『ボスニア物語』イヴォ・アンドリッチ、岡崎慶興訳、恒文社、1972、1990第2版
1806年10月―1814年5月トラヴニクの町における物語。
原題はTravnička hronika トラヴニク年代記である。トラヴニクは町の名前、著者アンドリッチの故郷であり、サラエボの西北90キロほどの場所にある。物語当時はオスマン帝国のボスニア州の首府で、太守の居住地であった。
本を半開きにしたような地形、両方のページが庭や街路や家々や菜園やブドウ畑やモスクで彩られている。ボスニア中のどの町より太陽が遅く昇り、早く沈む。その底をラシュヴァ川が流れているという峡谷の町である。
広大な領土のオスマン帝国が周囲のキリスト教勢力に押され、ことにハンガリーに敗れてからは、追い返されるトルコ人たちの不満は高まり、抑えつけられていたキリスト教徒は勢いづき、セルビアでは反乱が繰り返される。
ボスニアの内部には回教徒、キリスト教徒、ユダヤ人、ジプシーなどのコミュニティがあって互いに反目しあい、民衆レベルでは時には合同した暴動も起こる。
物語の背景は、いわゆるナポレオン戦争の時代、オスマン帝国領のボスニアをめぐってはオーストリアとフランスが競り合う。作品の英語版には領事の時代という副題がある。競って開設された二つの領事館は、ナポレオン失脚後の国際情勢の変化とボスニア内部の動乱を見据えて、ほぼ同時に閉鎖されるからである。
作品はフィクションではあるが、両国の領事と3人の太守(ヴィジェール)については、アンドリッチは記録を探って事実に基づいた記述をしていることが明らかにされている。
(刺客が来た話)
フランス総領事ジャン・バプティスト・エチエンヌ・ダビーユは40歳に近い30代で、1807年の2月、とりあえず単身で赴任した。ボスニアの太守ハスレド・メフムド・パシャはジョルジア人で31歳、航海と海洋を愛するが不運にもエジプトからこの山国に転封された人物。東洋人には異例なほど快活で友好的な一面を持ち、主君セリム3世と同様にフランスびいきであった。右も左もわからぬ東洋の地で言葉も宗教も異なる排他的な人々の間にあって、唯一、ダビーユが心のうちで頼りにできそうな人間だった。
太守の官邸と領事の間の連絡役は太守の侍医で通訳を兼ねるセザール・ダヴナ。
イタリア・ピエモンテ州出身のサヴォイア家の末裔でフランス生まれ、モンペリエの医学校に学んだあとフランス国籍を選んだ。何かの事情でコンスタンチノープルへ行き、外科医兼医術顧問としてキャプテン・パシャ、クチュク・フセインに仕えた。キャプテン・パシャはエジプト太守に赴任するメフメド・パシャに彼を譲った。医師兼通訳として、かつ、いざというというときにはどんなことにも役に立つ召使として、彼はこのパシャに伴われてトラヴニクに移ってきた。
3人目の子供の出生を控えた妻と子供をスプリットの、あるフランス人のもとに残してきたダビーユはにわか作りの元倉庫を改造した領事館にあって、公用と私事の両面の経営に苦闘し、何もかも一人で処理する必要に迫られた。副領事も同僚もおらず、この国の言葉や事情も分からない彼はダヴナを通訳として領事館に採用するほかなかった。幸い太守は快く彼を譲ってくれたし、彼は彼でフランスに仕える好機を得て狂喜した。というのは、彼は若いときには放埓な生活をし、レヴァントに住み着く西洋人にありがちな、トルコ人の悪いところだけしか受け取らない習性に染まりかけていた。しかし彼には教育のある息子がいて、息子の健康と教育に専念しようと努力したことで、彼自身の生活は清潔になった。息子を何としてもフランスで教育を受けさせ、行く行くはフランス政府の職に就かせようと念願しながら、領事館で心からの忠誠をつとめるようになった。ただ彼はフランス語は話せるが書くことはできなかった。この点ではどうしてもフランス人の補佐役が必要だったが、それは年末まで待たされた。
はじめのうちは何となくダヴナの疑念を持たせられるような暗い面を感じていたダビーユも、やがてともに多くの苦難を乗り切って最後まで信頼して彼と仕事を全うできるようになる。
太守へのはじめての公式訪問に赴く領事は、町中に入った途端に四方から飛んでくる暴言らしい声やら唾やら戸の隙間から除く疑いの目付きやらに怒りと当惑を感じるが、耳元でダヴナが囁く怒ってはいけない、泰然とするようにとの注意や、民衆に向けた大声で脅かすような彼の乱暴な態度による統制に導かれてようやく官邸にたどりついたものであった。彼はトルコ人の扱い方を心得ていたのだ。
1807年5月、コンスタンチノープルではクーデターによって、改革派君主セリム3世が廃位され、狂信的な反対派の手でセラグリオに幽閉された。代わってサルタン・ムスタファが即位すると、コンスタンチノープルのフランス勢力は弱体になった。これにともなってダビーユが頼りにしていたボスニア太守ハスレド・メフムド・パシャは保護者を失ってその地位が危うくなった。フランスに組する改革派の残党として忌み嫌われることになったというわけだ。太守自身は何ら変わるところなくおおらかな姿勢を保っていたが、ボスニアではだれも欺かれることなく、不穏な空気が醸し出されてきた。
使者が頻繁に往来した。事情に通じたダヴナは太守が新サルタンの下での自分の地位どころか、生命そのものを守るために闘っているのだと断言した。
ダビーユも事態の意味するところを知って、急遽ダルマチアの将軍と在コンスタンチノープル大使館に至急便を送って、ロシア、オーストリアがそれぞれ強力に働きかけている現在、トルコでのキリスト教列強の勢力優劣が測られることになるので、太守の地位安泰をトルコ政府に全力を挙げて働きかけることを要請した。
夏のさなか、新サルタンの特使カピジ・パシャが来た。まるで太守の首を取りに来たかのような話で持ち切りになった。
案に相違して、特使はメフムド・パシャのトラヴニクでの地位を確認する布告と贈り物の名誉の剣を手渡し、明春早々セルビアに向けて軍事行動を起こすよう命令を伝えた。
前もって特使到着翌日の会見を申し入れてあったダビーユを太守は当日に接見したうえ特使にも紹介した。ナポレオンの崇拝者だと自己紹介した黒白混血のカピジ・パシャがダビーユに盛んにしゃべる様子を太守は満足げに見ていた。
帰途ダヴナに特使をどう思うか尋ねると、「あの方はひどい病人です」というだけであった。
二日後の朝、朝食中に至急会いたいと来たダヴナは、特使が死んだと低い声で伝えた。
驚いて興奮した領事の質問に、弔意表明も不要だとの話だけしてダヴナは帰って行った。
翌朝再び来たダヴナは詳報をもたらした。特使の死は毒殺だった。サウナに入っている間に特使のガウンの裏に縫い付けられたカテルの勅令が発見された。買収された家来が勅令の存在を明かしたのだった。地位安泰の吉報と名誉の贈り物をもたらして太守を油断させたあと、カピジはトラヴニク出発直前に部下の将校に太守を殺害させる手はずになっていた。太守はこうした策略をみぬいて一行を買収して大宴会を催した。体調不良を覚えた特使は太守の勧めるまま熱いトルコ風呂に入ったのち寝台にあがってマッサージ師を待つ間に動かなくなった。そして硬直と麻痺が来てやがて死んだ。
太守は悲しみに打ちひしがれた主人公として振る舞った。町の長レシム・ベグを呼び寄せて、どんなに努力しても己の不幸を隠し切れぬというふうに、太守は旧友を失った悲しみを語った。町の長は、運命です、みんな死ぬんだ、誰かが他人より先に墓に入るだけだ、という言葉で慰めた。
メフムド・パシャの処刑を命じたカテルの勅令は注意深くもう一度ガウンの裏に縫い付けられた。カピジはそれから二日目の朝、町一番の墓地に葬られた。カピジの部下全員は買収金と褒美をたっぷりもらってその日中にコンスタンチノープルに向けて帰途につくことになった。
ダヴナの報告に驚きのあまり口もきけなくなったダビーユは、まるで到底ありえない伝奇物語でも聞く思いだった。何ということだ、こんなことがあるはずがない、太守にそんな思い切ったことができるはずがない、密告でもされたらどうなるんだ。何の利益もないではないか。
ダヴナは冷静に答えた、利益はある、太守の計略は外見ほど危険なことではないことを説明した。
第一に危機を逃れた、しかも誰も証拠は出せない。第二にカピジは表向きには太守に吉報と異例の栄誉をもたらしたのだから、太守に彼の死を願うことはあり得ない。カピジに表裏二つの使命を与えて派遣した人たちは、何らかの行動に出れば太守に対して邪悪な意図を持ち、しかも失敗したことを自認することになる。第三にカピジはそもそも嫌われ者で評判は悪く、真実の友のない黒白混血で、人を裏切り欺くことを日常の茶飯事とした。だから彼の死に驚いたり復讐を目論んだりする者はいない。第四にコンスタンチノープルは混乱の最中でメフムド・パシャの僚友はすでに反撃を始めている。この工作に「必要なすべてのもの」はカピジ・パシャの到着より数日前に送り出されていて、新サルタンへの工作が成功すれば、太守の現在の地位も保証されるだろう。ダヴナはいろいろ取り沙汰はあるがカピジ・パシャの急死は何ら特別の動揺を起こしてはいない、町は平静だと付け加えて説明を終えた。
ダビーユはなおも納得できなかったが一人で考えるよりほかなかった。夜になってふと気が付いた。いったい誰が毒薬を用意して首尾よく一服盛ったのだのだろう。歓迎の手順、宴会、時間の経過を設計し、不自然な形をとることなく薬の効き目が現れるよう専門的な計算をなし得た人物。それは、ダヴナしかいないではないか。
ここまで考えてきて思わずぞっとした。彼は領事館に採用したが今でも太守の仕事をしながら自分の通訳もしている。自分の通訳が買収されて自分も共犯者になってしまったのか。ここで自分の命を保証し、暴力から身を守るにはどうすればいいのか。ダビーユは茫然と立ちすくむしかなかった。
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ひとつの出来事についてこのように書いてはみたが、アガサ・クリスティが描くポアロ氏の謎解きのようだ。これが昔のオスマン帝国という国の実情であったことにやはり驚く。人知れず一服盛って平然としている人間が身辺にいる場合、どんな気持ちになるだろうか。
ここには材料をまとめて提示したが、ダビーユやダヴナそれぞれの経歴は要所々々にちりばめられており、まとまった記述はされない。背景をなす国際的な動きも説明はないから読者がそれを気にするならば自分で理解しなくてはならない。その分だけ著者はこの錯綜した時期の雑多に混じった年代記という題材に集中できるというわけだろう。
この作品については今回読んだ岡崎慶興氏という元外交官の訳者によるしか日本語版はない。経歴から推してスラブ語系の言語に詳しい方とお見受けする。日本語には問題がないのは当然としても、地名やオスマンの制度。役職などについては。ぜひ説明や注釈がほしい。表記されたカタカナでは、場所がどこか、どんな役職かなど英語版などを参考にしようとしても調べる手掛かりがない。もちろん、なくても読み進めるに支障はないが、気になることであった。なかでも太守に刺客が送られた時の特使は「カピジ・パシャの一人」が到着するが、以後の文中に出てくるのは「カピジ・パシャ」だけなのである。原文がそのように書かれているのではあろうが、役職・官位などと個人名の区別はやはりほしい。も一つ気になったのは明らかな年号間違いが2か所にあった。こういう点を考えると、読んでわかればいいじゃないか、とでも言われている気がして、ノーベル賞作家の最高作品ともいえる文学書が単なる読み物に格下げされた気持ちになる。
アンドリッチの作風は出来事の記述とはべつに内面的な思索が登場人物を借りて随所に提示される。ボスニアという複雑な内面を持つ人々のことを描くには必要なことだろうと思うが、この作家は十分にユーモアも心得ているのがうれしい。けれどもこの作品は急いで読んでしまおうなどという気持ちでは読めない、何度でも味わうぐらいの覚悟がいるし、それは必ずむくわれる。
(老ユダヤ人の話)
最後の28章でダビーユの帰国の準備万端整ったとは言いかねる問題に金策がある。普段から自分の蓄えは故国に送金してあるし、混乱に陥った政府からの公金は届かない。使用人たちの後事にも配慮すれば現金が手元になくなった。あれやこれやの手立てに腐心するダビーユに思いがけない救いが現れる。
皮鞣しの匂いを振りまきながらユダヤ人の老サロモン・アチャシがやってきた。つい先日も新しい太守に徹底的に身代金を搾り取られたはずのサロモンが、なおも隠し持っていた金を融通しようと申し出たのだ。何かを要求しに来たぐらいに思ったダビーユは驚きながらも感激して礼を述べた。ダヴナのほかに町中の動向を探る役目もさせるもう一人の通訳、ラフォ・アチャシの伯父にあたる。二人はダビーユの苦衷を察して老人の気持ちに訴えたようだ。
サロモンは、フランス領事がいつも分け隔てなくユダヤ人に配慮してくれた感謝を述べたうえで、300年前にアンダルシアを追放されて以来の一族の苦労と未来への希望を縷々と語って、自分たちのことをフランスの人たちに語り伝えてほしいと願うのだった。ただし、正しい言葉を知らぬサロモンの語り口は支離滅裂であったから、これらの説明は著者による補完である。古い時代のスペインの言葉を覚えたきりのアチャシは、日常どんな言葉で過ごしているか想像は難しい。どんなに苦労してこういう金を工面するのか、十分にダビーユには伝わらなかったようで、それがひとしお哀れなことであったと言いたそうな著者はこの部分に多くの字数を割いている。
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プロローグで町の回教徒の長老たちがソファで語りあうのは、ブナパルトという不吉な名前であり、領事という嫌な響きの言葉であったが、エピローグではそれらが消えさったあと、何も変わらないという幸せな気持ちと沈黙が支配していた。
途中若年の副領事が山越えをして赴任の旅をする場面がある。凍える冬山に羊がいる。ちょうどそのイメージに合いそうな写真が見つかったので掲載しておく。
(2015/1)