる湯の川温泉というに到り、しこうして封書を友人に送り、此地に来れる由を報じおきぬ。罪あらば罪を得ん、人間の加え得る罪は何かあらん、事を決する元来廱を截るがごとし、多少の痛苦は忍ぶべきのみ。


とは相当の覚悟をもって何かを実行したことがうかがわれる。


岩波本では毛布にケットと振ることなどを除いて漢字に振り仮名がない。廱は「よう」だ、つまりできもの。

筆者は、アマゾンの電子本リーダー「キンドル」を入手した機会に『突貫紀行』を読み始めた。単品で無料だ。上述に触れたように露伴の原文は旧漢字に旧仮名遣いで書かれていて、著者がこのように読んでもらいたいとする漢字の他には振り仮名がない。仮に岩波の露伴全集を手にしただけなら、手にあまること必定だった。ところがキンドルのは「ちくま日本文学全集」を底本にしていて新字新仮名になっているから極めて読みやすい。

湯の川温泉では林長館というのに宿をとり、気に入っている。三十日と三十一日は読書、九月一日は館主とイワシ漁見学、二日は無事とあって、三日午後再び函館キト旅館に投宿する。「五日、いったん湯の川に帰り、引きかえしてまた函館に至り仮寓を定めぬ。」これはなんのためか。また、仮寓はキトか、それとも別に借りたか。そのあと読書に日を過ごし、九日、市中を散歩途中にこの地にいるはずのない男に行き逢った。

  
何とて父母を捨て流浪せりやと問えば、情婦のためなりと答う。帰後独坐感慨これを久うす。十日、東京に帰らんと欲すること急なり。・・・以下略
この間、かなり読書をしているところを見ると文魁堂で買ったものはやはり小説であったのかと思える。そして街中で男にあってからは、何やら思案の様子、十日には急に帰省を思い立ったように書いている。
ということは、はだか道中を始めた時には、どういうつもりであったのだろうか、突貫を企てたのは旅ではなく、人生行路であったのか、読者はいくら思いを巡らせてもそれはわからない。さらにまた、出発に当たって一行李の書を典してまで金策をしたのに、函館で日を過ごし、小説を買い求めて旅館で読みふける。ふところの豊かな文人ならいざ知らず、貧乏青年の振る舞いとしてはちと理解しがたいことではある。

想像するに市中で知人に遭うまでは、宿ではなく仮の住まいを定めて暮らすことを一旦は考えたが、男の話を聞いて帰心が生じたということかもしれない。つまり職を放棄したものの暮らしの方策は何もなかった。目前にあった刺激物とは、さては文学の道であったかと想像する。

『作家の自伝81 幸田露伴』(佐伯彰一・松本健一監修 日本図書センター 1999年)記載の年譜に少し説明がある。
明治十八年7月、中央電信局での実務期間を終えて判任官となり、十等技手として北海道後志国余市の電信分局に赴任。給費生であった者には三年間の地方局勤務の義務があった。本俸十二円。漢籍や仏書を持って行って読む。坪内逍遥「小説神髄」、東海散士「佳人之奇遇」などの新文学に心躍らせ動揺をおぼえた。
明治二十年 八月二十五日午後十時、ひそかに余市を脱出。義務年限を一年近く残して官を棄てたのである。「幽玄洞雑筆」にこの日附を題にする漢詩がある。前途にしっかりした目標があっての脱出ではなかった。二十九日、函館で追手につかまって説諭されたが応じなかった。(以下省略)
さて、東京に帰ると思い立ったにしても、青森から先を船で行くか陸路を取るか。鉄道はまだ来ていないのであった。どっちにしても青森からの全行程を乗り物に頼る金はないのだ。ふところ算段と道中の見聞の得失を検討の結果、途中仙台で金を得るあてもあるらしく陸行に決する。つまり青森まで渡航したのちは歩くのである。その方が見聞が広くなり楽しみも多いということ、かくして突然青森行きの船に乗ってしまう。

翌朝青森で知人を訪問、翌々十二日の昼食後から歩き始める。道々、善知鳥とか南兵衛という言葉が出る。当方はネットの世話になって能や歌舞伎の狂言につながる話題であることを勉強する。


しかしながら現実は厳しく、見るもの味わうもの触れるもの、みないぶせし、笥にもるいいを椎の葉のなぞと上品の洒落など言うところにあらず、とは露伴のしゃれではあっても、こちらは気の毒の思いが先に立つ。しかし笑える。ここでは有間皇子の不運をしのぶよりも、万葉の歌に一人歩きをさせて興がっている露伴の遊び心を買いたい。

浅虫の湯にもつからず安宿に泊まり、戸は風が漏って夢さめやすし。帽子をなくしても買う金がなく、無冠の太夫としゃれてはみたが、洋服に手拭いの頬かむりでは犬が吠えついて困った。
野辺地では煮物のキノコに当たって、道端の草の褥に苦しんだが人より宝丹をもらってようやく人心地。「おそろしくして駄洒落もなく七戸に腰折れてやど」る。
こういう場合にたどり着く宿は、意地悪くより抜きのおんぼろ宿が相場と見えて、山の中なのに行灯の油は魚油臭い。食うものいとおかしく、という「おかしく」は現代用語の使い方を兼ねて、本当に変なものを食わされたようで、魚のなますにはまた当たるかもと敬遠し、椀の中は五分切りの泥鰌とくれば、またもや当たりそうに思えるし、豆腐は芋より固いとはどういうわけだ。あまりに情けなかりければ、と、ここで一首浮かぶのが露伴らしい。

  塩辛き浮世のさまか七の戸の

     ほそきどじょうの五分切りの汁

露伴は饒舌である。目に映るものいちいちに独特の説明が加わる。三本松では牛馬が名物と言われても、食うこともならず土産にもならず嬉しくないものだ、と言うかと思えば、雨激しく降る中の松並木も「ここには始皇をなぐさめえずして」と秦の始皇帝が雨宿りした松に爵位を贈った故事にかりて自らを始皇にたとえてふざけたりする。

里程を訪ねて三里と答えを聞き、それなら一走りと息せいて急いでもさっぱり到達しないで足の豆をつぶしてしまう。ようやく着いて聞けば、あのあたりの一里は五十町なりと聞いて道理でと思うが後の祭り。しかしその夜の鮭はうまかったと、よかったなぁ。これは九月十四日。

十五日きのうは昼めし食いそびれたので、宿でムスビをもらう。さて食おうとすると折よく卵を売る家あり。値を聞けば6厘なり、これは安いと三個購う。渓流の景観を楽しみながら、卵を割って口に放り込むと「臭い鼻を突き味舌を刺す」。三個すべてが腐っていた。「これにて二銭種なしとぞなりける」、この「種なし」の用法は珍しく思えた。無駄に消滅のこころか。乏しい懐中の銭を失った悲しさはすぐ歌になる。
  
   鳥目を種なしにした残念さ
      うっかり買たくされ卵に
   やす玉子きみもみだれてながるめり
      知りなば惜しき銭をすてむや

このあと一ノ戸を目指す途次、再び道のりの問答があり、今度は一里が六町だったりして物指しの基準が定まっていないことに心身ともに振り回されている。「小繋まではもくらもくらと足引の山路いとなぐさめ難く」とあってこれは出典不明、「暮れてあやしき家に宿にやど」れば「きのこずくめの膳部にてことごとく閉口」した。


十六日、足をいためて一寸ばかりの豆3つこしらえ、涙ぐみて入った渋民の町、盛岡まで二十銭と北海道の馬より三倍安い車夫がいたので乗る。十七日も足傷みて立つこと叶わず心を決して車に乗る。この日行程二十四里で一ノ関着。十八日は淀の川下りの弥次と我が身を比べながら北上を下る。石巻を経て野蒜に向かうが足が腫れてひと足ごとに剣を踏む思い。


苦しさ耐えがたけれど、銭はなくなる道なお遠し、勤という修行、忍と云う観念はこの時の入用なりと、歯をくいしばってすすむに、やがて草鞋のそこ抜けぬ。


小石原というところで、いよいよ耐え難く、雨は降るし日は暮れるで難儀して、負うた靴をとりおろして穿つ、というからには、靴を履いたのであろう。何だ靴を持っていたのかと思ったが、靴より草鞋のほうが長い道のりを歩くのには良かったのであろう。いまどきのウオーキングシューズの有り難みがわかろうというものだ。


やがて一軒家に草鞋が売っているのを見つけ、ひとつ求めるに十銭札を出したが受け取らない。近々通用しなくなるとのことで、いくら事情を説明しても、いじわる婆あめ聞き入れず。まだまだ紙のお金は通用しないのだ。


さても旅は悲しき者とおもいしりぬ。鴻雁翔天の翼あれども栩々の捷なく、丈夫千里の才あって里閭に栄少し、十銭時にあわず銅貨にいやしめらるるなぞと、むずかしき愚痴の出所はこんな者とお気が付かれたり。


とは出典は分からないが、ここにも自分をからかっている泣き笑いの露伴がいる。口調はうまいものだと感心する。やがて草鞋が買えて元気も出て八時半ごろ野蒜に着いた。白魚の子の吸物うまし、海の景色も珍らし。


十九日、待ちに待った松島が見られるとて俄然元気を出す。乗り合い船に客がいなくてやむなく財布はたいて船を雇った途端に客が来た。腹が立つけど松島の景色にひたすら、ああ松島や、松島やと、ご機嫌である。

明日は知人を訪ねてお金が手に入る算段、残った一銭を塩釜神社に奉納する。

   からからとからき浮世の塩釜で  
      せんじつめたりふところの中
  
はらの町にて、

  宮城野の萩の餅さえくえぬ身の

     はらのへるのを何と仙台

二十日、待望の仙台で知人を訪ねたが、何と言葉の聞き違いで会えず。二十八日まで逗留を余儀なくされた。この間は本を読んだり基督教会で説教を聞いたり。この教も仏教も人の口より聞けば有難からず、とさとる。さすが露伴さんだ。


   いそがずばまちがえまじを旅人の

      あとよりわかる路次のむだ道

二十八日、少しばかりの金と福島までの馬車券をもらったので、馬車で福島に行き、問いただすと郡山まで汽車が開通しているとのこと。東京までの運賃は懐中の金とほぼ同額、熟慮の挙句、夜を徹して郡山まで歩き、朝一番の汽車に乗ろうと決めて歩き出した。この最後の徒歩旅行が最も苦しかったようだ。犬に吠えつかれ、人に誰何され、浮浪者さながら、ある時など道端に大の字なりになって、他年行き倒れになる際にはこういうふうなものかなど思い巡らせたりしている。もう歌など詠む気力さえなかった模様に見受けられる。


二十九日午後、ようよう帰り着いた我が家では、父母いたく老いたまいたるように見え、祖母様も中風にかかり身動きも得したまわず、心も心ならず、わずかに弟妹のやや成長したるに嬉しさを感じたのみ。それにつけても我が身の相変わらずの進歩のなさを呉下の阿蒙を引いて嘆くことでこの紀行文は終わる。最後の一行に「他を見るにつけこれにすら悲しさ増して言葉も出でず」とあるのは、何か秘めたる心がうちにあるのではと感じたがどうだろう。


読み終わってこの作者はまさに言葉の人だと思った。名文で名口調、耳に快い日本語。博識と機転の上の諧謔。辛く苦しいはずの裸紀行も二十歳の青年の横溢した気力が勝ったか、読者はずいぶんと楽しませてもらった。二十歳にしてのこの博識は当時の水準であったのだろうか。やはり文芸の道を志望していたことの証左でもあろう。自伝はついに書かなかったと伝えられるが、昭和二年に書いた自記年譜がある。


明治十六年 電信修技校に入る。給付生となりて自ら支へたる也。明治十七年 同校卒業、実務を執る。明治十八年 判任に補せられ、次で北海道後志に赴任す。明治二十年 官を棄て出京す。乃ち免官せらる。明治二十一年 「露団々」を草す。


「雅号の由来」という談話文が遺されている。金がなくなって夜も昼も歩いた。眠くなれば野原に寝たものだ。「里遠し いざ露とねん 草枕」という句も出来た。金港堂の「都の花」という文芸雑誌に「露団々」を書くことになった。雅号をつけてやろうと考えついたのがこの句であった。そして、はじめて露伴とつけて、その雑誌に載せた、と語っている。昭和十四年六月十六日朝日新聞夕刊に載ったそうだ。


「突貫紀行」は明治二十六年九月博文館発行の紀行文集「枕頭山水」に収められた(岩波『露伴全集第十四巻 後記)。原文末尾に記された年月が明治二十年八月とあるのは著者の誤りであろうか、どこにも解説はない。

(2015/2)








2014年8月6日水曜日

読書随想 小林勇 『蝸牛庵訪問記』 講談社文芸文庫 1991年

幸田露伴60歳から亡くなるまで日常的に身辺にいた編集者の記録。
書名の蝸牛庵は幸田露伴の号である。
「蝸牛庵というのはね、あれは家がないということさ。身一つでどこへでも行ってしまうということだ。昔も蝸牛庵、今もますます蝸牛庵だ。」昭和十三年八月九日談

岩波書店の小林勇は大正15(1926)年に小石川の露伴宅を初めて訪問している。原稿の催促に行ったのであるが、庭先までしか入れてもらえない。昭和2年、幸田家は近くの家に引っ越した。この引っ越しの手伝いで急速に露伴一家と親しくなったと書いてある。旧宅で長男成豊が亡くなっている。後妻の八代夫人と次女文子がいた。翌年文子は嫁ぎ、夫人はやがて信州へ別居する。
この年露伴61歳。小林は24歳、店主岩波茂雄の信任厚く、よく協力してこの年岩波文庫を立ち上げた。明治二十五年の旧作『五重塔』はいきさつがあって人手に渡っていた版権を露伴が買い戻してあった。頼んで岩波文庫に入れてもらった。山本夏彦が書いている。
初め門前払いされたが忽ちふところにとびこんで、いつか入りびたりになるまでになった。露伴は一代の碩学ではあっても、今も昔も売れる人ではない。三日にあげず訪ねて許されるのは、著者と編集者の仲ではない。友に似たものになってついに死水までとった(山本夏彦 『私の岩波物語』 文藝春秋1994
その通りである。小林の露伴訪問は不定期であるが頻繁である。露伴の居室に出入り自由、そのときの判断でそのまま長時間話し込んだり、来客や多忙時など遠慮すべき時には遠慮する。露伴は厳格な人だが、気さくな人でもある。小林の立ち居振る舞い、かくれた努力などが気に入られたのかもしれない。信州の父親にやかましくたたき込まれたこと、すなわち、約束を守ること、骨惜しみをしないこと、それに、けじめをきちんとすることを実行し続けた。これはおそらく露伴の気性と一致したことであろう。

長年の露伴の座右にあっての出来事や話題はさまざまである。この訪問記を通して露伴が勉強している様子はほとんど見えない。小林に会うまでに大抵の勉強は終っていて小林とはその成果を語っていただけかもしれない。露伴は座談の相手にその話柄が理解されているかいないかをすぐに見破っていたようであるから、小林も始終勉強を強いられていたことであろうが、文章にはまったく気配も出ていない。買いかぶりかもしれないが、このあたりも小林のひそかな努力だろうと思う。この本には出てこないが小林は多芸多能の人である。
小林勇は、画をかき、書をよくし、集めて十一巻におよぶ文を撰したのみならず、歌舞、詩歌、酒、食物、釣にいたるまで、みな一家言を有し、ただの素人ではないの風があった。鍋物ならば、みずから味をととのえねば気がすまず、そのわけをも述べて説く。(同書巻末「人と作品」竹之内静雄)
これはほとんど露伴ではないか。ほぼ50年近く露伴の座右にあって学び取ったことだろうか、あるいは生来の天分であったか。いずれにしろこの本を読み終えたあと、今まで何日間かいっしょにいた露伴がいなくなったような寂しさを感じたものであった。露伴からはほのぼのとした暖かみを感じ続けていた。しかし、実を言えば、小林は小林に対している間の露伴しか書いていない。病勢の進んだ露伴が文子に対しているときは健康なとき以上に辛く当っているはずだ。家族への甘えが無理を承知で無理を言うということがある。先夫人が傍に付き添ってでもいれば家内はかなり穏やかであったろうと思える。今の今まで辛く当っていたときでも小林が顔を見せると、家族はよくしてくれるなどというのだ。もともと気むずかしいと評のある露伴だが、実のところはやせ我慢なのではないかと思う。愛すべき爺さんとでもいえるが家族にとっては大変だったに違いない。小林はそれも承知でこの作品には露伴が悪く思われないように気をつかっている。露伴は淋しかった。小林勇がいてくれてよかった。これはそういう作品でもある。

時局が切迫するにつけ文学報国会の会長にとか、なんだかんだと有名人を狩り出そうとする動きが盛んになったが、露伴は一切応じなかった。講演やら意見記事やらすべて断っていた。戦争が始まった日、露伴は真珠湾のニュースを聞いて「若い人がなぁ」といって涙を流したという。

最後に著者が横浜事件の難に遭った際、東神奈川署で読んだ露伴からの手紙をそのときの状況とともに記録しておこう。露伴は信州坂城の不愉快な人たちの家に寝たきりの日々を送っていた。
八月になって戦争が終りに近づいていることは、私にもわかって来ていた。そのころ、私に対する取調べはふたたびひどくなっていた。八月の三日か四日であると思うが、私の顔は血だらけになっていた。そこへ検事が私に会いに来たというのである。私をなぐっていた男は私を留置場へ返して逃げてしまった。私はひょっとこが血だらけになったような顔で検事の前へ出て行った。

その後如何。足下が拘禁せられし由をきゝて後、日夕 憂慮に堪えず、然れども病衰の老身、これを何ともする能はず、たゞ誠にわが無力のこれを助くるなきを愧づるのみ。たゞ、今の時に当たりては足下が厄に堪へ、天を信じて道に拠り、自ら屈し、みづから傷むことなきをねがふのみ。おもふに我が知る限り足下が為す処、邦家の忌避にふるゝことなきを信ず。まさに遠からずして疑惑おのづから消え、釈放の運に至るべきを思ふ。浮雲一旦天半を去れば水色山光旧によって明らかなる如くなるべし。なまじひに散宜生の援護の手を動かして人を救ふが如きをせず、孔子が縲紲の士その罪にあらざるの信を寄する挙を敢へてするの念をいだくのみ、足下また将に人知らずして恚るの念を懐くことなかるべし。人悲運に際して発生するところは、心平らかならずして鬱屈危詖に至にあり、冀くは泰然として君子の平常を失はざらむことを欲す、即ち遠からずして青天白日足下の身をつつまむ、この心をいたしていささか足下をなぐさむるのみ。
        月  日         露
小林勇様

検事は君は取調中の人間だから、これを渡すことは出来ない。私が預かっておくといった。
それからまた、「君は単に本屋の店員としての知り合いだというが、この露伴先生の手紙はそんなものではない。露伴先生ほどの人がこのように愛している君については、考えなければならぬものがある」といった。
そして彼は「この手紙はわたしにくれないか」といった。(昭和二十年 「使者・手紙」)
(2014/8/6)




2014年7月20日日曜日

読書随想 露伴を読む(1)

「雪たたき」(昭和14年)

雪たたきは下駄の歯の間に固く挟まった雪のかたまりをたたき落とすことをいう。
鳥がその巣を焼かれ、獣がその穴をくつがえされたときはどうなる。心は乱れ、目はうつろに、ただ脅え、警戒し、緊張し、いたづらに闘争的になるであろうと、冒頭に5行の文を置く。これで作品の時代の様相を表わしている。
応仁、文明、長享、延徳を経て、今は明応2年の12月の初めである。西暦でいえば1493年に当たる。前年にはコロンブスが新大陸に到着したが、日本の中は下克上の時代、将軍家が落ち着かず荒れに荒れている。
泉州堺は静かな屋敷町の裏通り、傘の代りに古筵をかぶった男一人、禄を離れた侍らしい。雪も止みかけ、筵を捨てて早足になろうとして下駄の雪に足を取られ躓きそうになる。
エーッ邪魔なとばかり目の前の小門の裾板に下駄をぶつける。二度三度繰り返すと雪塊が抜けた。と同時に門がすっと開いた。
門が開いたのは男の意外であったが、読者の意外はこれが始まりで数奇な物語に導かれる。屋敷の主は堺の豪商、いまは海外に出て留守であった。下駄の音が秘密の合図と勘違いした侍女の過失から邸内に導かれた男は、失礼の詫びを受けて立ち去る。謝金のほかに室内に丁重に置かれていた笛を持ち去る。
笛がなくては娘の命にもかかわる豪商の隠居、身代にかえてもお返しくだされというのに、損得では意地でも動かぬ男の意志、割って入ったは旧主を盛りたて再興を図る一味の面々。あわや血を見ようかとまでの激論に男は意地を曲げる。「損得にそれがしも引き廻されてござるかな」。
足利将軍家の跡目争いに端を発した明応の政変の余波で家督争いに負けた畠山尚慶の再挙を題材にとった史伝物語である。露伴の筆にかかると血なまぐさい世の中でもしっかりと商売にいそしむ堺商人の暮らしと争いに明け暮れる武士の世界があたかも絵巻物の一巻でもあるように浮かび出る。「雪たたき」という閑雅な響きの表題は新派の舞台に掛けてもよし、講談でもよし、浪曲師も使いたくなろうかという庶民にもわかりやすいお話。

余談になるが、一般に漢字漢語が多くて読みにくいとの露伴評は、ここでは必ずしも当たらないと思う。たしかに漢字が多いが、この全集には旧仮名遣いのルビが振ってある。全集の編集者は蝸牛会となっているが、全集のどこにもその構成員や編集方針などが見当たらない。したがって、ルビや仮名づかいの取り扱い方針などは分からない。僅かに私は研究者の論文中に蝸牛会6名の名を発見し得た。すなわち、幸田文、斎藤茂吉、柳田泉、小林勇、土橋利彦、松下英麿である。(「目野由希 露伴「史伝」の戦中戦後――松下英麿の軌跡――」

( 露伴全集第6巻 小説6 岩波書店 昭和53年第二刷)




「幻談」(昭和13年)

一席の高座を聴く趣の短編である。
はじめに、山や海に出掛けると神秘的なことや怖ろしいことにも出会うと言いながら、外国のお話を軽く紹介します。アルプスのマッターホルン初登頂に成功したウィンバーが語ったという登攀記の一節です。下山にかかってのこと、半数の4人が滑落します。上で4人が踏みこらえます。落ちる4人とこらえる4人の間でロープは力足らずして切れてしまいました。下の4人は4千尺ばかりの氷雪の處を逆落としに落ちていきます。午後6時ごろ幾分安全な場所まで降りて来ました。つい先刻まで一緒にいた人々がもはやいない、という虚ろな気分です。そのとき4人の目に見えた不思議な光景がありました。そのすこしこの世でないような情景を描写したのち、「心は巧みなる畫師の如し」という経文の言葉でおさめます。これがいわばマクラに当たります。
さて本題は、というところで趣味の魚釣りと閑職にまわされたお侍ののんきな暮らしの話になります。大川に釣り船を出して、ときには江戸前の海までゆく。馴染みの船頭が約束の日に迎えに来ておもむろに出掛ける。雲行きの怪しい日にはきょうは旦那はどうするかなと遅い時間に様子を見に来て、昼になると旦那は座敷で、船頭は台所にさがって昼飯をとる。さて行こうか、という具合な往時の日常が描かれます。露伴自身、釣りが大層好きだったそうですから、仕掛けや竿など道具の蘊蓄を傾けるのも楽しそうです。
こうした日常のある日、遅くまで海にいて薄暗くなってから帰りを急ぐとき、ふと向こうの水面に妙な物が見えます。はてなと船頭を見ると同じように首をかしげている。ということがあって、その見えたものがなんであるか、それをどうしたか、その次の日はという具合に話が進んでいきます。
おしまいは伏せておきますが、緩急を心得た話の展開です。江戸っ子の露伴がしゃべらせるのですから船頭の話しっぷりも生きがいい。これなら露伴さんも高座に上がってもずいぶん客がついたろうなどと失礼なことも考えたくなりました。
兎に角面白いのです。おしまいのぼかしぶりも大変よろしい。名作です。
(露伴全集第6巻 小説6 岩波書店 昭和53年第二刷)

連環記 (昭和15年)

「かものやすたね」という人の話で始まる。賀茂保胤であるが、慶滋保胤と書く。生年没年は承平3933)年―長保4(1002)年とされるが確かには不明のようである。陰陽師安倍晴明の師の賀茂忠行の次男であるが家業の陰陽師にはならず、儒家であり詩歌に優れた菅原文時に師事した。文時は道真の孫、従三位、漢詩の巨匠であるが、保胤も資質高く弟子の上位にあり、詔勅・記録を司る大内記にまでなった。
保胤の仕える具平親王は保胤を師としていたが、この師は世事には一切興味を示さず、「出世間の静寂の思いに胸が染みて」いて、親王への講義がひととおりすむと、なかば瞑目するようにして口の中でかすかに何か念じるようにしていたという、少し変わった先生ではあったらしい。狂言綺語(詩歌のこと)をもって仏法をたたえる縁としたいという白楽天のような思想を保胤は是としたところであろうことは疑いないと露伴は述べている。
保胤がいかに慈悲心の強い人物であったか、いくつかの逸事が紹介されているが、ことにあって涙を流す様子は尋常ではなかった。時にはそのために自身も困難な目に遭うこともあった。そういう話も今鏡に遺されている。世才に疎いのはやむを得ぬことで長年借家住まいをしていたが50歳にちかい頃、六条に安い土地を買って居宅を作った。その記録は池亭記として遺った。またこの池亭に住まいしながら本朝善男善女四十余人の幸せな往生事実を記録して日本往生極楽記を著わした。
ここまでの保胤の事績を露伴は漢語漢文調の言い回しを駆使して面白おかしく書き綴っている。すべて現代文のふりがな付きとは言え、意味をとるには辞書もいるが、調子の良さに引きずられてしまう。
このあと、保胤は遂に落髪出家をしてしまう。戒師が誰であったかまったく記録がないそうな。
また妻も分からず子もあったはずだが系図にも見当たらないという。妻子ともに普通の人であったろうが、「善人ではあったろうが所謂草芥とともに朽ちたものと見える」とある。
保胤は入道して寂心となった。世間では内記の聖と呼んだ。

このあと、寂心、朋友源信、叡山の高僧増賀のこと、大江匡衡とその妻赤染右衛門、大江定基と妻、この妻には名がないわけではないが当時のならいとして記録がない、そして三河赤坂の長の娘の力寿などが登場する。定基と匡衡は従弟同士である。また定基も保胤と同じ文時を師とする流れにあり自然交流もあったろう。
定基と妻、力寿の三角関係の調停に赤染右衛門と大江匡衡が乗り出す場面は、露伴は前もってこれからでたらめを書く、ただし、定基夫婦の別れ話は定基夫婦の実演したことであると断っている。創作ではあるが、まるっきりあり得ないことではない人物のつながりはある。

定基が若くして三河の守に任じられて赴任先で力寿を見初めてしまったが、すでに定基には妻があった。赤染右衛門はあわれな定基の妻を見かねて、夫匡衡をたきつけて定基の改心を図るが、定基は妻を離縁してしまう。ところが、程なくして力寿も病を得て儚く世を去る。定基は惚けたように時を過ごし棺を覆うて弔うべしとの命令も下さないから、遺体はいつまでも傍らにある。古い書き物によれば、「悲しさの餘りに、とかくもせで、かたらひ伏して、口をすひたりけるに、あさましき香の口より出来たりけるにぞ、うとむ心いできて、なくなくはふりてける」とようやく始末を付けた。
このくだりについて坊さんの虎関の文と比べて大納言のは好いと露伴は書く。大納言は宇治拾遺物語の著者、宇治大納言源の隆国と思われる。ただし露伴は力寿の名は『宇治拾遺』にはないと書いている。三河守定基と力寿の話は『今昔物語』にも有名である。余談になるが豊川市には江戸時代に立てられた力寿の石碑があり記念の桜が年ごとに人を呼んでいる。
やがて定基は官職を捨てて東山如意輪寺を訪れる。そこには保胤のなれの果て(と露伴はいう)の寂心がいた。定基が剃髪して得度を受けて寂照と名乗ったのは三十歳そこそこだった。寂心の友であり師でもある恵心の教えも得て修道に励む。

「寂心は長保四年の十月に眠るが如く此世を去ったが、其の四十九日に当って、道長が布施を為し、其諷誦文(ふうじゅもん)を大江匡衡が作ってゐる。そして其請状は寂照が記してゐる。」露伴は『寂心上人伝』の存在を紹介して、寂心上人は衆生を利益せんがために、浄土より帰りて、更に娑婆に在(いま)すことを或る人が夢みたと記してあると。世を哀しんだ寂心と、寂心を懐かしんだ世の人々のこころがこういうことを伝えるに至ったのであろうと述懐している。寂心が池亭で編んだ往生極楽記につづいて大江匡房が続本朝往生伝を撰し寂心(保胤)も採録されている。「法縁微妙、玉環の相連なるが如しである」と露伴は記す。『連環記』の所以であろう。

寂照はやがて師恵心の意を受けて南宋の僧知禮に宛てた問目二十七条を携えて渡海する。問目を閲読した知禮は東方にこのような深い理解をした人があるかと大いに感心して答釋を作ることになった。また知禮は寂心を宋の天子にも紹介したので、紙筆を求めて日本の国のことを説明する機会を得た。文章の人であるから文字といい文といい宗主(眞宗しんそう)を驚嘆せしめ、日本の国体を賛美措くあたわず、紫衣束帛を賜り圓通大師の号を賜った。やがて知禮の答釋ができあがったが、寂照は引き留められ代りに弟子に持たせて日本に送ることになった。かくして寂照は呉門寺に留まり帰国することはなかった。仏の弟子になったからにはどこに居ても易らぬ理屈で、呉にあること三十余年、我が国でいえば長元七(1304)年「雲の上にはるかに楽の音すなり人や聞くらんそら耳かもし」の歌を遺して、莞爾として微笑して終った。

保胤の寂心、定基の寂照の二人をめぐるさまざまな人と人生絵図、平安期の貴族政治、浄土思想の世であるからにはどうしても叙述には漢字漢語が横溢する。途中赤染右衛門が登場するあたりになると和歌も登場するから、男性は漢字、女性はかなの世界となり文章もかなりくだけたものになっている。露伴はでたらめを語るといいながら俗諺俗謡の調子も取り入れ、なかなかのご機嫌である。本作をもって小説は終わりにしたらしいが、ずいぶんと楽しみながら書いたように思える。漢詩は読み下し文にしてあるが、仏説、仏法に関する言葉など読むには少し苦労が要る。
しかし、変幻自在というのもおかしいがじっくりと楽しめる作品であった。
『連環記』は「日本評論」昭和156月号と7月号に発表された。この年2月には皇紀2600年の大祭が催された。翌年末には太平洋戦争を仕掛ける。日本中が昂揚しているこういう時期にこういう作品を悠々と書いていたことは、「紅旗征戎わが事にあらず」と『明月記』に記した藤原定家を連想する。寂照が入宋して天子にまみえるくだり、「寂照は紙筆を請ひて、我が神聖なる國體、優美なる民俗を答へ述べた」。神聖なる國體という言葉遣いは時流に合わせたのかもしれない。当時一般に考えられていた國體とは字面は同じでも内実が別のものである気もする。露伴は言葉に関しては音幻論があるように言語は音声という考えの持ち主、と同時に市井の庶民の言葉を大切にした人であると私は考える。現在の目で見れば難しい漢字も多いが、漢字かな混じり文という日本語を大切にした作家と思う。旧仮名遣いを追って読んでいるうちに久しぶりに心の内なる自分の言葉に出会う心持ちがしていたことを特に記しておきたい。
(露伴全集 第6巻 小説6 岩波書店 昭和53年 第二刷)