2016年5月26日木曜日

内田百閒の日本語論 「だいこ」

「だいこ」講談社 内田百閒全集第四巻「沖の稲妻」所収

昭和17年5月頃のこと。百閒は日本軍の南方進出をみて「新版圖へ日本語をひろめなければならない」と書いた。英語に亜米利加英語や支那英語が出来たように、馬來の日本語や爪哇の日本語などが出来るだろうと予想している。「それはそれで結構であり自然に出来た姿は尊重してもいいが、本元の本家の日本語はどこまでも正しく、新しい語系の典據であり規準とならなければならない。後から生まれた方言の爲に格調が亂れると云ふ事のない樣に、本來の姿が崩れない樣に守らなければならない」との高い意識を持っていた。

そして「だいこ」を取り上げている。これは国内の古い言葉と新しい言葉の対立をどう見るか、方言と標準語の対立にすり替えられていないかとの問題点をやわらかに指摘している。

  有名な女優が舞臺の賓白(せりふ)で大根をだいこんと發音した。劇評家がこれを捕へて、東京にては、だいこと申す。だいこんは田舎訛りであり方言であるときめつけたとか云ふ話を聞いた。 だいこと、だいこんと、どちらが正しいかは、その正しいと云ふ言葉の意味をきめてからでないと手取り早く片附けるわけに行かない。言葉としては、だいこであり、文字に大根と書いてその儘に讀み下せば、だいこんである。しかし文字を先行せしめて、文字通りに讀むのが本當だとはきめられない。況んや最後の鼻聲の「ん」を讀まない語例は古典語にいくらもある。

郷里の岡山では子供の時からだいこと云うとし、東京にいる今でも大根はだいこだと思っているし、地方出の友人たちもみんなだいこだという、と紹介している。新開の地方を除いてはどこでもだいこなのではないかと推測している。
  地方から東京に出てくる、つまり方言が中央標準語のお膝元に這入って来る。在來の方言の多くは古語であり、その系圖は大概正統である。段々にすたれて邊陬(へんすう)の地に殘り、一般の語彙からは死語と見なされてゐるものが多い。しかしだいこは死語ではない。
  だいこんを田舎訛りだと云った劇評家は田舎と東京を逆に取り違へてゐる。だいこん語の最も行はれてゐるのは東京である。言葉の上では東京に二つの性格がある。一つは標準語の東京であり、もう一つは地方の一つとしての東京であり、そこでは昔からだいこであり、練馬だいこであり、だいこ役者であった。 
  古代からの注連飾(しめかざり)にだいこ注連(じめ)と云ふのがある。だいこんじめではない。古名おほねに當てた字を音讀して六づかしくなった。これはほんの一例であるが、新版圖のおかみさん達にだいこだか、だいこんだか解らぬと云ふ事のない樣にしたい。
当時の新版図は妄想に終わったが、地方の言葉に引け目を覚えて標準語に変えるという百閒先生の杞憂は杞憂ではなかったようだ。いまやだいこんが当たり前になっている。ちなみに妻に実家、徳島での昔を聞いてみたらだいこだった。わが和歌山も古い言い方が多いからそうだったかもしれない。聖護院大根など全部言うことはなく聖護院ですましていた。

ついでながら思い出したことに、百閒の文章で「胡蘿葡(こらふ)」という言葉に出会ったことをブログ「サラサーテの盤」に書いたことがある。どうもこの「葡」は「蔔」ではなかったかと考えている。『中国菜』という料理本で大根の写真に「白蘿蔔」とあるのを見つけたのだ。
『岩波中国語辞典』(倉石武四郎1974年)には「luobo 蘿卜(蔔)[名]大根」と出ており、『岩波漢語辞典』(山口・竹田編1987年)に「蘿蔔(ラフク)大根」がある。
『漢字と日本人』(文春新書2001)の高島俊男氏が「蘿葡(ロボ)大根」と書いてあったのに引きずられたかも。
広辞苑(第四版)は「すずしろ」に蘿蔔を当て、ダイコンの別称としている。
肝心の百閒先生の文章がまだ見つけられないでいるのがどうも体調に障っている。(2016/5)

2016年5月24日火曜日

日本郵船内田嘱託

内田百閒が日本郵船の嘱託になった。丸の内の郵船ビル6階に部屋が用意されて給仕がついた。643号室である。友人の一人は郵船会社にも洒落た人がいるものだという。何故かと聞いたら、643は音読みすれば無資産に通じる。その部屋の主人公がいつも借金に追われている百鬼園先生ときては、津々たる興味があると言ったそうだ。
うしろの壁に色の変わったところがある。調度課の人に何故かと聞くと、この部屋はもともと金庫だった。色の変わったところに金庫の扉があったのだという。説明を聞いて福々しい気持ちになった。かねがねお金がほしいと思っていたら、自分自身がいつの間にか金庫の中身になってしまったと喜んでいる。
それでも自分から無資産というのは業腹だから、部屋を夢獅山房と呼ぶことにして以後郵船会社の会報『海運報国』に「夢獅山随筆」を連載した。

会社の中に文章の先生にいつもいてもらうとは贅沢のようではあるが、一体どんな文章に先生が必要なのか不思議にも思える。百閒先生の仕事の中身を知りたいとは思うが、そういうことに触れた文章はどうも見当たらない。「夢獅山房」(『菊の雨』所収)には次のように書いている。
今度の私の樣な役目は日本の会社で前例のない事ではないかと思はれる。外國關係の會社に外人の囑託がゐて、外國文の添削をするのは普通の事であるが、それは主として語學の方面の仕事であろう。私の場合の樣に、日本文推敲の囑託を受けると云ふ事は、私がその任であるかどうかは疑はしいとしても、從来さう云ふ方面にまるで無關心であったらしく見える會社の中から、日本語及び日本文尊重の風潮が興こりかけたのではないかと思はれるのであって、私が先づその聘を受けたのは文章道の精進を自分の使命と心得てゐる私の冥利であるが、日本郵船がさう云ふ風潮の先唱をなしたと云ふ一事に或は將來の意義が加へられるのではないかとも考へられる。しかし自分に都合のいい事で會社を褒める樣な事を云ふのは甚だ聞き苦しい話に違ひないから、右の一件はこれでやめる。
まことに奥ゆかしい表現であって百閒の育ちの良さがうかがえる。発端は仲の良かったフランス文学者辰野隆氏の推薦だったというが、辰野博士に適任者の推薦を依頼した人が郵船会社にいたはずだ。どんな人がどんなつもりで文章指南に人を得たがっていたのだろう。まさに前代未聞のことだと思う。
さて、法政大学の教授職を学校の騒動を機にやめてから5、6年経ってのお勤めとなった。
嘱託期間は昭和14年4月に始まり1年ごとの嘱託期間を毎年更新して敗戦後の昭和21年まで続いた。
郵船社員で百閒に師事した俳人村山古郷氏によれば、
「今までの髭茫々、浴衣一枚で琴を弾じ文をやるといった文覚上人の様な姿を一擲し、洋服を新調するやら、キッドの靴を注文するやら、丸の内の一流船会社の嘱託にふさわしい体裁をととのえるのだといって」「初出社の日、フロックコートに山高帽子、薄鼠色の手袋にステッキを携え、郵船ビルの正面から乗り込まれた」
という(講談社全集第四巻「月報」から)。 
月給二百円、水曜日は不出社、平日は午後からという異例の厚待遇だった。それでいて先生には困ったことがあった。
  自宅での長年の習慣は、朝5時か6時に目覚めて果実を一、二種食べる。日本薬局方の赤葡萄酒を一杯飲む。家人が掃除をする間、新聞をひろげたり、郵便物の封を切ったりする。それらを見終わる前に小さな英字ビスケットを齧って牛乳を飲む。何もなければ10時頃机に向かい、そしてお昼になると蕎麦を食べる。蕎麦は正午きっかりに届くようになっている。正午より早く来たり、遅くなったりもするだろうけど、蕎麦屋が来たから正午だということになっている。今度勤めに出るとなるとこの辺の調子がおかしくなる。
  郵船ビルの部屋の鍵は自分で開けるのだから行くまで閉まっている。閉まっていては蕎麦屋が困るだろうし、置いてゆかれては蕎麦が伸びる。丸の内にも蕎麦屋があるから行けばよいという人がいるが、これは大変な誤解だ。家で蕎麦ばかり食ったのは、蕎麦が好きなためではなく、蕎麦で一時のおなかをを押さえて我慢をしたに過ぎない。自分から足を立てて食べに出掛けるということになれば蕎麦屋で盛りやかけをを食うよりは、西洋料理とか鰻の蒲焼などのほうが好きである。ただ昼間のうちからそういう物を食べ散らかすようなお行儀の悪いことをすると自分の身体にいけないから、蕎麦で養生していたのだ。食い意地が張っていて自制心の弱い自分のような者は、なるべくうまそうな匂いのする場所へ近づかないに限る。
  面倒だからなんにも食べないのが一番簡単であると思いだした。そう決めると気が軽く、お腹の中も軽いなりに出かけた。家を出る時から既に腹が減っているので、何時間かのうちには目が回り出した。廊下を歩くと時化にあった甲板のように、向こうが高くなったり、足もとが落ちていったりして危なくてしようがない。郵船会社は見掛けは立派だけれども、廊下が安定していない。
  ある日節を屈して丸ビルで蕎麦を食ってみた。誂えたお膳は来たけれど、あたり一面が大変な混雑で、私のすぐ右にも左にも、鼻をつくほど近い前にも知らない人が一ぱいいて、みんな大騒ぎして何か食っている。腹の減った鶏の群れに餌を投げてやったような有り様で、こっちまでいらいらして、自分の蕎麦を食う気がしなくなったから、半分でやめて、外へ出てほっとした。
あれこれ考えた挙句、弁当持参にした。麦飯をアルミニュームの弁当箱に詰めて携行し、机の引き出しに入れておいて、そろそろ廊下の浮き上がってくる2時半か3時頃に食べる。おかずが旨いとご飯が足りなくなるから塩鮭の切れっ端か紫蘇巻きに福神漬をほんの少しばかり入れてある。夕方帰るとき、エレベーターに乗った拍子に、袱紗包の中が時としてからんからんと鳴ることがある(「腰弁」から)。

講談社の「内田百閒全集 第四巻」月報4に村山古郷氏が「百閒先生の借金証文」という文を寄せている。村山氏が百閒にお金を貸したことがあるから証文が手元にあるわけだが、証文といっても備忘のメモで金額も二円とか三円とかだそうだ。
「古郷さん、お金をいくら持っていますか」「はい、三円とちょっと」「そのうち二円貸してください。今、私の家には一銭もない」
昭和十年ごろのこと。百閒先生は文名隆々として高かったが貧乏と借金話は一世を風靡していた。村山氏は晩学の貧書生であったと書いてあるが、その乏しい嚢中からも借金をした。もちろんきちんと返してくれたが、時によると、未返済のまま次の錬金術にかけられ、二円が五円に、七円にと重なって殖えることもあった。しかし、それはそれだけのことで、その間に村山書生は別の名目で何倍、何十倍かのお金をもらっていた。
「これはこの間の校正のお礼です。借金の返しではない。あのお金はまだ借りておきます。これはお礼として上げるのです」といって、十円、二十円と何度も頂戴したのだそうだ。不思議なことをする先生だとは思ったが、ある時こう言われたという。
「あの二円は誠にありがたかった。家の中が旱で干上がっている最中に、あの二円でどれほど潤ったか知れない。今手許にお金が入ったからといって、その中から二円返してすむことではない。恩借は消えませんよ。だから借りておきます」
村山氏はメモを見るたびに先生の御恩を思うと結んでいる。内田百閒氏は立派なものだと思う。

戦争が進んで、日本郵船も船がなくなってきた。嘱託解嘱の話が出たが、やめるとなれば、文士の徴用で報道班員として陸海軍のお先棒を担がされることにもなりかねない。無給の嘱託を願い出て容れられた。百閒は長くこのことを徳としていたという。5月10日の東京大空襲で百鬼園邸は焼尽し、蔵書のすべてが失われた。戦後日本郵船が存亡の危機に見舞われた時に百閒は退職したが、その際会社で長く愛用した『大日本国語辞典』全五冊の下付を願い出て快諾された。当時、日本郵船が退職する内田嘱託に贈ることができた唯一の餞別であった(同「月報」村山古郷「百閒先生の借金証文」から)。
(2016/5)
 

2016年5月11日水曜日

出生率

 『リー・クワンユー回顧録』(日本経済新聞社 2000年)を読んでいて「人口ピラミッドを正常に維持するには2.1人必要」と出てきた。去る3月、大阪の中学校で校長先生が「女性が子どもを二人生むことは仕事以上に価値がある」などと全校集会で発言して論議を呼んだとの報道があったことを思い出した。「発言要旨全文」というのを読んだが趣旨一貫せずまとまりがない。ある女子大生のブログには、ペロッ……これは…主観!!みたいにしていかないと読めない、との評があってその表現が愉快だった。それはともかくとして、リー氏の「2.1人」、校長の「二人」は何を意味するのか、ちょっと勉強してみた。
これは言うまでもなく少子化を問題にするときの言葉だ。リー氏が言うのは人口が一定に推移する人口置換水準のこと、女性が一生に産む子どもの平均とする合計特殊出生率の数字でもある。15歳から49歳までの女性の年齢ごとの出生率を合計して算出する。
http://www.garbagenews.net/archives/2013423.html が参考になる)
ついでだが、合計特殊出生率という漢字の連なりでは意味がとりにくい。英語ではTotal fertility rate,略してTFR。fertilityとは早い話が繁殖力のことだ。

1983年のナショナル・デー集会でリー・クワンユー首相は「大結婚論争」と皮肉られて大騒ぎになるスピーチをした。「大卒男性が自分と同じ優秀な子どもが欲しいなら教育レベルの低い女性を妻に選ぶのは愚かなことだ」という発言が引き金になった。当時の社会実態では中等教育修了試験(GCE)Oレベル(中卒程度)の女性のほうが大卒女性よりずっと数が多かったこと、また男性は自分よりレベルの低い女性を選ぶ傾向が強かった。アジア人ではこれが普通の状態だったから人々が反発したらしい。与党の人民行動党(PAP)はそのため得票率を12%落としたという。
80年の国勢調査の分析結果では、教育レベルの高い女性は低い女性と比べて遥かに少数の子どもしか持たないことがわかった。さらに大卒者の半分が女性であるが、そのおよそ3分の2が未婚だった。
リー氏はある優生学上の実験データにもとづいて考える。アメリカはミネソタ州の実験。別々の場所で育てられた一卵性双生児では語彙、知能指数(IQ)、習慣、食べ物や友人の嗜好、人格、個性の特色の八割が共通していた。つまり、人間性のおよそ80%は天性のもので20%は養育の結果だ。子供の能力はだいたい両親の能力の中間にあり、両親より高かったり低かったりは少ないということだ。
そこで、大卒男性に同程度の教育を受けた女性と結婚するように促し、大卒女性には二人以上の子どもを持つことを奨励したのだ。ここで「二人以上」が出てくる。この結果、大卒の女性と結婚した大卒男性は、わずか38%だったのが97年には63%になった。未婚の大卒女性を救済するために官製の「社交クラブ」を組織し、シンポジウム、セミナー、コンピューター講習、クルージングのような地道な縁結び活動を展開した。98年までに参加者2万1千人を超え、3975組が結婚したとリー氏は語っている。
低い教育レベルの人々にも問題があった。女性は自分よりレベルの高い男性を選ぶ結果、教育レベルの底辺にいる男性は相手がいないことになる。対策として社交クラブを補足する目的の中等教育修了者向けに特別の会を組織した。こちらは95年までに9万5千人、31%が結婚したという。
さて、1965年の独立以来の合計特殊出生率はどうなのか。当初こそ4.70を示していたが、1975年2.08、1980年には1.74、2001年1.41、2012年は1.29と下がってしまった。一方で人口総数は独立時の約180万人は75年230万、90年300万、現在530万人と増加した。しかし、うち4割は外国人だそうだ。経済をもり立てる必要人数を賄うためには外国人の移入に頼らなくてはならなかった。
本来の人口の半数を占める女性に高学歴化と社会進出を奨励した結果、公務員も半数以上を女性が占める。手が足りなくなった出産、育児、介護など家事労働も外国人を頼るようになる。英語が普及しているこの国では外国人との間では言葉の障壁は低くても文化的な違いが壁になることは避けられない。合理的な思考を論理的にすすめて人々を引っ張ってきたリー・クワンユーは昨年3月91歳で亡くなった。いま三代目の首相になっているのは子息のリー・シェンロン氏だが、これまでのモデルでは進めない時代になった。リー・シェンロン氏は日本のようになってはならないと政府を引き締めている。
日本の人口も年々、出生率は下がり続け、80年の1.75はいまや1.19だ。高齢化は言うまでもなく世界一をゆく。リー・クワンユーは日本の失敗は移民を拒否したことだと言っていたそうだが、たとえ労働力に移民を入れるにしても、言葉の壁があるから家事労働の分野にまで外国人はすぐには期待できそうにない。非正規労働者が増えて、右も左も、老いも若きもアルバイターだらけ、格差の問題が大きすぎる。家庭を持つどころではない。この日本には学ぶモデルがないのだ。座して1億沈没を待つしかないのではあまりに情けない。資源を見なおして、大企業に回っている社会資産をどうにかして農林漁業の第一次産業を活性化する方法はないか。人力費消ではなく代替労力を開発するのは結構だが牛馬鋤鍬に代わったトラクターぐらいまでが分相応らしい。システム構築は余り得意でなさそうだから自動車の無人運転も必ず穴ができるはず、もっと別の方面に知恵を絞りたい。人を動かすのになんとか祭りとか標語ポスターではなにも変わらない。落石注意の立て札を立てれば事故防止できると思う感覚は伝統らしい。重厚長大、市場率トップを目指せはとっくの昔の話。じっくり微生物でも研究したほうがいいのではなかろうか。このところ人間の質が落ちたと実感することが多い。大学の文系を整理するなんて勘違いもひどすぎよう。文系理系という分け方がそもそも間違いだった。理工の中にこそ文が必要なのだよ。日本語を上手に使えない人が増えた。お母さんはスマホに見入るより赤ちゃんの目を見なくては良質の人は育たないよ、などと思考散漫になりながらも閑人はいろいろと考えあぐねている。
(2016/5)