2017年11月29日水曜日

雑感 池内 紀『消えた国 追われた人々』を読んで

副題に「東プロシアの旅」とある。プロシアは英語読みでドイツ語はプロイセン、1871年成立のドイツ帝国はプロイセン王国が母胎だった。北ドイツとポーランドにまたがるバルト海沿岸の地方が領土だったが、第一次大戦の敗戦でベルサイユ条約により国境線が変わった。ドイツ領土は縮小されプロシア地方は分割された。ポーランド領とダンツィヒの自由都市が間に入り込み、飛び地のように取り残された地方が東プロシアだ。
同書より
もともとローマ・カトリック教会公認のドイツ騎士団がやってきて征服した土地柄、700年来ドイツ人主体の土地であった。池内氏によれば東プロシアのドイツ系人口は200万人ぐらいらしいが、町ごとに人種が違う変わった国だと書いている。ポーランド人、リトアニア人、ロシア人、カシューブ人、ユダヤ人など期せずして異民族共存の国だったようだ。ユンカーと呼ばれる農業貴族が統治する体制。プロシア王の次男三男がやってきて宮廷を造り、臣民を統治し、官僚が書類を作った。そして長い歳月が過ぎた。そんな国が1945年1月に消えてしまった。首都のケーニッヒベルクはロシアの飛び地カリーニングラード州の州都カリーニングラードになっている。現代の地図にはない国。歴史地図とか、それ用のを探すしかない。
そんなところへ著者は旅行してきた、しかも3回も行っている。何をしに行ったのか。あとがきに打ち明けているが新しい翻訳をするにあたって原作者の生地などを見るなど取材が主であった。根っからの旅行好きだから未知の土地を訪れる楽しみのほうが大きかったかもしれない。翻訳を引き受けるためとはいえ、だから自費にした。仕事以外に関心が広がったのが3度にわたった理由だと書いている。著者は英語よりドイツ語のほうが得手であるというが、そのため「追われた人々」についての当時や事後の様子を聞き出す人材に出逢うこともできた。読む側の楽しみとしてはグルメとか景色とかではなく、著者とともに未知に出逢い、歴史の奥に消えた人々の暮らしや、時代の変わり目の出来事に想いを馳せる。筆者がこれまでの迂闊さによって驚かされたことは、ドイツという国は過去に大量の「難民」をつくりだしたことだった。
「国の選別」という言葉遣いが出ている。著者は「おぼつかない東プロシアという消えた『国』のなかに、すこぶる現代的な『国の選別』のヒナ型を見た」と書く。生まれた国と育った国、いまや、人が国を選び、あるいは捨てる。国そのものが人によって選びとられ、また捨てられる。第二次大戦末期に力ずくで国を捨てさせられたとき、千二百万人を超えるドイツ難民が生まれている。シレジア一帯から320万、ズデーテン地方から290万、北西ポーランド一円から300万、東プロシアから200万、その他を合わせるとこういう数字になるのだそうだ。土地、建物、財産すべてを残して出ていかなくてはならなかった。

船の話がある。ヴィルヘルム・グストロフ号、1937年進水の当時世界一の豪華客船。ナチスが労働者階級のため建造した8隻の一つ。安価な海外旅行を宣伝して党員獲得に貢献した。それが1万人にも及ぶ避難民を載せて出港間もなくソ連潜水艦の魚雷に沈められた。1945年1月の事件だった。死者9千人以上と伝えられるが実数は不明だ。グダニスク(当時はダンチッヒ)の港にほうほうの体で殺到した東プロシアのドイツ系住民だった。2千人ほどの被害だったタイタニック号の悲劇を遥かに上回る大惨劇であるにも関わらず事件は長らく秘匿された。大戦中にナチス・ドイツが犯した数々の犯罪のために戦後ドイツが加害者の役割を務めなければならない時期にみずからの被害者の立場を表沙汰にできなかったという事情があった。この事件を題材に取り上げてギュンター・グラスがものしたのが『蟹の横歩き』(2003)、池内さんが翻訳を依頼された作品だった。ギュンター・グラスはダンチッヒの生まれ。

「狼の巣」、ナチス総統部の対ソ連戦作戦本部だ。東プロシアのへそのあたり、と池内さんはいうが現ケントジンという土地。低地らしい。ヒトラーが蚊に悩まされたという話があった。大本営の周りに大きな湖がひろがり、南と北にも沼が点在している。そんな場所の沼や湿地を埋め立てて巨大な地下壕をつくったのだそうだ。目の前のソ連国境に気を取られて事前調査の連中が蚊の存在を忘れていたか。池内さんが見せてもらった写真には見張りの兵士が頭から肩にかけてすっぽりと網をかぶっているのだそうナ。「ヒトラーはしばしば、顔や首すじを襲ってくる蚊をたたきつぶしながら、調査隊の隊長だった人物の名をあげて罵ったという」とある。沼地にはカエルがいる。初夏を待って、何万、何十万と生まれてくる。夜ごとにカエルの大合唱。総統の安眠を図ってか、沼地に石油を注ぎ込んで一挙に退治したことがあった。
『なんというタワケどもだ!』ヒトラーはまっ赤になって怒った。愚かなこと。蛙は毎日、何十匹もの蚊を食べる。何万もの蛙が、どれほど蚊の猛威を防いでいたか気づかなかったのか。ヒトラーはもともと、オーストリアの片田舎に生まれ、そこで育った。蛙が蚊を食べるといった生活上の知識は、貧しい少年時代に仕入れたものにちがいない。
琥珀、コハクと読む。’70年代の終り、筆者が初めてハンブルグのデパートをのぞいてみたとき、大してめぼしい品も並んでいない中でひと際目立っていたのが、茶色っぽいガラスのようなものの中に虫などが閉じ込められている石みたいなものがあった。宝石かな、何かな、と考えながらウインドウの中を眺めていた。あとで聞くとそれが琥珀だということを知った。松脂の化石だそうだが、あんまりいい趣味のものではないなぁというのが正直な感想だった。しかしそれがバルト海の特産品で古来非常に珍重されている。ハンブルグで売られているのも意味があったわけだ。宮廷を飾って琥珀の間があったりしながらいつの世にか相当量が行方不明になった宝探しミステリーが紹介されている。

東プロシアの首都ケーニッヒベルクはカントが生まれた町だ。ここに生まれ、ここで育ち、ここで教え、ここで死んだ。この街をほとんど離れず、東プロシアから生涯一歩も出ることなかった。1724年の生まれ、皮革職人の息子だが勉強好きを見込む人がいて、ギムナジウムから大学に進んで数学と哲学を学んだ。図書館司書をしていたところ大学に招かれた。46歳で教授、57歳のときに発表したのが主著の『純粋理性批判』だった。バルト海沿いの辺鄙な町から知識人の目をむくような新しい哲学がヨーロッパの知的世界に送り出された、と池内さんは誇らしげであるように感じる。なんとなく、すみません、と言いたい。あまり縁がないもので。

コペルニクスも東プロシアの人、1473年ドイツ騎士団の町トルン生まれ。歴史に名を残した天文学は趣味だったそうで、行政官だったから各地を転々とした。本業はカトリックの司祭だった。異民族が一緒に住む緩やかな共存体を支えたのは宗教の力が大きかったようだと池内さんは観測する。
ところで、はて「コペルニクス的転回」って何だったろう。思い出せなくてネットで調べたが、地球中心の宇宙像が一般的だった時代に太陽中心だとの見方を主張したのだった。池内さんは、ローマ教会がたまげるような新説だから我が身の死を見極めてから印刷に出したと書く。世俗以上に世俗的な聖職者の世界と正面切って衝突する愚を避けたのだそうで、鮮やかな身の処し方と賞賛する。
また、ネットのWikipediaには、「コペルニクス的転回」はカントが自らのの哲学を評した言葉だったともでている。カントのほうがあとの時代だから、コペルニクスの説をたとえとして説明したわけだろう、なんて言っても中身がわかっているわけではないけども。
余談になるが、地球中心の宇宙像というのは天動説という方が通りがいいかもしれない。ああ、それなら聞いたことがあるという人も多いはずだ。昔話になるけれど、あれは戦後ほどない昭和の頃。『週刊朝日』の「問答有用」で徳川夢声と対談した薬師寺管主橋本凝胤師が天動説を唱えて、その面白さに世間は喝采した。思えば、あれはコペルニクス的逆転回だったわけだ。懐かしくこんなことを思い出して池内さんに申し訳ないが、池内さんもこんな話がお好きなはずだ。

コペルニクスにちなむ天文台のあるアレンシュタインという町を訪れた著者はエールンスト・ヴィーヒェルトという作家の足跡をたしかめたかったのだそうだ。小さな町や村を舞台にした素敵な小説を発表しているというのだが、どうも我が国には翻訳がないようだ。「街の起源は、一頭の豚が逃げ出したのにはじまる」という出だしのある小説、などと書かれると読んでみたいとの願望が湧く。音もなく、ひそかな変動のきざしがこの小さな町にもあった、とその小説の舞台の雰囲気が紹介されているが、東側の話にはよくある空気だ。
権力ゃ政治から遠い高校教師兼作家だったはずだのに、1933年5月、ベルリンのオペラ広場でナチスによる「焚書」があったとき、好ましからざる作家」として、ヴィーヒェルトもまた、トーマス・マンやブレヒトやフロイト、ケストナーなどとともにブラックリストに入れられた。1938年には警察の訊問を受け、ブーヘンヴァルト強制収容所に入れられた。友人たちの奔走で釈放後にスイスへ亡命、1950年、チューリヒで死んだ。
続いて短編の紹介と街の様子が詩情豊かに伝えられる。池内さんはエッセイストとしての評価も高い。滋味あふれるという表現が似つかわしい人に思える。こうして日本人の余り知らない土地の知らない様子がいろいろな町について語られている。
普通の日本人は沖縄と満州のほかでは地上戦の恐ろしさを知らない。鉛筆一本で国境が変えられる政治の非情さも知らない。池内さんは巧みな表現で郷愁を帯びる東プロシアという歴史の街の訪問記を提供してくれるが、想像をたくましくすれば、その時人々はどんな状況だったかが読み取れるように書いてくれている。だから繰り返して目を通すごとに新しい光景がみえてくるようだ。手にとる人は多くないかもしれないが貴重な書物だ。
池内 紀『消えた国 追われた人々 東プロシアの旅』2013年 みすず書房刊 
追記:エールンスト・ヴィーヒェルトの作品はいくつか翻訳されている。根気よくネットで探せば見つかる。(2017/11)

2017年11月22日水曜日

ブルーレイレコーダーと格闘した話

しばらくぶりにBDレコーダーに録ってあった放送録画をDVDディスクにダビングしようとしたが、「ディスクを読み取れません」というメッセージとともにディスクが吐き出されてきた。BDとはブルーレイディスクのことであるけれど、機器の名前だけでずっとDVDで利用していた。耳が聞こえなくなって映画にもあまり興が乗らないままに長らくレコーダーを放置していた報いがきたようだ。
この現象はディスクや読み取り装置に汚れなどがある場合や装置の故障によって生じるという。汚れの対応にはレンズクリーナーというディスク状の道具があることを知った。アマゾンで600円ほどなので注文したら翌日到着した。レンズクリーナーをトレイに置いて挿入する。しばらくして、やはり「ディスクが読み取れません」と来た。繰り返してもだめ。クリーナーの説明には10回ほど繰り返してだめなら読み取れない理由が他にあるのだから修理しなくてはならないとある。
知り合いのパソコン修理の技術者の方に問い合わせた。BDドライブの不調は交換することになるが、部品代だけでも1.5万円はかかる。修理に出すよりも、新しくBDレコーダーを買って録画を移行してダビングするほうが合理的でないかとの助言をもらった。

そういうことならと、テレビがシャープ製なのでシャープ製のBDレコーダーを買った。機種を選ぶときにわかったことは、前に買ってから7年もたっていることだった。これでは光学ディスクの読み書きなど、もろい構造の機器は不調になるのもやむなしと思う。その一方で画像の精細さを追う技術の進化には一驚した。またユーザーの方も進んでいる(?)とみえて、ドラ丸という聞きなれない用語がレコーダーの使い方にあった。連続ドラマを自動的に予約して録画できる機能のようだ。チューナーも一つだけでなくダブルで使えるというのもあった。当方はつつましい使い方しかしないので、それなりの機種にした。ダブルチューナーで、ストレージは500GB。
さて、新しく得た知識と苦心の作業過程を記録しておこう。本人以外にはまことにつまらない記事になること請け合いだが書くことにする。
【作業1】新しいレコーダーをテレビに繋ぎ、初期設定をする。後知恵であるが今度の故障とは関係なく、レコーダーを新規に買い求めたのと同じように接続その他を先に終えてしまうのがよい。いちばん苦手なアンテナ接続は新旧レコーダーの端子を見比べて繋げばいいから楽だった。
新しいレコーダーの「B-CASカード」挿入が必要。これがないとデジタル放送が受信できない。作業終了後、カードの説明書に添付の「BSデジタル受信機器設置連絡票」はがきを郵送する。
買い換えお引っ越しダビング

【作業2】古いレコーダーのHDDから録画を新しい機器のHDDに引越しするための接続。「買い換えお引越しダビング」という名がついている。2台をルーターに接続する方法と、LANケーブルで直結する方法がある。ルーターは別の部屋にあるため後者を選んだ。2台の機器をそれぞれ「ホームネットワーク設定」にするのがポイントだが、ここに落とし穴があった。何度やってもうまくいかない。取扱説明書は一字一句薄い表示も含めて確実に読むことが鉄則である、とはこれも後知恵の教訓。
[ダビング元の機器設定]リモコンの「ホーム」を押し、ホームメニュー表示⇒設定⇒ホームネットワーク設定で「決定」という手順が説明されている。あとでよく見ると、小ぶりの文字で、下記の設定は例示であって、お使いの機器と異なる場合があるから、お使いの機器の取説を見よ、と書いてある。つまり古い機器の説明に従って設定せよということであるが、こっちは何しろ故障で起きた手違いの挽回に頭がいってしまっているからそんな物は見もしないし、だいいちこの但し書きに気が付かなかった。結果は「サーバーが見つかりません」と表示される。
弱い頭で考えたあげく、新旧それぞれに「ホームネットワーク設定」をするが、テレビに繋いでいるHDMIケーブルをいちいち繋ぎ変えて、古い機器は古いホームメニューで、新しいのは新しいホームメニューで行う。リモコンも使い分けるということもした。これはこれで正解であったが、[ダビング先の設定]でもわからないことがあった。
ネットワーク設定の段階で説明書には、有線を選んで設定する、という画面があるがそういう画面は表示されない。書いてないものはシャーナイな、とばかりその手順を飛ばして設定を終えた。なんとこれで全部できてしまった。
無事にダビング元の録画リストが表示されて、ディスクにダビングする手順に移れるようになった。
実は、さんざん考えあぐねているときに疑問点を書き出してシャープにメールしたのが、一日おいて回答が来た。この箇所については、当方の機種は「無線に非対応なので有線LANでネットワークに接続いたします。有線/無線選択画面は表示されません」ということであった。そんなことはどこに書いてあったのかと、よくよく取説を見れば「本機のネットワーク設定」のページに機種名とともに有線接続と書いてあった。結局接続がうまく出来ない原因は当方が説明を見落としていたからだ。シャープには丁寧にお礼を申し上げておいた。
【作業3】引っ越しダビングの操作。ダビング元の名前が表示されたら、クリックしてフォルダー、タイトルの順に表示させて引っ越すタイトルを選ぶ。個別に選んでも一括して選んでもよい。一度に100タイトルまで選択できる。今回は80ほど。ダビング先とHDDにダビングすることを「確認」して開始。全部終わるまで数時間以上必要だったので、こちらが就寝中にレコーダーに働いてもらった。これでようやく所期の目的の、ディスクへのダビングができるようになった。
【作業4】試運転。新レコーダーの内蔵HDDからディスクにダビングする。はじめはブルーレイディスクを試す。110分の録画は高速であっという間に終わった。次はDVD-RWに試みる。DVDは初期化が必要、VRフォーマット。1倍速で無事終了。さてPCで見るためにはファイナライズが要るが、自動でやってくれるのかどうか、念のために実行した。自分の悪い癖は新しい機器の取説を見ないでいきなり動かそうとすることだ。ファイナライズもどこでどうするのか、当てずっぽうでそれらしい設定を選んだら正解だった。ファイナライズはダビングとは別途の独立した作業だった。無事終了。新しいレコーダーで放送のHDDへの録画はまだ試していないが、まず大丈夫だろうから、試運転はこれで終了とする。
【作業5】つぎはダビングができたディスクをパソコンで見ること。これぞこの度の騒動の根源となった目的なのだ。現在常用しているPCはhpの15インチノート型、昨秋来使っているが、Windows10の大きなアップデートが既に2度もあった。使用者が年老いて画面の読み書きに文字が読みにくくなってきたので、22インチのモニターを繋いでいる。映画にはこれが効果を発揮する。
DVDは無事に再生できた。しかし我が工房ではブルーレイディスクの録画をパソコンで楽しむことは出来ない。
パソコンにはDVD/CD-ROM ドライブと再生ソフトのCyberlink Media Suitが入っていてブルーレイには対応していない。ブルーレイディスクが出はじめた頃、価格が高かったので使わないことにして以来ブルーレイには関心がなかった。しかし今回の経験でブルーレイディスクがずいぶん安くなっていることを知って気が変わった。この際、外付けドライブを買うことにした。バッファローのにしたが、これにもCyberlinkが入っている。今度はフルバージョンで、次世代ディスクのウルトラ何とかにも対応している。インストールすると前のBDなしのバージョンと置き換えられた。おまけのようにいろいろな機能がついているがよくわからない。ともかくこれでブルーレイディスクの再生ができるようになった。めでたしめでたし。
BDレコーダーの不調で買い換えたうえに、さらに外付けドライブも買うことになり、先行き短いご老体が思わぬ投資をした。まだ当分はこの世にいることにして、せいぜい映画も楽しもうと欲を出している。
(2017/11)
*【追記】外付けドライブ バッファローBRUHD-PU3にはCyberlink PowerDVD14が付属していたが、最近録画したNHKBSをダビングしたBDは再生できなかった。PowerDVD18にアップグレードしなくてはならないようだ。たぶんNHKの仕様が変わったためだろうと想像している。バカバカしいのでBDはBDレコーダーで見ることにする。PCで見ながら静止画ショットが撮れないのが残念だ。(2018/9)

2017年11月7日火曜日

雑感 映画『クレアモント・ホテル』

久しぶりに映画を見た。レコーダーにのこっているタイトルの中から選んだ一つ、『クレアモント・ホテル』(2005年)。米英合作扱いではあるが、原作も俳優もイギリス映画、監督がアメリカ人。

長年連れ添った最愛の夫に先立たれたパルフリー夫人は雑誌で見つけたロンドンの居住用ホテルにやってくる。恋人であり、妻であり、母であった生活から解放された残りの人生を楽しもうと期待に胸膨らませてやってきたのだ。だが、着いてみるとどうも様子が違う。ええい、ままよ、万事受け入れての日常がはじまる。

相客つまりご近所さんは家族に見放されて住み込んでいる風変わりなご老人ばかり、単調な日々に何かが起こるのを待っている。公文書館に勤めているという孫に電話してみるがいつも留守番電話。ある日歩道でころんだ彼女を部屋で見ていた若者に助けられ、お礼に夕食に招待する。作家志望の若者はホテルの住人にとっては願ってもない見世物になる。夫人は窮余の一策で彼を偽物の孫に仕立てたことから奇妙な友情物語がはじまる。

若者は友人の留守中の部屋を借りて毎日タイプライターを叩く貧乏暮らし、夫人の人生を聞きながら作品に仕立てることを思いつく。物語は進んで、どんな映画が好きだったか、で、『逢びき』(1945)が話題になるが若者は当然見たことがない。レンタルビデオ屋で見つけたが、棚に先に手を伸ばしたのは若い女性。譲り合いから話が決まりプレイヤーのない彼は彼女の部屋で見ることになった。こちらのカップルについて話はお決まりの筋を追ってコマ写で進む。近頃若者が訪ねて来なくなった夫人に突然面会人があらわれて、住人一同目をみはる。公文書館があらわれたのだ………。

落ち着いた調子で進行する物語は人をそらさないうまい作りだ。脚本の良さがでているのだろうと思った。原作はエリザベス・テイラ―。ハリウッド女優ではない、1912年生まれで75年に亡くなっている過去の人だが、イギリスでの文名は高く日本人にはおなじみのジェーン・オースティンにも比べられるほど、かの国ではよく知られているそうだ。なるほど古い人の作品はわれら古い人間の心に直接伝わる。
「ホテル・クレアモントのパルフリー夫人」というのが原著の題だ。1971年の作品。映画の封切りは2005年だが、日本では2010年12月4日、岩波ホールが初日となっている。劇場プログラムを探しても見当たらない。おそらくその頃見に行ったのだろう。
車の幅に対する感覚が鈍くなって運転に危険を覚えて車を手放した。あとで気がついたが、これも難聴のせいだ。愛車とのお別れの写真の日付が2011年になっている。まだ耳がいまほど悪くないころだから、音楽もふつうに聞こえていた。映画の中でローズマリー・クルーニーが歌う "For all we know" が聞こえるはずだし、若者ルードことルードウィッヒもギターを手にして口ずさむ。向かい合っている夫人の目が潤む。でも実際にはこの曲は、夫人の良き時代ではなく、原作執筆の頃の流行だ。
1970年公開のアメリカ映画『Lovers and Other Stranger(邦題:「ふたりの誓い」)』の挿入歌で、歌手 ペトラ・クラークがアカデミー歌曲賞を受けている。71年にカバーしたカーペンターズがミリオンセラーズの大ヒットとなった。いずれにしろ今の筆者には音楽はただの音の響きでしかない。字幕だけが頼りの映画鑑賞(?)だから若者の口ずさむ歌詞などわかるはずはない。それでもこの映画はいい映画だ。

ホテルの住人の中で夫人は際立って上品なしっかり者風につくってある。80歳も過ぎたらどの人も似た感じになるかと思っていたが、そうでもない。パルフリー夫人の気持ちの持ちようが違うという設定だろうか。一人で前向きに生きて行こうとの気骨だろう。
原著に翻訳はないが、アマゾンのキンドルで原作のはじめの部分がお試しで読める仕組みになっている。そこで発見した。パルフリー氏は植民地行政官だったという設定、それもビルマだ。作者の友人の批評家が役つくりにヒントを出した思い出を序文で語っている。現地の土着の人々の前では、新婚の若奥様でも「わたしは英国女性よ」という気概をみせるイメージが必要だと。なるほど、そう考えれば、ひときわ印象的な女性につくられているわけがわかる。
それはそれとして、パルフリー夫人を演じた俳優はジョーン・プロウライト、なんとローレンス・オリヴィエの3人目の夫人、いまや未亡人だそうだ。これは情報通の人のブログで知った。
劇中で熱弁を振るってプロポーズする老オズボーン氏はロバート・ラング、これはオリヴィエの仲間だとか。1934年生まれ。2004年11月、本作完成の2週間前に亡くなったと聞けば、なんだか劇が進行中みたいな気分になる。皆さんなかなか芸達者の俳優さんばかりで楽しめる。
印象的だったのはベルボーイのサマーズを演じたティモシー・ベイトソン。首なしさんのような背が曲がった体形、いつも口の中でモゴモゴ言っている鈍重な感じ。パルフリー夫人が入口の階段でころんだときは、取り囲んだ人たちを尻目にマネジャーに向って「救急車をはやくッ!」、びっくりするような大声ではっきりと叫んだのには笑わされた。達者な性格俳優、内に滑稽味を帯びた役を得意とするとか。1926年生まれだから80歳を目前にしたお芝居だ。2009年に亡くなっている。

ところで、このパルフリー夫人、朝食にはご持参のお手製ママレードを召し上がる。ほかのママレードではだめ。そこで思い出すのは大英帝国にはママレードにするオレンジも、それどころか砂糖すら生産できないということ。それが裕福な階級に属する人たちの朝食に必須の食品になったのはバレンシアからのオレンジとカリブ海植民地のおかげだ。サトウキビのプランテーションには奴隷労働が必要だった。いまどきホテルが個人用に食品を預かってくれるサービスがあるかどうか知らないが、古き良き時代のイギリスの伝統がのぞく一場面、テーブルの大瓶に入ったママレードが印象に残る。

良き時代と言えばパルフリー夫人の思い出の地に若者のカップルと三人で出かける。今や日本でも知られているらしいが、ビューリューの城と公園が出てくる。故地の物語は知らないがきれいなところだ。この映画の楽しみの一つだ。

インターネットでいろいろ個人的な感想を探ってみたが、なるほどと思えたのはアメリカ人の元校長先生の受け止め方。オスカーには無縁の映画だが、撃ち合い、殺人、車の追っかけっこ、ビルの屋上から屋上へジャンプする人間などなど、そんなアクション・シーンは一つもない、いや待て、パルフリー夫人が転ぶ場面がひとつある、ルードに出逢うきっかけだ…。とあって、ひたすらビューティフル、なんど見ても素敵だと書く。この人は聖書の講座も持っているような人だ。70歳を越した老人。
こういう静かな空気が流れる作品はアメリカでは得難いかもしれない。とくに老齢の人には気持ちが落ち着く、ゆったりした気分になる。古いモラルに合うとでも言えばいいか。『逢びき』の話が登場するのだから、まだ人々が自分の行いに恥ずかしいという感情が強くあったころの気分に合うとでも言えようか。若い人は別の感想を持つのは当たり前だけれども、ガサガサする世に棲む老人にはうれしい清涼剤だ。ときどき繰り返し見るのがおすすめ。108分。
言い忘れたけど、パルフリー夫人の偽のお孫さんはイカスネェ。ルパート・フレンド。
筆者のDVDは機器不調で作成できていない。YouTubeの予告編を借りることにする。
「クレアモント・ホテル」岩波ホール 予告編
(2017/11)