『リー・クワンユー回顧録』(日本経済新聞社 2000年)を読んでいて「人口ピラミッドを正常に維持するには2.1人必要」と出てきた。去る3月、大阪の中学校で校長先生が「女性が子どもを二人生むことは仕事以上に価値がある」などと全校集会で発言して論議を呼んだとの報道があったことを思い出した。「発言要旨全文」というのを読んだが趣旨一貫せずまとまりがない。ある女子大生のブログには、ペロッ……これは…主観!!みたいにしていかないと読めない、との評があってその表現が愉快だった。それはともかくとして、リー氏の「2.1人」、校長の「二人」は何を意味するのか、ちょっと勉強してみた。
これは言うまでもなく少子化を問題にするときの言葉だ。リー氏が言うのは人口が一定に推移する人口置換水準のこと、女性が一生に産む子どもの平均とする合計特殊出生率の数字でもある。15歳から49歳までの女性の年齢ごとの出生率を合計して算出する。
(http://www.garbagenews.net/archives/2013423.html が参考になる)
ついでだが、合計特殊出生率という漢字の連なりでは意味がとりにくい。英語ではTotal fertility rate,略してTFR。fertilityとは早い話が繁殖力のことだ。
1983年のナショナル・デー集会でリー・クワンユー首相は「大結婚論争」と皮肉られて大騒ぎになるスピーチをした。「大卒男性が自分と同じ優秀な子どもが欲しいなら教育レベルの低い女性を妻に選ぶのは愚かなことだ」という発言が引き金になった。当時の社会実態では中等教育修了試験(GCE)Oレベル(中卒程度)の女性のほうが大卒女性よりずっと数が多かったこと、また男性は自分よりレベルの低い女性を選ぶ傾向が強かった。アジア人ではこれが普通の状態だったから人々が反発したらしい。与党の人民行動党(PAP)はそのため得票率を12%落としたという。
80年の国勢調査の分析結果では、教育レベルの高い女性は低い女性と比べて遥かに少数の子どもしか持たないことがわかった。さらに大卒者の半分が女性であるが、そのおよそ3分の2が未婚だった。
リー氏はある優生学上の実験データにもとづいて考える。アメリカはミネソタ州の実験。別々の場所で育てられた一卵性双生児では語彙、知能指数(IQ)、習慣、食べ物や友人の嗜好、人格、個性の特色の八割が共通していた。つまり、人間性のおよそ80%は天性のもので20%は養育の結果だ。子供の能力はだいたい両親の能力の中間にあり、両親より高かったり低かったりは少ないということだ。
そこで、大卒男性に同程度の教育を受けた女性と結婚するように促し、大卒女性には二人以上の子どもを持つことを奨励したのだ。ここで「二人以上」が出てくる。この結果、大卒の女性と結婚した大卒男性は、わずか38%だったのが97年には63%になった。未婚の大卒女性を救済するために官製の「社交クラブ」を組織し、シンポジウム、セミナー、コンピューター講習、クルージングのような地道な縁結び活動を展開した。98年までに参加者2万1千人を超え、3975組が結婚したとリー氏は語っている。
低い教育レベルの人々にも問題があった。女性は自分よりレベルの高い男性を選ぶ結果、教育レベルの底辺にいる男性は相手がいないことになる。対策として社交クラブを補足する目的の中等教育修了者向けに特別の会を組織した。こちらは95年までに9万5千人、31%が結婚したという。
さて、1965年の独立以来の合計特殊出生率はどうなのか。当初こそ4.70を示していたが、1975年2.08、1980年には1.74、2001年1.41、2012年は1.29と下がってしまった。一方で人口総数は独立時の約180万人は75年230万、90年300万、現在530万人と増加した。しかし、うち4割は外国人だそうだ。経済をもり立てる必要人数を賄うためには外国人の移入に頼らなくてはならなかった。
本来の人口の半数を占める女性に高学歴化と社会進出を奨励した結果、公務員も半数以上を女性が占める。手が足りなくなった出産、育児、介護など家事労働も外国人を頼るようになる。英語が普及しているこの国では外国人との間では言葉の障壁は低くても文化的な違いが壁になることは避けられない。合理的な思考を論理的にすすめて人々を引っ張ってきたリー・クワンユーは昨年3月91歳で亡くなった。いま三代目の首相になっているのは子息のリー・シェンロン氏だが、これまでのモデルでは進めない時代になった。リー・シェンロン氏は日本のようになってはならないと政府を引き締めている。
日本の人口も年々、出生率は下がり続け、80年の1.75はいまや1.19だ。高齢化は言うまでもなく世界一をゆく。リー・クワンユーは日本の失敗は移民を拒否したことだと言っていたそうだが、たとえ労働力に移民を入れるにしても、言葉の壁があるから家事労働の分野にまで外国人はすぐには期待できそうにない。非正規労働者が増えて、右も左も、老いも若きもアルバイターだらけ、格差の問題が大きすぎる。家庭を持つどころではない。この日本には学ぶモデルがないのだ。座して1億沈没を待つしかないのではあまりに情けない。資源を見なおして、大企業に回っている社会資産をどうにかして農林漁業の第一次産業を活性化する方法はないか。人力費消ではなく代替労力を開発するのは結構だが牛馬鋤鍬に代わったトラクターぐらいまでが分相応らしい。システム構築は余り得意でなさそうだから自動車の無人運転も必ず穴ができるはず、もっと別の方面に知恵を絞りたい。人を動かすのになんとか祭りとか標語ポスターではなにも変わらない。落石注意の立て札を立てれば事故防止できると思う感覚は伝統らしい。重厚長大、市場率トップを目指せはとっくの昔の話。じっくり微生物でも研究したほうがいいのではなかろうか。このところ人間の質が落ちたと実感することが多い。大学の文系を整理するなんて勘違いもひどすぎよう。文系理系という分け方がそもそも間違いだった。理工の中にこそ文が必要なのだよ。日本語を上手に使えない人が増えた。お母さんはスマホに見入るより赤ちゃんの目を見なくては良質の人は育たないよ、などと思考散漫になりながらも閑人はいろいろと考えあぐねている。
(2016/5)