2015年2月17日火曜日

露伴を読む(2) 『突貫紀行』

『突貫紀行』 幸田露伴


身には疾あり、胸には愁あり、悪因縁は逐えども去らず、未来に楽しき到着点の認めらるるなく、目前に痛き刺激物あり、慾あれども銭なく、望みあれども縁遠し、よし突貫してこの逆境を出でむと決したり。


冒頭、このような文で始まる。突貫の目的が逆境を抜け出ることにあることはわかるが、その逆境がどういうものか、何もかもが意に反する事ばかりでさっぱり面白くないという事情らしいと察して、こちらもともに旅立つ。


「五六枚の衣を売り、一行李の書を典し」たのは、こうして旅費を工面したらしい。典す、とは質に入れることと漢語辞典にあった。

出発の地は不明だが「忽然と出発す。時まさに明治二十年八月二十五日午前九時なり。桃内を過ぐる頃、馬上にて、」として戯れ歌を一首ものしている。

   きていたるものまで脱いで売りはてぬ 
       いで試みむはだか道中   


文語体で書かれていて、擬古文というらしいが、なかなかの名調子で、話のうまい人をしのばせる。 

キト旅館小樽支店昭和15年頃
http://homepage2.nifty.com/tamizu-otaru/miz120.htm


キト旅館函館
http://www.pocketbooks-japan.com/index.php/manufacturers_id/3/sort/1a/filter_id/2500/page/5

次に出てくる文は、「小樽に名高きキトに宿りて、云々」とある。さてこのキトとは何ぞや。宿であることはわかるが、宿の名なのか、そういう建物のことなのか、聞いたことのない言葉だけに見当がつかない。なぜカタカナなのか、意味は何だ、と余計なことが気にかかる。函館でもキトに泊まっている。結局ネットで調べがついた。
キトはキト旅館という旅館のことを指していた。カタカナ表記で意味は不明であるが、函館の建物を当時の写真で見ると「キ」偏に「ト」を旁とした漢字風の表記が見える。当時は上等の宿であったようだ。

小樽からは船で船中泊を重ねて函館に至る。キト旅館に泊まって、文魁堂とやら云える舗にて「ジグビー、グランド」を旅の退屈しのぎに買ったというが、これは何を買ったのか。明治42年出版の博文館叢書所収の「突貫紀行」では、この箇所は「小説を...」となっている(近代デジタルライブラリー)。誰がいつ変更したのか。しかし、初出本を元にした岩波の露伴全集では元に戻っている。原文は旧仮名でヂグビーである。


その午後、「わがせし狼藉の行為のため、憚る筋の人に捕えられてさまざまに説諭を加えられたり」とあるのはどうしたのであろうか。なにか悪いことをしたのか。これが二十九日。


されどもいささか思い定むるよし心中にあれば頑として屈せず、他の好意をも無になして辞して帰るやいなや、直ちに三里ほど隔たれる湯の川温泉というに到り、しこうして封書を友人に送り、此地に来れる由を報じおきぬ。罪あらば罪を得ん、人間の加え得る罪は何かあらん、事を決する元来廱を截るがごとし、多少の痛苦は忍ぶべきのみ。


とは相当の覚悟をもって何かを実行したことがうかがわれる。


岩波本では毛布にケットと振ることなどを除いて漢字に振り仮名がない。廱は「よう」だ、つまりできもの。

筆者は、アマゾンの電子本リーダー「キンドル」を入手した機会に『突貫紀行』を読み始めた。単品で無料だ。上述に触れたように露伴の原文は旧漢字に旧仮名遣いで書かれていて、著者がこのように読んでもらいたいとする漢字の他には振り仮名がない。仮に岩波の露伴全集を手にしただけなら、手にあまること必定だった。ところがキンドルのは「ちくま日本文学全集」を底本にしていて新字新仮名になっているから極めて読みやすい。

湯の川温泉では林長館というのに宿をとり、気に入っている。三十日と三十一日は読書、九月一日は館主とイワシ漁見学、二日は無事とあって、三日午後再び函館キト旅館に投宿する。「五日、いったん湯の川に帰り、引きかえしてまた函館に至り仮寓を定めぬ。」これはなんのためか。また、仮寓はキトか、それとも別に借りたか。そのあと読書に日を過ごし、九日、市中を散歩途中にこの地にいるはずのない男に行き逢った。

  
何とて父母を捨て流浪せりやと問えば、情婦のためなりと答う。帰後独坐感慨これを久うす。十日、東京に帰らんと欲すること急なり。・・・以下略
この間、かなり読書をしているところを見ると文魁堂で買ったものはやはり小説であったのかと思える。そして街中で男にあってからは、何やら思案の様子、十日には急に帰省を思い立ったように書いている。
ということは、はだか道中を始めた時には、どういうつもりであったのだろうか、突貫を企てたのは旅ではなく、人生行路であったのか、読者はいくら思いを巡らせてもそれはわからない。さらにまた、出発に当たって一行李の書を典してまで金策をしたのに、函館で日を過ごし、小説を買い求めて旅館で読みふける。ふところの豊かな文人ならいざ知らず、貧乏青年の振る舞いとしてはちと理解しがたいことではある。

想像するに市中で知人に遭うまでは、宿ではなく仮の住まいを定めて暮らすことを一旦は考えたが、男の話を聞いて帰心が生じたということかもしれない。つまり職を放棄したものの暮らしの方策は何もなかった。目前にあった刺激物とは、さては文学の道であったかと想像する。

『作家の自伝81 幸田露伴』(佐伯彰一・松本健一監修 日本図書センター 1999年)記載の年譜に少し説明がある。
明治十八年7月、中央電信局での実務期間を終えて判任官となり、十等技手として北海道後志国余市の電信分局に赴任。給費生であった者には三年間の地方局勤務の義務があった。本俸十二円。漢籍や仏書を持って行って読む。坪内逍遥「小説神髄」、東海散士「佳人之奇遇」などの新文学に心躍らせ動揺をおぼえた。
明治二十年 八月二十五日午後十時、ひそかに余市を脱出。義務年限を一年近く残して官を棄てたのである。「幽玄洞雑筆」にこの日附を題にする漢詩がある。前途にしっかりした目標があっての脱出ではなかった。二十九日、函館で追手につかまって説諭されたが応じなかった。(以下省略)
さて、東京に帰ると思い立ったにしても、青森から先を船で行くか陸路を取るか。鉄道はまだ来ていないのであった。どっちにしても青森からの全行程を乗り物に頼る金はないのだ。ふところ算段と道中の見聞の得失を検討の結果、途中仙台で金を得るあてもあるらしく陸行に決する。つまり青森まで渡航したのちは歩くのである。その方が見聞が広くなり楽しみも多いということ、かくして突然青森行きの船に乗ってしまう。

翌朝青森で知人を訪問、翌々十二日の昼食後から歩き始める。道々、善知鳥とか南兵衛という言葉が出る。当方はネットの世話になって能や歌舞伎の狂言につながる話題であることを勉強する。


しかしながら現実は厳しく、見るもの味わうもの触れるもの、みないぶせし、笥にもるいいを椎の葉のなぞと上品の洒落など言うところにあらず、とは露伴のしゃれではあっても、こちらは気の毒の思いが先に立つ。しかし笑える。ここでは有間皇子の不運をしのぶよりも、万葉の歌に一人歩きをさせて興がっている露伴の遊び心を買いたい。

浅虫の湯にもつからず安宿に泊まり、戸は風が漏って夢さめやすし。帽子をなくしても買う金がなく、無冠の太夫としゃれてはみたが、洋服に手拭いの頬かむりでは犬が吠えついて困った。
野辺地では煮物のキノコに当たって、道端の草の褥に苦しんだが人より宝丹をもらってようやく人心地。「おそろしくして駄洒落もなく七戸に腰折れてやど」る。
こういう場合にたどり着く宿は、意地悪くより抜きのおんぼろ宿が相場と見えて、山の中なのに行灯の油は魚油臭い。食うものいとおかしく、という「おかしく」は現代用語の使い方を兼ねて、本当に変なものを食わされたようで、魚のなますにはまた当たるかもと敬遠し、椀の中は五分切りの泥鰌とくれば、またもや当たりそうに思えるし、豆腐は芋より固いとはどういうわけだ。あまりに情けなかりければ、と、ここで一首浮かぶのが露伴らしい。

  塩辛き浮世のさまか七の戸の

     ほそきどじょうの五分切りの汁

露伴は饒舌である。目に映るものいちいちに独特の説明が加わる。三本松では牛馬が名物と言われても、食うこともならず土産にもならず嬉しくないものだ、と言うかと思えば、雨激しく降る中の松並木も「ここには始皇をなぐさめえずして」と秦の始皇帝が雨宿りした松に爵位を贈った故事にかりて自らを始皇にたとえてふざけたりする。

里程を訪ねて三里と答えを聞き、それなら一走りと息せいて急いでもさっぱり到達しないで足の豆をつぶしてしまう。ようやく着いて聞けば、あのあたりの一里は五十町なりと聞いて道理でと思うが後の祭り。しかしその夜の鮭はうまかったと、よかったなぁ。これは九月十四日。

十五日きのうは昼めし食いそびれたので、宿でムスビをもらう。さて食おうとすると折よく卵を売る家あり。値を聞けば6厘なり、これは安いと三個購う。渓流の景観を楽しみながら、卵を割って口に放り込むと「臭い鼻を突き味舌を刺す」。三個すべてが腐っていた。「これにて二銭種なしとぞなりける」、この「種なし」の用法は珍しく思えた。無駄に消滅のこころか。乏しい懐中の銭を失った悲しさはすぐ歌になる。
  
   鳥目を種なしにした残念さ
      うっかり買たくされ卵に
   やす玉子きみもみだれてながるめり
      知りなば惜しき銭をすてむや

このあと一ノ戸を目指す途次、再び道のりの問答があり、今度は一里が六町だったりして物指しの基準が定まっていないことに心身ともに振り回されている。「小繋まではもくらもくらと足引の山路いとなぐさめ難く」とあってこれは出典不明、「暮れてあやしき家に宿にやど」れば「きのこずくめの膳部にてことごとく閉口」した。


十六日、足をいためて一寸ばかりの豆3つこしらえ、涙ぐみて入った渋民の町、盛岡まで二十銭と北海道の馬より三倍安い車夫がいたので乗る。十七日も足傷みて立つこと叶わず心を決して車に乗る。この日行程二十四里で一ノ関着。十八日は淀の川下りの弥次と我が身を比べながら北上を下る。石巻を経て野蒜に向かうが足が腫れてひと足ごとに剣を踏む思い。


苦しさ耐えがたけれど、銭はなくなる道なお遠し、勤という修行、忍と云う観念はこの時の入用なりと、歯をくいしばってすすむに、やがて草鞋のそこ抜けぬ。


小石原というところで、いよいよ耐え難く、雨は降るし日は暮れるで難儀して、負うた靴をとりおろして穿つ、というからには、靴を履いたのであろう。何だ靴を持っていたのかと思ったが、靴より草鞋のほうが長い道のりを歩くのには良かったのであろう。いまどきのウオーキングシューズの有り難みがわかろうというものだ。


やがて一軒家に草鞋が売っているのを見つけ、ひとつ求めるに十銭札を出したが受け取らない。近々通用しなくなるとのことで、いくら事情を説明しても、いじわる婆あめ聞き入れず。まだまだ紙のお金は通用しないのだ。


さても旅は悲しき者とおもいしりぬ。鴻雁翔天の翼あれども栩々の捷なく、丈夫千里の才あって里閭に栄少し、十銭時にあわず銅貨にいやしめらるるなぞと、むずかしき愚痴の出所はこんな者とお気が付かれたり。


とは出典は分からないが、ここにも自分をからかっている泣き笑いの露伴がいる。口調はうまいものだと感心する。やがて草鞋が買えて元気も出て八時半ごろ野蒜に着いた。白魚の子の吸物うまし、海の景色も珍らし。


十九日、待ちに待った松島が見られるとて俄然元気を出す。乗り合い船に客がいなくてやむなく財布はたいて船を雇った途端に客が来た。腹が立つけど松島の景色にひたすら、ああ松島や、松島やと、ご機嫌である。

明日は知人を訪ねてお金が手に入る算段、残った一銭を塩釜神社に奉納する。

   からからとからき浮世の塩釜で  
      せんじつめたりふところの中
  
はらの町にて、

  宮城野の萩の餅さえくえぬ身の

     はらのへるのを何と仙台

二十日、待望の仙台で知人を訪ねたが、何と言葉の聞き違いで会えず。二十八日まで逗留を余儀なくされた。この間は本を読んだり基督教会で説教を聞いたり。この教も仏教も人の口より聞けば有難からず、とさとる。さすが露伴さんだ。


   いそがずばまちがえまじを旅人の

      あとよりわかる路次のむだ道

二十八日、少しばかりの金と福島までの馬車券をもらったので、馬車で福島に行き、問いただすと郡山まで汽車が開通しているとのこと。東京までの運賃は懐中の金とほぼ同額、熟慮の挙句、夜を徹して郡山まで歩き、朝一番の汽車に乗ろうと決めて歩き出した。この最後の徒歩旅行が最も苦しかったようだ。犬に吠えつかれ、人に誰何され、浮浪者さながら、ある時など道端に大の字なりになって、他年行き倒れになる際にはこういうふうなものかなど思い巡らせたりしている。もう歌など詠む気力さえなかった模様に見受けられる。


二十九日午後、ようよう帰り着いた我が家では、父母いたく老いたまいたるように見え、祖母様も中風にかかり身動きも得したまわず、心も心ならず、わずかに弟妹のやや成長したるに嬉しさを感じたのみ。それにつけても我が身の相変わらずの進歩のなさを呉下の阿蒙を引いて嘆くことでこの紀行文は終わる。最後の一行に「他を見るにつけこれにすら悲しさ増して言葉も出でず」とあるのは、何か秘めたる心がうちにあるのではと感じたがどうだろう。


読み終わってこの作者はまさに言葉の人だと思った。名文で名口調、耳に快い日本語。博識と機転の上の諧謔。辛く苦しいはずの裸紀行も二十歳の青年の横溢した気力が勝ったか、読者はずいぶんと楽しませてもらった。二十歳にしてのこの博識は当時の水準であったのだろうか。やはり文芸の道を志望していたことの証左でもあろう。自伝はついに書かなかったと伝えられるが、昭和二年に書いた自記年譜がある。


明治十六年 電信修技校に入る。給付生となりて自ら支へたる也。明治十七年 同校卒業、実務を執る。明治十八年 判任に補せられ、次で北海道後志に赴任す。明治二十年 官を棄て出京す。乃ち免官せらる。明治二十一年 「露団々」を草す。


「雅号の由来」という談話文が遺されている。金がなくなって夜も昼も歩いた。眠くなれば野原に寝たものだ。「里遠し いざ露とねん 草枕」という句も出来た。金港堂の「都の花」という文芸雑誌に「露団々」を書くことになった。雅号をつけてやろうと考えついたのがこの句であった。そして、はじめて露伴とつけて、その雑誌に載せた、と語っている。昭和十四年六月十六日朝日新聞夕刊に載ったそうだ。


「突貫紀行」は明治二十六年九月博文館発行の紀行文集「枕頭山水」に収められた(岩波『露伴全集第十四巻 後記)。原文末尾に記された年月が明治二十年八月とあるのは著者の誤りであろうか、どこにも解説はない。

(2015/2)