2020年1月31日金曜日

読書雑感『鶴見俊輔伝』

鶴見俊輔さんと聞けば『思想の科学』の名が反射的に思い浮かぶ。続いて、あの風変わりな雑誌は何だったのだろうと考え始めるがすぐに考えることをやめてしまう。考えてもよくわからなかったからだ。新聞紙上に『鶴見俊輔伝』で大佛次郎賞を受けた黒川創氏が述べていることを読んで納得した(朝日新聞1月30日朝刊)。氏の経歴に『思想の科学』編集委員を経て作家になる、とあるが、「経て」はいない、「思想の科学」は職業でも社会的地位でもないからという。
私の頭にも、いろいろな人がいろいろなことについてそれぞれに書いている文章を集めた雑誌という印象が残っている。それぞれ個別の生活をしながら、自発的に学問をしていたのだと黒川氏は説明する。そういう学問を鶴見さんは愛したと。「地位とも報酬とも結びつかない、個人によってひそかに続けられた学問は、無垢な輝きを帯びている。」それが学問の初心だとした鶴見さん、とあるが、この表現はすでに黒川氏のだろう。鶴見さんなら、ただ「おもしろいな」と言ったはずだ。
雑誌の表題にある「思想」の意味については深く考えたこともなかったが、上田辰之助(経済・思想の学者)がアート オブ シンキング、からソートを思いついて、思想にしたとの来歴をこの伝記で読んだ。ならば「かんがえること」を科学する意味なんだと妙に腑に落ちる。だから、てんでばらばらな考えることを文章にして持ち寄ったのを雑誌に仕立てた、つまり編集したわけだ。茫漠とした世の中という広大な広場に散らばっている人々がどんなことを考えているのか。「日本の地下水」といううまい表現がでてきた。
1946年から96年まで50年続いた雑誌の終刊にあたって、総索引、ダイジェスト、討議集の三冊が刊行されているそうだが、ダイジェストに採用されたタイトルは2千におよぶという。討議集の表題は「源流から未来へ」とされたそうだ。
鶴見さんは哲学者に分類される学者であるが、私は自分の関心事であることばの使用に関連した著作を多く読んできた。専門的に言えばそれは記号論に関係するらしいが、そっちの方のことは私の頭が受け付けないから、そこから鶴見さんが展いてくれた事柄を読んだ。「言葉のお守り的使用法」はそういう意味で非常に面白かった。内容はほとんど忘れてしまったが、要するに戦時中なら「鬼畜米英」「国体」など、戦後は「民主」「自由」「平和」など、いわゆる空疎な言葉ないしは言葉遣いへの批判である。これさえ唱えていれば安全だというわけである。
哲学者についての話題では自然に言葉も難しくなる。1945年12月、占領下である。軽井沢の山荘に一人で暮らしていた鶴見さんを訪ねてアメリカ軍伍長フィリップ・セルズニックが来た。のちに社会学者として知られる人物。父親の鶴見祐輔の熱海の家には占領軍当局者たちが日本での知見や手づるを求めて頻繁に出入りしていたが、この日、この伍長は婚約者ガートルード・ジェイガーが書いた論文「生まれたままの人の哲学」というのが載っている小雑誌「エンクヮイアリー」を持参して、俊輔と話したかったのだそうだ。論文はプラグマティズム哲学のデューイ論だった。
デューイの哲学は、人間性の完成に対する楽天主義から出発し、その帰結としてどのような形態の社会も人間の努力次第で現出する、という可能性の無制限を主張するようになった。だが、ジェイガーが見るには、人間はそんなに可塑的なものではない。人間にはリカルシトランスがある。不可操性とでもいうのか、つまり「どうしようもなさ」と呼ぶしかないものが。竹のように、ある程度は、しなる。だが、それ以上求めると、折れてしまう。人間性には、こういうところがあり、それが罪というものとつながる――。
一般読者にはそれほど興味があると思えないジェイガー論文だが、俊輔は自分たちの雑誌がいつか刊行できれば、訳出して載せたいと伝える。末尾の典拠資料には、英文で論文の表題・所載誌ほかと和文で『思想の科学』創刊号(1946年5月)と記載されている。その当時の鶴見さんの日本語力については、創刊号に書いた鶴見さんの「言葉のお守り的使用法」の日本語は非常に晦渋でぎこちないものであったことを黒川氏が明かしており、のちに著作集に入れるに際して平明な文章に改められたとある。それから考えると、ここは鶴見訳ではなさそうである。
それはそれとして、この引用文の可塑あるいは可塑性、リカルシトランス、不可操性ということばを私なりに理解するには少し時間がかかった。続く本文には、「セルズニックの言葉にたびたび出てくる「リカルシトランス」(どうしようもなさ)、また、理想に付随する「ユーフォリア」(多幸症)という言葉に、俊輔も目を開かれていく思いがあった。」とあるから、俊輔がアメリカを出てからあとのプラグマティズムの進展が語られたようだ。
「どうしようもなさ」という訳語は当の文脈では正しいのかもしれないが、どうも納得できない。意味が確定できないではないか。形容詞なら頑強に抵抗する(人)、名詞なら強情っぱりとか反抗的な人というのが私の解釈であるが。ま、ここはシロートの口出しする場所ではないけれども、漢英辞典から日本語の訳語を案出したような芸当を期待するには、いまの時代は日本語が痩せ過ぎたかと密かに思う。
鶴見さんは1948年に桑原武夫から京大人文研に誘われ助教授として迎えられる。桑原ははじめ大学を出ていなくてもいいと言ったので、「出ていますよ」と答えると、ニヤッと笑ったとあったが、桑原が小学校卒の学歴で京大助教授に誘おうとしたことに鶴見さんは驚いたというが読者の私も驚いた。中学時代にはすっかりグレて、父親がアメリカに送り込んだ。1年間ハイスクールに在学して英語習得後ハーヴァード大学の哲学科に入った。日米開戦になって敵国人として収監され、さらに不用意にアナーキストと称したために牢獄につながれた。書きかけの卒業論文が没収されたのを大学当局が取り返してくれたおかげで、牢獄の中で論文を仕上げることができて無事に卒業が認められた。日本人の常識では大学と司法当局のやり取りは、へぇと思うし、入学から卒業までの経緯も尋常でない。不良少年のはずがよくできるのだ。ホンマかいなというところだ。でも、それが事実であった。その事実の裏には16歳の俊輔少年のまさに死にものぐるいの英語習得努力と、下宿させてくれた家庭の婦人たちの協力があった。婦人たちは学校に出かけて俊輔の英語教育について教師陣と話し合い、家庭で朗読などで実践的に補講をしてくれたものだ。良きアメリカが生きていた時代だったのだと私は感動した。
ハイスクール1年だけの学業で受け入れようと決めたのはアーサー・シュレジンジャー(シニア)という歴史学者で、父祐輔が懇意であったので後見人になってもらった。俊輔を面接して受け入れを決め、修学方法を大学院で講師をしていた都留重人と相談して決めた。都留は俊輔の生涯の恩師になった。この辺の事情を読みながら私は昨今の日本における大学入試についての問題を連想した。また、藤原正彦氏が『文藝春秋』12月号に紹介しているイギリスの大学の教授たちの、面接もしないでどうやって受験生の人物を知ることができるのか、という疑問も思い返していた。シュレジンジャーと英語ができない俊輔との間にどのようにして会話が成り立ったのか、資料がなくて書けなかったのか残念である。
俊輔は日米開戦のはじめから日本の敗北を信じた。日米交換船に乗るか乗らないかは個人の選択に任された。彼は日本人だから日本が敗けるときには日本にいたいと考えたそうだ。1942年8月、日本に着くと徴兵検査があり、結核保持者なのに第二乙種合格、海軍に志望してドイツ語通訳の軍属となった。ジャカルタ・シンガポールで勤務する中で軍隊の実情を知った。多くは語るまいと決意する。語れば他人に災いをもたらす。1944年に病気で帰国、翌年8月15日は熱海の借家で療養中に終戦の詔勅を聞いた。
この人はどこにでも出向いて行って人と話す。いたるところに何やらの会ができる。60年安保では国会デモに何度も出かけた。座り込みでごぼう抜きにされている写真も残っている。異色なのは「ベ平連」だった。有名無名、おおぜいの人の輪ができた。鶴見さんの経歴には「反米」がまといついている。アメリカのヴィザは絶対におりない。ハーヴァードでライシャワーの日本語教科書に姉和子とともに協力した。そのライシャワーが駐日大使のときにも大使館前で座り込みをした。ライシャワー自伝には俊輔について、強い反米意見をもっている評論家と書いているそうだ。これには鶴見も寂しそうな顔をして彼は怒っているんだよと言う。鶴見は親米家なのに。「正義」のあり場所がちがうのだ。
京都ベ平連の事務局長をした北沢恒彦氏は、この『鶴見俊輔伝』の著者黒川創氏の父君だそうである。著者も幼少の頃から父に手を引かれてデモに加わっている。そんなころから著者は鶴見さんの近くにあった。
私は長年、鶴見俊輔は、けったいな学者だけどいいことを書くなぁといった程度で何冊か単行本を読んできた、要は好きになったのである。それでも、なにをしてるんだろ、この人は、という思いは残っていた。この伝記を読んで、うん、いいことをしてくれたと納得できた。そして著者にも同じ感想をもった。いいことをしてくれたと。
読んだ本:黒川創『鶴見祐輔伝』新潮社 2018年   (2020/1)

2020年1月14日火曜日

雑感 安岡章太郎『流離譚』

安岡章太郎氏は1920年に高知市で生まれているが、父君が陸軍獣医将校であったため任地にしたがって生活の場がいくつか変わったらしい。1944年学徒動員で応召、満州から南方へ派遣予定のところ、病気除隊となった。在籍部隊はレイテ島に送られて全滅したというから、堀田善衛氏に似た偶然による幸運である。1948年頃から病苦を抱えながら文学活動に入ったようだ。
『流離譚』は1976年3月から81年4月まで文芸誌『新潮』に連載され、同年12月に新潮社から刊行された。私がこの作品を読んでみたいと思ったのは、古文書解読の専門家、北小路健氏の『古文書の面白さ』(昭和60年刊)に、安岡氏から解読の依頼があり、この作品の執筆が進行中と紹介されていたのを読んでいたからである。
高知に安岡姓は多いそうであるが、章太郎氏の系統は香美郡山北村にあった四軒の安岡であるという。この地名は現在、香南市香我美町山北となっている。四軒の安岡は、本家、お上、お下、お西と呼び分けるそうで、分家が三つあるということである。土佐藩は身分の区分が上士と郷士に厳格に差別されていたことで有名である。安岡四家はいずれも郷士であり、郷士の婚姻は郷士同士と決められていたためと、山地に位置していて四家以外との交通が不便だったこともあって、何年もの間四軒の間だけで嫁取り、養子関係が結ばれていた。上巻付録として十世代ほどの系譜図が付いている。
北小路氏によると、流離は中国の古いことばで、流は分かれる意味だから、流離は分離と同義で、分離は一点で二股に分かれる感じが強まる。流離では時間の流れに沿っての枝分かれという思い入れが深まり、時とともに何本にも別れてゆく姿を指すことになるそうだ。系図はまさにその通りであって、誠に複雑に入り組んでいる。
安岡家の人物で歴史的事件にからんで有名なのは、章太郎の四代前の安岡嘉助、これは吉田東洋暗殺実行犯の一人で天誅組に走った。最期は打首である。その兄覚之助は戊辰戦争で官軍の軍監、会津の銃弾で戦死した。弟道之助(道太郎)は自由民権派で活動した。これら三兄弟の父親文助が天保年間から明治まで書き続けていた日記が存在する。この資料を中心にして、北小路氏の助力を得たことで章太郎氏は『流離譚』の執筆が続けられたものであろう。
この文助氏は、日記の他に「安岡系図書」という50ページほどの文書を残しているそうだ。これは系図であって、桓武天皇に始まり、しばらく平のなにがしとかいう貴人が続く。10ページ目あたりで、大和ノ国、安岡ノ庄から出てきたという平家の一族が、保元の乱を逃れて土佐の室ノ津に流れ着き安岡のなにがしと名乗る。それから12代目に安岡源左衛門行正という16世紀に生きた人物の記載があって、文助老人がその行正の実在を確認する作業をした記録があるのだそうだ。あとは省略するが、このあたりが章太郎氏のご先祖様のハシリとされているらしい。文助老人は天保9年に先祖の一人の墓探しをしたとき、その墓も土地も宝永4年の津波にさらわれて流されれてしまったと役人に聞かされたことを書き付けてあるという。こういう史実がわかることに興味を覚える私のような者もいるが、おおかたの人には退屈な話だろう。
私は新潮社刊の上下二巻で読んだが、長い、というより長く感じた。昔読んだ司馬遼太郎『関ヶ原』など全3巻であったが夢中になって読み終えたものであるが、そういうのとの違いは、物語の筋の運び方、人物の動き、作家の語り口など理由はいくつも挙げられるだろうけれども、やはりご先祖探しの話柄はどうしても地味になるということかも知れない。何しろ読み手は知らない人について聞かされるわけだから、その人たちがなにか動きを見せるまでは関心の向けようがない。
「私の親戚に一軒だけ東北弁の家がある」という一行だけの書き出しは、続く行からの「私のところは、父の家も母の家も高知県の郷士で、先祖代々土佐に住みついてきたから、親戚といえばどんな遠縁の人でも、みんな土佐言葉か、多少とも高知訛りの標準語かである。…」というような説明によって、なるほどという聞き手の反応が引き出されてくる。この一行を冒頭に持ってきたのは、作家の土佐への思い入れがそれだけ強烈なのだろうと思う。その土佐人がなぜ東北にいるのか、少年時代に東北訛りの紳士の訪問を受けたことを思い出す。「奥州の安岡」という呼び名が一族の間にあったそうだ。答えは本家の人間が福島に移ってしまった結果であって、明治維新まもなくの頃の地域経済力の差が、本家の没落と東北蚕業の盛況にあらわれているのであった。そういう事情がわかるのは全巻の最後に近いあたりだ。その少し手前に、関連してお墓探しの話がある。
冒頭に近いあたりにも四軒と墓地の説明があるが、文助氏の墓が見当たらないことが課題として残った。で、最後のお墓探しの場面は、安岡家をも含む広い山の斜面に展開している雑草に埋もれた墓地に、寛文とか元禄といった文字の刻まれた朽ちた墓石が何百となく荒れた斜面に様々な向きにうず高く転がっている情景がある。
作家は何千何万の遺体と骨がすでに溶けてしまっているであろう山地の地面の底を思いやるのであるが、「流離」のことばが表す系図の中身になんとも言いようのない虚しさをもたらす情景である。どこからとも知れぬところから、いつの時代かの人の胎内にやってきて生みおとされ、いっときこの世ですごしたのち消え去ってゆく生き物、それが自分のことでもあるという情感である。拾い集めた割れた墓石の一部を復元して何文字か読み取る、こんな作業は当今のシュレッダーにかけられた記録の屑を連想させる。
文助じいさんの日記や文書、覚之助からの陣中報告他、様々な文書から得られる情報は、まさに人々の生きた証であり、歴史そのものである。出来たてほやほやの明治朝廷軍、宮さん宮さん、と東へ下っていく兵隊とは名ばかりで、それぞれの藩からの雑兵のかたまり、どこまで行ったら国元に帰してもらえるかばかり考えている有様だ。中央政府にカネがないとか、補給ということが頭にない軍隊とか、学者先生の歴史には出ていないいろいろな状況が分かって面白い。すべて古文書のおかげだ。
高名な15代藩主山内豊信(とよしげ、のちの容堂)は先々代と先代が嗣子がないまま早世し、御家断絶の危機にあたって苦肉の策謀で養子に仕立てられて家督相続したといういわくつきの藩主だそうだ。不祥事で引退した隠居の12代豊資の子鹿次郎(当時3歳)に家督を譲る条件が付けられたうえ、公私の生活態度作法にまで誓約書を入れさせられ、豊資のロボットとして操られていたのだそうだ。大政奉還を唱えながら裏表のよくわからない態度をとってみたりした、ひねくれた酒飲み殿様の実態はこんなところの心の秘密から出ていたのかと思わせられる。
『流離譚』が先祖を探る物語であるからには、日本の家の制度の話となるのは当然である。家の制度は夫婦が子供をつくることが基本である。男が生まれなければ養子を入れて家を嗣ぐ。土佐藩山内家は短命や子なしが多かったので、12代豊資のときに、一説には20数人ともいわれる多数の側室をおいたことが成功して、目出度く11男、7女をもうけて一躍家門は大繁盛したという。ただし、あとがいけなくて、財政窮乏で領民が大量に逃亡する不祥事が起きた。
昔の安岡家は前述のように四つの家で跡継ぎが絶えないように工夫していたのであったが、極端な早婚もよくあったらしく、9歳と7歳の夫婦ができたりして、「二人して毎日、椎の木に登って椎の実を食うたり…」と語った女性はどうやら自分のことのようだったという場面もある。
話が前後するが、明治5、6年頃に覚之助長男正明(のち松静と改め)と真寿が結婚、松静17歳、真寿16歳。覚之助松静が戊辰の役で戦死、真寿の父嘉助が打首で双方とも早世したため、早く跡継ぎをもうけさせようとしての従兄姉夫婦である。明治7年に長女美名吉(みなえ)が生まれた。本家では文助の妻の生家藤田家の次男克馬(のち正凞)を婿にするつもりで学資の面倒を見た。克馬は16歳で医学修学のため上京したが、すでに開校されていた東大医学部に学んだ形跡はないそうだ。どこで学んだかわかっていないが、本家はかなりの出費をしたらしい。正凞の後日談では「養子に来たときには家の中はカラッポで金目のものは何もなかった」と言っていたそうだ。本家がなくなるほど没落するのは、地主であった当主が土地を手放したとしか考えられないというのが章太郎氏の推察である。
明治20年12月、東京にあった克馬は警視総監三島通庸の発令した保安条例に引っかかって相州に逃れた。保安条例というのは民権派を強圧的に押さえつけるための条例であって、発令と同時に戒厳令がしかれ、克馬のように民権運動に関係していない人間も土佐人と見れば東京から退去させられた。無茶苦茶な条例で福島事件で名をはせた三島の悪辣なやり口である。相州に逃れたというのは横浜に行ったことらしいが、ここでヨーロッパの異常気象が日本に幸いして蚕卵紙の輸出価格高騰という景気の良い話に出逢った。なんでも東北が養蚕で景気が良いという話を聞いて移住を考えた。試しに行ってみた仙台で、盛況を聞き込んだ梁川町に眼科医を開業した。蚕の繭とりの作業が閉め切りの部屋で湯気や煙を立てるため眼病になる女工が多いから眼医者をやれば当たるという話だったが、開業したその日から患者が詰めかけたそうである。
これが明治21年で、翌年土佐に戻り、美名吉と結婚、同時に正凞(まさひろ)と改名した。移住には一家全員が賛成したそうで、養祖母万亀59歳、養母真寿31歳、妻美名吉16歳を連れてみちのくの旅に上った。ときに正凞27歳。
この土地を章太郎氏は実際に訪れていろいろ聞き込みをした様子も綴られている。古文書の北小路氏の教えで、必ず実地を踏むことという教訓を作家は忠実に励行している。
最初の妻、美名吉は明治25年20歳で亡くなり、長男正武も数えの3歳で死ぬ。二人とも肺結核だったのでないかと作家は推定している。明治28年に迎えた後妻安猪(やすい)は2男3女をもうけて42年に40歳で死亡している。明治29年に生まれた最初の子が次男正光である。本作初めのほうに登場する東北訛りの実直そうな紳士、安岡正光氏はまさにこの子なのである。ちなみに38年に生まれた三男正郎は三月余りで死んでいる。
南国育ちの人間には軒まで積もる雪の中の生活は苦しかったであろうし、味噌も醤油も鹹いし、生魚も口にできないとなれば、それだけで精神的に参るかもしれない。眼科を開業した安岡正凞は、他に医者がいないため医療万般請負のようであった。正凞は考えをあらためたか三番目の妻、いしは宮城県から迎えた。明治22年生まれの21歳、作品中には90歳を越えてなお健在と書いている。
話は変わるが、美名吉が亡くなるとき、病人が賛美歌を口ずさんだ。付き添っていたのは母真寿であった。
「亡ぶるこの世、くちゆく我が身、何をかたのまん……」そこまで唱って声が出なくなったのを、真寿があとを引きとって、「何をかたのまん、十字架にすがる……」と、枕元で、つづけてうたってやった。
これは真寿を知っているという山北の老婆から作家が聞いた話である。この場面に来るまで作品にはクリスチャンに関することは出てこない。明治30年頃、高知ではクリスチャンが増え始めたようで、それは民権運動の普及と並行していたという。安岡家の女性たちは民権家道太郎の手びきで入信したのかも知れないと書いている。ちなみに章太郎氏は本作の6年ほど後に受洗したようだが、私はその動機や理由は知らない。
真寿は、ひとり梁川から戻ってきたのだというが、その理由は不明である。亡父嘉助の遺した書付や遺品を一切合切持ち帰ったらしい。それらは真寿の生母の実家公文家へ持っていったといわれているが確かめられていない。この作品のあと、章太郎氏がそちらを探求したかどうか、どこかほかに書かれてあるだろうか。
さきに真寿のことについて、亡父嘉助と書いた。嘉助は吉田東洋暗殺実行犯として脱藩し、1864年京都六角獄舎で処刑されるまで追われる身であった。そのため真寿は4歳から母子家庭にあって母の実家公文家で暮らした。15歳で縁付いた安岡松静には9年目に死なれて24歳で寡婦になった。42歳で婿の家から飛び出した理由は何であれ、孤独な人生だったと作家は同情している。出戻った高知は必ずしも暮らしは楽でもなさそうで、たまたま縁続きの寺田寅彦の日記、明治34年10月の記事に病人の看護などしているように想像できる話が載っているそうだ。ついでながら、このとき寅彦は24歳の大学生、妻の夏子が肺結核、自身も肺尖カタルで別居して療養中であった。
物語全体の流れには安岡家内部の事柄と維新前後の公との関係事項が織り交ぜて述べられている。上記の正凞の話は安岡の私事であるが、土佐藩の内部や坂本龍馬、天誅組の破綻、戊辰戦争の記録などもかなり書き込まれてある。目次とか章分けとかがないため、後戻りしてなにかの事柄を確かめるなどの作業がしにくい。初回の通読だけでは、記憶が定着し難い。面倒でもメモをとるとかしながら読まないといけない。図書館で借りて読むには時間に追われる。ここには、部分部分で印象に残っていることを書き留めた。個人の日記や手紙の類など、いわゆる古文書から知れる人々の暮らしの様子からは思いがけないことを知ったりして断片的にでも楽しめる。本編も文学賞受賞作品であるからには、もう一度読み直せば、かなり深く頭に入ることもあろうとは思うが、いまのところその勇気は出ない。ただ、よくも書いたものだと感心する。安岡章太郎氏は7年前に亡くなった。この26日が命日である。
読んだ本:安岡章太郎『流離譚(上)および(下)』新潮社 昭和56年
(2020/1)

2020年1月3日金曜日

大佛次郎の『源実朝』を読む

鶴岡八幡宮のイメージの象徴は例の大銀杏であったが、
戦前の絵葉書から

2010年3月に強風で倒れてしまったから、参道正面から見えていた風景は思い出になってしまった。社殿に向かって左手にあった大木が印象に残っているのは、実朝が暗殺された話をずっと昔に読んだか聞いたかしてからのことだと思う。それもお公家さんみたいな人という印象で三代将軍などとその名を知ったのはもっとあとのことだ。倒れた大木は1955年に天然記念物に指定されて推定樹齢千年とされていたが、暗殺下手人の公暁が隠れたのは、建保7年1月27日(1219年)だそうだから、700年以上も古い話である。樹齢はたかだか400年という声もあって、倒れた木は二代目という説もあったから、何がホントだか不明のままである。
こんな話を書き出したのはほかでもない、大佛次郎著『源実朝』を読んだので、忘れないうちに少し印象を書き留めておこうと考えた次第だ。実朝を表題とした文芸作品は少なくないが、久しぶりで私の好きな大佛さんで読んでみようと思った。
最近まで堀田善衞さんの『方丈記私記』を読んでいたので実朝についても芋づる式に出てきたのであったが、堀田さんが中野孝次氏の『実朝考』を引き合いに出していたので、それもあらかた読んでみた。このお二人ともが戦争末期に、国に殺されるかという思いを強く体験されたために、そういう発想からの思索を文章にされていた。そうなると自然にその書かれる内容は、いわゆる硬質のことばで表現される論考となって、歯の弱りはじめた当方は咀嚼に苦労させられた。そこへゆくと大佛氏は遺作となった『天皇の世紀』でさえも非常にわかり易いことばで歴史を語ってくれた。
『源実朝』は『婦人公論』と『新女苑』に分けて執筆されたのであるが、平易なことばで綴られている。前者は「新樹」と題されて昭和17年9月号から翌18年11月にかけて、後者は「からふね物語」として、昭和20年6月号から翌年3月号まで連載された。著者が昭和18年末に海軍南方報道班員として南方に向かうことになったのが中断した理由である。
さて、「新樹」は一から七まで番号だけの章に分けられ、「一」には閏7月19日(元久2年1205)の出来事として、名越にある執権北条時政の館に尼御台政子からの使者が遣わされて12歳の将軍実朝が義時の館に引き取られたことが綴られている。この事の推移を運ぶ筆は、父と子の間に合戦があるとの噂に騒然とする日暮れの町の様子を伝えながら、ここ数年来繰り返された事変のあれこれに触れて、将軍家と北条家および両家に連なる一族の人間関係の確執と陰謀、殺戮のいくつかを挙げる。そのうえで時政館に使者が到着して俄然緊迫する中での時政の心の動きを記す。
複雑な人物間の相関関係がしっかりと頭に入っていないと、せっかくの機微細かい文章から大事の様子を汲み取るのはむずかしい。ちょうど歌舞伎の忠臣蔵において、長い物語の一部分が何段目とかと称されて部分的に上演される場合のように、観客が予め事の中身を知っていないと、舞台で演じる役者の所作と科白を十分に楽しめないのと同じような具合なのである。
「頼家将軍の子一幡を擁して比企一族が小御所に亡びた」とか、「頼家が修善寺に送られて押し込められる時」、とあるのはどういうことか、別途に調べて知っておいたほうが、あとの事柄が理解しやすい。
「一」の主題である時政と義時親子の間が決定的に険悪な関係になる、その因になった畠山事件については道案内的に書いてくれてはいる。それでも「時政義時のあいだが今日のように突然に、血で血を洗う戦も辞さぬ迄に険悪な状態になろうとは側近の者も恐らく夢にも予期しなかった事であろう」と書くわりには、緊迫した空気が私にはあまり感じられなかった。私の場合は、多分に鈍感であるか、史実を知らなすぎるのか、作品の内外における人間関係の経過推移がわかったうえでないと、どうにも文の内容が読み取りにくいことであった。昔にあっては普通のことであったろうが、血族・縁組・地縁関係が入り組みすぎているのである。
政権交代が決定的になった発端の畠山事件、これは女のほむらがなせる業であった。
68歳になる時政の後妻、牧の方は30歳ほども年が離れていて、先妻の娘政子とほぼ同年である。どちらも勝気で思ったことを貫こうとするタチである。政子はすでに子の前将軍頼家を父に殺されていて、残されたもうひとりのわが子実朝を護りぬこうと警戒心を解かない。牧の方は都の貴族の家に育ってそのまま執権の後添えだから怖いもの知らず。尼御台と呼ばれている政子は、後添えの牧の方のほうから言えば、当然の義理として自分の娘分と考えているのが顔や言外に出る。牧の方は自分の娘婿平賀朝雅を将軍につけようと時政に吹き込んでいる。その平賀朝雅が時政の先妻の娘婿の畠山重忠の子重保と酒席で口論になった。牧の方はケンカ相手の父親が先妻の娘婿であることが気に食わない。謀反の疑いをでっちあげ、稲毛重成も肩入れして時政に訴えた。時政は義時を討手として差し向け重忠を誅戮し、子の重保は三浦の計略にはまって由比ヶ浜で殺される。義時はこれを冤罪と見破って時政の非を知る。あるとき、実朝の乳母で政子の妹阿波局が牧の方に害意があると訴えてきたので実朝を引き取ったことがある。時政は誓書を入れて実朝を名越に連れ戻した。実朝も子供心に牧の方の冷たい心を感じて警戒心をもつようになっている。今回は、政子・義時と牧の方・時政が将軍をわが手にとの対立である。政子・義時が先手を打って実朝を引き取りにでる。不意を打たれた時政は屋敷が義時の手の者で囲まれたのを知って諦める。伊豆に籠もってじっとしていれば、自分たちも平賀朝雅も無事だろうと考えた。
こういう内容が「一」にまとめられてある。
「孫といわず、子といわず、父上も、したたかに、おやりなさいましたなあ、最早、後世のことをお考え遊ばしたところで、齢に釣り合わぬこととはもうされぬ」と政子に言う義時の声はそれまでの時政のやり口をよく表している。

巻末に編集者の村上光彦氏は、大佛氏にとって推敲とは削ることであったと書いているが、頷けることである。
「一」は北条家の代替わりによる時代の転換をしめす序章なので、それなりに作者は苦心されたのであろう。「二」に入ると、「牧の方のことがあってから、若い将軍に新しい日が始まった。郷国の伊豆にひき籠った時政の老後に、野望の種と成ったと見られていた平賀朝雅は鎌倉を離れて都にいたが、義時の計画どおり、同じ月の二十六日に不意に追手に襲われて落命した」とある。
ここで「牧の方のこと」と言われて読者は、はて、と戸惑う。それまでにこの表現は見当たらないのである。牧の方の讒言によって畠山父子と稲毛氏が殺戮されたこと、そして牧の方の野望の種であった平賀朝雅の殺戮まで含む一連の事件をひっくるめて指したものと考るほかない。大佛流の括り方なのだろう。ちょっと気になる表現であった。
ともかく、「一」は読解に苦労した。自分なりに相関図めいたメモを取って繰り返し読み直した。カッチリとまとまった記述のうちに実に恐ろしい人の心の動きが語られているのであった。あわせて自分の認識能力が弱いことに落胆した。次の「二」からは、世の中から血腥い争いが消え、実朝の物語となる。あとはすべてが読みやすくわかりやすい。
読後の感想として、実朝は実に素直な性質で、理非を本能的にわきまえた人物として描かれている。ただし生い立ちが植え付けた精神の真底には実に頑固な「自分」があった。浜辺に虚しく朽ちた「から船」がその象徴である。筆者は繰り返し読んだ「一」だけで一幕物の舞台になりそうだと考えたが、すでにあるのかもしれない。
ちなみに作品中には鴨長明の訪問が出ているが、実朝は長明の人柄にも歌にも深いものを感じることができなかったとされ、長明も滞在しながら次第に落ち着かなくなったと書かれている。長明が実朝に好意を覚えてはいても、容れられないものを感じたようだ。法華堂の柱に挟んだ歌にも実朝は、良い歌だろうかと首を傾げたという。評価はされなかった。この作品での長明は『吾妻鏡』に実朝訪問の記事が載せられているからお義理で登場させてもらった感じなのである。
さきの戦争末期から敗戦後にかけての作品であるが、編集者村上光彦氏は、この作品に戦争の影響はまったくないと作家を評価している。大佛氏は戦中もずっと鎌倉に住まいし、誰よりも鎌倉を愛するという気概を持たれていた。
読んだ本:大佛次郎『源実朝』六興出版 昭和53年(2020/1)