2016年4月11日月曜日

二葉亭四迷の終焉と埋葬について

◯資料調べの記録
二葉亭四迷については「言文一致」のことにかかわって以来、折にふれて業績など調べているうちに、最後はインド洋で亡くなったというけれど、どういう風であったのか知りたくなって作業を始めた。最近のインターネット検索は実に便利になっていることを改めて実感する結果になった。
日本に向けて乗船した港はどこであったのか。ポーツマス、ロンドン、リバプールと三箇所が候補になった。ロンドンが有力と考えだしたときに、乗船した日本郵船賀茂丸の船医村井玄沢の診療日誌が見つかった。青い罫線の日本郵船株式会社の名入り便箋に毛筆書きである。これが画像で見られる。
ところどころ読めない文字や分からない漢語があるが、おおよそのことは理解できる。
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i04/i04_02090/i04_02090_0070/i04_02090_0070.pdf

同じく画像で賀茂丸近藤事務長の毛筆書簡で遺族宛の死亡報告がある。赤い罫線の社用便箋にびっしり書かれている。これも読めない文字のほうが多い。なくなった洋上の地点が緯度経度で示されてある。そのうえ、水葬ではなく荼毘にすることが試みられた様子がわかった。
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i04/i04_02090/i04_02090_0071/i04_02090_0071.pdf

学者や研究者による文書に登場する坪内逍遥・内田魯庵編『二葉亭四迷』という資料が相当重要と考えられたが古すぎるのか検索にかかってこない。それが偶然のように見つかった。正しい資料名は「二葉亭四迷 ―各方面より見たる長谷川辰之介君及其追懐」(明治42年 易風社)。
「国文学研究資料館」というサイトの電子資料館に画像があった。目次に「終焉紀事 付埋葬記」があり、この中に前記賀茂丸事務長の本社宛報告内容が含まれている。この報告によってシンガポールでの火葬の状況とその後の遺骨の東京までの搬送経過が分かった。魯庵の『二葉亭四迷の一生』(以下「一生」と略す)もこの中にあった。ただ、画像では読むのに手間がかかるので「一生」は青空文庫で読んだ。
http://school.nijl.ac.jp/kindai/NIJL/NIJL-00972.html#20

せっかく緯度経度まで記録されているのでベンガル湾上の位置を表示してみた。なるほどシンガポールへあと3日とはこういう位置かと実感のようなものを感じた(http://earthjp.net/maps/)。

遺骨は再び同じ賀茂丸で神戸まで運ばれ、その後鉄路東京に届けられてから染井墓地で葬儀がとり行われて埋葬されたことが明確になった。この度発見した画像のように紛れようのない資料は本当に貴重なものだと実感した。

◯記事
二葉亭四迷こと長谷川辰之助は東京朝日新聞社特派員としてロシアの首都ペテルブルグに赴くべく明治41(1908)年6月12日新橋駅を出発した。いったん大阪に着いてから、14日には折り返し敦賀にロシアから帰朝した後藤新平男爵を迎えて、初対面ではあったが知遇を得て翌日米原まで陪乗して余人を遠ざけた上で意見を交換した。だがその内容について後日、二葉亭追悼の席上、男爵は口外できないと語ったという。米原で男爵一行に別れて神戸から乗船して大連経由、シベリア鉄道で任地に赴く。途中大連では小村外務大臣、ハルビンでは赴任する駐日露国大使マレウイチと意見交換している。詳しい報告が来たそうだが内容が国際情勢の機微にわたるため発表できないと朝日新聞では池辺主筆が抑えてしまった(「一生」)。

その魯庵によれば、二葉亭は一年前の6月急病で70日余も病床にあったそうだ。ふだん健啖であったのが食欲大いに減退し、夜もおちおち寝られないと言って、神経衰弱のようでもあったらしい。それがロシアの有力新聞記者のダンチェンコがこの6月に来日し、二葉亭を露都に派遣するよう朝日新聞に推薦したことから特派に決まって、本人の心中は爽快この上なく病気を忘れてしまったようだ。古くから二葉亭の体調を知っている魯庵は心配しながらも、ロシア文学者としての優れた知見をもって日露両国の国民の意志疎通を図りたいという多年の宿望を達成できればと欲目をもって送り出したのだったが、案の定到着早々体調を崩してしまった。

7月15日ペテルブルグに着いた長谷川特派員は間もなく神経衰弱になってしまい、半年近く何もできずに過ごしたと魯庵は書く。在留の誰彼の追悼記など読んでみると煙草の害が最大の原因のように思われる。12月頃見舞った夏秋亀一の追悼文によれば、8歳の頃覚えた煙草が止められず原稿に向かうときも手離せない。強く諌めてしばらく止めたら体調が良くなって正月には邦人寄り会って胴上げなどしたとある。

どうかこうか癒り掛けた翌る四十二年の二月十四日、ウラジーミル太公の葬儀を見送るべく、折からの降りしきる雪の中を行列筋の道端に立っていると、何しろ露西亜の冬の厳しい寒さの中を降りしきる雪に打たれたのだから、病上りの身の何とて堪えらるべき、忽ち迷眩して雪の上に卒倒した
とは魯庵の文章である。肺結核の診断でアレキサンダー病院に入院した。知人たちはしきりに帰国を促すが、本人はこのままおめおめ帰れるか、ということを聞かなかったがだんだん病は重くなる。

3月24日ついに帰国の決心をし、26日妻のりうに手紙を書いた。
目下熱は三十八九度が普通にて時には四十度を超すことあり普通の場合ならば少しも身体を動かしてはならぬの也 現に便所へ通ふことにも医者は不賛成にて無拠便器にて用を足し居る始末 然るを身体を動かすをいとふどころか彼得堡を退去して日本へ帰れといふのは医者も余程もちあぐねたもの也(亀井秀雄「二葉亭四迷」)

4月3日に退院した。ロンドンまで大阪商船会社支配人の末永一三氏が付き添ってくれることになり、5日、ペテルブルグを午後10時15分出発、ベルリン、アントワープを経て9日朝5時ウォーウィック到着ロンドン市内横断して午後11時賀茂丸に乗船した。

ペテルブルグ出発以来発熱暫くも休まざれば、疲労甚だしく歩行困難なれば倫敦に着したる頃は疲労甚だしくして歩行能わず。寝榻椅子に仰臥したままを船中に擔ぎ込みたり(「一生」)。
二葉亭が帰国にようやく同意するあたりから倫敦着の様子などは「終焉紀事」に詳しい。
末永氏は途上介抱残る方なく、故人の望むまにまに一日数回衣服を着替えさせたるなど、親身も及ばぬ手を尽くしつ、無事に船中に送り込みて後萬事を船長と事務長に頼みて露都へ引還したり
とあるのを読むと、幼児の頃甚だしい疳症で毎朝衣服を母に着せてもらうのに、
常に一度にてはすまず、どこか気持悪しければニ三度は着かへるをもて、是に由りて母なる人を苦しめたることも有りき(「落ち葉のはきよせ ふた籠め」)
との本人の回想を連想し、長途を付き添って介抱した末永氏の苦労を思いやった。
末永氏は露都に引き返した後、鉄道で先回りして帰国する。この後の病状は船医村井玄沢の日誌に記録される。

10日倫敦出帆、17日マルセーユあたりまでは小康を保ったものの、23日スエズ運河通過、28日紅海を過ぎて暑熱厳しく病勢増進、5月7日コロンボ、9日うわ言、10日昏睡状態、午後5時15分呼吸脈拍絶す。

「終焉紀事」は事務長の本社宛報告が活字の画像で読めるのが助かる。第一回報告には乗船後の待遇、船室の様子、日々の経過大要が述べられ、指図によりマルセイユ、ポートサイド、コロンボより容態を電報で通知した旨記録されている。魯庵「一生」にはこの辺りを次のように書く。なお、事務長報告文書中の船名が「加茂丸」とあるのは誤植か魯庵の誤りである。「賀茂丸」が正当。

然るにポルトセイドに着き、いよいよ熱帯圏に入ると、気候の激変から病が俄に革(あらた)まって、コロンボへ入港したころは最早頼(たのみ)少なになって来た。 電報は櫛の歯を引く如く東京に発せられた。一電は一電よりも急を告げて、帰朝を待侘びる友人知己はその都度々々に胸を躍らした。 五月十日、船は印度洋に入った。世界に著き澎湃たる怒濤が死ぬに死なれない多感の詩人の熱悶苦吟に和して悲壮なる死のマーチを奏する間に、あたかも夕陽に反映(てりか)えされて天も水も金色に彩どられた午後五時十五分、船長事務長及び数百の乗客の限りなき哀悼悲痛の中に囲繞(とりま)かれて眠るが如くに最後の息を引取った。
美文調にすぎるとは思うが、心からの友人の少なかった内田魯庵がもっとも近しく敬愛した友を失った渾身の気持ちからの文章である。

事務長の報告によれば倫敦で末永氏は万一船中にて死亡の節は水葬も差し支えないが、できれば火葬ないしは埋葬し、生じた費用は遺金を当て、不足の場合は立て替えるなどと取り決めした。また,本人は無事帰国することを疑っていなかったようで、漠然と家族宛の伝言など問うても一切なく何の遺言もないまま逝かれたのは誠に遺憾としている。しかし遺産調査中に坪内雄蔵氏あての一封(遺言状及び遺族善後策封印の儘)を発見したが郵便では紛失の恐れあるので携帯する旨付記されている。

事務長報告第二回には13日シンガポールに入港後火葬の可否を探り、実行する場面が詳しい。こういう場合には在留邦人有志の協力が欠かせないこと今も昔も変わりがないが、ここには日本人共済会長二木多賀次郎氏の名が出ている。共済会や二木氏については現在の同地日本人学校「チャンギだより」に墓地の歴史として中村校長の手記が掲載されているのが参考になる。
http://www.sjs.edu.sg/changi/wp-content/uploads/2013/08/letter_201308.pdf

船会社代理店に依頼して火葬認許の手続きを済ませ、領事館の紹介で日本人共済会長二木多賀次郎氏に相談したが同地には火葬設備などはない。埠頭を去る3マイルほどの場所にインド人が火葬に使う場所ありというからそこに決めたもののまったくの野天だとのこと。雨が降ると困ると考えたが遺骨無しで帰国した時の遺族の心情を思いやれば断然決行することにした。記述はないが代理店などに依頼して現場の準備を始めた模様。

四時過ぎに準備整い、二頭曳きの馬車で棺を国旗で覆い花輪を供えて出発、パシル・パンジャンに向った。共済会の曹洞宗僧侶釈梅仙氏を頼み、二木氏他邦人有志数名、本船より海軍技師二名、事務長、船医、給仕四名などが随行、五時半ごろに到着したが、山腹に至る道路が険悪で困難一方ならずと報告にある。

いずれ日本で本葬挙行のことだからと戒名は二葉亭四迷で引導し、五時五十分導火、読経ののち会葬者帰途につく。残るは事務長と給仕二名。雇い入れたマレー人人夫三名は残留望まず帰した。近くの藪を切り開いて国旗を天幕とし毛布を敷いて休息所をつくったが夜露が多く、蚊と蟻の襲来に悩まされる。九時頃、薪が不足してきたため近在のマレー人家屋を訪ねて言葉が通じないのを手真似で難儀しながら薪を求め、鼎座して一夜を過ごしたと報告されている。
記述にはないが高温多湿の同地の気候のことを考えれば当夜のご苦労は想像するに余りある。

午前一時頃火葬が終わり、六時には梅仙師が再び来場されて読経、終わって遺骨収集にかかり、たとえ一片の遺骨たりとも異郷に残してはならないと細心の注意をもって収拾にあたった。僧侶が言うには火葬は完全だったとのことで、灰燼を取り片付け、午後七時四十分帰途についた。
船中看護にあたっていた給仕二人がすすんで火葬に加わり一睡もせずに勤めてくれ、また病中の二木氏も病を忘れて奔走してくれたこと、および梅仙師の再度にわたる丁重な読経には感謝に耐えないと述べて事務長は深い謝意をあらわしている。 

魯庵「一生」にも荼毘の記事があるが「遠くヒマラヤの雪巓を観望する丘の上」などと、講釈師見てきたような・・・とでも言いたい表現があるのは同氏の語り癖であろう。前述死亡の際の洋上描写の記述といい、魯庵の文章には飾りが多い。シンガポールからヒマラヤが望めるはずはないと思うのだが。

苦心惨憺の一昼夜に無事火葬を終えたところで事務長の報告は以下略と記されて終わっているが、「終焉紀事」はそのまま続く。

遺骨は再び賀茂丸に戻り、長崎、門司を経て29日神戸に入港する。検疫を済ませた本船は午前七時五十分八番浮標に投錨し、ランチで到着した遺族以下多数の出迎え人が乗船する。遺骨は祭壇が設けられた故人の船室に半絞りの国旗のもと白布に覆われて安置されて焼香礼拝を受けたのち、参会人は別室でロンドンまで付き添った大阪商船末永支配人、近藤事務長、村井船医から帰路出発から死亡に至る状況を聞く。

午後6時30分遺骨は遺族に護られて三宮発の列車で上京するが、途中駅では故人を知る人それぞれに出迎え、見送ったとある。30日午前9時夏空の涼しいうちに新橋駅に到着して友人知人著名人士おおぜいの出迎えと礼拝を受けたのち本郷の自宅に戻った。池辺三山と坪内逍遥が友人総代で付き添う。文章はそのまま埋葬記に続く。

継いで三日、故人と親善なるもの、故人の薫陶愛撫を受けしもの、故人を景慕するもの、代わるがわる柩前に通夜して故人のありし日を偲びつつ故人に最終の敬意を捧げたる後、六月二日午後一時荘厳なる神葬式を染井墓地の信照庵に挙げたり。

午後2時を過ぎて間もなく式が終わり、かねて定められた墓域に移動して、遺骨を収めた素柩が墓穴深くに納められる。土饅頭の上に墨痕淋漓たる二葉亭四迷の墓標が建てられて一切が終わる。
埋葬記末尾に「明治42年6月28日記」とある。

なお、魯庵による「一生」に墓標名について次の記述がある。
初夏(はつなつ)の夕映の照り輝ける中に門生が誠意を籠めて捧げた百日紅樹下に淋しく立てる墓標は池辺三山の奔放淋漓たる筆蹟にて墨黒々と麗わしく二葉亭四迷之墓と勒《ろく》せられた。 三山は墓標に揮毫するに方(あた)って幾度も筆を措いて躊躇した。この二葉亭四迷は故人の最も憎める名であった。この名を墓標に勒するは故人の本意でないかも知れぬので、三山は筆を持って暫らく沈吟したが、シカモこの名は日本の文学史に永久に朽ちざる輝きである。二葉亭は果して自ら任ずる如き実行の経綸家であった乎否かは永久の謎としても、自ら屑(いさぎ)よしとしない文学を以てすらもなおかつかくの如く永久朽ちざる事業を残したというは一層故人の材幹と功績の偉なるを伝うるに足るだろう。と、三山は終に意を決して二葉亭四迷と勒した。
二葉亭四迷こと長谷川辰之助氏の事績を簡潔に見事に伝え得ていると感銘する。

現存する墓石には中央に長谷川辰之助墓とし、右に小さめに二葉亭四迷と彫られている。墓石の裏側には大正11年3月東京外国語学校卒業生有志及旧友によって建てられたとあるそうだが私はお参りしたことはない。

◯シンガポールにある記念碑について
シンガポールの日本人墓地公園の一劃に「二葉亭四迷終焉之碑」がある。碑であって墓ではないとことわった説明が付いているそうである。建立の経緯については「1929(昭和4)年7月14日、古藤、富房、堀切の諸氏により自然石を用いたこの終焉の碑が建立される。碑文は当時シンガポール在住の医師・西村竹四郎の筆である。」と説明されているという。碑に默南書とあると書く人もいるが西村氏の号の「點南」の読み違いだと思う。これらの情報はウエブサイトのブログによった。
目下のところ、このほかの資料が見つからないので、建立した方々の趣意はわからないが、現地で確かめもしないで二葉亭の墓が当地にあると誤解している人がたくさんいるようだ。

昔の日本人墓地が墓地公園になった経緯については前述「チャンギだより」に説明されている。
余談になるが西村竹四郎氏(1871-1942)は明治時代からシンガポールに渡った人物で彼の地で医師になり、反日気運の強かった土地にありながら、現地の人々の信頼をかち得て孫文の主治医もをつとめたという。著書や関連文書など存在するが入手困難でもあり見る機会がない。

以上ふと考えたことから二葉亭の帰国の過程を調べてみたが、道中様々な人の手によって搬送され、あるいは惜しまれつつ礼拝されたのを知ると、本人が何と考えていようと、また、後世の研究者等による毀誉褒貶にもかかわらず、故人の創作あるいは翻訳の作品が当時の国民に広く親しまれたことがよくわかり、いまに至るも文豪の名が残されていることが理解された。

それにしても帰途の道中が末永氏一人のみの付き添いでは難しかったろうと想像し、どのような人々の助けを得たのかは大変気になる。経路についてもベルリン、アントワープ経由ロンドンと簡単に片付けられているが鉄道の経路、ドーバー海峡はどのようにして越えたのか、ウォーウイックからロンドン市内を横断とはどういうことなのか、郵船の船が着いた波止場はどのへんなのかなど知りたい事情はたくさんある。これまでとっくに解明されていても不思議ではないと考えるが、未だに調べがつかないことがそれこそ不思議である。映画にでも作ろうかと思えば考証が必要だろうにそんなことを考える人はいなかったのか。それにしてもありきたりの新聞記事の記述では飽きたらず、緻密な詳細事情を探求するのを常とした長谷川辰之助氏に自分も少し似ているかななどと思ったりしている。

最後に漱石の語る面影を載せておこう。漱石が朝日新聞入社の年、社内ではじめて二葉亭に出会った時の印象である。
・・・第一あんなに背の高い人とは思わなかった。あんなに頑丈な骨格を持った人とは思わなかった。あんなに無粋な肩幅のある人とは思わなかった。あんなに角ばった顎の所有者とは思わなかった。君の風貌はどこからどこまで四角である。頭まで四角と考えられたからいま考えるとおかしい。(中略)しかしその上にも余を驚かしたのは君の音調である。白状すればもう少しは浮いてるだろうと思った。ところが非常な呂音で、大変落ちついて、はっきりした、少しも逼るところのない話し方をする。(以下略)(「長谷川君と余」)
(2016/4)